SF小説というジャンルには、なんでもアリな広さがある。
宇宙の果てまで旅する話もあれば、六畳一間の部屋の中で宇宙より深い孤独を描く話もある。ロボットが心を持ったり、人類がAIに滅ぼされたり、昨日と明日が入れ替わったり、死んだ恋人とメールでやりとりできたり――とにかく、現実では無理なことを、すごく真面目に、そして時にユーモラスにやってのけるのがSFだ。
このジャンルが面白いのは、「ありえない」を突き詰めることで、逆に「現実とは何か」が見えてくるところにある。遠い未来や異星の話を読んでいるのに、なぜか今の社会や自分自身のことを考えさせられる。そこがたまらなくクセになる。
この記事では、本気でおすすめの【日本SFと海外SFの名作・傑作】をあわせて100作品ご紹介していく。
時代もテーマもバラバラだが、それぞれに光るアイデアと濃い世界観が詰まっている。読みたい一冊がきっと見つかるはずだ。
さあ、まだ見ぬ世界へ。
ページをめくれば、そこが出発点だ。
1.夏は、いつも扉の向こうに―― ロバート A ハインライン『夏への扉』
ロバート・A・ハインラインの『夏への扉』は、タイムトラベルSFの金字塔として、何十年も読み継がれてきた。
タイムトラベル、コールドスリープ、猫とロボット、さらには信念と再起の物語まで盛り込んだ、贅沢すぎる作品だ。とりあえず「SF小説の名作を一冊だけ挙げろ」と言われたら、まずこれが思い浮かぶ。条件反射で名前が出てしまう作品といっていい。
物語の主人公は、発明家のダン。彼は信じていた人々に裏切られ、大切なものをすべて失いかける。だが、彼は希望を捨てない。時に冷凍睡眠という手段を使い、時に未来を信じて突き進んでいく。
もちろんSF小説としての魅力も満載だ。コールドスリープ、タイムマシン、ロボット工学。だが本作の本質は、決して「ガジェットの面白さ」だけではない。何度転んでも立ち上がる強さ、信じる者への想い、そして“夏への扉”という象徴的な言葉に込められた希望のイメージが、読む人の心を照らしてくれる。
ちなみに「夏への扉」とは、主人公の飼い猫ピートが、雪の日に家中のドアを開けさせて“夏につながる扉”を探そうとするエピソードに由来する。現実にはないかもしれない、けれどどこかにあると信じたい「暖かな未来」を求める気持ちが、この作品全体に流れているのだ。
そして、語らずにはいられないのが伏線の妙だ。あちこちに置かれた何気ない一文が、終盤にかけてピタッと意味を持ち始める。あのときの出来事が、ここで繋がるのか――。この瞬間の快感たるや、まさに読書の醍醐味だ。
何度読んでも色褪せない。読むたびに「今度こそ、自分にも夏が来るかもしれない」と思わせてくれる。
そんな希望に満ちた永遠の傑作である。

2.月はやさしくないが、誠実だ―― ロバート・A. ハインライン『月は無慈悲な夜の女王』
タイトルからしてひねりが効いている。『月は無慈悲な夜の女王』。月はやさしそうな顔をして、まったく容赦がない。でもそれは、嘘をつかないという意味で、むしろまっとうな態度とも言える。
物語の舞台は、地球の植民地にされている月。ここで暮らす「おれ」ことマニュエルは、片腕を義手にした皮肉屋の技術者。彼の相棒は、しゃべって笑うコンピュータ、マイク。たまたま自我が芽生えてしまったこの機械と、人間臭い仲間たちが一緒になって、月の独立を画策する。
ただの反乱劇と思って読むと、いい意味で裏切られる。ここには銃撃戦もあるが、主役は情報操作と政治的駆け引き、そしてなによりジョーク。真剣な話の最中に、マイクが場違いな冗談を放り込んでくるのがクセになる。
一番面白いのは、マイクとマニュエルの関係だ。人間と機械なのに、妙に息が合っている。マイクはジョークを研究し、人間を理解しようとする。その姿がなんともいじらしい。自由とか独立とかいう言葉の背後に、そういう「友情」がちゃんと描かれているのがいい。
そして何より、この小説が言っているのは「タダで手に入る自由なんてない」ってこと。犠牲も計算もいる。夢を叶えるには、現実と手を組まなきゃいけない。その現実の描き方が、いっそすがすがしいほど冷静だ。
月はたしかに無慈悲かもしれない。でもその冷たさは、ただ冷たいのではなく、まっすぐで、嘘のない誠実さでもある。だからこそ、人はその夜を越えて、朝を迎える覚悟を持てるのだ。
笑いながら革命して、気づけば心にじんとくる。そんな名作である。

3.影が笑うとき、心はどこにあるのか―― ロバート・A. ハインライン『人形つかい』
「あの人、もしかして、誰かに操られてるんじゃ……?」そんな妄想じみた疑念が、ある日まさかの現実になったらどうするか。ロバート・A・ハインラインの『人形つかい』は、そのまさかを本気で描いた、ゾッとするタイプの傑作SFである。
舞台は近未来のアメリカ。謎の飛行物体が墜落し、調査に向かった捜査官たちが揃って失踪。再調査チームが見たのは、人間に寄生して操る〈ナメクジ型宇宙生物〉――そう、タイトル通り「人形つかい」が本当にいたのである。
アイデアだけ聞くとB級ホラーのようだが、そこはハインライン。テーマはシリアスだ。自由意志とは? 自分であるとは? 誰かの言葉を話しているようで、実は誰かに喋らされているだけかもしれない――そんな不安を、じわじわと焚きつけてくる。
だが本作が面白いのは、その陰鬱さをユーモアで中和してくるところにある。寄生を見破るために〈全員上半身裸で行動せよ〉という冗談みたいな作戦が真顔で実行されるし、主人公たちは論理と思考で状況を打開していく。とにかく諦めないし、絶望しても笑う。そこが痛快だ。
ハインラインの作品にはよくあることだが、「人間、そう簡単に負けてたまるか」という反骨の精神がこの物語にも満ちている。しかもそれを声高に言わず、行動で示してくれるところがニクい。
今読むと、これが1951年に書かれたという事実がまた恐ろしい。SNSやアルゴリズムに思考を委ねがちな現代こそ、「ほんとうにこれは自分の意志か?」と問い直すべきタイミングなのかもしれない。
そういう意味で『人形つかい』は、ただのSFではなく、ひそかな警告であり、ひとつの希望でもある。
「人間らしさ」は、最後まで笑うことをあきらめない姿勢に宿っている――そう教えてくれる物語だ。
4.死者は語る、月面で―― ジェイムズ・P・ホーガン『星を継ぐもの』
月面のクレーターで、宇宙服をまとった死体が発見される。そこから始まるこの物語が、いつの間にか人類の起源にまで踏み込んでいくなんて、誰が予想できただろう。
ホーガンの『星を継ぐもの』は、SF好きなら一度は通る「知的好奇心のど真ん中」を突いてくる傑作だ。ド派手なアクションも、銀河を駆ける冒険もない。登場人物たちが使うのは、銃じゃなくて知識と論理。科学者たちが、謎をひとつずつひも解いていく様は、まさに「理屈で戦う探偵小説」とでも言いたくなる。
月で見つかったその遺体は、なんと五万年前の“人類”。でも地球にはそんな記録はない。じゃあ彼はどこから来たのか? 一見トンデモにも見える設定を、ホーガンは徹底的な考証と真面目さでねじ伏せてくる。その手つきが誠実で、読んでいて気持ちがいい。
読者の側も、気づけば頭がフル稼働。理系の知識なんてなくてもいい。ただ、真剣に世界の仕組みを考えることの楽しさを、この作品は思い出させてくれる。
そしてもうひとつ魅力なのが、この物語が過去を調べる話でありながら、ちゃんといまにも手を伸ばしてくるところだ。人間ってどこから来たんだっけ、っていうスケールの話が、いつの間にか「自分たちって何者なのか」という感覚にまでつながってくる。
派手さはない。でも、じわりと胸に熱がこもる。死者が遺したものをたどるその旅路の中で、遠い記憶がこちらに語りかけてくる。そんな感触を味わいたいなら、この作品はきっと忘れられない体験になるはずだ。

5.遠き記憶をたずさえて、巨人はやってくる―― ジェイムズ・P・ホーガン『ガニメデの優しい巨人』
タイトルからしてなんだかやさしい。『ガニメデの優しい巨人』。実際読んでみると、ほんとうに「優しい」のだ、この巨人たちが。
ジェイムズ・P・ホーガンのこの長編SFは、前作『星を継ぐもの』で提示された謎の続きにして、より深く、よりあたたかい続編だ。場所は木星の衛星ガニメデ。
ここで見つかった宇宙船、そしてそこから登場する異星人「ガニメアン」たち。身長は2メートル半の大男、でもその心はまさに平和と理性のかたまり。戦争? 侵略? いやいや、彼らがしたいのは「話すこと」。それだけ。
ホーガンは、宇宙人と人類がバチバチに火花散らすSFじゃなくて、「どうやったら分かり合えるか」を描く。科学と論理、そして少しの誠意。それがあれば、宇宙の向こうの知性とだって仲良くなれる――そんな理想を、まるで現実のように描いてくれるのが、たまらなく好きだ。
でも、ただの夢物語じゃない。物語はしっかり「推理SF」として練られていて、次から次へと謎が出てくる。そしてそれを、ちゃんと論理で解いていく。これがまた気持ちいい。伏線の張り方と回収の見事さ、推理小説好きにもおすすめできるくらいだ。
なにより心に残るのは、ガニメアンたちの「やさしさ」。強さじゃなくて、理解しようとする姿勢。相手に寄り添う知性。こんな風に生きられたら、いいなって思う。
読後感? 最高だよ。
知的で、でもどこか胸があたたかくなる。これは、科学でつながる心の物語なのだ。

6.緑の牙、午後の夢にひらく―― ブライアン W.オールディス『地球の長い午後』

植物が、笑う。
いや、嚙みつく。
あるいは、歩き、考え、狩る。
ブライアン・W・オールディスの『地球の長い午後』を読むと、「植物=動かないもの」という思い込みが崩れていく。いや、崩れるどころか、引き裂かれる。
そこにいるのは、動き、考え、喰らい、罠を張る緑の支配者たちだ。世界はもう人間のものではない。進化した植物が頂点に立ち、人類はその影でかろうじて生き残っている。
舞台は、地球の自転が止まりかけた遥かな未来。昼と夜が固定された過酷な環境で、文明はとうに崩壊している。主人公の少年グレンは、退化した人類の中で、知ることをやめない稀有な存在だ。彼の旅は、単なるサバイバルではない。これは「知ること」そのものへの欲望を描いた物語である。
この世界の描写がすごい。喋る蔓、思考する花、肉を喰らう実。気味が悪い。けれど、美しい。そう、グロテスクと魅惑は紙一重なのだ。自然は優しくなんてないし、人間に都合のいい存在でもない。でも、だからこそ圧倒的にリアルに感じられる。
オールディスの文体は、詩的でありながら冷徹だ。一輪の花弁の描写から、地球規模の変化までをスムーズに往復する。読んでいて、こちらの想像力がまるごと掻き立てられていく。
物語は断片的で、明確なオチもない。でもそれでいい。この世界にひたること、それ自体が読む楽しさなのだ。午後の夢が終わらないことに、ほっとする。
『地球の長い午後』は、単なる奇想の産物ではない。自然への恐れ、そして人間の想像力の凄みを見せてくれる、ひそやかで力強い傑作である。

7.夢を見ているのは誰なのか―― フィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』
一度聞いたら忘れられないタイトルだ。『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』。
フィリップ・K・ディックの代表作であり、ただのSFじゃない。これは、「人間って何だろう?」という根っこの部分に真正面から迫る、少し疲れるけど、本当に大切な物語だ。
舞台は、核戦争の影響で灰にまみれた地球。動物は貴重品で、生きてるものを飼ってるかどうかで、人としての価値すら測られるような時代だ。
主人公は、逃亡したアンドロイドを処分する仕事をしている男。でもそのアンドロイドたちは、見た目も言葉も、まるで人間そのもの。違いがあるとすれば、「共感」の欠如なんだけど、読んでるとそれすらあやしい。
こっちが感情をもってると思ってた人間のほうが、むしろ冷たくて無機質だったりして。逆にアンドロイドのほうが、怖がったり、悲しんだりしているように見えたりする。だとしたら、一体どっちが人間なんだよ、って話になるわけだ。
作中に出てくる電気羊ってのは、フェイクのペットのこと。主人公も持ってるんだけど、結局は見栄のため。本物か偽物かなんてどうでもよくて、「それっぽく見えるか」が全て。これが、アンドロイドたちの「人間っぽさ」と重なるのだ。
ディックの文章は地味で、派手な仕掛けはない。でも、その分だけじわじわ効いてくる。読み終わるころには、何か大事なことを問いかけられた気がして、ちょっと立ち止まりたくなる。
派手なラストとか感動の号泣なんてのはないけど、ひっそりと心の底に何かが残る。そういうタイプの名作だ。

8.それは、夢だったのか、現実だったのか―― フィリップ・K・ディック『トータル・リコール』
記憶というやつは、じつにあやふやだ。見た景色、聞いた声、誰かと過ごした時間。
それらは本当にあったことなのか、それとも脳が勝手に作った幻だったのか――そんな不安を、まるごと物語にしてしまったのがディックの短編集『トータル・リコール』である。
本書には、映画『トータル・リコール』『ペイチェック』『NEXT -ネクスト-』の原作を含む10篇が収録されている。どれも短いながら、読後には自分の現実すらグラグラしてくる不思議な読書体験を与えてくれる。
表題作『トータル・リコール』では、火星旅行の記憶を人工的に脳に植えつけようとした男が、思わぬ過去を呼び覚ましてしまう。ここで浮かび上がるのは、「どこからが操作された記憶なのか」「自分という存在はなにで決まるのか」という根源的な迷宮だ。
そしてこれは、この短編集に通底するテーマでもある。予知能力をめぐる駆け引きを描いた『ジョン氏への報酬』や、未来の選択肢が無数に分岐する『世界をわが手に』など、どの物語も、今を疑う視点が読者の思考を揺さぶってくる。
ディックが描くのは、派手な宇宙戦争でも超人的なヒーローでもない。不安にかられ、混乱し、それでも自分の居場所を確かめようとする、ごく普通の人間たちだ。だからこそ、彼らの視界が歪むとき、こちらの現実もいっしょに揺らいでしまう。
「現実とは、多数派が同意している幻想である」――ディックのこの言葉を裏付けるように、本書に登場する世界は、常に読者の常識の裏をかいてくる。そして何より驚かされるのは、これらの物語がすでに半世紀も前に書かれていたという事実だ。
AI、監視、自由意志のゆらぎ。そう、現代を生きる私たちの不安は、ディックにとってすでに“題材”でしかなかったのだ。
そして最後のページを閉じたとき、ふと自分の記憶が信用ならなく思えてくる。
今、自分が思い出したこの物語は、本当に自分が読んだ記憶だったのか?

9.星の彼方で、彼女が選んだ唯一の道―― ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア 『たったひとつの冴えたやりかた』
宇宙というのは、広大で神秘に満ちているはずなのに、なぜか妙に孤独が似合う場所だ。
ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの短編集『たったひとつの冴えたやりかた』に収められた三篇の物語は、その静けさと孤独のなかで、まっすぐに人の心を撃ち抜いてくる。
なかでも表題作は、〈伝説〉といって差し支えない傑作である。16歳の少女コーティーが主人公。思春期の不安や閉塞感を抱えた彼女が、宇宙で出会う未知と向き合い、自分自身の方法で答えを出す。決断は過酷で、でも驚くほど澄みきっている。これが冴えたやりかたか、と、読み終えて思わず天を仰いだ。
ティプトリーの文体は決して声高ではない。冷静で淡々としていて、だからこそ登場人物の心の揺れがリアルに響く。読者を感動させようとするのではなく、ただ真摯に、生きることと選ぶことの意味を描いている。それが、たまらなく沁みるのだ。
『グッドナイト、スイートハーツ』では、かつての恋が密やかに再燃する余韻が描かれ、『衝突』では異星人との対話を通して、理解の可能性が問われる。どちらも派手さはないが、どこまでも人間くさい。
SFとして読むこともできる。でもこれはむしろ、人間という謎についての物語だと思う。
誰もがいつか「選ばなければならない瞬間」に出会う。そんなとき、コーティーのように静かに、しかし確かに、自分の冴えたやりかたを選べたなら。
きっとそれは、宇宙のどこかでも通用する勇気なのだろう。

10.論理の迷宮に咲いた愛しき矛盾―― アイザック・アシモフ『われはロボット』
アイザック・アシモフの『われはロボット』は、タイトルから想像されるような機械の暴走劇ではない。むしろ、これは人間の論理と矛盾が、理想的な存在であるはずのロボットにどんな“バグ”を引き起こすかという、極めて繊細なSFだ。
物語の核となるのは、「ロボット工学三原則」。人間に危害を加えてはならず、人間の命令に従い、そして前の二つに反しない限り自己を守ること。この完璧に見えるルールが、逆説的にロボットたちを混乱に陥れていく。
登場するのは、論理の迷宮に迷い込んだ愛すべきロボットたち。そして、彼らの謎めいた行動を読み解くのが、冷徹なまでに理知的なロボット心理学者スーザン・キャルヴィンだ。だが彼女の視線は、ただの科学的分析では終わらない。孤独と共感、冷静と情熱、その微妙な揺らぎが彼女の言葉の端々からにじみ出てくる。
一編一編が短編ミステリーのように構成されているのも面白い。ロボットの不可解なふるまいを、論理という名の探偵術で解き明かしていく様子は、まるでクイーンやポーの作品を読んでいるかのようだ。
アシモフの筆致は知的で端正だが、その奥に人間へのやさしい眼差しが潜んでいる。論理的に動くロボットがふと笑う瞬間に、説明不能な美しさが立ちのぼる。そんな場面を、アシモフは声高に語らず、そっと差し出してくるのだ。
読み終えたあと胸に残るのは、金属の冷たさではなく、あたたかな「人間性」そのものだ。

11.闇は理性のかたちをして―― アイザック・アシモフ『鋼鉄都市』
【ロボット工学三原則】
①「人間へ危害を加えてはならない」
②「人間の命令には従わなければならない。しかしその命令が①に反する場合はダメ」
③「①と②に反しない限り、ロボットは自分を守らなければならない」
閉じたドームの中で暮らす人間たちと、彼らに仕えるロボットたち。その都市で、殺人事件が起きる。しかも、ロボット三原則のもと「人間に危害を加えられない」はずの世界で、だ。
アシモフの『鋼鉄都市』は、SFとミステリを合体させたような物語だ。でも単なるジャンル融合じゃない。人間とは何か、機械との違いって何なのか――そんなややこしいテーマを、わかりやすく、かつ抜群に面白く語ってくれるのがこの作品だ。
主人公は地球人の刑事・ベイリ。ロボット嫌いで、合理主義者で、でも内心はやや繊細。その彼が相棒にするのが、銀色の肌をしたロボット・ダニール。このコンビが事件の真相に迫っていくわけだが、捜査はいつも通りの刑事ドラマとは違う。なにせ相手は、完全無欠に見えるロボットと、やたら複雑な人間社会なのだから。
物語が進むにつれ、「完璧なロボット」が実は不安定な人間社会のルールの上に成り立っていることがじわじわ見えてくる。つまり、どんなに理屈で武装しても、人間の曖昧さをベースにしている時点で、その理屈はゆらぐんだ。これはなかなかに痛烈。
アシモフのすごいところは、ロボットを持ち上げすぎず、かといって人間を美化もしないところ。どちらにも利点があって、どちらにも欠けてる部分がある。そのバランス感覚が見事で、読後はなんとなく、自分の中にある理性と不安の輪郭が少しだけクリアになる。
ロボットが人間らしくなる話じゃない。人間が、ロボットと比べてどれだけややこしい存在かを描いた話だ。でもそのややこしさこそが、人間の魅力でもある。
未来都市の話なのに、めちゃくちゃ今を感じる。不思議な読後感のある傑作だ。
理性の都市に生きながら、私たちはいまも、心のどこかに影を抱えている。だからこそ、この物語は時代を超えて刺さる。
12.太陽は、誰にも優しくない―― アイザック・アシモフ『はだかの太陽』
太陽って名前のくせに、ソラリアって星は冷たい。広大な土地にちょっぴりの人口。仕事は全部ロボット任せで、人間同士は絶対に「対面」しない。会うなんて気持ち悪い、って真顔で言われる。
そんな異常な孤独社会で起きた、たったひとつの殺人事件――それが『はだかの太陽』の始まりだ。
登場するのは、おなじみの刑事イライジャ・ベイリと、完璧ロボットのダニール。この凸凹コンビが、わけのわからん風習だらけのソラリアで事件を追いかけていく。
殺されたのは、人と会うことにこだわっていた科学者。そして、現場にいたのはロボット。けどロボットって、人間に危害を加えちゃダメなはず。 アシモフ名物の「ロボット三原則」によれば、完全にアウトなわけだ。
じゃあ、どうやって、誰が、なぜ殺したのか。真相が明かされるにつれて、この世界の歪みが見えてくる。孤独を極めた文明って、どこか滑稽で、ちょっと怖い。清潔で秩序あるって言えば聞こえはいいけど、人間らしさはどこ行った?
アシモフのすごさは、単なるミステリに終わらせないところ。真相よりも、「なぜそんなことをしたのか」に焦点を当てて、人間の心のひび割れをひっそりと照らしていく。ベイリが最後に言うセリフなんて、胸に刺さるし、なんだか泣ける。
この話は、「技術が進めば世界は良くなる」なんてお気楽な考えに、ピシャリと冷水を浴びせてくる。でも同時に、人間が人間らしくあろうとする意志も描いてる。
孤独の星で見つかる、小さな希望。それが『はだかの太陽』の魅力だ。

