『未知なるカダスを夢に求めて』ラヴクラフト流ハイファンタジー、その最高峰へ【読書日記】

ラヴクラフトと聞けば、まず思い浮かぶのはクトゥルフ、インスマス、南極の古代都市、宇宙の彼方から人間を見下ろす異形の神々あたりだろう。
だが『未知なるカダスを夢に求めて』を開くと、少し違う顔が待っている。ここに広がるのは、恐怖だけで塗られた世界ではなく、月明かり、古い港町、黒い石の都市、果てしない荒野、空を駆ける猫たちまで入り乱れる巨大な夢の国だ。
主人公はランドルフ・カーター。夢の中で三度、美しい夕映えの都市を目にした彼は、その場所へもう一度辿り着きたいと願う。
ところが神々は都市の所在を教えず、夢を見ることさえ妨げ始めた。ならば自分で探しに行くしかない。カーターは夢の深層へ降り、神々が住むとされる未知なるカダスを目指して長い旅へ出発する。
この南條竹則編訳による新潮文庫版は2026年8月刊行。表題作に『霊廟』『眠りの壁の向こう』『あの男』『冷気』『記憶』『忘却より』『サルナスに訪れし破滅』『イラノンの探求』を加えた全9編で、2019年から続いてきた新潮文庫ラヴクラフト選集の最終巻でもある。
この並びが素晴らしい。先に短編を読んでおくと、ラヴクラフトが何度も夢見てきたここではない美しい場所への憧れが少しずつ積み上がり、その先に『未知なるカダスを夢に求めて』が待っている。
単独でも楽しめるが、9編を通して読むと、表題作がラヴクラフト幻想文学の大きな合流点だったことまでよく分かる。
夢の国なのに、ちゃんと地図がある
『未知なるカダスを夢に求めて』を読んでいて楽しいのは、ドリームランドがふわふわした夢の景色で終わらないところだ。
夢想者はまず70段の階段を降り、炎の神殿でナシュトとカマン=ターに会う。そこからさらに700段を下れば魅惑の森。
その先には猫を殺すことが禁じられたウルタール、黒い船が出入りするダイラス=リーン、ターコイズのドームを持つセレファイス、オニキスで築かれたインガノク、極北のレン高原、そして誰も辿り着いたことのないカダスが待つ。
土地ごとに建物も住民も生き物も違い、ちゃんと距離があり、移動手段まで用意されている。カーターが旅を続けるほど世界の輪郭が広がり、頭の中に少しずつドリームランドの地図ができあがる。この感覚は、現代のファンタジー小説やRPGにも近い。
しかも出てくる連中が最高である。森にはズーグ族、地下には食屍鬼、空には夜鬼、月にはヒキガエルめいた月棲獣。シャンタク鳥まで飛び回り、怪物図鑑をそのまま冒険物語へ放り込んだような賑やかさだ。
なかでもウルタールの猫たちは素晴らしい。猫好きのカーターへ義理堅く力を貸し、必要とあれば軍団で駆けつける。さらに『ピックマンのモデル』でおなじみのリチャード・ピックマンまで思わぬ姿で再登場し、過去の作品が同じ世界へつながっていたことも判明する。
ラヴクラフト作品を何作か読んできた人ほど、知っている名前が次々と現れる楽しさは大きい。散らばっていた短編の土地、人物、生物が、ここでひとつの広大な世界へ集まっている。
怖いラヴクラフトより、冒険するラヴクラフト
本作は約4万語を費やした長い探索譚だが、章分けがなく、カーターはほとんど休まず次の土地へ向かう。
港から船へ、船から月へ、地下へ、荒野へ、山へ。景色が次々と切り替わるため、ラヴクラフト作品の中でも意外なほど冒険小説らしい勢いがある。
もちろん、行く先々にはいつものラヴクラフトらしい嫌なものが待っている。顔のない神官、暗黒の船、月棲獣、レン高原、そして外なる神々。美しい夢の世界を歩いているはずなのに、その外側には人間の理解が届かない宇宙が口を開けている。
この明暗の混ざり方が好きだ。ターコイズの空や大理石の街を眺めていたかと思えば、次の瞬間には暗い地下世界へ落とされる。美しいものを求めて進むほど、その背後にある恐ろしいものまで近づいてくる。
それでもカーターは引き返さない。目的地が本当に存在するかどうかさえ分からないまま、自分が一度見た夕映えの都市を信じ続ける。
だから本作には、怪物から逃げる物語とは少し違った熱がある。カーターを動かしているのは恐怖から逃れたい気持ちではなく、美しいものへもう一度会いたい欲望だ。