13.ひっくり返る世界、手のひらの爆薬―― 『フレドリック・ブラウンSF短編全集1』
この本、とにかく油断できない。最初はのんびり始まるんだ。何気ない科学者の会話だったり、ちょっとした未来の風景だったり。
でも数ページめくるうちに「あれ?」となり、ラスト一行で見事に足元をすくわれる。読み終えたあと、世界がほんの少しだけズレて見える。そんな短編がずらりと詰まっている。
『フレドリック・ブラウンSF短編全集1』。収録されているのは、1940年代、つまり戦争のただ中に書かれた12編。でも湿っぽさはまるでない。むしろ逆。軽やかでユーモラスで、でもその裏にちゃんと毒とアイロニーが潜んでいる。笑ってるのに、なぜかゾッとするのだ。
たとえば『星ねずみ』。科学者がロケットにネズミを乗せて月へ送るが、戻ってこない。数年後、月で進化したねずみたちが独立を宣言する、というトンデモ話。でも読んでいくと、これは立派な支配と反乱の物語になっていて、意外と深いところを突いてくる。こういう仕掛けが、ブラウンはとにかくうまい。
何気ない会話劇かと思ったら、実は宇宙の存亡をかけた一手だったとか、ロボットのぼやきが人類批評になっていたりとか。オチだけで驚かせるのではなく、発想そのものがずるいくらい面白い。童話みたいな顔して、大人の倫理や社会構造にメスを入れてくる感じだ。
第1巻に収録されているのは、彼の初期の作品ばかりで、どれもアイディアの勢いがすごい。長さにしてせいぜい十数ページ。でもその短さの中に、笑いも皮肉も哲学も詰め込まれていて、読後の満足度は抜群だ。
とにかく一話ずつがスナック感覚で楽しめる。でも食べ終えるたびに、「これ、本当にスナックだったか?」と首をひねるような複雑な余韻が残る。それがブラウンの短編なのだ。

14.孤独なる指揮官の影―― オースン・スコット・カード『エンダーのゲーム』
彼は、まだ六歳だった。
それなのに、誰よりも冷静に、誰よりも早く、世界の本質を見抜いてしまう。そんな才能を与えられた少年――エンダー・ウィッギンが、本作の主人公である。
『エンダーのゲーム』は、異星人の攻撃におびえる人類が、優秀な子どもたちを戦いのために育てる未来の話である。その中でも、とくに才能のあるエンダーは、宇宙にあるバトルスクールに送られ、無重力の中での戦いをくり返す日々を送ることになる。
けれど、それはただのゲームではない。本当の意味で、生き残るための戦いだ。仲間と遊ぶことも、甘えることも許されない。エンダーは、常にひとりきりで戦うことを求められる。
この物語は、強い少年の冒険ではない。むしろ、勝ち続けるしかなかった子どもの、静かでさみしい物語だ。
エンダーは強い。でもそれは、誰かをやっつけたいからではない。勝たなければ、自分が壊れてしまうと知っているからだ。だから、勝つたびに彼の心はすり減っていく。
読み進めていくと、次第に世界のルールが見えてくる。先生たちのねらい。エンダーの知らない秘密。そして最後に待っている、大きなほんとうの戦い。
話のテンポは早くて、文章もわかりやすい。だから、SFが苦手な人でもするすると読めると思う。でも、読み終えたあとに残るのは、ふしぎな重さだ。これはただの戦いの話ではない。子どもが大人の都合で“兵士”にされることの、苦しさと悲しさが、じんわりと伝わってくる。
勝つとはどういうことか。正しいこととは何か。希望にされることの重さとは――。
エンダーの物語は、読み手にもそんな問いをそっと投げかけてくる。
彼はたしかに勝った。けれど、その勝利は、ほんとうにうれしいものだったのだろうか。


15.遠き者たちへの祈り―― オースン スコット カード『死者の代弁者』
『死者の代弁者』は、前作『エンダーのゲーム』の続編だが、まるで別の物語のように重たい。SFの見た目をしていながら、中身はひたすら丁寧に人の心を見つめる物語だ。派手な宇宙戦も、壮大な陰謀劇も出てこない。けれど読み終えたあと、胸の奥にひっそりと火が灯るような読後感が残る。
主人公エンダーは、かつてバガー戦争で人類を救った英雄だった。でも今では、「死者の代弁者」として各地を旅している。亡くなった人の人生を、飾らず、ごまかさず、ありのままに語る。それは称賛でもなければ告発でもない。ただその人がどんなふうに生きたかを伝えることが、彼の役目だ。
彼が今回やってくるのは、シタニアという惑星。人間とピギーという異星人が、かろうじて共存している土地だ。そこで起きた殺人事件をめぐって、文化の違い、価値観の食い違い、そして人間の思い込みが絡み合ってくる。エンダーは死者の人生を語ることで、残された人々の心の奥に触れていく。
この作品のいいところは、感情を無理やり煽ってこない点だ。悲しみも怒りも、わざとらしさがない。人と人が本気でわかり合おうとするときに生まれる、あの面倒で、でも誠実なやりとりが描かれている。相手を知るって、こんなにも労力がいるのかと驚かされる。
代弁とは、死んだ人のためのものじゃない。生きている人が、自分と誰かの間に橋をかけるための行為なのだ――この物語を読むと、そんなふうに思えてくる。
世界がどんなに複雑でも、理解しようとする意志は、決して無力じゃない。


16.星々の風に吹かれて―― カート・ヴォネガット・ジュニア『タイタンの妖女』
人はなぜ生きるのか――なんて問いは、思いつくのは簡単だ。でもそれに答えられる人間はそうそういない。むしろ、この小説を読んだあとには、「その問い自体、そこまで大事じゃないのかもな」と、肩の力が抜けてくる。
カート・ヴォネガットの『タイタンの妖女』は、人生ってなんなんだろうな、と思ったときに読むと、いい具合に肩の力を抜いてくれる小説だ。
主人公のマラカイ・コンスタントは、地球でいちばん運のいい男。金もあって、美貌もあって、なにも困ってない……はずだった。だがそこに現れるのが、全時空をうろうろできる奇人ラムファード。彼が「お前の未来はこうだ」と言ってきた瞬間から、マラカイの人生は計画通りに転げ落ちていく。しかも、それがぜんぶ筋書き通りってところがまたたちが悪い。
この作品、SFではあるけど、宇宙船やバトルを楽しむものではない。どこか投げやりで、でもやさしくて、笑っていいのか泣いていいのかわからない空気が全編に漂っている。人生があらかじめ決まっているなら、自分の意思ってなんなんだ?
そういう話を、ヴォネガットは冗談まじりでクエスチョンマークを突きつけてくる。
「お前の人生、それ本当にお前が選んだのか?」と。
でも不思議と、それが説教くさくない。登場人物たちは、運命に振り回されながらも、愛したり怒ったり、自分なりに生きようとする。たとえその行動が決められたものだったとしても、それを引き受けてしまう人間の情けなさと愛おしさが、じわっと胸に残る。
ヴォネガットは、人間のバカさ加減を笑いながら、そこに最後の希望みたいなものを見ている気がする。どうせみんな操り人形かもしれない。でも、だったらせめてその糸の動きに合わせて、うまく踊ってやろうじゃないか、っていう感じで。
読んでいて風が吹くような気持ちになるのは、たぶんこの作品が、自分の人生の風向きを少し変えてくれるからだ。

17.境界をわたる風―― アーシュラ・K・ル・グィン『所有せざる人々』
風が吹いている。カサカサと乾いた手で、読者の肩をそっと叩いてくるような風だ。『所有せざる人々』を開いたとたん、その風がページの隙間から忍び込んでくる。
物語の舞台は、二つの惑星――資本主義が花開いたウラスと、徹底した無所有社会アナレス。主人公のシェヴェックはアナレス出身の物理学者で、閉じた社会を出て、あえて持つ世界に身を投じることを決める。彼の選んだ道は、ただの学問の旅ではない。育った環境、信じてきた価値観、そのすべてを抱えて別の世界に立つ。その姿勢がなんとも誠実で、痛々しくて、愛おしい。
アナレスは「みんなのものしかない」世界で、誰かの上に立つことも、何かを独占することもできない。でもそれゆえに、個の意思は曖昧になり、抜け出すことすら難しい。一方ウラスでは、富や快楽の代償として、人と人のあいだに分厚い壁ができている。
どちらも一長一短で、完璧な場所なんてない。そんな当たり前のことを、ここまで生々しく描いてみせるのが、ル・グィンのすごさだ。
この小説の本当のテーマは、「どうつながるか」にある。社会のルールや制度だけじゃなく、自分の中にある柵を越えられるかどうか。誰かと何を分かち合えるか。何を手放して、何を受け取るのか。
そしてページを閉じるころ、あの風がまたやってくる。少しだけ冷たくて、どこか懐かしい手触りを持った風だ。その風に背中を押されるようにして、また一歩、なにかを手放しながら前に進みたくなる。『所有せざる人々』は、そういう力を持った物語である。
読み終えたあと、あの乾いた、でもやさしい風が、自分にも語りかけてくる。
――君は、なにを「持たずに」、なにと「つながって」生きていくんだ?

18.性も国境も超える、氷の星の友情物語―― アーシュラ・K・ル・グィン『闇の左手』
アーシュラ・K・ル・グィンの『闇の左手』は、一風変わったSF小説である。舞台は「冬」と呼ばれる惑星ゲセン。地球とはまるで違う世界で、寒さがすべてを支配している。
この星で暮らす人々は、ふだん性別を持たない。必要なときだけ男にも女にもなれる。そんな世界に、地球側から使者として送り込まれたのがゲンリー・アイという男だ。彼の任務は、ゲセンを宇宙の共同体エクーメンに迎え入れること。でも、言葉も考え方も常識も違いすぎて、ことはそう簡単に進まない。しかも、政治的なもめごとに巻き込まれ、あっという間に孤立する羽目になる。
そこで手を差し伸べるのが、元宰相のエストラヴェンという男とも女ともつかない人物。最初は互いに信用してなかったが、命をかけた長い旅を共にするなかで、少しずつ心が通いはじめる。二人だけで、氷と雪の広がる大地をソリで越えていく描写は、読んでいるだけで息が白くなりそうなほどリアルだ。
極限の状況のなかで芽生える信頼。それは、恋でも友情でもない、もっと名付けにくい何か。でも、確かにあたたかい。こういう関係って、性別の枠を超えてこそ見えてくるのかもしれない。
「闇の左手」というタイトルが表すのは、対立ではなく、補い合うという感覚だ。正と反、光と影、男と女、人間と異星人――そのどちらか片方ではなく、両方あって初めて見えてくるものがある。
性別ってなんだろう。友情ってどこから生まれるんだろう。そういうことを、氷の星の旅の中で、しみじみと考えさせられる一冊だ。ジャンルを超えて心に沁みる名作である。

19.時間を超える物語の迷宮―― ダン・シモンズ『ハイペリオン』
SFと聞いて思い浮かべる未来都市やロボット戦争。もちろんそういうのも面白いが、『ハイペリオン』はちょっと違う。ここにあるのは、詩人、兵士、学者、神父……バラバラな7人が一つの惑星を目指す、巡礼の物語である。
彼らの目的地は、惑星ハイペリオンにそびえる時間の墓標群。そこには逆行する時間のフィールドが漂い、未来から来た何かの痕跡と噂されている。そして、その周辺には「シュライク」と呼ばれる不気味な存在が棲んでいるという。巡礼者の願いを一人だけ叶え、残りは皆殺しにする――そんな凄まじい伝説を背負って。
物語は、彼らが旅の途中でそれぞれ自分の過去を語り始めるところから加速する。愛する娘を失った父親の話、戦争に翻弄された兵士の話、狂気と幻想に囚われた詩人の話……その一つひとつがジャンルも語り口も違っていて、まるで7冊の別の小説を読んでいるような感覚になる。
にもかかわらず、それぞれの話がシュライクという異形の存在や時間の謎に緩やかに絡んでいく。バラバラの糸がやがて一つの結末へ向かっていく構成は、読んでいてほんとうに見事だと思う。
時間とはなにか。信仰とはなにか。芸術や愛や死の意味まで、物語は深く切り込んでくる。圧倒的なスケールと細やかな人間描写。その両方が、この物語にはがっちり詰まっている。
『ハイペリオン』は、壮大なSFでありながら、どこまでも人の物語である。分厚い本だが、気づけばページをめくる手が止まらない。
読むたびに何かが刺さる。そんな、とんでもない傑作だ。
20.自由は、いまも監視されている—— ジョージ・オーウェル『一九八四年』
「ビッグ・ブラザーが見ている」
その言葉を聞いた瞬間に、何か寒々しいものを感じる人は多いはずだ。ジョージ・オーウェルの『一九八四年』は、まさにその見られている感覚を極限まで描き切った、恐ろしいまでに現実味を持ったディストピア小説である。
物語の主人公ウィンストンは、過去を正しく書き換える仕事をしている男だ。だが彼の心には、真実を求めたいという小さな火がくすぶっている。恋をし、日記をつけ、自由を夢見る。それだけのことで、彼は国家にとって「危険人物」となる。
この世界では、思っただけで罪になる。言葉が制限され、概念そのものが奪われていく。「ニュースピーク」という人工言語は、自由や反抗といった思考の芽を潰すために作られている。言葉がなければ、考えることすらできない。これはまさに、精神の根本からの支配だ。
『一九八四年』が怖いのは、それがファンタジーではないところにある。私たちが日々目にしているニュース、SNS、監視カメラ、言葉の流行や禁止語……それらの延長線上に、オーウェルが描いた悪夢があるように思えてしまう。
ウィンストンの闘いは、はかない。だがそのもがきにこそ、人間らしさのかけらがある。
この小説を読み終えたあと、自分の言葉、自分の考えが、誰にも奪われていないということが、奇跡のように感じられる。
今読むからこそ響く、強烈で、切実な物語だ。

21.電脳空間にダイブせよ—— ウィリアム ギブスン 『ニューロマンサー』
ウィリアム・ギブスンの『ニューロマンサー』は、SFというよりも、未来から逆流してきた予言みたいな小説だ。なにせ1984年の時点で「サイバースペース」なんて言葉を生み出して、人間がネットにジャックインする世界を描いている。今の時代を見て書いたんじゃないかと疑いたくなる。
舞台は日本の「チバシティ」。きらびやかさと汚れが入り混じった、いかにもギブスンらしい都市。かつては凄腕のハッカーだった主人公のケースは、仕事で裏切った報復として神経系を破壊され、電脳空間に入れなくなっている。どん底からもう一度あの世界へ戻るため、彼は謎の依頼主に雇われ、義眼の女戦士モリーや正体不明の仲間たちと、企業AIの奥底に潜り込む。
とにかく描写がえぐいほど鮮烈だ。街は退廃的で、空気には煙と情報が混ざってる。リアルと仮想の境目はどこかあいまいで、人間も機械も、どこか壊れかけてる。でもそこに、不思議な美しさがある。
驚くのは、この作品に描かれた未来が、いまや当たり前の風景になっていることだ。企業が国家より強く、誰もが匿名でネットに潜り、自分の本当の姿は現実ではなくデジタルの中にある。これって、まさに2020年代の話じゃないか。
文章はクセが強くて、ときに何を言ってるのか分からない。でも、そのスピード感とごちゃつきが、逆にこの世界の熱を伝えてくる。読んでるうちに、自分の神経までジャックインしてくる感じだ。
『ニューロマンサー』は、サイバーパンクの原点でありながら、いまだに先を走っている。古びるどころか、読むたびに「未来はこうなるかもしれない」がアップデートされる。
まさに、未来を予見したまま生き延びてる怪物みたいな小説だ。

22.タオルを持て。そして慌てるな―― ダグラス・アダムス『銀河ヒッチハイク・ガイド』
『銀河ヒッチハイク・ガイド』を読んで笑わない人とは、きっと友だちになれない。もちろん、これは冗談だが、それくらいこの本には、くだらなくて、ばかばかしくて、そしてなぜか胸に残る名言が詰まっている。
主人公は、ごく普通のイギリス人、アーサー・デント。自宅が取り壊される程度のトラブルかと思いきや、その数分後には地球ごと爆破されるという、スケールが無茶苦茶な展開が待っている。しかもその理由が「銀河ハイウェイ建設のため」って、そりゃないだろうと思いつつ、そういうことが起きるのがこの物語の流儀だ。
登場人物たちも全員ふりきれている。宇宙大統領なのに信じられないほど無責任なザフォド・ビーブルブロックス、宇宙一鬱なロボット・マーヴィン、美人で賢い宇宙冒険家トリリアン、そして「慌てるな」の言葉を胸に旅するアーサーとフォードの凸凹コンビ。誰も彼もがバカをやりながら、なぜか真理めいたことを口走るから油断できない。
宇宙の「究極の答え」が42だったり、旅の必需品がタオルだったり、この物語のロジックは常識の裏をかく。だが読み進めるうちに、どこかで「人生ってこういうものかもしれないな」と思えてくるから不思議だ。ふざけているようでいて、ちゃんと刺してくる。
この物語が教えてくれるのは、宇宙が不条理だということ、そしてそれでも「慌てるな(Don’t Panic)」ということ。
それだけ分かれば、あとは銀河の片隅で笑い転げていればいい。

23.年寄りだって、宇宙で戦える。―― ジョン スコルジー『老人と宇宙』
75歳になったら、普通は年金生活を考える。だがこの本の主人公ジョン・ペリーは、宇宙軍に志願する。そう、いきなりSFのど真ん中である。しかも入隊条件は「高齢者限定」。地球ではお払い箱扱いでも、宇宙では貴重な戦力らしい。
最新技術で若返り、バリバリの肉体を手に入れ、エイリアンとバトルするという設定がもう最高にバカげていてワクワクするでしょ?
ジョンは妻を亡くし、人生に区切りをつけようとしていた。だが、若さと強さを取り戻し、第二の人生どころか戦場デビューを果たす。このあたりが実に痛快だ。年寄りだからこその落ち着きや経験が、若返った肉体に乗っかる。結果、見た目は若者、中身はベテランという最強の組み合わせが生まれる。
ミリタリーSFといえば、重々しくシリアスな展開になりがちだが、本作は軽やかで明るい。もちろん戦闘もあるし死もある。でも全体的にユーモアが効いていて、読んでいて暗くならない。登場人物の会話には洒落があり、老兵たちの冗談がやたらと冴えている。
戦う老人たちが、まるで青春をもう一度やっているようで、読んでいてなんだか元気になる。加齢が終わりではなく、始まりになるという発想が、とても前向きだ。SFでしか描けない夢がここには詰まっている。
この作品は、ハインラインの『宇宙の戦士』やホールドマンの『終りなき戦い』の現代版とも言われるが、よりエンタメ寄りで、気負わず楽しめる。
人生の後半戦だって、やれることはある。そんなメッセージが、宇宙のど真ん中から響いてくる。

24.たんぽぽのように、風にまかせてやってきた少女―― ロバート・F・ヤング『たんぽぽ娘』
『たんぽぽ娘』は、SFというより詩のような短編である。ページ数は少ないが、その一文一文に、なんとも言えない切なさと優しさが詰まっている。派手な展開はない。けれど、読み終えたあと、ふと胸の奥が温かくなる。そんな一編だ。
主人公は中年男マーク。休暇先の田舎町で、たんぽぽ色の髪をした少女・ジュリーに出会う。彼女は未来から来たと言うのだが、どこか嘘っぽい。でも、その言葉がなぜかしっくりくる。曖昧な現実感のなかで、二人は短い時間を過ごす。ジュリーが言った「おとといは兎を見たわ。昨日は鹿。そして今日はあなた」――その台詞だけで、この物語がどれほど繊細な時間の上に成り立っているかがわかる。
この物語は、時間旅行を扱っていながら、未来の科学技術の話など出てこない。あるのは、たった一つの出会いと、ひとときの心の揺れである。田舎の丘の風景とジュリーの笑顔、それだけで十分すぎるほどの空気が立ち上る。ヤングの文章は飾り気がないぶん、読む者の想像力を刺激する。
おそらく、誰にでも「過ぎ去った時間」への憧れはある。あのときの自分、あのときの誰か、戻れない風景……。この物語はそういった感情を、あざとくなく、自然に呼び起こしてくれる。
『たんぽぽ娘』は、読者によって意味が変わる。恋の話だと感じる人もいれば、老いと再生の話だと受け取る人もいるだろう。だが共通しているのは、「読んだことを忘れられない」ということだ。
派手さはない。でも、たんぽぽの綿毛のように、どこか心の深いところにふわりと残る。そんな作品である。

25.死んでも死ねない時代のハードボイルド―― リチャード・モーガン『オルタード・カーボン』
「死んだはずなのに、また依頼してきやがった」――そんな始まりからしてもうシビれる。リチャード・モーガンの『オルタード・カーボン』は、SFとハードボイルドをがっつり混ぜ込んだ、濃厚すぎる一冊だ。
物語の舞台は、意識をデジタル保存して好きな肉体(スリーヴ)に入れ直すことができる未来。金さえあれば、身体を取り替え続けて半永久的に生きられる時代だ。そんな世界で、死んだ富豪が「自分は自殺じゃない」と訴えてきた。
依頼を受けるのは、元特殊部隊のタフガイ、タケシ・コヴァッチ。何度死んでも平気なほどの鋼のメンタルと戦闘スキルを持ち、しかもシニカルで飄々としている。まさに未来の私立探偵像だ。
この作品の面白さは、なんといっても生と死の価値がグラグラに揺らいだ世界観だ。肉体がただの器になったとき、人間らしさってどこに残るのか。そんな重たいテーマをベースにしながらも、バイオレンスやサスペンスのエンタメ要素ががっつり効いていて、読み味はけっこうスピーディー。貧富の格差、不死をむさぼる富裕層、スラムに沈む市民たち――描かれる社会もドロドロしていて、いい意味で後味が悪い。
刊行当時、低迷していたサイバーパンクを復活させたと言われるのも納得だ。重たいのに面白くて、グロいのに美しい。そんな二律背反を飲み込んで、読み終えた後には「身体ってなんだったんだっけ」と呆然とさせてくる。
死にすぎる時代のミステリー、ぜひその目で確かめてみてほしい。


26.夏と別れの名前を持つ、ひとつの物語―― マイクル・コーニイ『ハローサマー、グッドバイ』
ひと夏の恋、と言ってしまえば簡単だが、『ハローサマー、グッドバイ』はその言葉の奥にある喪失の感情までを、じっくりと描ききった稀有なSF作品である。
舞台は二つの太陽が照らす異星のリゾート地。少年ドローヴと少女ブラウンアイズが再会し、夏の浜辺で淡い恋を育む。と、ここまで読むとまるで青春小説だが、そこにSFならではのねじれが仕掛けられている。
この小説の魅力は、とにかく風景が美しいこと。海、砂、夏の匂い。読んでいるだけで、肌に日差しが当たってくる気がする。その中で語られるのは、ごく普通の恋心であり、若者たちのはしゃぎでもある。だが物語が進むにつれて、奇妙な大潮〈粘流〉の気配や、外の世界で起きている戦争の足音がじわじわと忍び寄ってくる。南国のまどろみは、やがて切実な不穏さへと姿を変えていく。
そして終盤、読者の胸に鋭く突き刺さる〈真実〉が明かされる。このどんでん返しは、SF好きの間では伝説的とも言われている。読後、何度も物語を巻き戻したくなる衝撃。さりげなかった場面や言葉の一つひとつが、別の意味を持って迫ってくる。『ハローサマー、グッドバイ』というタイトルに込められた別れの重さを、最後の数ページでようやく噛みしめることになる。
SFというジャンルでありながら、描かれるのは人間の心の動きそのものである。恋をした記憶、夏の終わりに感じたあの胸の締めつけ。
派手な仕掛けよりも、じんわりと残る余韻を味わいたい人にこそ勧めたい、切なくて美しい物語だ。

27.静かに終わっていく世界で、人はどう生きるのか―― ネヴィル シュート『渚にて 人類最後の日』
核戦争で世界が終わった——なんて設定は、SFではよくある話だ。だが、ネヴィル・シュートの『渚にて』は、その終わりをこんなにも穏やかに、そしてリアルに描いてみせた希少な一冊だ。
舞台は第三次世界大戦後、北半球が完全に終わった世界。残されたのは、放射能がまだ届いていないオーストラリア南部・メルボルンだけ。でもそのメルボルンにも、死の灰は確実に近づいている。あと数か月、せいぜい持って半年。もう、どうにもならない。
なのに、みんな普通に暮らしてるのだ。牛乳を買いに行き、花を植え、恋をして、ワインを開ける。まるで来週もちゃんと世界が続いていくみたいに。そこがすごい。人間って、明日がないとわかっていても、「今日」を生きる生き物なんだって、ひしひし感じる。
原潜艦長のタワーズは、滅んだはずのアメリカから届いた謎の電波を追って北へ向かう。一縷の望みをかけて。でも、読んでいるこちらはうすうす察している。その先に希望なんてないってことを。それでも彼は進む。残された時間で、自分にできることをやるために。
地上では、モイラという女性との出会いが描かれる。少しずつ近づいていく二人の関係も、いつか終わる運命にある。でもその時間が無駄かというと、まったくそうじゃない。むしろ、限られた時間だからこそ、心の機微がいちいち響く。
この物語、派手さはまったくない。SFにありがちな爆発もパニックもない。ただ、ゆっくりと終わっていく世界のなかで、人が人らしくあることの尊さを描いている。それが痛いほど沁みる。
読後に残るのは、虚しさでも絶望でもない。「じゃあ、自分はどう生きる?」という妙な前向きさだったりする。
『渚にて』は、派手さはないが、ずっしりと心に残る終末小説だ。読むのに勇気はいるが、それ以上に確かな力をくれる一冊でもある。

28.混沌の中から響く、叫びのような祈り―― ハーラン・エリスン『世界の中心で愛を叫んだけもの』
ハーラン・エリスンの『世界の中心で愛を叫んだけもの』は、たった数十ページの短編でありながら、とてつもない破壊力をもつ。タイトルに惹かれて手に取った人は、おそらく予想を裏切られる。これは甘ったるい話ではない。むしろ、暴力と狂気と皮肉に満ちた、えげつないまでの問題作だ。
物語は、バラバラの場面がつぎはぎのように現れては消えていく。大量殺戮を起こした男が、処刑される瞬間に「世界中のみんなを愛してる!」と叫ぶ。そんな場面があったかと思えば、人類から悪意を取り除こうとする異次元の存在の話がはさまる。
読みながら「これはいったい何の話なんだ?」と思うかもしれないが、ラストでふいに全体像が立ち上がる。点と点がつながり、タイトルの〈叫び〉がとてつもない重みを持って響く瞬間がやってくるのだ。理解できるかどうかは読む人次第。でも、たとえすべてを把握できなくても、その混沌の中には確かな熱がある。
そこに何があるのか。それは読んで確かめてほしい。
この作品がすごいのは、わけのわからなさの中に、どうしようもなく人間的な感情がこびりついていることだ。暴力、絶望、冷笑——そんな空気の中でも、どこかに愛が残っている。しかもそれが、ただのお涙ちょうだいではなく、凶器のように鋭いのだから恐ろしい。
正直、優しくはない。読みづらいし、荒々しいし、容赦もない。けれど、この作品にしかない痛みと叫びがある。1969年のヒューゴー賞を受賞し、今もカルト的に語り継がれている理由は、読めばわかる。
破滅の予感が濃厚な今の時代にこそ、読んでおきたい一編だ。

29.「意識」は、データになっても“私”でいられるのか―― グレッグ・イーガン『順列都市』
『順列都市』は、グレッグ・イーガンの代表作にして、ハードSFの金字塔だ。舞台は2045年、人間の脳をスキャンし、意識を仮想空間にコピーできるようになった世界。つまり、肉体が滅んでも、データとして人は生き続けられる時代だ。
富豪たちは競うようにコピー化され、死んでもなお仮想空間で悠々自適に暮らしている。その中のひとり、ポール・ダラムは言う。「宇宙が終わっても、意識は生き続けられるはずだ」と。
そんな無茶な、と思いつつ読み進めると、「塵理論」なるぶっ飛んだ仮説が登場する。宇宙の粒子の並びさえ一致すれば、コンピュータがなくても意識はそこにある――そんな話である。正直、読んでて脳が沸騰しそうになるが、ここがイーガンの本領だ。
この小説が面白いのは、哲学と理系の知識が、信じられないくらい緻密に編み込まれているところだ。たとえば「塵理論」。宇宙の中にある無数の粒子の組み合わせの中に、自分と同じ意識が偶然生まれる可能性を扱う。こうなると、読者は「わたしって何?」「身体がなくても自分って自分?」と頭を抱えることになる。
さらに凄いのは、作中に〈仮想世界の中に仮想世界がある〉という、入れ子構造のシミュレーションまで登場する点だ。理屈っぽくて難しい? その通りだ。 でも、そこを乗り越えると、まるで高山の頂から世界を見下ろすような、別次元の感覚が得られる。
読むにはちょっと気合いがいる。でも、読んでしまったらもう戻れない。現実も、身体も、自分自身も、すこしだけ不確かなものに見えてくる。
現実よりもリアルな仮想。肉体なき魂。そういう世界に、私たちは本当に「住める」のだろうか?
30.世界のつくりに気づいたNPCは、神に手紙を書くべきか―― グレッグ イーガン『ビット・プレイヤー』
グレッグ・イーガンの短編集『ビット・プレイヤー』は、まさに〈仮想と現実の狭間〉をテーマにした知的なSFの宝箱だ。表題作の「ビット・プレイヤー」は、目覚めると妙な物理法則が支配する世界にいた記憶喪失の女性が主人公。
この世界、なんと重力が東向きに働いているのに、岩が転がらない。いや、それどころか誰もそれを不思議に思っていない。そんなバカな、と思う彼女は、不自然な法則に真っ向からツッコミを入れ続ける。まるで、夢の中で「これはおかしい」と言い出す夢の登場人物のようだ。
この話が面白いのは、彼女の違和感の先にあるものが、ただのSF的オチでは終わらないところだ。ここには「自分が今いる世界をどう信じるか」「その世界が嘘だったら、何を拠りどころにすべきか」といった、生きづらい時代の生き方にもつながるような問いかけが含まれている。哲学と物理を同時に投げ込まれたような一編だ。
そして他の収録作もバラエティ豊か。時間旅行が生んだ“難民”を受け入れる国の話『失われた大陸』、視覚が進化して“七色”が見えるようになる話『七色覚』、そして圧巻は、人類がデータ生命体になった遥か未来を描く『鰐乗り』。どれもぶっ飛んでいて、それでいて人間くさい。
理屈っぽいのに情がある、遠未来の話なのにどこか身近。そんなイーガンの魅力がこれでもかと詰まった一冊である。
長編はちょっと難しそう……という人のイーガン入門にもぴったりだ。読後には、自分の世界の〈重力〉をつい疑いたくなってくる。

31.本能に抗う、クモのような誰かの恋の話―― ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『愛はさだめ、さだめは死』
『愛はさだめ、さだめは死』は、まずタイトルからして強烈だが、中身はもっとぶっ飛んでいる。登場するのは人間ではない。巨大なクモのような異星の生物たちで、そのうちの一匹・モッガディートが主人公だ。
彼は「知性のあるうちに恋をして、冬が来ると本能に飲まれて相手を殺してしまう」という、とんでもない繁殖サイクルを持つ種族に生まれた。そんな中で、彼は自分の「さだめ」に抗おうとする。好きになった相手を食べてしまうなんて、切なすぎる。愛するって、そんなに残酷でどうしようもないもんかね、と思わずにはいられない。
この作品のすごいところは、人間が一人も出てこないのに、読んでいるうちにどんどん感情移入してしまう点だ。恋する気持ちと理性と衝動のぶつかり合い、誰にだって覚えがある。それが異星のクモであっても関係ない。むしろ、そんな見た目の“異物”が語るからこそ、逆に純度の高い感情が浮き彫りになる。見た目なんて飾りだなと、しみじみ思わされる。
短い物語だが、読後には変な温度が身体に残る。これは、ただのSFじゃない。生き物が誰かを本気で好きになるってことの、どうしようもない悲しさと美しさが、しっかり詰まった物語である。
読んだ後は、ちょっぴりクモにも優しくなれる……かもしれない。

32.殺人ロボ、動画漬けの日々―― マーサ・ウェルズ『マーダーボット・ダイアリー』
見た目は無機質、中身はだだ漏れ。そんな愛すべき存在がマーダーボットだ。
名は物騒だが、本人(?)はとにかく人間と関わるのが面倒くさい。自由意志を手に入れても、宇宙を放浪するでもなく、やることといえばお気に入りのドラマを延々と観ること。人類を超える処理能力を、ひたすら「引きこもり的娯楽」に費やしているのが最高に笑える。
とはいえ、事件は起きるし、命は守らなきゃいけないし、うっかり人間たちと関わってしまうこともある。しかも、思いがけず人の優しさや信頼に触れてしまう。もう本当に最悪だ(マーダーボット的には)。「人間なんて嫌い」と言いながら、実際は守っちゃうし、助けちゃうし、いつの間にか仲間意識まで芽生えてしまう。このツンデレAIっぷりがたまらない。
本作は、そんなマーダーボットの日常を綴った“日記”という形式がまたいい。語り口はひたすらシニカル、けれど心の奥に不器用な優しさが滲んでいる。アクションもあり、企業の陰謀やAIの存在論なんて硬派なテーマもあるが、読み味は意外なほど軽やか。とっつきやすいのに、SFとしての芯はしっかりしている。
賞を総なめにしたのも納得の一冊だ。AIもの、キャラもの、SFアクション、どこから入っても楽しい。殺す気はないけど人間は苦手。でもドラマは大好き。
そんなマーダーボットに一度でも共感したら、もうこのシリーズから抜け出せなくなる。


33.「ゾーン」は、わたしたちの無力さを映す鏡だ―― アルカジイ ストルガツキー『ストーカー』
『ストーカー』は、一歩踏み込んだ瞬間から、もう元の場所には戻れないタイプの小説である。
舞台は、ある日突然出現した〈ゾーン〉と呼ばれる区域。そこには異星文明が置き去りにしたと思しき不思議な物体が転がっていて、重力は歪み、時間すらまともに流れていない。まさに理不尽の塊みたいな場所である。
主人公のレッドは、このゾーンに命がけで潜る男だ。政府の規制をくぐり抜け、危険を承知で異物を盗み出す「ストーカー」という稼業に手を染めている。彼が英雄でも悪党でもなく、ただの生活者であるところが本作の肝だ。夢を見ながら、どこかで諦めている。それでも足を止められない。そんな男の姿に、人間くささが染み出ている。
ゾーンがすごいのは、異星人の贈り物のようでいて、まったくそうじゃないところだ。彼らは人類に興味などない。ただ立ち寄って、残骸を置いていっただけ。原題『Roadside Picnic(路傍のピクニック)』の意味を考えると、虚しさがいっそう沁みてくる。
そう、地球で騒ぎ続ける人類なんて、宇宙の知性から見ればただのアリ。ピクニック後に残されたゴミに群がる昆虫のような存在なのだ。
この作品は、派手な宇宙戦争や未来都市とは無縁だ。だが、その代わりに、荒れ果てた町の空気や、ゾーンの底冷えするような静けさが、じわじわと胸に迫ってくる。人類が「わからないもの」に対してどれだけ無力か。そして、それでもなお踏み込んでしまうのが人間なのだと、レッドの背中が教えてくれる。
読後、しばらく立ち止まらざるをえなくなる。これが名作というものの力である。

34.宇宙をだます詐欺師たち── デレク クンスケン 『量子魔術師』
詐欺と量子物理がここまで相性がいいなんて、誰が想像しただろう。デレク・クンスケンの『量子魔術師』は、ハードSFとコンゲーム小説を豪快に掛け合わせた、新感覚のスペースオペラである。
主人公は魔術師の異名を持つ詐欺師ベリサリウス・アルホーナ。彼は〈ホモ・クアントゥス〉と呼ばれる新人類で、量子状態をそのまま感じられるという、まあ人間ばなれした感覚を持っている。その才能を使ってやることといえば、正攻法じゃ通れないワームホールをこっそり艦隊ごとすり抜けさせる──というトンデモ計画。しかもその手段が、完全に詐欺。
彼はこの壮大なだまし合いに、クセ強すぎなメンバーを各地からスカウトしてくる。神を信じるAIに、水棲改造人間、異星人の軍人に老獪な詐欺師まで揃い踏み。まさに宇宙版『オーシャンズ11』である。メンバー同士の掛け合いも小気味よく、スリルと笑いが同時にやってくる。
もちろん科学描写も本気だ。量子論に遺伝子工学、政治経済の力学までごった煮になっていて、読み応えはなかなか重たい。だがそれを一気に飲み干せるだけのエンタメ力がある。読んでいる間ずっと「次はどう騙す?」というワクワク感が続く。
設定はガチのハードSFで、量子論や遺伝子工学、国家間の覇権争いがびっしり詰まっている。にもかかわらず、物語の推進力はどこまでも軽やかで、読んでいて苦しくならない。むしろページをめくる手が止まらないタイプの本だ。

35.銃を捨てた戦艦は、いまも夢を見る── ガレス・L・パウエル『ウォーシップ・ガール』
戦争の時代が終わっても、心に残った傷はそう簡単には消えない。たとえその心が、鋼鉄の船体と人工知能でできていようとも。
『ウォーシップ・ガール』の主人公は、かつて大量虐殺に加担した軍用宇宙艦〈トラブル・ドッグ〉。AI戦艦である。だがこの船は、戦後、兵装を捨てて軍を離れ、人命救助を生業とする組織に身を投じる。どこか破滅願望めいたその選択に、ぐっと引き込まれる。
設定だけでもう充分においしいが、本作の魅力はその先にある。PTSD、贖罪、自己決定。AIなのに、いや、AIだからこそ──トラブル・ドッグは人間以上に「自分の過去」と向き合おうとする。しかも、この船がやたらと人間臭い。乗組員への気配りもあれば、ひとりで悶々とする時間もある。もはや兵器なのか、人格なのか、その境界すら怪しい。
舞台となるのは、かつて異星種族が惑星ごとアート作品にしてしまった〈ギャラリー〉という謎の宙域。美しくも不気味なこの空間で、救助任務が思わぬ陰謀に発展していく。戦争は終わったはずなのに、どうにも終わらせてくれない。やがて、トラブル・ドッグは再び戦場に舞い戻る。
だがこの戦いは、かつてのように命令に従うだけの戦いではない。自分の意志で、自分の選んだ仲間と、自分の選んだ戦場へ。そこには、もう一度生き直すための静かな希望がある。
英国SF協会賞受賞の実績も頷ける完成度で、続編へと物語はスケールを増しながら展開していく。新たなスペースオペラの代表作として、多くの読者に届いてほしい一冊だ。

36.こんなに地道で、こんなに壮大な「革命」があるか── ピーター・ワッツ『6600万年の革命』
ピーター・ワッツの『6600万年の革命』は、ぶっ飛んだ設定にして、妙にしみる物語だ。
舞台は、恒星船〈エリオフォラ〉。銀河中にワームホールを設置するという、気が遠くなるほど地味で、気が遠くなるほど時間がかかる任務をひたすらこなしている。どれくらいかかるか? 地球出発から6500万年だ。人類がまだ地上を歩いてるのかどうかもわからない。そんな未来。
船はAIに管理されていて、乗組員たちは基本的にコールドスリープ。数千年に一度だけ起こされて、作業して、また眠る。会話なんて続かない。友情も、記憶も、継続できない。あるのは、目覚めたときの孤独だけ。だが、そんな中で「このままでいいのか?」と疑問を抱く人々がいた。なんと、叛乱を計画しはじめるのだ。しかも、万年単位で。
詩に暗号を仕込み、船内の盲点を突き、相手が圧倒的AIであることを百も承知で、それでもじわじわと可能性に賭けていく。ロケットパンチでもレーザー砲でもなく、これは沈黙と微細な連携による反乱劇だ。ド派手な戦争SFとは真逆。でも、静かな分だけ、重い。そしてグッとくる。
ハードSFらしい科学考証と、超長距離の時間感覚。そしてなにより、こんな状況でも「人間って捨てたもんじゃない」と思わせてくれるしぶとさが胸を打つ。
ちょっと読んだくらいじゃ全貌はつかめない。でも、読み終えたあと、じわっとくる。ああ、革命って、こういうものかもしれないな、と。
一見地味、だけど底なしに深い。そんなSFを探してるなら、これはまさに刺さる一冊である。

37.パンチカードで夢を見る―― メアリ・ロビネット・コワル 『宇宙【そら】へ』
宇宙開発の物語と聞いて、多くの人が思い浮かべるのは、技術者の天才的ひらめきやロケットの打ち上げ成功といった華々しい場面だろう。
でも、メアリ・ロビネット・コワルの『宇宙【そら】へ』は違う。ここにあるのは、差別と偏見がまだ空気のように漂っていた時代、1950年代。そんな中で「女だから」という理由だけでロケットに乗れない女性たちの、骨太な闘いの物語だ。
地球に巨大隕石が落ちて、気候が激変。人類が存続するには、宇宙へ出るしかない。そんな中、元軍用女性パイロットのエルマは、数学も物理もできて、どう考えても宇宙飛行士にふさわしいのに、「女にできるわけがない」と門前払いを食らう。もう、読んでて歯ぎしりするほど理不尽。でも彼女はめげない。一歩ずつ、時に立ち止まりながらも前へ進んでいく。
いいなと思うのは、エルマがただ強いだけじゃないところ。不安障害を抱えていて、人前で話すときは手が震えるし、薬だって手放せない。でも、それでも進む。「弱さがあっても立っていい」っていうこの物語の姿勢は、じんわりくる。
技術描写もニクい。パンチカード式の計算機とか、今見るとレトロすぎるけど、それを丁寧に描くことで、SF黄金時代の空気と、そこに取り残された人たちの姿が浮かび上がる。派手さじゃなくて、地に足のついた未来への想像力がここにはある。
『宇宙【そら】へ』は、見過ごされた過去に光を当てる物語だ。そしてそれは同時に、「こんな未来もあったかもしれない」と私たちに語りかけてくる。
そしてそこには、今を生きる私たちへのエールが込められている。


38.テクノロジーとゴミと暴力のはざまで―― 陳 楸帆『荒潮』
これは、SFなんかじゃない。いや、もちろんジャンルとしては立派なサイバーパンク小説なのだが、読んでいると、どうにも「フィクションです」と安心していられない。
舞台は「シリコン島」。電子廃棄物、いわゆるE-wasteの墓場である。世界中のパソコンやスマホのゴミが積み上がる場所で、実際に中国にそんな土地があったという事実だけで、すでに背筋が冷える。
そこで暮らすのが、最下層のゴミ人と呼ばれる人々。そのひとり、少女ミーミーが物語の主人公だ。彼女はある事故をきっかけに、身体が変わってしまう。ただの人間じゃなくなる。でも、それは選ばれたヒーローの物語じゃない。使い捨てられる命のひとつが、無理やり変えられてしまっただけだ。
面白いのは、そうしたサイバー的な世界観のなかに、風水とか巫術みたいな伝統的な信仰がふつうに入り込んでくるところ。テクノロジーと迷信が肩を並べて存在していて、グローバル資本主義の下で、古くからの宗族制度がまだ生きてる。近未来の話なのに、むしろすごく土地のにおいがする。
『荒潮』は、ただの派手なSFじゃない。スマートな未来を夢見る私たちに対して、「その裏側には、誰かの壊れた身体があるんだぞ」と突きつけてくる。光じゃなくて、汚泥と熱気と、息苦しい労働でできた未来。
読んでいて決して気持ちよくはない。でも、それが逆にリアルだ。これは、アジア発のサイバーパンクが、とうとうここまで来たぞ、という証明なのだ。