そのためなら神々の領域にまで踏み込み、世界の果てまで進んでしまう。
ラヴクラフトがこんなに真っ直ぐな冒険譚を書いていたこと自体、初めて読む人にはちょっとした驚きなのでは。
ラヴクラフト自身も、失った場所を探していた
この物語がさらに面白くなるのが、執筆当時のラヴクラフトを知ったときだ。
1924年、彼は結婚を機に故郷プロヴィデンスを離れ、ニューヨークへ移住した。ところが仕事は見つからず、夫婦関係も悪化。大都市の喧騒や景観にも馴染めず、生活はどんどん苦しくなった。
1926年、ようやくプロヴィデンスへ帰還すると創作意欲が一気に戻り、『クトゥルフの呼び声』『ピックマンのモデル』『銀の鍵』などを次々と執筆。その時期に生まれた長篇が『未知なるカダスを夢に求めて』である。
そう考えると、カーターが追い続ける夕映えの都市にも別の顔が見える。どこか遠くに理想郷があると信じ、世界を巡り、危険を越え、それでも自分が本当に求めていた場所を探し続ける。その姿には、ニューヨークから故郷へ帰ったラヴクラフト自身の感情が重なっているように思う。
しかも本人は、この大作を生前一度も出版社へ送らなかった。出来に自信がなく、長篇を書くための練習程度に考えていたらしい。
結局、作品が初めて刊行されたのは死後の1943年。現在ではドリームランドを代表する作品として扱われ、TRPGや後世の幻想文学にも大きな影響を与えているのだからなんとも皮肉な話だ。
新潮文庫版では、その大旅行へ向かう前に『忘却より』『サルナスに訪れし破滅』『イラノンの探求』などを読めるのも嬉しい。とりわけ美しい都市を探し続ける『イラノンの探求』は、カーターの旅とよく響き合っている。
美しい場所を求める気持ち、現在への違和感、失われた時間への憧れ。ラヴクラフトが長く抱えていた感情が、作品をまたいで何度も姿を変えている。
クトゥルフ神話の神名や怪物を覚えなくても大丈夫だ。まずはカーターと一緒に700段の階段を降り、ウルタールで猫たちに会い、黒い船が停泊する港を抜け、オニキスの都市から北を目指せばいい。
その先に広がっているのは、ラヴクラフトが自分の憧れと恐怖を全部詰め込んだ巨大な夢の国である。
そしてカダスを目指す長い旅を辿るほど、この作品が未知の場所を見つける話だけでは済まないことにも気づかされる。
カーターが追い求めた夕映えの都市には、ラヴクラフト自身が失い、もう一度取り戻そうとした故郷の光まで重なっているのだ。
併せて読みたいH・P・ラヴクラフトのおすすめ本
1.『インスマスの影―クトゥルー神話傑作選―』
ラヴクラフトの代表作7編を収録した、クトゥルー神話の入門にもぴったりな短編集。
海底に眠る邪神クトゥルー、異星生物ミ=ゴ、不気味な港町インスマスなど、人間の理解をはるかに超えた存在が次々と登場する。
表題作では、旅の途中で寂れた港町を訪れた青年が、異様な住民たちと町に隠された秘密へ近づき、やがて必死の逃走へ追い込まれていく。
怪物の怖さだけで押すのではなく、未知の世界を知ってしまう恐怖や、人間が宇宙の中でいかに小さな存在かを感じさせる作品が揃った一冊。
2.『チャールズ・デクスター・ウォード事件』
ラヴクラフトの代表的な長編を中心に、血筋や先祖、地下に眠る秘密を扱った6編を収録した作品集。
表題作では、郷土史に夢中になった青年チャールズが、18世紀に生きた謎の祖先ジョセフ・カーウィンを調べ始めたことで、次第に人が変わったような姿を見せ始める。
死者を蘇らせる禁断の術、古い屋敷の地下、人格を奪う魔術など、不気味な題材が並び、じっくり迫ってくる恐怖を味わえる。
3.『狂気の山脈にて クトゥルー神話傑作選』
ラヴクラフトの代表作8編を収録した、クトゥルー神話の世界を広く楽しめる作品集。
表題作では、南極探検隊が氷の奥深くで人類誕生以前の巨大都市を発見し、そこで地球の歴史を覆す恐るべき痕跡へ近づいていく。ほかにも、怪しい絵画、地下墓地、異次元へ通じる音楽、時間を越えて精神を入れ替える異星種族など、多彩な怪異が登場。
怪物の恐怖だけに頼らず、人間の知識が届かない宇宙や時間の広がりまで描かれ、物語を追うほど世界の尺度そのものが大きくなっていく名作。