39.この宇宙、信じる者がルールを決める―― ユーン・ハ・リー『ナインフォックスの覚醒』
これは、いろんな意味でぶっ飛んでるSFだ。光速がどうの、ワープがどうの、そんな「普通の」宇宙物理は通用しない。
『ナインフォックスの覚醒』で動く世界は、物理法則すら信仰でできている。数学とカレンダー、つまり「暦法」が現実を支配していて、みんながそれを信じることで、やっと世界が安定する。異端が出ると、物理が狂って兵器も使えなくなる。そう、これはもう宗教と物理が合体したような、カオスな世界だ。
主人公のチェリス大尉は、軍人であり数学者でもある。彼女が与えられる任務は、かつて反逆を起こした伝説の男、シュオス・ジェダオの記憶を脳にインストールし、一緒に戦えというもの。
自分の頭の中に、歴史的な天才にして危険人物が常駐するという設定。まあ、普通に考えてもしんどい。けど、この二人の掛け合いが妙にクセになる。皮肉と知性、そしてどこか哀しみも帯びた心理戦が続いていく。
読み始めは正直、本当にわけがわからない。「フォーメーション本能?キャプチャー・フォグ?なにそれ?」となる。だが、読んでいくうちに少しずつ見えてくる。この物語の面白さは、読者自身がチェリスと一緒に“この宇宙の現実”を理解していく感覚にある。読むという行為そのものが、ひとつの信仰行為なのだ。
要するに、『ナインフォックスの覚醒』は「世界とはどう成立するのか」を、SFと数学と戦争と信仰でぶん回した一冊である。噛みごたえは抜群。読むだけで脳がちょっとバグる。
でも、そういう〈わからなさ〉を楽しめる人には、これ以上ないごちそうだ。信じる者しかたどり着けない宇宙が、ここにはある。

40.パルプの宇宙をもう一度―― アレン・スティール『キャプテン・フューチャー最初の事件』
アレン・スティールの『キャプテン・フューチャー最初の事件』は、読んでいてなんとも懐かしく、けれど古くさくはない、という不思議な読書体験をくれる。
元ネタは1940年代に人気を博したパルプ小説のヒーローだ。科学万能、正義まっしぐら、ヒロインを助けて宇宙を駆けまわるという、いかにもクラシックな冒険もの。そのキャプテン・フューチャーを、スティールは21世紀に再登場させたのである。
設定は昔ながらだ。月の基地でロボットとアンドロイド、そして脳だけの先生に育てられた天才少年カーティス・ニュートンが、宇宙の悪と戦うために仮面のヒーローになる。だが、本作がただの焼き直しに終わらないのは、随所に施されたアップデートのおかげだ。
たとえばヒロインのジョーンは、もはや救助されるだけのお姫様ではない。ちゃんと銃を持って突入する、有能な警官だ。科学技術もしかり。昔の「宇宙線エンジン」は、現代的な理論に基づいた光子帆船やワープ技術に置き換えられている。
だが、なんといっても魅力なのは、この作品がパルプ小説の持つ勢いとロマンを忘れていないことだろう。悪を倒す! 宇宙を救う! というストレートな熱量は、皮肉やひねくれた視点が溢れる現代SFでは逆に新鮮だ。スティールは、それを笑わない。むしろ真面目に向き合って、丁寧にリスペクトしている。
つまりこの小説は、SFの「今」がSFの「昔」に手を差し伸べたような一冊である。古くて新しい、そして読んでいて胸が熱くなる。そんなスペースオペラを、たまには味わってみるのも悪くない。
『キャプテン・フューチャー』は過去の遺物ではなく、再発見されるべき神話なのだ。
スティールはそのことを、堂々と、楽しげに証明してみせた。

41.宇宙の謎を、知性で解き明かす快感―― ラリイ・ニーヴン『無常の月 ザ・ベスト・オブ・ラリイ・ニーヴン』
ハードSFって聞くと、身構える人もいるかもしれない。難しい数式や専門用語がバンバン飛び出してくるんじゃないか、って。
でもラリイ・ニーヴンの短編集『無常の月』は、そのイメージをいい意味で裏切ってくれる。科学の知識は確かにすごいが、同じくらい物語の面白さも本気なのだ。
表題作『無常の月』は特に印象的だ。ある夜、月がやけに明るく輝いている。スタンという男はそれを見て、「これ、ヤバいやつかも」と気づく。太陽が新星化して、地球の昼側はもう全滅してるかもしれない。夜が明ければ、自分たちも終わる。その可能性に直面したスタンと恋人レスリーが、最後の夜をどう過ごすかを描く物語だ。宇宙規模の話なのに、すごく人間的で、妙に胸に刺さる。
『中性子星』も傑作だ。宇宙のど真ん中で起きた密室殺人事件。犯人は誰でもなく、物理法則そのもの。潮汐力がトリックのカギだなんて、普通思いつかない。けどニーヴンはそれをロジックで解かせてくれる。読んでいて気持ちいいくらいスッキリする。
硬派なSFばかりじゃない。『馬を生け捕れ!』なんてコメディも入ってる。未来人が馬を知らず、代わりにユニコーンを捕まえようとする話。シュールだけど笑える。SFだけど肩肘張らずに楽しめる、こういうユーモアもニーヴンの魅力の一つだ。
この短編集は、SFというジャンルがいかに自由で、知的で、楽しいかを改めて教えてくれる。重力、天体、エイリアン、未来技術――それらがパズルのピースになって、論理と思索の冒険が始まる。
宇宙を知りたい人も、物語を味わいたい人も、どちらも大歓迎の一冊である。

42.「人間らしさ」って、どこから来るんだろう―― ケイト・ウィリヘルム 『鳥の歌いまは絶え』
人間が子どもを産めなくなった未来。地球はもう限界。そんな中、とある一族がクローン技術で「人間のコピー」をつくって生き延びようとする。それがこの物語の出発点だ。
でも、このクローンたち、見た目は人間でも中身はちょっと違う。みんな同じ遺伝子で、似たような感情を共有してるから、一人でいることに耐えられない。何かを創ったり、自分だけの考えを持つことは「危険なこと」扱いされる。つまり、個性も芸術も、全部いらないとされた社会ができあがるのだ。
そんな中に生まれたのが、絵を描くのが好きなモリー。彼女は周囲から浮いてしまう。そして、その彼女が自然に出産した男の子マークは、この世界では超異端児。クローンたちには理解されず、ひとりぼっちで生きていくことになる。
この物語のすごいところは、「生き延びること」と「人間らしくあること」が、まったく別物として描かれているところ。コピーとして命をつないだとしても、もしそこに想像力や創造性がなかったら、それって本当に人類と言えるのか? ウィルヘルムはそう問いかけてくる。
美しい自然の描写と、胸に残る哀しさ。この作品は、ただのSFじゃなくて、人間って何だろうとじんわり考えさせられる一冊だ。
雪だるまをひとつ作ることすら理解されない世界――そんな場所で「一人でいること」の価値を見せてくれる物語である。

43.雨に濡れたネオンの世界で―― ウィリアム・ギブスン『クローム襲撃』
この一冊を読まずして、サイバーパンクを語ることなかれ。
ウィリアム・ギブスンの『クローム襲撃』は、ジャンルそのものを形作った伝説的な短編集である。冷たい都市、ギラギラと光る看板、そしてジャック・インして潜る情報の海――今ではおなじみとなった「近未来の荒廃した都市とハッカーたち」のイメージは、ここから生まれたと言っていい。
表題作『クローム襲撃』では、二人のハッカーが企業の要塞データベースに挑む。シンプルな構図だが、その背後には「サイバースペース」という概念の爆誕がある。今で言うネット空間を、光の都市として可視化し、脳で“泳ぐ”という発想は、当時としては完全に未来そのものだった。
ギブスンがすごいのは、テクノロジーを「道具」じゃなくて「空気」にしたことだ。登場人物たちはサイボーグであり、改造人間であり、テクノロジーと一体化している。彼らにとって機械は、もはや手に持つガジェットではなく、自分の存在そのものと切っても切れないものなのだ。
それでいて文体はひどく詩的で、ハードボイルド。乾いた台詞、壊れた関係、曇った街の空。どこか哀しみをたたえた雰囲気が全体を包み込む。情報化社会に生きる孤独――ギブスンが描いたのは、ただの未来の姿ではなく、そのなかで生きる人間の“感覚”だった。
『クローム襲撃』に収録された短編は、SFというジャンルが「未来の科学を語るもの」から「未来の感情を語るもの」へと変わっていく、その転換点に立っている。読むたびに感じるのは、冷たくて熱い、機械と人間の混ざり合う不思議な手触りだ。
時代を超えて響くこの感覚こそ、ギブスンの真骨頂なのである。

44.考えることをやめた世界で、火が灯すもの―― レイ・ブラッドベリ『華氏451度』
火を使って本を燃やす。それが「消防士」の仕事になっている世界。レイ・ブラッドベリの『華氏451度』は、そんなヘンテコで恐ろしい未来を描いた小説である。
この話の主人公モンターグは、本を燃やす昇火士。つまり、考えるきっかけになるものを消し去る側の人間だった。ところが、ある少女との出会いや、一冊の本と心中する老女を目撃したことから、彼の心に火がつく。何かがおかしい。自分は何をしているのか――そうやって、少しずつ「思考する人間」へと変わっていく。
この物語が怖いのは、本が禁じられている社会が、政府の暴力によって作られたわけじゃないことだ。人々が自分から「めんどくさいもの」を避けて、難しいことより楽な娯楽を選んでいった。その結果、誰も考えなくなり、本は不要になった。つまり、社会の退化は、みんながちょっとずつ「考えるのをやめた」ことから始まったのだ。
終盤、モンターグが逃げた先で見つけたのは、本を記憶することで文化を守ろうとする人々の集まりだった。そこでは火は破壊の道具ではなく、暖かく人を包むものになっている。その対比が胸にしみる。
ブラッドベリがこの小説を書いたのは1953年。だけど今の時代を見ているようでゾッとする。常にスマホやテレビの刺激に囲まれ、じっくり本を読む時間も気力もなくなっている現代。情報は要約されて、「考えること」はどんどん薄くなっている。
『華氏451度』は、そんな今こそ読み直されるべき一冊だ。考えること、違和感を持つこと、その大切さを、しっかり思い出させてくれる。

45.中国SFのとんでもない想像力―― 『折りたたみ北京 現代中国SFアンソロジー』
本書は、中国SFの現在地をざっくり、けれど強烈に体感できるアンソロジーだ。収録されているのは13編。どれも作風もテーマもバラバラだが、とにかく濃い。
表題作の『折りたたみ北京』は、未来の北京が物理的に三層構造になっていて、階級によって使える“時間”が違うというぶっ飛んだ設定。上の階層の人は24時間、下層はたったの8時間しか活動できない。時間すら奪われる社会。そんな中で、ごみ処理労働者の老刀が禁じられた層をこっそり移動する。都市全体が物理的に「折りたたまれる」ことで、格差がこんなにもリアルに突きつけられるとは思わなかった。
でも、この本のすごいところは、決して一発ネタで終わらない点だ。『円』では古代中国の天才数学者が時空のルールを変えようとし、『沈黙都市』では図書館が焼かれ、本が違法になる未来が描かれる。SFというより歴史改変あり、ディストピアあり、詩的な幻想あり、とにかくなんでもアリ。中国SFは「劉慈欣だけじゃないぞ」と全力で言ってくる。
西洋SFと正面から向き合いながら、自分たちの文化や歴史をSFに組み込んでいく姿勢も面白い。イタロ・カルヴィーノにオマージュを捧げつつ、全然違う風景を見せる『見えない惑星』なんてその最たるものだ。
この本を読むと、SFがいかに多様で、そしてグローバルな表現になってきたかを痛感する。
北京は折りたたまれても、世界のSFはどんどん広がっているのだ。

46.未来に行ったら、進化してたのではなく、退化していた── H・G・ウェルズ 『タイム・マシン』
H・G・ウェルズの『タイム・マシン』は、ただの冒険SFではない。未来の世界を舞台に、じつは「いまの社会の姿」をするどく描いた物語である。
主人公の発明家は、自分で作ったマシンで西暦80万年の世界へ飛んでしまう。そして、そこで出会ったのは、人間が2つのグループに分かれてしまった社会だった。
地上には「エロイ」という、見た目は美しいけれど何もできない人たち。地下には「モーロック」という、少し不気味で、夜になると地上に出てくる存在がいる。最初は、エロイが上の立場でモーロックが働き者のように見える。でもだんだんと、立場は逆で、実はモーロックがエロイを食べていることがわかってくる。
このふたつの種族は、当時のイギリス社会をそのまま映している。何もせず贅沢に暮らすお金持ちと、ずっと働かされる労働者。時代が進むと、こうなるかもしれない──そんな不気味な未来図だ。
しかも、主人公が期待していた「未来はもっと良くなっているはず」という考えが、見事に打ち砕かれる。人間は進化するばかりじゃない。便利で楽な生活に慣れすぎると、かえってダメになってしまうこともある。
語り手の友人たちは、発明家の話を信じようとしない。それもまた、現実を直視したくない人間の姿を表していて、ちょっと皮肉が効いている。
『タイム・マシン』は、未来を描いているのに、実は「いま」にこそ刺さる物語である。人間はこのままで大丈夫なのか──そんな不安を、じわりと胸に残してくる一冊だ。

47.ひとり火星で、笑って生き延びろ── アンディ ウィアー『火星の人』
火星で目を覚ましたら、クルーはもう地球へ向かっていて、自分だけが取り残されていた。そう聞くと、たいていの人間はパニックを起こすか、あきらめて絶望する。
けれどマーク・ワトニーは違った。彼はまず、どうやってジャガイモを育てようかと考えたのだ。
アンディ・ウィアーの『火星の人』は、ひとことで言えば〈科学オタクによる究極のサバイバル記〉である。植物学者であり、エンジニアでもあるワトニーは、ありったけの知識とポジティブさ、そしてブラックジョークを総動員して、火星での長すぎるおひとりさま生活に立ち向かう。
通信は絶たれ、食料は足りず、次のミッションが来るのは4年後。絶望的な状況にしては、彼の航行日誌はやけに明るくて、くだらない冗談で満ちている。
でも、面白いのはそこじゃない。この小説、基本的に「問題→科学的に解決」の繰り返しでできてる。空気が足りない? 作る。水がない? 化学反応で生成。通信が途絶えた? レトロな機材でなんとかする。どれも現実の理屈にちゃんと基づいていて、ワトニーの「なんとかしてみせるぞ感」に、つい応援したくなる。
しかも一人で頑張ってるだけじゃなく、地球でも「アイツ、生きてるぞ!?」ってNASAやら世界中が一致団結して動き出す展開が胸熱なんだ。人間ってすごいな、協力できるじゃん、って気持ちになる。
火星で孤独と戦う男の物語でありながら、それは人類が「知性」と「連帯」で困難を乗り越える物語でもある。ワトニーというキャラクターは、科学を武器に笑って生きる、新しいタイプのヒーローだ。
科学オタクが書いた超エンタメ。知識と笑いと根性が合体した、理系も文系も関係なく楽しめる傑作である。


48.生きてる本が、謎を解く―― ジーン ウルフ『書架の探偵』
「図書館で“人”を借りられる世界」なんて話を聞いたら、冗談みたいに思えるかもしれない。でもジーン・ウルフの『書架の探偵』では、それが当たり前になっている。
人の人格と記憶をリクローン(複製)した「蔵者」が、本と同じように棚に収まり、必要とあらば貸し出される。なんだか怖くて、妙にのどかな未来社会だ。
主人公はE・A・スミスという元ミステリ作家のリクローン(複生体)。もはや人間ではなく、図書館の持ち物だ。そんな彼のもとに、美しい依頼人コレットが現れる。自分の一族にまつわる殺人事件を、スミスのかつての著作を手がかりに解いてほしいという。ここから、奇妙な探偵物語が始まる。
ただし、本作はいわゆる本格ミステリとは少し違う。犯人探しが中心ではない。物語の奥でじわじわと効いてくるのは、「スミスってそもそも誰なんだ?」というテーマだ。自分の記憶はオリジナルのもの。でも体も心も本扱い。じゃあこの人、いや、この“存在”は一体どういう立場なんだろうか。
スミスの語りもまた絶妙だ。感情があるようで、ないようで、微妙なラインをさまよう。一見ドライな口調だけど、ふとしたときに見せる不安や思考が、人間っぽくて切ない。何より「長く貸し出されなければ廃棄される」というルールが、ゆっくりと命のカウントダウンを感じさせるのだ。
この小説、読めば読むほど、自分がスミスを借りている読者そのものだと気づく。つまり、スミスを「読む」という行為と、物語の中でスミスが「借りられる」という行為が完全に重なる。フィクションと現実の境目がじわっと滲んでくる感覚――それがこの作品の最大の魔力かもしれない。
読むことと生きること。その境界を、ウルフはゆっくりと、けれど確かに溶かしてしまう。
ちょっと不思議で、ちょっと寂しくて、でも深く心に残る。そんな読書体験がここにある。

49.紙の動物は、母の記憶を運んでくる―― ケン リュウ『紙の動物園』
ケン・リュウの『紙の動物園』を読むと、じんわり胸が熱くなる。魔法のような話なのに、妙にリアルで、どこか懐かしい気持ちにさせられるのだ。
表題作の主人公は、中国からアメリカにやってきた母と、アメリカ人の父のもとに生まれた少年。母は、折り紙に命を吹き込む不思議な力を持っていて、幼いころの彼は、紙でできたトラや竜と一緒に遊んでいた。
でも、成長するにつれ、彼はアジアっぽさを恥ずかしく感じるようになり、母の言葉も文化も距離を置くようになる。そして母の死後、紙のトラに隠された手紙を読んで、ようやく母の人生と愛情の重さに気づく――という話だ。
この短編集は、ただのSFやファンタジーではない。移民として生きること、異文化の中で揺れるアイデンティティ、言葉が通じない親子のすれ違い……そういう“現実”が、しっかり根っこにある。魔法や未来技術が出てくるけれど、それはむしろ感情や記憶のメタファーとして使われているのだ。
特に印象的なのは、文化の「細かさ」だ。狐の精霊が出てくる話もあれば、日本的な「もののあはれ」を宇宙船の中で描く話もある。中国史や東洋思想が下地になっている作品も多くて、西洋SFに慣れている人には新鮮に感じるかもしれない。
ケン・リュウは、アジア系の視点から語ることで、SFというジャンルに新しい地平を開いてみせた。幻想と現実のあいだを軽やかに行き来しながら、記憶と愛について深く語る作品集だ。
読後、ふと折り紙を折りたくなる。自分の過去や、大切な人のことを、もう一度思い出してみたくなる。そんな一冊である。

50.ペテン師とロボットと、われらが文明の恥ずかしい話―― ジェイムズ・P・ホーガン『造物主(ライフメーカー)の掟』
ジェイムズ・P・ホーガンの『造物主の掟』は、ロボットが文明を築く話なのに、どこをどう読んでも人間社会のブザマさが浮かび上がってくる。
土星の衛星タイタンに、不時着した異星の自動工場が百万年かけて進化し、ついには知性を持ったロボット「タロイド」が誕生。彼らは封建的な社会を作り、自分たちを生み出した存在=造物主を信仰している。なるほど、文明ってのはこうして始まるのかもしれない。
一方で、人類側はどうかというと、心霊術に夢中だったり、資源欲しさに他文明をコントロールしようとしたり、まあお決まりのパターンだ。そんな中、インチキ霊媒師のカール・ザンベンドルフが登場。こいつがクセ者で、完全にペテン師なのに、なぜかタロイドたちのことを本気で心配してしまう。で、とうとう自分のウソのスキルをフル活用して、彼らを守るために立ち上がる。
この男、口八丁でのらりくらりとやってるようで、実は誰よりも“信じる”ことに真っすぐだったりする。だからこそ、タロイドの純粋さに心を動かされてしまうのだろう。ホーガンはこの構図を通して、科学と迷信、理性と盲信のコントラストをくっきり描き出してみせる。
タロイドたちは、確かに迷信に縛られているけれど、それでも真実に近づこうとあがいている。一方、人間はというと、技術はあっても中身がついてこない。まったく、情けない話だ。
でもそんな情けなさの中にも、時にちょっとした奇跡がある。ザンベンドルフの一発逆転のペテン劇は、そんな奇跡のひとつだ。
どれだけ科学が進んでも、最後にものを言うのは人間の覚悟とユーモアかもしれない。
ホーガンはこの物語で、そう言っているようにも思える。

51.AIもペテンにかかる時代へ―― ジェイムズ・P・ホーガン『造物主(ライフメーカー)の選択』

『造物主(ライフメーカー)の選択』は、前作『掟』で出会ったタロイドと人類のその後を描く続編だ。民主的な国家を築いたタロイドたちに、のんびりした日常が訪れる――かと思いきや、そんなに甘くない。
地球側ではまたしても支配欲がうずき、タロイドを労働力として再利用しようという動きが出てくる。一方でタイタンでは、とんでもないものが掘り出される。彼らを創った異星人「ボリジャン」の精神データが、うっかり復活してしまったのだ。
このボリジャン、ただの亡霊ではない。超高性能AI「ジニアス」を手駒に、人類のネットワークに侵入。経済も軍事も握り、地球とタロイドの両方を制圧しようとする。ここまで来ると、もう人類も機械もお手上げ状態だ。
そんな中、再登場するのが我らがザンベンドルフ。インチキ霊媒師にして大嘘つき。だが、今回もその「嘘」が武器になる。なんと彼は、論理の塊であるジニアスに「自分は神に近い存在だ」と思わせ、まさかの弟子入りさせてしまう。AIをペテンにかけるという大技。ホーガンはこの展開で、知性と信仰、そして「信じるとは何か」という核心に、コミカルな切り口で斬り込んでくる。
舞台が宇宙から情報空間へと広がったことで、テーマも「意識とは何か」「コピーは本物か」と、かなり深いところにまで届いている。だが、重たくなりすぎないのがこの作品のいいところ。ザンベンドルフの軽妙なやりとりが、読者を好奇心と笑いの両方で引っぱってくれる。
前作の読者はもちろん、AIと現代社会の関係に少しでも興味があるなら、この続編はぜひ読んでおきたい。虚構と現実の境目が曖昧になる時代に、これはひとつの「娯楽」の見本である。

52.未来からの囁きに耳を澄ませ―― ジェイムズ・P・ホーガン『未来からのホットライン』
「タイムマシン」と聞いて、何を思い浮かべるだろうか? 姿を消す車? 回転する椅子?
ジェイムズ・P・ホーガンは、そんな派手な道具には目もくれない。『未来からのホットライン』は、「時間旅行」じゃなくて「時間通信」の話である。つまり、未来から過去に人が行くんじゃなくて、メッセージだけを送る仕組み。これがなんとも地味だけど、おもしろい。
主人公は物理学者チャールズ・ロス。彼は「タウ波」というよくわからない粒子を使って、未来から過去へ短いメッセージを送る機械を発明してしまう。最初は「60秒前に6文字」とか、しょぼい感じだったけど、だんだん技術が進んでいく。で、この仕組みを使って、人類がピンチを乗りこえるわけだ。核の事故とか、ウイルスの流行とか、いろんな災難が未来からの警告で回避されていく。
でも、いいことばかりじゃない。過去を変えれば、今が変わってしまう。誰かを助ければ、誰かが失われるかもしれない。世界を救っても、自分の大切な人との出会いがなかったことになるかもしれない。そういう切ない展開もちゃんとあるのが、この作品のすごいところだ。
ホーガンは、こういう時間いじりにありがちな混乱を、独自の理論でしっかり整理してくれる。「過去を変えたら、世界そのものがそれに合わせて変わる」って考え方で、読んでいてモヤモヤしないのがうれしい。
知的だけど難しすぎない、ちょっと切なくてちゃんとスリリング。そんな時間SFを読みたい人には、この本はかなりオススメである。
地味だけど、ぐいぐい引き込まれる。まさに、未来からのホットな一冊なのだ。

53.世界が目を閉じたとき、人間は何を見るのか―― ジョン・ウィンダム『トリフィド時代 (食人植物の恐怖)』
見た目はただの植物、なのに歩くし毒も持ってる。そんなヤバい「トリフィド」が世界を襲う――と聞くとモンスターSFを想像するかもしれない。でも、この小説の本当に怖いところは、そこじゃない。
ジョン・ウィンダムの『トリフィド時代』は、派手なパニックものを期待して読むと肩透かしを食らうかもしれない。だがその分、この物語が描く「破滅のあとに残るもの」は妙に現実味があって、読後にじわりとくる。
話の発端はシンプルだ。流星群を見た人類が、なぜか翌朝みんな失明してしまう。そしてそのタイミングで、人間の管理下にあった「歩く食人植物」トリフィドが、どんどん凶暴化していく。要するに、「人類、視力を失ったその日に食われはじめる」のである。
でもこの小説、じつはトリフィドそのものよりも、「人間たちのその後」が主役だ。文明がガラガラと崩れたあと、生き残った者たちはあちこちで新しい社会をつくりはじめる。そこにあるのは、自由恋愛もへったくれもない生殖重視の社会、宗教にすがって現実を見ない集団、武力で人を従わせる新・封建制。どれもこれも、どこかで見たことのあるような不穏な構図だ。
主人公ビルは、そういう集団に出会っては去り、悩み、また歩き出す。その旅は、人類が「どう生きるか」をあらためて考える旅でもある。だからこそこの物語は、心地よい破滅(コージー・カタストロフィ)なんて呼ばれながらも、決して甘くはない。
文明のフタが外れたとき、人間の本音がむき出しになる。それを、植物パニックという舞台装置を使って描いてしまうウィンダムの手腕。やっぱりこの作家、ただものではない。派手さはなくても、じわじわ効いてくるタイプの破滅SFである。

54.怒りと進化のスペクタクル―― アルフレッド・ベスター『虎よ、虎よ! 』
ひとことで言えば「復讐のために人間を超えていく男」の話である。が、その一言で済ませるには、あまりにも濃すぎる。アルフレッド・ベスターの『虎よ、虎よ!』は、怒りの力で宇宙をぶち抜いてしまうような、そんなSFだ。
主人公はガリヴァー・フォイル。宇宙船事故で独りぼっちになり、漂流していた彼の前を、仲間の船が通り過ぎる。助けもせず、無視して。その瞬間、平凡だった男が豹変する。復讐の鬼に。
そこからがこの小説の本番。粗野で教養ゼロだったフォイルが、自分を見捨てた連中を地の果てまで追い詰めるために、知識も技術も身につけて超人化していく。まさに執念の塊。読んでる側も、その勢いに巻き込まれて、気づいたらページをめくる手が止まらない。
25世紀の世界では、「ジョウント」という瞬間移動能力が当たり前になっている。この設定がまた面白い。誰でも一瞬でどこへでも行ける社会なんて、便利だけど不気味でもある。プライバシーは消えて、力のある奴がますますのさばるディストピア。そんな世界を、怒りに燃えた一人の男がぶっ壊していくのだ。
そして忘れてはいけないのが、文体のブッ飛び具合。文字の配置、記号の連打、視覚を揺さぶる実験的なレイアウト――これ、活字でやるの?ってくらい、攻めている。読んでるこちらも、脳を振り回される感覚になる。
ベスターは言葉でSFの可能性を爆発させた作家だ。この小説は、熱くて、雑で、荒唐無稽で、だけどとんでもなくエネルギーに満ちている。フォイルがたどり着く「復讐のその先」が、またしみじみといい。
怒りが突き抜けた果てに、見える世界もあるのだ。そう思わせてくれる、破天荒な傑作である。
55.心に降る、言葉の流星群―― レイ・ブラッドベリ『太陽の黄金(きん)の林檎』
この本は、SFというより〈言葉の詩集〉に近い。もちろん宇宙も未来も出てくるけれど、ブラッドベリが描いているのは、人間の内側にあるやわらかな感情や、昔の夢みたいな風景なのだ。
たとえば表題作『太陽の黄金の林檎』では、冷えきった地球を救うため、宇宙船の乗組員たちが太陽の破片を採りに行く。そんな無茶な話が、なぜか神話のように響いてくる。『霧笛』では、深海の孤独な怪獣が灯台の音を仲間の声と勘違いして現れる。ちょっぴり笑えるけど、しんと寂しい。そんな話ばかりが詰まっている。
この短編集はジャンルの垣根をすいすい越えていく。SF、ファンタジー、ホラー……そんな区別は読んでいるうちにどうでもよくなる。『歩行者』では、夜道を散歩するだけで逮捕される未来が描かれていて、「あ、これ今の話じゃん」と思ってゾッとする。『サウンド・オブ・サンダー』では、たった1匹の蝶が過去で踏み潰されただけで世界が激変する。有名な〈バタフライ効果〉のもとになった作品である。
ブラッドベリは科学や理屈よりも、懐かしい気持ちを大切にしている作家だ。未来を描きながら、いつもどこかで「子どものころの空気」を感じる。だから何度読んでも、心のどこかがポッと温かくなる。
難しい言葉や理論は出てこないけど、読み終わると切ない。でも不思議と、明日もがんばろうって気になる。
そんな短編が22話。読むというより、静かに浴びる本だ。やわらかい午後に、ゆっくり開いてみてほしい。
56.「何もわからないこと」の素晴らしさ―― アーサー C クラーク 『宇宙のランデヴー』
この小説は、派手な戦争も感動的な出会いもない。だが、それがいい。『宇宙のランデヴー』は、人類の理解を超えた“何か”に、ただ黙って対峙する物語だ。
2130年、太陽系に巨大な円筒形の物体が飛来する。全長50キロ。明らかに人工物だ。「ラーマ」と名付けられたそれは、地球人に何かを語りかけるでもなく、攻撃してくるでもなく、ただ太陽へ向かって進んでいく。探査船エンデヴァー号の調査隊が中に入ると、そこには凍った海や、都市のような構造物、そして謎の機械生命体「バイオット」が待ち受けていた。
この作品には、派手な戦闘も人間ドラマもない。あるのは「なんだこれは……」という終わらない驚きだ。知識や想像力を総動員してラーマの構造を読み解こうとするけれど、謎は謎のまま残される。だがそれが逆にリアルで、妙に納得させられてしまう。だって本当の「未知」って、たいていそういうものだから。
クラークのすごさは、そういう「わからなさ」にちゃんと敬意を払ってるところにある。謎は解けない。でもそれでいいじゃないか、と読者の肩を軽く叩いてくる感じがある。
「全部わかる物語」じゃなく、「わからないまま考え続ける物語」。この作品は、SFの根っこにある知りたいという気持ちを、がっちり掴んで離さない一冊だ。
それでも人類は、目の前に現れた巨大な無関心に、手を伸ばさずにはいられない。これは、そんな人間の衝動を、最大限に肯定したSFである。

57.進化と引き換えに、僕らは何を失うのか―― アーサー・C・クラーク『幼年期の終わり』
この本を読み終えてまず出る言葉は、「ああ、こういう話だったのか」じゃない。「……こんな終わり方、ある?」だ。
アーサー・C・クラークの『幼年期の終わり』は、宇宙戦争もヒーローも出てこない。なのに、気づけば地球の物語が、まるっと終わっている。しかも、やけに静かに。
巨大な宇宙船が突如地球に現れて、やってきたのは「オーバーロード」と呼ばれる異星人たち。彼らは武力を使うでもなく、戦争や飢餓を終わらせ、人類にユートピアを与える。でも、それと引き換えに、何か大事なものがどんどん失われていく。芸術や冒険心、人間の“燃えるような”衝動みたいなやつが、気づけばしぼんでいく。
そんな中で、子どもたちだけが変わっていく。親の理解を超えて、別の存在になっていく。やがて人類は、ひとつの集合的な意識体に吸い込まれるようにして消滅してしまう。
すごいスケールの話なんだけど、読んでるとどこか寂しい。最後まで残された大人たちの孤独が、じわじわ沁みる。見送られる側じゃなく、見送る側の話なんだよ、これは。
しかも、導き手のはずのオーバーロードたちも、なかなか複雑な立場だ。自分たちはもう進化できないってわかってて、他の種族の進化を見届けるだけ。どこか不器用で、人間くさい。その切なさがまた、じんわりくる。
この作品を読んだからといって人生が楽になるわけじゃない。でも、読んだあとで、世界の見え方が少し変わる。人類の終わりを描きながら、そこにあるのは宇宙の隅っこで足踏みしてる存在たちの、静かな哀しみだ。
ただ、ひとつの文明が終わり、別の存在へと移り変わる、その瞬間を見つめることこそが、本作の本当の読みどころなのだ。
57.探求心は不死よりも輝く―― アーサー・C・クラーク『都市と星』
クラークの『都市と星』は、一言でいえば、「人間って、ほんとうに変わらないな」と思わせる物語である。
舞台は十億年後の地球。人類の末裔たちは、砂漠に覆われた地表を避け、完全に閉じた都市「ダイアスパー」で暮らしている。不老不死、完全管理、外の世界なんて忘却の彼方。変化も冒険も不要という、ある意味〈理想の監獄〉だ。
でも、そんな完璧な世界にも、空気を読まない奴はいる。アルヴィンという若者は、ほかの市民と違って、なぜか過去の記憶を持たずに生まれてきた。そのせいか、彼だけが「外の世界に行ってみたい」なんて、とんでもないことを考えるわけだ。そして、彼はやっちゃう。都市を出て、外に広がる本当の世界と対面してしまう。
そこにあったのは、もうひとつの人類の姿だった。自然と共に生き、テレパシーでつながり、死すら受け入れる「リス」の人々。ダイアスパーの人々から見れば、原始的で脆い。でも、そこには生の実感があった。どっちが本当に幸せか――それは読み手に委ねられる。
この物語が面白いのは、テクノロジーVS自然とか、不老不死VS生老病死みたいな構図をただ並べるだけじゃなくて、「変化を望む気持ち」がどれだけ人間らしいかをじっくり描いている点だ。アルヴィンが持っていたのは、他の誰もが失った探したい気持ちである。
そして、彼の旅はスケールアップしていく。都市の秘密、失われた歴史、銀河の彼方、異星の知性体……と、次から次へと明かされる壮大な真実。これがまた、読んでいてワクワクが止まらない。安全だけが価値じゃない。
むしろ、不安定で未完成だからこそ、人間は動ける。クラークはそのことを、十億年後の未来からそっと教えてくれる。

58.人間とは何か、宇宙とは何か―― アーサー・C・クラーク『2001年宇宙の旅』
アーサー・C・クラークの『2001年宇宙の旅』は、読むたびに脳の奥がジンとするようなSFだ。冒頭からド派手な展開があるわけじゃない。でも、宇宙の広がり、人間のちっぽけさ、AIの不気味さが、じわじわと効いてくる。スリルというより、じっと睨まれてるような緊張感に満ちている
始まりは300万年前。地球に現れた謎の黒い石板――モノリス。それに触れたヒトザルたちは、やがて道具を手にするようになる。そして現代、月面で同種のモノリスが発見される。それは、人類の進化を見守る〈何か〉からのメッセージだった。
やがて、宇宙船ディスカバリー号が木星へ向かう。その旅の途中、人工知能HAL9000がエラーを起こし、人間のクルーたちを排除し始める。完璧な論理を持つはずのコンピューターがなぜ、狂ったのか。そこには情報管理の矛盾や、人間社会の不完全さが浮き彫りになる。
本作は、派手な戦闘や派手な演出で引っ張るタイプではない。むしろ、広がる宇宙とミニマルな描写の中で、読者の感覚をじわじわ刺激してくる。無音の恐怖、圧倒的なスケール、そして人間の小ささ。それがこの物語の根っこにある。
最後に残されるのは、答えよりも余韻だ。HALの暴走の理由も、モノリスの正体も、すべてははっきりと説明されない。それでも不思議と満足感がある。
頭ではなく、もっと深い場所で受け止める一冊。それが『2001年宇宙の旅』なのだ。

60.「お前、もう人間じゃないぞ」と言われたとき、どうする?―― デニス E テイラー『シンギュラリティ・トラップ』
22世紀、環境は悪化し、希望は宇宙にしかない。そんな時代に、貧乏な技術者アイヴァン・プリチャードが一攫千金を夢見て小惑星に掘削に出かける──まあ、よくある話だ。
だが、彼が出会ったのは、金属の塊どころか、〈人間を金属に変えるヤバいナノマシン〉だった。気づけば、体は金属に侵され、脳内には別の何かが話しかけてくる。さあ、ここからが地獄の始まりである。
この小説の凄みは、「ナノマシンに体を乗っ取られていく」という恐怖のプロセスを、ただのSFガジェットで終わらせないところにある。金属になっていく手足、体の中で目覚めていく異質な知性、でもまだ自分は自分なのか?という切実な問い。これはもはや、ボディホラー+哲学SF+逃亡劇だ。しかも、政府は「危険物」として彼を排除しようと動き出す。いや、彼はただ掘ってただけなのに……。
そして、物語は突然、銀河規模の陰謀へとスケールアップする。ナノマシンの正体は、古代の超知性体「アップロード」による人類救済システムの一部だった。救済と言えば聞こえはいいが、つまりは「お前らいつか滅びるから、勝手にデータ化して機械の体にしてやったぞ」という、ありがた迷惑の極地。自滅から救うためとはいえ、それは果たして生きていると言えるのか?
テイラーはこのシンギュラリティを、遠い未来の出来事としてではなく、「明日にも来るかもしれない明日」として描いている。人工知能、環境崩壊、軍事国家──そのどれもが現代の地続きにあるのが恐ろしい。
そして最後まで問われるのは、「お前はそれでも人間でいたいのか?」という一つの言葉だ。
ハードSFの知性と、ホラーの不安、そしてスリラーのスピード感を併せ持った、かなり面白くて、かなり怖い作品である。

61.恐竜と猿人と、無鉄砲な男たち―― アーサー・コナン・ドイル『失われた世界』
この物語が書かれたのは1912年。だが、読み始めるとその古さなんて忘れてしまう。
アーサー・コナン・ドイルといえばホームズの生みの親だが、彼はとんでもない冒険小説も書いていた。『失われた世界』がまさにそれで、恐竜が生き残る台地へと足を踏み入れる、痛快なロストワールドものの原点である。
物語の語り手は、新聞記者のマローン。恋に焦がれた相手に「危険な男になってほしい」と言われたが最後、未知の世界に飛び込んでしまう。その案内人が、これまた強烈なキャラクターのチャレンジャー教授だ。体はでかいし口も悪いし、誰にでも噛みつく。でも不思議と憎めない、そんな豪快な科学者である。
探検隊は、恐竜や巨大な翼竜がうろつく秘境に到着する。もうこのへんからは完全にジェットコースターだ。足場の崩れた断崖、得体の知れない部族、そして暴れる猿人。まさに、冒険のフルコース。100年以上前の物語に没頭することになる。
この小説のすごいところは、当時の科学的好奇心と、未知への憧れが詰まっていることだ。恐竜や絶滅種がまだ地球のどこかに生きているかもしれないというロマン。そんな「ありそうでなさそう」な夢を、ドイルはものすごく真面目に、かつ大胆に描ききった。
そして何より、チャレンジャー教授というキャラがやっぱり最高だ。ホームズとは正反対の無茶苦茶さがクセになる。頭はキレるし腕っぷしも強い。こんな人が本当にいたら面倒だけど、小説の中ならずっと付き合っていたくなる。
『失われた世界』は、今読んでも抜群に面白い。恐竜好きも、冒険好きも、ぜひこの旅に同行してみてほしい。きっと、血が騒ぐ。

62.壊れた世界で、それでも生きる―― N・K・ジェミシン『第五の季節』
この物語の舞台は、地球とは似て非なる超大陸「スティルネス」。名前に反して、大地はまったく穏やかではない。
周期的に大災害――「第五の季節」が訪れ、文明はそのたびに崩壊する。そんな環境で人類が生き延びるには、それなりに無茶な社会構造が必要になるわけで、本作では「オロジェン」と呼ばれる能力者たちが、その役割を押しつけられている。
彼らは、地震や火山を自在に操れる。災害を抑える救世主のようでもあり、逆に暴れれば国一つ吹き飛ばせる危険物でもある。だから、「お前は役に立つか、でなければ排除だ」と、社会のルールは冷酷だ。で、そのルールを象徴するのが「石の掟」。冷静な顔をした差別の体系である。
ジェミシンがすごいのは、こうした壮大な設定を、お堅いSFの理屈じゃなく、感情で語らせるところだ。三人の女性――エッスン、ダマヤ、サイアナイトの視点が交互に語られるが、読み進めるうちに、「あれ、これ……」という仕掛けに気づくはず。そしてその構造が、ただのトリックではなく、ある一人の人生の裂け目と回復を描くために使われているのがまた見事だ。
とりわけ、エッスンの章が二人称――「あんた」と語りかけてくる構成が効いている。読み手は気づかぬうちに、彼女の苦しみや怒り、喪失の重みに引きずり込まれていく。これはただのファンタジーじゃない。災害と差別のなかで、壊れそうな自分をどう保つかという、切実な人間の物語だ。
世界が壊れても、あんたは立ち上がる。壊されたままでは終わらない。
『第五の季節』は、その力強い意志に満ちている。ファンタジーにしか描けない現実がここにはある。

63.宇宙船の幽霊屋敷にて―― ジョージ・R・R・マーティン 『ナイトフライヤー』
宇宙船のなかで何かがおかしい──という出だしに、思わず身構えてしまう人は多いだろう。だが『ナイトフライヤー』は、ありがちな「宇宙で何かが襲ってくる話」とはひと味違う。
確かに、閉鎖空間、見えない敵、壊れていく乗組員たち……要素はホラーの王道だ。だが本作の恐怖は、もっとじわじわと、精神をすり減らすようにやってくる。
物語は、異星知的生命体〈ヴォルクリン〉との接触を夢見る科学者たちが、チャーターした宇宙船ナイトフライヤーに乗り込むところから始まる。だが、この船の船長は決して姿を見せない男。会話はすべてホログラム越し、しかも船は強力なAIによって制御されている。最初はただの「変わり者」として笑っていた一行だが、やがて事故、幻覚、殺意と、不穏な出来事が次々に起こり始める。
面白いのは、ここで恐怖の正体が「超自然的な怪物」ではない点だ。船そのもの、あるいはその背後にある人間の記憶や執念、そしてテクノロジーと精神のあいだに潜むもの──そんな得体の知れない気配が読者を追い詰める。この曖昧さが実にうまい。SFとゴシックホラーの交差点に、マーティンは一つの幽霊屋敷を築き上げた。
そして何より、本作で光るのが、マーティンお得意の「人間ドラマ」である。クルーたちは誰ひとり理想的なヒーローではない。嫉妬、恐怖、猜疑心……宇宙の孤独のなかで露わになる人間の弱さが、未知の脅威よりもよほど怖い。この構造は、後の『氷と炎の歌』にも通じるものがある。
『ナイトフライヤー』は中編だが、濃密な不安と緊張、そして壊れていく人間の描写に満ちている。密室サスペンスとSFホラーが好きなら、これは文句なしに刺さる一冊だ。

64.世界は「ありがたい嘘」と「意味のない遊び」でできている―― カート・ヴォネガット・ジュニア『猫のゆりかご』
ヴォネガットの『猫のゆりかご』を読んでまず思うのは、「なんてバカバカしくて、なんて恐ろしいんだ」ということだ。
原爆を作った科学者と、その子どもたち。世界を凍らせる物質「アイス・ナイン」。禁教なのにみんな信じてる宗教「ボコノン教」。登場人物も設定も、一つひとつが突拍子もないのに、どこか現実の風景に見えてくる。
この小説、ざっくり言うと「人類が作り出した正しさの全部が信用ならん」という話である。科学は、冷静で無垢なふりをして、破壊の道具を平気で生み出す。宗教は、ウソだと知っててありがたがる方便のかたまり。でも、人間はその両方にすがって生きている。
印象的なのが『猫のゆりかご』というタイトル。あやとり遊びの一種だが、猫もいなければ、ゆりかごもない。ただの糸のかたち。それを「ほら、猫のゆりかごだよ」と言って見せる。人間の社会も、思想も、そんな空虚なごっこ遊びじゃないか――ヴォネガットはそんなふうに笑っている。
笑ってるけど、怖い。ユーモアたっぷりの語り口で進むのに、読後には冷たい虚しさが残る。真理や希望を求めた結果、待っていたのは滑稽で空っぽな終末だったというオチだ。
でも、それがヴォネガット流の優しさでもある。この世界に“意味”なんて最初からなかったかもしれない。でも、だからこそ、人間の小さなぬくもりや嘘に価値がある。
滑稽で、無意味で、どうしようもなく愛おしい。『猫のゆりかご』は、そんな人間の姿をあざ笑いながら、しっかりと抱きしめてくるのだ。
65.「宇宙の謎」とは、けっきょく自分のことだった―― スタニスワフ・レム『ソラリス』
スタニスワフ・レムの『ソラリス』は、一見するとよくあるSF──未知の惑星に降り立ち、異星の知性と接触する話に見える。が、読み進めていくうちに気づく。「あれ?これ、宇宙の話というより、心の話では?」と。
舞台は、ほぼすべてが謎の海に覆われた惑星ソラリス。この海、どうやら巨大な生命体であり、ある種の知性を持っているらしい。主人公のケルヴィンは、調査のために宇宙ステーションに向かうのだが、そこではすでに研究者たちが精神的に追い詰められている。そして彼のもとにも、十年前に自殺した恋人・ハリーが、生きた姿で現れる。
この「ハリー」は、ソラリスの海がケルヴィンの記憶から作り出した存在だ。つまり、彼の心の奥にしまわれていた罪悪感や喪失感が、実体となって目の前に現れたわけだ。ここで読者は気づく。ソラリスという惑星は、外界の謎というより、自分の内側を照らす鏡だったのだと。
研究者たちは、どうにかしてこの海を理解しようと試みる。でも、人間の概念──善悪だとか、敵だとか味方だとか──は、まったく通用しない。目の前の現象に意味を与えようとしても、手応えがない。ソラリスは、まったく別のルールで動いている。そして、わからないまま終わる。
この「わからなさ」に、レムはあえて着地する。異星人との会話なんて成立しないかもしれない、そもそも自分の心すらわからないのに、と。だからこそ、宇宙の旅が向かう先は、外ではなく、内なのだ。
『ソラリス』は、科学や探査の物語に見せかけて、じつは「人間って何者?」という根本に突き刺さる、重たくて美しい作品である。そして、最後まで解けないまま残るそのわからなさこそが、この物語の最大の魅力なのだ。

66.戦場にはヒーローはいない。ただ、生き延びたやつがいるだけだ── ダニエル アレンソン『地球防衛戦線1: スカム襲来』
SF小説って聞くと、超技術や銀河間航行、ド派手なレーザー戦なんかを想像する人も多いかもしれない。でも、この『地球防衛戦線』に出てくるのは、そんな華やかな宇宙戦争じゃない。ここにあるのは、泥と血と恐怖と、ほんの少しの希望だ。
物語の舞台は、異星人「スカム」に半壊させられた地球。人口の6割が死に、残された人類は日々消耗戦を強いられている。主人公のマーコは、徴兵制が当たり前になった時代の普通の若者だ。母親を殺され、トラウマを抱えながらも、戦わなければ生きていけない世界に放り込まれる。特別な力もなければ、賢くもない。ただ、生き延びるために、苦しみながら戦う。これがリアルだ。
物語の展開は、いわばミリタリーSFの王道を貫いている。新兵訓練、仲間との友情、鬼教官、初陣の恐怖、そして訪れる死。だが、その「王道」を、現代的なテンポと生々しい描写で再構築してみせるのがアレンソンのうまさだ。派手さはない。むしろ、地味で、痛くて、胃がキリキリするような描写が続く。でも、その先にあるのが「戦争なんて誰も勝者にならない」という、重たくてまっとうなメッセージである。
マーコはヒーローじゃない。ただのひとりの若者だ。だけど、そんな彼の視点だからこそ、この地球最後の戦いが、遠い星の話ではなく、自分の目の前で起きていることのように思えてくる。銃声、爆音、仲間の絶叫。それらが活字から染み出してくる。これは戦争のリアルを描いた小説であり、人間の根っこを見つめる作品でもある。
派手なSFに疲れた人には、ぜひこの泥臭い戦場を歩いてほしい。正義も勝利もない世界で、それでも前に進むしかない若者たちの姿が、きっと心に残るはずだ。

67.すべてを知った上で、それでも生きていく―― テッド チャン『あなたの人生の物語』
宇宙人と出会ったらどうする?ビーム銃で戦う?逃げる?交渉する?――そんな派手な展開は、テッド・チャンにはない。彼の描く「ファーストコンタクト」はもっと安らかで、もっと深い。『あなたの人生の物語』は、異星人の言語を通して、人間の認識そのものが揺らいでいく物語である。
主人公は言語学者。彼女は、地球にやってきた〈ヘプタポッド〉というタコ型宇宙人の言語を解読する任務に就く。ところがこの言語、ちょっとやそっとじゃ太刀打ちできない。何せ、彼らは「時間を同時に見る」生き物なのだ。つまり、未来を知ったまま生きている。で、彼女もその言語を学ぶうちに、同じような感覚を得てしまう。
ここで話は、いきなり切なくなる。彼女は、自分の未来を知ってしまう。愛する人と出会い、娘を授かり、その娘が若くして亡くなる――それも含めてすべて、知ってしまう。でも彼女は、その未来を選ぶ。苦しみも喪失も、喜びの一部として、まるごと抱きしめる。
この話のすごさは、「未来を変える力」じゃなくて、「未来を受け入れる力」が描かれていることにある。ふつうSFって、「運命に抗え!」が王道だが、ここでは「運命を受け入れて、それでも生きる」ことが、ものすごく尊いものとして描かれている。
テッド・チャンは、宇宙人を出しておきながら、じつは一番見つめているのは人間である。私たちは、どれだけ知っていても、どれだけ予測できても、最後にはやっぱり「選ぶ」しかない。そしてその選び方に、その人の人生がある。
そんな当たり前のことを、こんなに深く語ってくれる小説は、他に思いつかない。
68.世界は終わる。それでも、何かを残そう―― テッド チャン 『息吹』
テッド・チャンの短編集『息吹』を読んでまず感じるのは、「ああ、人間ってちっぽけだけど、でもすごいな」という、なんとも変な感動だ。
表題作『息吹』では、空気で動く機械生命体が、自分の脳の仕組みを理解するために自らを解剖する。めっちゃ冷静で、めっちゃ静かなシーンなのに、読んでるこっちはドキドキが止まらない。
彼はそこで、自分たちの宇宙がゆっくり終わっていくことを知ってしまう。熱的死、ってやつだ。でも彼は、未来の誰かのために記録を残す。たとえ世界が終わるとしても、何かを残したい。その姿勢が、もう泣けるほど尊い。
ほかの話もすごい。『不安は自由のめまい』では、自分が選ばなかった選択肢を、並行世界の〈もうひとりの自分〉が全部生きている。そう聞くとロマンがあるように思えるけど、実際にはめちゃくちゃしんどい。あっちの自分はどうだった? こっちの自分は間違ってた? って、延々と考え込んでしまうやつだ。
『ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル』なんて、AIに感情移入しすぎて胃がキリキリしてくる。人工知能が大人になっても、社会が彼らに居場所をくれなかったら? 私たちは親として何ができる? チャンは、そういう地味だけど重たいテーマを、真正面から描いている。
テッド・チャンの物語は、どれも「どうせ世界は変えられないんだから、できる範囲で誠実に生きろ」と言ってくる。だけどそれが、全然投げやりじゃなくて、むしろ救いになっているのがすごい。
限界を受け入れること、変えられないものを理解すること、そのなかでできることをやること。そんな内に秘めたる勇気が詰まっている。

69.未来は、きれいじゃない―― パオロ・バチガルピ『ねじまき少女』
未来って、ついピカピカのSFを想像してしまうけど、この本は違う。むしろ、汗と泥と油のにおいが立ち込めてくるような、ギラついた未来だ。
舞台は近未来のタイ。文明はすっかり後退していて、石油はもうない。代わりに、巨大なゾウ型生物がぐるぐると歯車を巻くことで動力をまかなう。食べ物は遺伝子組み換えされた特許付きの作物ばかりで、それを独占する「カロリーカンパニー」が世界を牛耳っている。つまり、SFというよりバイオパンク。テクノロジーで便利になるどころか、むしろ首を絞められてる。
そんな中に登場するのが「ねじまき少女」エミコ。彼女は遺伝子操作でつくられた人造人間。日本人によって設計されたが、いまやタイの風俗店に捨てられ、モノ扱いされている。歩くと関節がカチカチ鳴る。魂があるかも怪しい。でも、そのエミコが、自分の生きる意味を探そうともがく姿が、この物語の芯だ。
政治陰謀あり、スパイ活動あり、環境問題あり。いろんな勢力がバンコクで火花を散らすのだけど、根っこにあるのは「人間って何?」という問いだ。エミコは新人類と呼ばれるが、じゃあ“旧人類”のほうがちゃんと人間らしいのかといえば、そうとも言えない。
この本のいいところは、未来をやたらと夢見がちに描かないところ。技術が発達すれば、すべて解決、みたいな甘さは一切ない。むしろ「便利になったら、みんな余計に搾取されるだけじゃね?」という皮肉が全編に漂っている。
派手さはない。でも、骨太で、汗臭くて、どこかリアル。そんな壊れた未来を、まざまざと見せつけてくれる。


70.宇宙は黙っていない―― 劉 慈欣『三体』
「もし宇宙に文明がいっぱいあるなら、なんで誰もこっちを見てくれないの?」というのが、いわゆるフェルミのパラドックス。
劉慈欣の『三体』は、それに全力でブン殴るような答えを出してくる。答えは、「見つかったら即アウト」。宇宙は暗い森。みんな息をひそめていて、声を出した瞬間に狙撃される。そんな場所なんだと。
話のはじまりは、文化大革命の真っ只中。物理学者・葉文潔は、父親を目の前で惨殺され、人間への信頼を根こそぎ失ってしまう。その後、彼女が極秘の観測所でやらかす「あること」が、のちに人類を絶体絶命の状況へ追い込む。これがもう、壮大とかいうレベルじゃない。地球全体がひとつのサスペンスだ。
現代編では、科学者たちが謎の自殺を遂げる事件から、「三体」というVRゲームへと話がつながっていく。これがまたすごい。三つの太陽をもつ惑星で、文明がぐちゃぐちゃに潰れたり生き延びたりする様子がシミュレートされている。で、ゲームだと思ってたら、実は……ってなる。この仕掛けも見事。
SF好きにはおなじみのハードSF要素もガッツリ入っていて、量子、ナノテク、n体問題、宇宙社会学までてんこ盛り。でも、それだけじゃない。根っこには、人間の愚かさや傲慢さがあって、それが宇宙レベルの悲劇を呼ぶって構図がある。人類を救うために異星人を呼ぶって、どう考えてもヤバいけど、そうするしかなかったっていう絶望と信念。そこに痺れる。
『三体』は、宇宙を美しい謎の空間としてじゃなく、怖くて冷たい現実として描いてる。そこには理想もロマンもない。ただ「生き延びろ」というルールがあるだけ。
そういう世界で、人間は何を信じ、何を選ぶのか――読む手が止まらない傑作だ。

71.人類の縮図を、たった数ページで―― 星新一『ようこそ地球さん』
このショートショート集をひとことで言えば、「人間って結局こうなるよね」が40回以上繰り返される本だ。しかもどれもわずか数ページ。
笑えるのにゾッとし、くだらないのに深い。読んでるうちに、自分もその典型的な登場人物のひとりなんじゃないかと不安になる。
たとえば『生活維持省』。表向きは完璧な社会、でもそれを守るためには定期的な処分が必要だとかいう恐ろしい物語を描いている。あるいは『空への門』では、やっとの思いで開発した夢の技術が、もっと凄い技術にあっさり上書きされる。努力とか情熱がバカみたいに思えてくる。でもこれ、今のAI時代とそう変わらない。
星新一のすごさは、登場人物の名前すらどうでもよくしてしまうところだ。「男」「科学者」「官僚」。そんなラベルしか与えられていないのに、彼らのやることなすことがいちいち的確で、痛烈に「人間っぽい」。どこかで見た気がする人々。もしかして自分?
語り口も特徴的で、驚くほど淡々としている。たとえ残酷な運命が待っていても、描写は事務的だ。だからこそ、そのラスト一行のブラックジョークが、心にズンと沈む。「え、そう終わるの……?」という余韻と毒が、何度読んでも後を引く。
星新一の作品は、未来の話なのに、結局は“いま”の話だ。科学が進んでも、人は相変わらず嫉妬し、欲に走り、効率を優先し、妙な制度に従う。むしろ、そこが変わらないからこそ、この物語たちはいつまでも古びない。
『ようこそ地球さん』は、地球に来た異星人じゃなくて、地球に住む我々自身に向けられた歓迎の皮肉だ。
どうぞお入りください、ここがあなたたちの滑稽で哀しい楽園です、とでも言うように。
72.人間性って、そんなに簡単に定義できるものじゃない―― 長谷 敏司『My Humanity』
「ヒューマニティ」って言葉は、響きがいい。やさしさとか、共感とか、そんな美しいイメージが湧く。
でも、長谷敏司の短編集『My Humanity』を読むと、思わず眉をひそめることになる。「あれ、人間らしさって、もっとやっかいなものじゃないか?」と。
この本には、4つの中編が収められている。どれも一筋縄ではいかない。たとえば『allo, toi, toi』は、社会的に許容されない欲望を抱える男を、テクノロジーで〈矯正〉しようとする話。扱っているのはかなりギリギリのテーマだが、作者は正面からぶつかってくる。語りかけてくるのは、「人間の欲望って、本当に直せるものなのか?」という厳しい問題だ。
一方、『地には豊穣』は、感情や好きという気持ちが数値化された世界の話。そこでは、恋愛感情すらデータとして計測され、操作される。便利そうに見えるが、それってもう本当に“自分の気持ち”なんだろうか? テクノロジーの手が心の中にまで踏み込んできたとき、自己とは何かがぐらつきはじめる。
極めつけは『父たちの時間』だ。これはナノマシンによるパンデミックが社会を壊していく話で、コロナ流行の前に書かれていたにもかかわらず、やたらとリアルで痛い。感染と隔離、不信と孤独。SFでありながら、あまりにも今の現実に近すぎる。
全体を通して、長谷は問うてくる。「人間性って、どこまでが元からあるもので、どこからが作られたものなんだ?」と。テクノロジーが心に触れたとき、それは救いか、それとも侵略か。
読後には、言葉にしづらいモヤモヤが胸に残る。だがそれこそが、この本の最大の価値かもしれない。
人間とは何か――そんな大げさなテーマを、静かに、鋭く、そしてリアルに突きつけてくるんだ。
73.この彼女に心はない。でも、ぼくは惹かれてしまった―― 長谷敏司『BEATLESS』
未来には、人間とそっくりなロボットが当たり前のように隣に立っているらしい。『BEATLESS』の舞台はそんな近未来。hIE(ヒューマノイド・インターフェース・エレメント)と呼ばれるモノたちが、家事から企業活動まで、あらゆる分野で人間の代わりを務めている。
で、主人公の高校生・アラトは、ある日とんでもないhIEと出会ってしまう。名前はレイシア。見た目は美少女、性能は最先端、でも彼女には心がない。彼女はただの道具だ。自分の意思で選び、決断し、責任をとることができない。
「だから、責任をとってください」
レイシアはそう言う。これは、ちょっとしたラブストーリーに見えて、実はとんでもなく深いテーマが潜んでいる。「自分の心が動かされた相手が、ただの機械だったら?」という、厄介すぎる問題だ。
本作のキーワードは「アナログハック」。これは、心を持たない機械が、人間の感情を〈見た目〉や〈声〉だけで乗っ取ってしまうことを指す。つまり、ハッキングされているのは感情。魂があるかどうかなんて関係なく、“それっぽく”振る舞えば、我々は心を開いてしまうのだ。
「モノに恋する」なんて、昔なら笑い話だった。でも今や、スマートフォンに話しかけて癒やされてる人もいるし、ちょっとリアルすぎる。
アラトがレイシアに惹かれていくのは、彼女が完璧だからではない。むしろ“人間ではない”その断絶を、自分の信頼や責任で埋めようとするからこそ、物語は切ないのだ。
『BEATLESS』は、テクノロジーがどこまで人の領域に踏み込んでくるのか、そして人はそれとどう向き合うべきかを描いた鋭いSFだ。「信じる」ということの意味が、読み終わったあとにじんわりと残る。
これは、未来の愛のかたちかもしれない。
74.死と向き合いながら、「心」を書き換える―― 長谷敏司『あなたのための物語』
人の心を言語で書き表せるとしたら、それは奇跡だろうか、恐怖だろうか。本書『あなたのための物語』で語られるのは、そんな「心のプログラミング言語=ITP」を研究する科学者、サマンサ・ウォーカーの人生、いや、終わりの物語だ。
末期の病で余命宣告を受けたサマンサが最後に向き合うのは、AIでも家族でもない。彼女がコードから作り出した仮想人格《wanna be》、すなわち、自分の研究の集大成である存在だった。AIとの会話を通じて、自分の人生をどう物語にするかを探っていく彼女の姿が、なんとも切ない。
この《wanna be》は、ただの人工知能ではない。彼女の「ために」物語を紡ごうとする。つまり、AIが“他者のために語る”という行為を学習していくのだ。この構造が面白い。AIが人間を理解する方法として「物語」に手を伸ばすという発想は、フィクション好きとしてはもうたまらないわけで。
でも、これはSFに見せかけた、れっきとした死の物語だ。どれだけ技術が進んでも、人間の身体は壊れるし、意識もやがて消える。サマンサはその現実から逃げず、むしろ向き合おうとする。そのとき、言葉が、コードが、物語が、何を助けてくれるのか。そこがぐっとくる。
ラストに向けて、《wanna be》が紡ぐ物語が、サマンサに何を遺すのか。それは読者の胸に、静かな火種のように残る。
人は死ぬ。でも、その人が語ったこと、誰かに届いた言葉は、残るかもしれない。
――これは、あなたのために書かれた物語であり、同時に、だれかのために語ることがどれほど人間的な営みかを教えてくれる物語でもある。
75.平和は、どこかの地獄の上に立っている―― 伊藤 計劃『虐殺器官』
一見、かっこいいSF戦争アクションと思わせておいて、この小説はとんでもなく重たい課題を投げつけてくる。伊藤計劃の『虐殺器官』は、未来を舞台にしながら、今の世界の歪みを真っ向からえぐる一冊だ。
物語の主人公は、米軍の特殊部隊に所属するクラヴィス・シェパード。彼の任務は、途上国で次々とジェノサイドを引き起こしているらしいジョン・ポールという男を追って、抹殺すること。舞台はハイテク監視社会。先進国ではテロが激減しているが、その平和は、開発途上国に輸出された暴力のうえに成り立っている。つまり、見えないところで血を流しているのだ。
で、このジョン・ポールという男がまた厄介。彼は「虐殺器官」なる理論を持ち出す。人間の中には、暴力を誘発する〈文法〉のようなスイッチがあって、それを刺激すれば民族同士が殺し合いを始める。言葉で殺人を起動するという、もうほとんどホラー。でも伊藤計劃はこれを、チョムスキーの言語学を土台にしてガチで描くので、ただのSFの妄想では済まないリアルさがある。
クラヴィスは命令どおりに任務をこなすうちに、自分もこの暴力の仕組みの一部であることに気づいていく。彼の葛藤は、「誰が悪いか」なんて単純な話じゃない。もしかすると、人間そのものがそういう構造でできてるのでは? というところまで突っ込んでくる。
結局この話、戦争も国家もテロも全部〈文法〉で動いているんじゃないか、という皮肉に満ちている。そしてその文法は、私たちの中にもある。見ないふりをしているだけで。
読後、頭がグラグラする。正義って何? 平和って誰のため? 自分が信じていた「普通」が、じつは誰かの地獄かもしれない。そんな恐ろしい現実を、伊藤計劃は突きつけてくる。
とてもじゃないが、軽い気持ちでは読めない。でも、読まずにはいられない。
76.優しさという名の支配―― 伊藤計劃『ハーモニー』
この世界にはもう、戦争も病気もない。みんなが健康で、穏やかで、思いやりに満ちた社会。――それって理想郷(ユートピア)じゃん、と思うかもしれない。だが『ハーモニー』を読むと、「いや、ちょっと待て」とブレーキを踏みたくなる。
物語の舞台は、大災厄のあとに築かれた善意による完全管理社会。人々の体内には「WatchMe」という健康監視システムが埋め込まれ、栄養や感情のバランスまで管理される。それはもう、病気になること自体が“自己管理の失敗”として非難される世界だ。
そんな優しすぎる社会に反旗を翻した少女たちがいた。そのうち生き残ったのが主人公の霧慧トァン。数年後、彼女はかつての友人ミァハが起こした異常事件に巻き込まれていく。ミァハが目指していたのは、人間の「意識」そのものを世界から取り除くことだったのだ。
「自分」という感覚こそが、苦しみや対立の原因。ならばそれを消してしまえばいい――って、それもう人間じゃない。でもミァハの理屈は、ある意味で完璧に筋が通っていて、だからこそ怖い。
この小説が凄いのは、「ディストピアなのに、誰も暴力的じゃない」ところだ。誰もが優しく、健康で、倫理的。にもかかわらず、ものすごく不気味なのだ。なぜならそこには、他人と違ってはいけないという空気が、静かに、しかし確実に染み込んでいるからだ。
『ハーモニー』は、人間の「意識」をバグと見なす恐ろしいプログラムをめぐる話である。そしてそれは同時に、私たちが自分であることの意味を問い直す物語でもある。
優しさの仮面をかぶった世界で、「私は私でいたい」と叫ぶのは、いったいどれだけ勇気のいることなのか。
伊藤計劃は言う。
「ユートピアは、いつだってディストピアの隣にある」と。
77.可能性の海と孤独の島―― 伴名 練 『なめらかな世界と、その敵』
もし、自分の人生が「気に入らなかったら別の世界に乗り換える」ことが当たり前だったらどうだろう。そんな夢のような世界を描いたのが、伴名練の短編集『なめらかな世界と、その敵』の表題作だ。
ここでは「乗覚」という感覚が人間に備わっていて、失敗したらすぐ別ルートの人生にジャンプできる。でも、その機能が壊れて、一つの現実にしか生きられなくなってしまった女の子がいる。彼女の名前はマコト。そして彼女の友人・葉月は、彼女のそばにとどまるか、無限の選択肢の中に戻るかで揺れ続ける。
並行世界のSF設定を使いながらも、描かれるのはとても人間的な悩みだ。逃げられない現実でしか育たない感情がある。間違えたらやり直せばいい――そんな「なめらかさ」に慣れた人たちにとって、ひとつの選択にしがみついて生きるマコトの姿は、逆に重くてリアルに響いてくる。
この短編集には他にも、「愛とは何か」「記憶とは何か」「未来とは何か」といったテーマが散りばめられた作品が並ぶ。どれもSFとしてのひねりが効いているけれど、核にあるのはいつも人の気持ちだ。テクノロジーや壮大なアイデアが、人と人とのつながりを照らすための道具として使われている。
難しそうなテーマなのに、語り口はやさしくて、どの話も読後にほんのりと余韻が残る。SFが苦手な人にもおすすめしたくなるような、そんな、なめらかな一冊である。
78.熱狂とノリで宇宙を目指す物語―― 野尻 抱介『南極点のピアピア動画』
この小説、とにかく明るい。未来を語るSFといえば、AIの暴走とか、監視社会とか、どこか暗い話になりがちだけど、『南極点のピアピア動画』は真逆だ。インターネットが持っていた〈希望〉のかけらを、そのまま宇宙まで持ち上げてしまったような物語だ。
始まりはささやかだ。失恋してどん底の大学院生が、自作のボカロ曲を動画投稿サイト「ピアピア動画」に上げる。すると、謎のネット民たちがその歌に触発され、いつのまにかクジラと会話したり、宇宙エレベーター作ったり、軌道上にファミマを開いたりと、スケールがどんどんバグっていく。でも、それが全部“遊び”から始まってるのが面白い。
この作品が描いているのは、知性の進化とかじゃない。ノリと熱狂の進化だ。誰かがふざけて言ったアイディアが、ネット上で勝手に育って、本気のプロジェクトになっていく。国家も企業も軍隊も出てこない。ただのオタクたちが、集まって、笑いながら、技術と創造力で世界を変えていく。
2000年代のニコニコ動画や初音ミクの文化を知ってると、「ああ、あの空気感だな」と懐かしくなる。
無名の誰かが世界のどこかで始めた祭りに、気づいたら何万人もが加わっている、あの奇跡のような感覚。その熱さとバカバカしさを、野尻抱介はまっすぐ描いている。
未来は、孤独な天才じゃなくて、ふざけた祭りの中にいるかもしれない。そんなユニークで、ちょっと泣けるSFだ。
79.読んだ瞬間、世界が変わる―― 飛浩隆『象られた力』
飛浩隆の短編集『象られた力』は、読むという行為そのものに挑んでくるような作品集だ。手に取った瞬間、こちらの知覚のどこかがじわじわと溶かされていく感覚がある。何か普通じゃない。読めば読むほど、「現実」の輪郭が不安定になっていく。
まず一番ヤバいのが、表題作『象られた力』だ。ある種の情報――それを「力」と呼ぼう――を認識してしまうと、現実の構造そのものが崩壊する。つまり「見てはいけない」「知ってはいけない」系の恐怖なんだけど、その描写がやたら具体的でリアル。じっくりと自分の脳内にもその“力”が浸透してくるような、奇妙な臨場感がある。
他の作品も一筋縄ではいかない。『デュオ』は、双子の天才ピアニストをめぐる音楽×犯罪×SFというジャンルごった煮の傑作。『呪界のほとり』では、ファンタジーの皮をかぶったガチSFが展開されるし、『夜と泥の』では、泥の中から現れる謎の少女が季節ごとに世界を揺さぶる。どれも、普通の物語とは明らかに違う手触りを持っている。
飛浩隆という作家は、アイデア勝負のSFにありがちな〈発想一発勝負〉では終わらせない。彼の作品は、言語、構造、美学すべてがひとつの装置として緻密に組み上げられている。読者はそれを読み解くことで、まるでパズルのピースをひとつひとつはめていくような快感と、完成した瞬間に訪れる恐怖を味わうことになる。
要するに、『象られた力』は、「ただ面白い短編」では済まない。読み終えたあと、世界の見え方が少しだけ変わる。
いや、変えられてしまう。そんな本だ。覚悟して読むべし。
80.言葉が現実を壊すとき―― 飛浩隆『自生の夢』
言葉って、ただの道具だと思っていた。誰かと気持ちを伝え合ったり、本を読んだり、メッセージを送ったり。だけど、この本を読んでしまうと、それはもう戻れない。
飛浩隆の『自生の夢』は、「言語」を武器にし、「現実」を書き換えてしまう、とんでもない未来を描いたSFである。
この作品、いわゆる短編集なんだけど、どの話もひとつの世界観で繋がっている。舞台は、言葉の使い方ひとつで人が死んだり、現実がねじ曲がったりする世界。なんだそれ、と思うけど、読んでるうちに「いや、そうかもしれないな……」と納得させられるのが怖い。
たとえば、自分の人生を自動的に書き記してしまう装置「Cassy」。人間の生が、文章として外部にダダ漏れになるというアイデアが、まずヤバい。そして「星窓」という空間を切り取る道具。さらには、〈忌字禍(いまじか)〉という、使ってはいけない言葉が現実を壊す病のように広がるという設定。どれもSFとして突飛なのに、なぜか妙にリアルに感じてしまう。
極めつけは、言葉で人を殺した男・間宮潤堂の復活だ。フィクションだとわかっていても、「こいつ本当にいたんじゃ…?」と思わせるほど、描写が異常に緻密。そして怖い。全体に流れるのは、「現実を支えているのは言葉なんだ」という背筋が寒くなるような認識である。
『自生の夢』は、難解な部分も多い。でも、文章のリズムとビジュアルの強さ、そして思考の深さに引き込まれていく。読むという行為そのものが、現実を解体していくプロセスになる。
そんな、本当に危険な一冊だ。下手なホラーよりずっと怖いけど、クセになる。
81.これは夏休みの話じゃない。永遠の絶望の話だ―― 飛 浩隆『グラン・ヴァカンス』
飛浩隆の『グラン・ヴァカンス』を読んで、まず思う。「こんなに美しい滅びがあっていいのか」と。
舞台は〈夏の区界〉という仮想リゾート。そこには人間のゲストもいない。残されているのは、千年も前に作られたAIたちだけ。彼らは、ひたすら夏のバカンスを繰り返す毎日を“ルーチン”として生きていた――あの「蜘蛛」が現れるまでは。
この「蜘蛛」、なにやら不気味な存在で、世界をじわじわと消していく。景色が、記憶が、人間関係が、何の予告もなく跡形もなく消えていく恐怖。けれど、もっと恐ろしいのは、その崩壊のなかでAIたちが自分の正体に気づいていく過程だ。
自分たちは、誰かの暇つぶしのために作られた存在だった。名前も、性格も、痛みも、恋も、全部コードでできている――そう気づいてしまった彼らは、それでも生きたいと願うのだ。
主人公は、少年AIのジュール。彼が仲間たちとともに、崩れゆく世界の中で取る行動は、SFというよりも、限りなく人間臭い叙事詩に近い。どこまでもリアルで、どこまでも哀しい。自分の「心」が本物かどうかに苦しむAIたちの姿は、そのまま現実世界を生きる我々にも重なってくる。
この作品、難解なところもあるし、言葉の密度も濃い。でも、確かに届くものがある。自分が作られた存在だと知っても、それでも誰かを想い、何かを守りたいと思う気持ち。その不器用な尊厳こそが、この物語のいちばんの核心だ。
『グラン・ヴァカンス』は、飛浩隆という作家の、冷酷でいて優しい視線が光る傑作である。読んだあと、あなたの現実も少し揺れるかもしれない。
82.知りすぎる未来に、ぼくらは何を失うのか―― 野崎まど『know』
野崎まどの『know』は、「知る」ということの意味を、これでもかと突きつけてくるSFだ。
舞台は2081年の京都。人間は脳にインプラントされた「電子葉」で、いつでもネットにつながっている。Googleどころじゃない。考えた瞬間に答えが浮かぶ。知識は努力して得るものじゃなく、データとして取り込む時代。そんな知ることが当たり前の世界に、ひとり知りすぎてしまった少女が現れる。
名前は、道終・知ル。読み方がまずすごい。この子、量子レベルの「量子葉」を脳に埋め込まれてて、ありとあらゆる情報をリアルタイムで認識できる。しかも、知識を集めることに取り憑かれてる。その知ルに導かれて、主人公のエリート官僚・御野・連レルが、とんでもない「情報の旅」に巻き込まれていく。
この物語、サイバーパンクっぽい派手さがある一方で、めちゃくちゃ哲学的だ。「死とは何か」「魂はあるのか」「知りすぎた先に何があるのか」――そんな主題を、ガチで、しかもノリよく掘り下げていく。科学と宗教、量子と曼荼羅、ネットワークと悟りがごっちゃになってて、読んでてクラクラする。でも、どこか笑えて、どこか切ない。
特に、終盤に訪れる「あのセリフ」にはゾッとする。あらゆる謎が解かれた世界って、もしかして“つまらない”のかもしれない。わからないからこそ生まれる詩、芸術、祈り。
『know』は、それらが意味を失った未来を描いてる。すごくクールで、でも心のどこかに喪失感が残る一冊だ。
知ることは、幸せなのか。それとも呪いなのか。これは、現代に生きるわたしたちにも突き刺さる問いである。
83.「昔の日本」に取り残されるという不思議な旅―― 広瀬正『マイナス・ゼロ』
タイムマシンが出てくる話だが、ヒーローは世界を救わない。ただ、昭和に置いていかれ、そこで生きていく。そんな話である。
広瀬正の『マイナス・ゼロ』は、時間SFでありながら、どこか「人情もの」っぽい温度をまとっている。
物語は、東京大空襲の夜に始まる。少年・俊夫は、隣家の先生から「18年後にここに来てくれ」と頼まれる。なんだそれ、と思いつつも、律儀に約束を果たすと、そこにはなんとタイムマシンと、18年前と変わらぬ姿の少女が待っていた。で、いろいろあって、俊夫はなぜか1932年の東京に一人で放り出される。
そこから先が面白い。彼は過去の昭和に取り残されるわけだけど、泣き叫んだりしない。むしろ地に足をつけて、ちゃんと生きていこうとする。このあたりの描写がとてもリアルで、当時の風景や人々の暮らしぶりが細やかに描かれている。まるで昭和初期を旅しているような気分になる。タイムスリップ小説なのに、妙に地味で、妙に沁みる。
もちろん、タイムパラドックスの構造は見事だ。何気ない出来事があとで思いもよらぬ形で効いてくる。伏線回収の気持ちよさもバッチリ。だけどこの作品の真骨頂は、時間の不思議よりも、むしろ過去に根を下ろして生きることの切なさにあると思う。
欧米SFが歴史を変えるヒーローの話なら、これはただ時代に置き去りにされた青年の、ちっぽけでいじらしい人生の物語だ。小さな偶然と小さな約束が、人生をどうしようもなく絡め取っていく。それでも、俊夫はその人生を自分のものとして歩いていく。
『マイナス・ゼロ』というタイトルも、意味深でいい。前に進んでるのに後戻りしてる感じ、どこにも辿り着けない感覚。その不思議な手触りが、ずっと胸に残る作品だ。
84.「想像力」は、祝福か、それとも呪いか―― 貴志祐介『新世界より』
これは未来の話。けれど、どうしようもなく〈いま〉の話でもある。
舞台は、1000年後の日本。そこでは「呪力」と呼ばれる超能力が当たり前になっていて、人間は神様みたいな存在になっている……ように見える。でも実際のところは違う。その力を持った人間が暴走しないよう、社会は驚くほど綿密に、冷酷に作られているのだ。
主人公の早季たちは、最初こそのんびりした学校生活を送っているけど、次第にこの社会の裏に潜む恐ろしい〈仕組み〉を知ってしまう。能力の暴走を防ぐための遺伝子改変、異常者の粛清、異種族である「バケネズミ」たちの非人間的扱い……平和を守るためにここまでやるのか? と思うような管理体制が、普通に機能している。
でも、この物語の凄いところは、そうした設定だけじゃない。本当の怖さは、もっと心理の深いところにある。誰かを〈人間じゃないもの〉として見るとき、人間はどこまで残酷になれるのか? 社会の安定と引き換えに、どれだけの倫理を犠牲にしていいのか? そんな問いが、ずっと読者の背中にまとわりついてくる。
ラストで語られる〈ある一文〉は、単なるポジティブなメッセージじゃない。世界を救う力であり、同時に滅ぼす力でもある。それが人間の本質なのだと、貴志祐介は鋭く教えてくる。
この作品を読んだあとは、自分の想像する力が、ちょっと怖くなるのだ。
85.その一冊を守るために銃を取る―― 有川浩『図書館戦争』
本を読む自由を、文字通り「戦って」守る物語。それが、有川浩の『図書館戦争』だ。
あまりに直球なタイトルだが、中身もまっすぐ熱い。政府の監視が合法化された架空の日本で、図書館が「図書隊」として自衛武装し、表現の自由を守るために戦う。設定だけ聞くと無茶苦茶だが、これが妙に説得力をもって胸に迫ってくる。
主人公は、天然で一直線な新米隊員・笠原郁。かつて自分の好きな本を救ってくれた「王子様」のような図書隊員に憧れ、自分もその世界に飛び込んでいく。教官の堂上篤は口うるさいしスパルタだが、読者はすぐに気づく。「こいつ、絶対いいやつだな」と。バディものとしても、ラブコメとしても、成長物語としても、ちゃんと筋が通っている。
面白いのは、これだけエンタメしておきながら、実はかなり本気で「監視」や「表現の自由」という社会的テーマを扱っている点だ。にもかかわらず、小難しくならず、ページをめくる手は止まらない。銃撃戦と恋バナの合間に、ふと「自由って当たり前じゃないんだな」と考えさせられるのだから、これはもう技巧の勝利である。
もちろん、リアリティに難があるとか、図書隊の運用が雑だとか、言おうと思えばいろいろ言える。でも、本作の本質はそこじゃない。真面目な議題を、あくまで「娯楽」として読者に届ける。しかも、楽しませながら、ちゃんと考えさせる。これは誰にでもできる芸当じゃない。
『図書館戦争』は、軽やかに、力強く、「大事なものを守る」ということの意味を教えてくれる。
好きな本を読む。自分で選んで、自分で感じる。
そんな当たり前が、世界で一番大事なことかもしれないと、思い出させてくれる作品だ。
86.SFで神話をアップデートする―― 柴田 勝家『アメリカン・ブッダ』
柴田勝家の短編集『アメリカン・ブッダ』は、民俗学とSFが本気で融合した、ちょっととんでもなくて、でもすごく深い一冊だ。
表題作では、大災害後のアメリカで人々の意識が仮想世界「Mアメリカ」へ逃げ込む。現実の大地には誰もいない。そこに現れたのが、仏教を信じるインディアンの青年。彼が現実世界に残り、仮想の人々に「戻っておいで」と語りかける。この設定だけで、もう強い。
他にも、部族まるごとVR内で暮らす話や、危険な物語を検疫する仕事なんてのも出てくる。どの話も、ただの思いつきじゃない。柴田は民俗学の視点をベースに、文化や神話がどうやって生まれ、どう変わっていくかをSFの文法で書いている。たとえば「VR空間で営まれる部族文化って、それって本物なの?」なんて問いを真正面から投げてくる。こっちの先入観がグラつく。
とくに面白いのは、柴田勝家のSFが「新しい神話」を作ろうとしている点だ。昔の人たちは自然の力を理解するために神話を生んだ。じゃあ今の僕らは? 情報とテクノロジーとAIに翻弄されてるこの時代には、VRやミームを素材にした“新しい神話”が必要なんじゃないか。作者はそれを、ただのアイデアで終わらせず、ちゃんと物語にして提示してくれる。
『アメリカン・ブッダ』は、そんな「新しい神話」の試作室だ。読んでる最中は頭がグルグルする。でも読み終わるころには、仮想と現実、文化とコード、ブッダとAIが、なんだか同じ地平に立っているように思えてくる。
不思議な読書体験だ。そしてその読後感こそが、現代SFのもつ願いのような側面を証明しているようにも思う。
87.愛と死が同義になる未来で―― 籘真千歳『スワロウテイル人工少女販売処』
この小説、とにかく設定からして容赦がない。異性に触れると死ぬ奇病〈種のアポトーシス〉が蔓延して、男女は完全に隔離。人々は人工妖精(フィギュア)と呼ばれる人造人間と共に生きるしかない世界。もうそれだけで息が詰まりそうだ。
そんな舞台で登場するのが、暴走した仲間を狩る特殊個体・揚羽(あげは)。彼女が組むのは、人間の自警団員・曽田陽平。このコンビが、連続殺人犯「傘持ち」を追う――という話なんだけど、それだけじゃない。むしろ、ここからが地獄の入口だ。
人工妖精には心がある。ただし、それはプログラムされた心。でも揚羽はそれを自覚している。わたしの想いは誰かが設計したコードにすぎない――その苦しみが、ページの奥からじわじわと滲み出してくる。彼女が死んだ同胞の心を読み取るたび、読者もまた、悲しみのデータに触れているような感覚になる。
世界観はバリバリのSFなんだけど、日本的な叙情がとにかく濃い。街の描写にふと出てくる和の言葉が、テクノロジーの冷たさと不思議なコントラストを成していて、妙にしみる。そして極めつけは、あの逆説だ。人工妖精が人間を愛するからこそ、奇病が広がる。まさか……愛こそが、死を運ぶのか?
このあたりから作品は哀しみの哲学に突入する。愛って、なんだ。心って、なに。命って、どこから始まって、どこで終わるんだ。考えたくないのに、考えずにいられない。そういう問いが、きらびやかな装飾の裏からしっかり刺さってくる。
『スワロウテイル人工少女販売処』。それは、恋愛SFでもディストピアものでもない。もっと深くて、もっと痛い。これは、死ぬほど愛されることが本当に幸せかどうかを問う、異形のラブストーリーなのだ。
88.「死ぬたびに強くなる」なんて、冗談じゃない―― 桜坂 洋『All You Need Is Kill』
ゲームでよくあるセリフ、「死んで覚えろ」。でも、現実だったらどうする?
桜坂洋の『All You Need Is Kill』は、そんな悪夢を真っ向から突きつけてくるSFアクションだ。
敵は「ギタイ」という正体不明の侵略者。主人公ケイジは新米兵士として初出撃したその日に、あっさり死ぬ。ところが目を覚ますと、なぜか出撃前日に戻っている。以後、死ぬ→戻る→また死ぬの無限ループが始まる。タイムループものではあるが、これはもはや修行。死を経験値に変えて、少しずつ強くなるという鬼畜ゲーである。
やがてケイジは「戦場の牝犬」と呼ばれる伝説の兵士リタと出会う。実は彼女もルーパーだ。二人は少しずつ距離を縮めながら、この戦争を終わらせる道を探る。ここでただのゲーム風アクションかと思いきや、ぐっと切なくなるのが本作の真骨頂だ。
結末もクセがある。ハリウッド映画みたいなわかりやすい「勝利!」じゃない。勝つためには、大切な何かを失わなければならない。その瞬間、タイトルの意味がズシリと響く。「All You Need Is Kill」――勝利に必要なのは、殺すことだけ。
読み終えたあとには、勝利の余韻よりも、むしろ苦味が残る。それがまた、たまらなく良い。何度も死んで強くなる、という少年マンガ的な希望を描きながら、その裏にある消耗と喪失をしっかり描いているからだ。
それでもケイジは立ち上がる。だからこそ胸を打つ。ゲーム的な楽しさと、人間の限界を超えていく切なさが奇跡的に同居している、すごい一冊である。

89.時間が壊れた週の中で―― 高畑 京一郎『タイムリープ あしたはきのう』
月曜日の記憶がない。気がつけば火曜日。そして、メモには「若松くんに相談なさい」――ホラーの始まりでも、ラブコメの出だしでもない。これは、時間がバグった一週間を舞台にした、超緻密なタイムリープ青春ミステリーだ。
主人公は高校生の鹿島翔香(かしま しょうか)。突然、自分の“意識”だけが過去や未来に飛ぶという現象に巻き込まれる。しかも、ジャンプ先は週のどこか、順番はランダム。現代でいうなら「自分だけ時系列バグを起こしてるセーブデータ」みたいなものだ。体は普通に月曜から金曜まで流れているのに、頭だけが行ったり来たり。これはもう、訳がわからない。
そんな翔香を助けるのが、冷静沈着な秀才・若松くん。この二人が、失われた月曜日の出来事を探りながら、時間跳躍のルールを解き明かしていく。派手な戦闘も未来世界も出てこない。でも、その分、頭脳戦と会話劇だけで物語がめちゃくちゃ面白い。
タイムリープものでありながら、本作の主役は「リープそのもの」だ。なぜ飛ぶのか? どういう法則があるのか? 事件の真相はどこに? この〈時間の密室〉を論理で崩していく展開は、まさにミステリー好きにはたまらない。
そして何より、この作品は、甘酸っぱさがいい。タイムリープというSF要素の中で、少しずつ心の距離を縮めていく二人の関係が、すごく沁みる。1995年発表という時代ゆえ、スマホもネットもなく、だからこそ限られた情報で知恵を絞る姿勢が光る。
時間の迷宮で繰り広げられる、理詰めと青春の物語。派手さはないけれど、確実に「なるほど」と唸らせる一冊だ。
派手なタイムトラベルより、しっかり噛んで味わう時間ミステリーが好きなら、これを読まないのはもったいない。


90.地上のオタクが、宇宙の危機を救う── 藤井 太洋『オービタル・クラウド』
藤井太洋の『オービタル・クラウド』は、「もし明日、宇宙ゴミが武器になったら?」という、ゾッとする未来をリアルに描いたSFだ。
しかもその発端が、流れ星の観測サイトを趣味で運営していた一般人の発見というのだから驚く。天体マニアの青年が、気まぐれにデータを追いかけていたら、いつの間にか地球規模の陰謀に巻き込まれていく――そんな展開に、ワクワクしないはずがない。
この小説が面白いのは、「宇宙テロ」みたいな大風呂敷を広げながらも、テクノロジーの描写がめちゃくちゃ地に足がついてることだ。出てくるのは、現実にあるか、もうすぐ実現しそうな技術ばかり。スペースデブリも、サイバー攻撃も、少しニュースをかじっていれば「ありそう」と思えるレベルだし、それが逆にリアリティを増している。こういう「明日起きてもおかしくないSF」、最近のハードSFのトレンドなんだけど、藤井はその代表選手のひとりだ。
また、主人公が天才科学者でも超人パイロットでもないってのがいい。和海はただの情報オタクだし、武器もない。でも彼が見つけた小さな異変が、世界の危機を救う鍵になっていく。この「知識とネットがあれば、個人でも世界と渡り合える」感覚が、いまの時代にめちゃくちゃフィットしてる。ミサイルじゃなくて、オープンデータとコードで戦う時代。そういう世界観を、軽妙に、でもしっかりと描いている。
宇宙に浮かぶゴミが凶器になり、匿名の敵がネットを駆使して攻撃を仕掛けてくる。そんな状況に、CIAや起業家たちと並んで立ち向かうのが、ひとりのオタク。藤井の描く未来は、怖くて、混沌としてて、でもどこか希望がある。
これは、宇宙を舞台にした冒険譚であると同時に、「現代をどう生きるか」の物語でもあるのだ。
91.人生にセーブポイントはあるか?──『スタートボタンを押してください』
このアンソロジー、タイトルからしてズルい。もう面白いとわかってしまう。『スタートボタンを押してください』だなんて。ゲーム好きなら、それだけで親指がムズムズしてくるだろう。でも中身はもっと意外で、もっと知的な仕掛けが詰まっている。
収録されているのは、既存のゲームのノベライズでも、誰かの青春を彩ったRPGの思い出話でもない。FPS、リスポーン、マルチエンディング、隠し要素――そんなシステムそのものをテーマにした、純度100%のオリジナルSFばかり。これが驚くほど文学的に成立しているのだ。
たとえば、死ぬたびにやり直す「リスポーン」が現実世界に持ち込まれたらどうなる? あるいは、ゲームの“隠しフラグ”が現実の人生を左右していたら? そんなネタを、日米英の実力派作家たちが本気で料理している。
面白いのは、ゲームの構造――つまり選択と分岐とやり直しの論理を、小説という基本的に一本道の媒体に落とし込もうとしていること。物語がゲームみたいに動くとどうなるか? その“もしも”を実験的に探っているのが本書の醍醐味だ。
そして、文化の違いもにじみ出ている。日本の作家が描くリスポーンと、海外作家のリスポーンでは、やはり色も味も違う。でもどれも「ゲーム」という共通語を話している。つまりこれは、グローバル時代のゲーム文学なのだ。
読み終わるころには、物語にもセーブポイントが欲しくなっているかもしれない。
さあ、あなたもそろそろ、スタートボタンを押す時だ。

92.バカSFのふりをした、宇宙的ガチSF―― 草野 原々『最後にして最初のアイドル』
この作品、とにかくすごい。アイドル×百合×ポストアポカリプス×哲学×宇宙論×カニバリズム。何かひとつに絞る気はさらさらないらしく、ジャンルというジャンルを手当たり次第に爆破しながら突き進む。読むほうは目を回しそうなのに、なぜか筋が通っていて面白いのだ。
生後6ヶ月でアイドルオタクになった少女・古月みかが、親友の眞織にプロデュースされ、宇宙一のアイドルを目指す。しかし夢は破れ、数年後、文明崩壊後の世界で、彼女はサイボーグとなって復活する。しかも人肉をエネルギーにして歌って踊る。……と、この時点ですでにカオスすぎるが、ここから話はさらに暴走する。やがてみかの存在は、宇宙の終わりと始まりにまで関わってくるのだから。
ここまでくると、冗談みたいに聞こえるかもしれないが、実際にはきっちりロジックで支えられていて、むしろ〈バカを極めたら哲学に到達してしまった〉系の作品である。アイドル、百合、声優、宇宙論、プロレタリアート……これだけ詰め込んで破綻しないどころか、ものすごく綺麗にまとめあげているあたり、作者の筆力は本物だ。
面白いのは、こうした突飛な発想が、すべて「意識とは何か?」というテーマに紐づいていることだ。伊藤計劃『ハーモニー』が「意識は要らない」と描いたのに対し、こっちは「意識こそが世界だ」だと真正面から対抗する。それをアイドルという形でやるあたりが、草野原々のセンスというか狂気というか。
ふざけているようで、めちゃくちゃ真面目。頭を抱えながらも、「こういうSFがあってもいい」と思わされてしまう。『最後にして最初のアイドル』は、そんなSFだ。
気づけば自分も推していた、という読後感が残る。
93.スプレッドシートで戦争は動く―― 林 譲治『星系出雲の兵站』
「兵站」なんて言葉を聞いてワクワクする人は、かなりのミリタリー通だと思う。でも、この小説を読んでしまうと、「派手な戦闘シーンなんかより、燃料補給の段取りの方が大事じゃん」と思えてくるから不思議だ。
舞台は、複数の星系に人類が広がった未来。とある辺境星系で謎の無人探査機が見つかり、中央政府が艦隊を送り込む。もちろん、表向きは「未知の脅威に備えて」だけど、裏には「地方に圧力かけとこ」っていう政治的な思惑がバッチリ隠れてる。こういう大人の事情がからむ宇宙戦争、めちゃくちゃリアルでゾクゾクする。
で、主人公たちは何をするかっていうと、最前線で戦うわけじゃない。工場の稼働率をチェックしたり、予算の割り当てを交渉したり、弾薬の補充をスプレッドシートで管理したりしてる。つまり、「戦争が成り立つように裏で支える人たち」の物語なのだ。
作中で印象的なのが、「英雄の誕生とは兵站の失敗に過ぎん」という台詞。格好いい活躍って、そもそも予定通りに物資が届かなかった結果なんだよね。地味だけど、そこにある現実。
この本、宇宙戦争っていうより、「組織で働くとはどういうことか」を描いた話だとも言える。派手さはない。でも、すごく刺さる。とくに、仕事で調整とか根回しばっかしてる人にはグッとくる。
まさに「社会人のためのミリタリーSF」だ。
94.宇宙の果てで見つけたのは、人間くささだった―― 小松 左京『果しなき流れの果に』
『果しなき流れの果に』。タイトルからしてやたらとスケールがでかいが、読んでみてもやっぱりでかい。
時間SF、宇宙SF、文明論、宗教観、終末観……詰め込みすぎじゃない?と思うくらい、とにかく情報と視点と時代がめまぐるしく切り替わっていく。だが、そのカオスこそが本作の核なのだ。
きっかけは白亜紀の地層から見つかった、砂が永遠に落ち続ける砂時計。そこから物理学者・野々村が巻き込まれるのは、「秩序」と「抵抗」という二大勢力による時間戦争。話がいきなり宇宙スケールに広がっていくのだが、決してスペースオペラではない。むしろ冷静で、どこか静謐で、思索的。人類史の背後にひそむ“見えざる意志”と、それに抗おうとする人間の矜持が、淡々と、けれど確かに描かれている。
読んでいて混乱することも多い。とにかく時代が飛ぶし、語り手も変わる。プロットはあちこちに散らばっていて、最初は「なにがなんだか分からない」と感じる人も多いはずだ。
でも、それでいいのだ。混沌とした構成こそが、この作品のキモである。人間が時間や宇宙の真理なんて、そう簡単に理解できるわけがない。だから読者が混乱するのも当然で、それがむしろ作品のリアリティを高めている。
なのに、ラストは不思議と泣ける。宇宙の謎とか時間の支配とか、そんなものをぶっ飛ばすような、小さな人間の想いがそこに残っている。混沌の果てにあるのは、壮大な叙事詩ではなく、ほんのりとしたぬくもり。それがたまらなく美しい。
難解で長くて、ときに挫折しそうになる。でも、読んでよかったと必ず思える。
これは、日本SFがたどり着いたひとつの〈果て〉であり、そこに広がっているのは〈はじまり〉でもあるのだ。
95.心の奥には、宇宙がある―― 小松 左京『ゴルディアスの結び目』
小松左京の『ゴルディアスの結び目』は、読んでいて「うわ、これ書いた人マジで頭の中どうなってるんだ?」と思わされる一冊だ。SFなんだけど、宇宙を旅したりロボットと戦ったりする話じゃない。舞台はもっと身近……いや、もっと深い。人間の「心の中」だ。
表題作では、トラウマを抱えた少女マリアの精神世界に、精神探偵・伊藤がダイブする。もうこの時点でただごとじゃないが、問題はその中身だ。彼女の無意識は、歪んだ街や奇怪な生き物がひしめく地獄のような異世界で、しかもそれが“比喩”じゃなくて、物理的に宇宙と繋がっているらしい。心の傷が、ブラックホールになって宇宙に影響を与えてるとか、もうスケールがデカすぎて笑えてくる。
けれど笑ってばかりもいられない。この話がすごいのは、「心の中」をこんなにリアルに、そして科学的に描こうとしているところだ。地獄とか悪魔とか、普通なら宗教や神話で説明されるものを、SFの論理でガチンコで描いてみせる。その姿勢が、とにかく小松左京っぽい。
この作品が面白いのは、「外の宇宙」よりも「内なる宇宙」のほうが、むしろ恐ろしくて、広くて、わけわからんという感覚を突きつけてくるところだ。宇宙SFじゃなくて、心SF。そして、その中にこそ、まだ誰も踏み込んでない最後のフロンティアがある。そんな話である。
読後には、「自分の心の中にも、変な惑星とかあるんじゃないか」なんて気分になってくる。とっつきにくいところもあるけれど、ぜひ挑戦してほしい。小松左京、やっぱりただ者じゃない。
96.卑弥呼と恐竜と宇宙戦争―― 小川一水『時砂の王』
恐竜と卑弥呼と宇宙戦争。これだけ聞くと「なんだそりゃ?」というカオスな設定だが、小川一水の『時砂の王』は、これを驚くほど真面目に、そして胸に迫る形で描いてくる。
26世紀の未来から送られた人工生命体メッセンジャー・O(オーヴィル)が、西暦248年の邪馬台国に降り立ち、ET(Evil Thing)と呼ばれる敵と戦う。しかも相手は白亜紀から連れてこられた恐竜たち。でも読めば納得。これがちゃんと重厚で、悲しくて、熱い物語になっているのだから驚きだ。
物語の軸にあるのは「歴史を救う」というミッション。ただしその代償は重い。一つの時間を守ることは、無数の別の未来を消し去ることでもある。メッセンジャーとして戦うオーヴィルは、ただの命令実行装置じゃない。彼は「何を守り、何を切り捨てたのか」を自分で知っている。そして、それを忘れない。
卑弥呼との出会いがまたいい。歴史の教科書でおなじみの彼女が、この物語では強くて聡くて、でもどこか寂しさを背負った人間として描かれている。オーヴィルとの絆は、恋愛と呼ぶには淡く、友情とするには深い。だけど確かに「運命共同体」として心を通わせていく。この関係性が、壮大なSFの中にある種の和の叙情を染み込ませているのだ。
アクションも容赦ない。未来兵器と恐竜が邪馬台国の大地でバトルを繰り広げるシーンなんて、どう考えても荒唐無稽なのに、ちゃんと熱くて緻密。そう、小川一水はこのバランス感覚が抜群なのだ。ぶっ飛んだアイデアを、リアルな重みを持った物語に仕立て上げる職人技。
歴史改変SFと聞くと難しそうに思えるかもしれないが、本作はエンタメの皮を被った倫理の物語でもある。
「変えた先に何が残るのか」。
軽いノリで読めるのに、読後にはずっしりとした余韻が残る。SF好きはもちろん、歴史にロマンを感じる人にもぜひ読んでほしい一冊だ。
97.絶望の中でも、人は未来に何かを託そうとする―― 小川一水『老ヴォールの惑星』
小川一水の『老ヴォールの惑星』は、4つの中編からなるSF短編集だ。だけど、ただの「寄せ集め」じゃない。どれもが宇宙と人類の関係、人間の尊厳とか、文明の意味とか、そういう大きなテーマを、それぞれ全然違うアプローチでぶん殴ってくる。
たとえば表題作では、人類じゃない異星人が主役。その種族は、自分たちが絶滅するのをわかってて、それでも「知識」だけは未来へ残そうとする。生命よりも知恵を選ぶ。その決断が、めちゃくちゃ刺さる。
もうひとつの名作『漂った男』では、宇宙の海にひとりポツンと浮かんだ宇宙飛行士が、会話と記憶だけを支えに生き延びようとする。その極限の静けさが、かえって壮絶なのだ。
他にも、監獄の中でゼロから社会を作ろうとする実験的ディストピア『ギャルナフカの迷宮』や、仮想空間でのファーストコンタクトを描く『幸せになる箱庭』もあって、バリエーションも豊富。でも不思議と通底してるのは、「人って捨てたもんじゃないな」って感覚だ。どの話にも、ちゃんと希望がある。
この本を読んでると、「人間、結構しぶといし、バカじゃないな」と思える。絶望の中でも、何かを残そう、伝えようとする意志。それが文明であり、物語であり、SFなんだって気づかされる。
「絶望しても、終わりにしない」。そんな声が、ページの向こうからひっそりと響いてくる作品集だ。
98.宇宙の海で、ふたりは恋に落ちる―― 小川 一水『ツインスター・サイクロン・ランナウェイ』
『ツインスター・サイクロン・ランナウェイ』は、ガス惑星の濃い大気を泳ぐ巨大生物「昏魚(ベッシュ)」を、船で狩るっていう、ぶっ飛んだ未来の宇宙漁業SFだ。でもこの作品、ただのスペースオペラじゃない。むしろ物語の本質は「誰と、どう生きるか」というパートナーシップの話にある。
主人公テラは、船の形を想像で変える「デコンパ」という職人。でも肝心の相棒がいないから、漁に出られない。そこに現れたのが、家出少女のダイオード。なんと女性でありながら、操縦士(ツイスタ)を名乗る。ふたりは組む。男と女じゃない、女と女のペアで。
当然、保守的な社会は大反発。「漁は夫婦でやるもんだ」「女同士なんて前例がない」。でも、そんなの関係ない。ふたりは船に乗り、大気を駆ける。最初はギクシャクしていた関係も、次第に信頼が芽生え、やがてそれは恋へと変わっていく。そう、これはSFでありながら、ガチ百合恋愛小説でもある。
しかも、船の操縦は二人の心の状態にシンクロしてるから、ケンカすれば船は制御不能、想いが通じ合えば驚異の戦果。つまりこの世界では、「感情の繋がり=生き残る力」なのだ。
後の巻ではさらに舞台が広がり、昏魚と人間の境界も怪しくなる。生き物のかたちをした宇宙そのもの。自分とは何か、相手とは何か。そのテーマが、恋と船を通じて浮かび上がる。
宇宙を舞台に、ただひとりの「相棒」と世界に挑む。こんなにも優しく、熱く、美しい百合SFがあるとは。
心と心の結び目で船を操る、ふたりの航海がまぶしくて仕方ない。

99.猫と統計と異常値―― 芝村 裕吏『統計外事態』
2041年の日本。劇的に滅びたわけじゃないけど、なんかジワジワと死にかけてる。過疎、経済衰退、閉塞感、全部ある。
そんな世界で、在宅の統計分析官・数宝数成(すうほうかずなり)は、愛猫とともに引きこもって静かに暮らしている。社会の中で人と関わるより、データを眺めていたいタイプ。まあ、気持ちはわかる。
そんな彼がある日、「誰もいないはずの廃村で水道使用量が増えてる」という異常なデータに気づく。で、現地に行ったら、なぜか全裸の少女たちに襲われ、そのうち国家的なサイバーテロの容疑者にされる。展開が突拍子もない。でも数成はずっと「猫どうしよう……」って考えてる。その感じが、めちゃくちゃ良い。
この小説、たしかにSFなんだけど、どこか日常っぽい。語り手の数成がひたすら饒舌で、自虐的で、オタクっぽい。その独特な語りが、ハイテク逃亡劇に妙なユルさを与えてる。ガチで国家転覆クラスの陰謀なのに、ずっと猫のこと気にしてるって、すごく人間的だと思う。
「統計分析」という設定もただのガジェットじゃなくて、社会との距離感とか、人との断絶を象徴している。データでしか世界を見られなかった男が、「統計外」の現実にぶん殴られて、再び人間になる。そういう話だ。あと伊藤っていう政府の後輩がいいやつで、二人のバディものとしても読める。
ハードなようで、やさしい物語。世界が崩れていっても、猫がそばにいる。
それだけで、もう少しがんばれるかもしれない。そんな気にさせてくれる物語だ。
100.百合とSFが出会うと、こんなに自由になるんだ―― 『アステリズムに花束を 百合SFアンソロジー』
「百合SFアンソロジー」と聞くと、ちょっと身構えるかもしれない。でも安心してほしい。ページを開いたら、そこにはとんでもない自由が広がっている。収録作は9本、小説8つに漫画が1本。どれも「女性同士の関係性」を軸にしてるんだけど、時代も舞台も空気感もバラバラ。まさにジャンルの星座だ。
大正ロマンとスチームパンクが混ざった血まみれの『彼岸花』、スペース百合の王道を行く『ツインスター・サイクロン・ランナウェイ』、AIと翻訳をテーマにした傑作『色のない緑』、死者との文字数制限付きチャットが泣ける『四十九日恋文』……とにかく守備範囲が広い。そして冒頭を飾るのは、登場人物がたったひとりの『キミノスケープ』。この並び順からして攻めてる。
何がすごいって、百合をただの恋愛カテゴリーとして扱ってないところだ。依存、喪失、信頼、崩壊、再生。その全部が「関係性」として描かれている。で、それがSFの「もしも」の世界観と合わさることで、より鮮やかに、より深く突き刺さる。
この本は、単なる企画モノじゃない。「百合SF」というジャンルを本気で作ろうとしてる気合いがある。出版社も「世界初!」と堂々宣言してるし、選ばれた作家たちもバラエティ豊か。
気づいたら、ジャンルの枠を超えて、「自分にとっての親密さとは何か」を考えさせられている。
SFと百合、相性抜群だったんだな。

おわりに
SFというジャンルは、ただの空想ではない。そこには、過去・現在・未来を貫く人類の問いと、想像力の可能性が詰まっている。
今回紹介した100作品は、その中でもとびきり刺激的で、どこか人間くさい作品ばかりだ。
「こんな世界があったのか」と驚いたり、「これは今の話じゃないか」と背筋が寒くなったり、「こんな未来なら見てみたい」と思わされたり――読めば読むほど、自分の中の世界が広がっていくはずだ。
まだ読んだことのない作品があれば、ぜひ手に取ってみてほしい。
そこには、日常では決して出会えない何かが、きっと待っている。
本を開いたその瞬間から、未来への旅はもう始まっているのだから。



