アンソニー・ホロヴィッツ『命取りのエピソード』- 殺されたのは俳優か、それともホーソーンだったのか【読書日記】

自分の書いた事件簿が映画になる。
しかも撮影現場には、相棒の名探偵を演じる俳優どころか、自分自身を演じる俳優までいる。
状況はそれだけで十分おかしいのに、探偵役の俳優が、本人そっくりの扮装のまま刺殺されてしまう。
アンソニー・ホロヴィッツ『命取りのエピソード』は、〈ホーソーン&ホロヴィッツ〉シリーズの第6作。今回は第1作『メインテーマは殺人』の映画化が決まり、イングランド南東部の港町ヘイスティングズで撮影が進んでいる。
ところが現場では監督も脚本家も俳優もプロデューサーも好き勝手に振る舞い、原作者であるホロヴィッツは蚊帳の外。自分の小説が別物へと作り替えられていく苛立ちが、シリーズらしい笑いを序盤から生む。
そんな撮影の最中、探偵ホーソーン役の若手俳優デヴィッド・ケインが、専用トレーラーの中で刺殺される。扉に掲げられたプレートにあったのは、彼の本名ではなく「ホーソーン」の文字。服装も髪型も、本物のダニエル・ホーソーンを再現したままだった。
犯人が狙ったのはデヴィッドなのか、それとも本物のホーソーンと取り違えたのか。
その疑いが浮かんだ瞬間、華やかな映画界の殺人事件は、これまでほとんど明かされてこなかった名探偵の過去へ一気に踏み込んでいく。

映画化は、最高に意地の悪い舞台装置だった
このシリーズでは、実在の作家アンソニー・ホロヴィッツ本人が物語に登場し、元刑事ホーソーンの事件を書き記すワトスン役を務めてきた。本作ではそのホロヴィッツが書いた第1作が、劇中で映画化される。
作中のホロヴィッツを演じる俳優まで現れ、本人は自分の映像版を目の前で見せられる。しかも映画側は原作への忠実さなどお構いなしだ。脚本は改変され、人物像も勝手に整えられていく。
ホロヴィッツが不満を募らせる一方、ホーソーンはテクニカル・アドバイザーとして制作陣から大歓迎。この扱いの差がいちいち可笑しい。
映画制作の裏側が生々しいのも本作ならではだ。ホロヴィッツ自身、『刑事フォイル』をはじめ長年映像の世界で仕事をしてきた。資金繰りに追い詰められるプロデューサー、自分の思想を作品に入れたがる脚本家、衝突を繰り返す俳優たち。業界を知る書き手だからこそ書ける毒が、殺人事件の合間に軽快に差し込まれる。
そして被害者デヴィッドは、方々に恨みを買っていた。深い因縁を抱える共演者、対立していた監督、裏切られた脚本家、金銭的に追い詰められた制作側。誰が犯人でもおかしくないほど、動機の候補が次々に積み上がっていく。
ところが「狙われたのは本物のホーソーンだったのでは」という可能性が入り込むと、事件の景色がまるごと変わる。
映画関係者の愛憎を洗えば済むはずだった捜査が、秘密主義の塊のような探偵の人生そのものを掘り返す作業に転じるのだ。
ホロヴィッツは、ついに相棒の過去へ踏み込む
ホーソーンはシリーズ開始以来、自分の過去をほとんど明かしてこなかった。
他人の秘密は平然と暴くくせに、自分の話になると途端に扉を閉ざす。そんな男が本当に命を狙われているのなら、原因は彼自身の過去にあるのかもしれない。
そこでホロヴィッツは、相棒の足跡をたどってノース・ヨークシャーへ向かう。調べるうちに浮かび上がってくるのは、かつてホーソーンが担当した事件と、そこに残された生々しい遺恨だ。
そして話は、ホーソーンの少年時代にまで及んでいく。これまで断片的にしか見えていなかった生い立ちが、ようやく輪郭を持ちはじめる。
シリーズを追ってきた身として、ここには歓喜した。なぜ他人を信用しないのか。どうして自分の生活を徹底して隠すのか。警察を離れた背景には何があったのか。すべてを一度に明かすのではなく、閉ざされた人物像に少しずつ光を入れてくるので、情報がひとつ増えるだけで興奮してしまう。
そして相変わらず、ホロヴィッツは格好悪い。頼まれてもいないのに相棒の故郷まで押しかけ、勝手に聞き込みを始め、現地では不審者のように扱われる。
六作目まで来ても名探偵に進化する気配は薄く、自信満々の推理を披露しては外す。かと思えば、ホーソーンが地元警察のサラ・ミルンズ刑事と親しげに捜査を進めるのを見て、露骨に嫉妬する。事件の緊張感と、この大人げない可笑しさが同時に押し寄せてくる。
二人はホームズとワトスンほど仲睦まじくない。互いに苛立ち、秘密を隠し、ときには平気で傷つけ合う。それでもホロヴィッツはホーソーンを追いかけ続けるし、ホーソーンも結局は彼を完全には切り捨てない。
この不格好な距離感が六作積み重なった結果、二人の関係は事件そのものと同じくらい気になる存在になっている。
偽物が死んで本物が見えてくる
本作でとりわけ面白いのは、演じる者と演じられる者が同じ場所に立っている点だ。
本物のホーソーンのそばには、ホーソーン役の俳優。本物のホロヴィッツの隣には、ホロヴィッツ役の俳優。そして彼らが撮影しているのは、読者がシリーズ第1作で知っている事件である。現実と小説と映画が何重にも重なり、誰が本物で誰が偽物なのか、その境目そのものが遊び場になる。
そこへ偽物のホーソーンの死が持ち込まれることで、メタ的な仕掛けが殺人の核心に食い込んでくる。殺されたのはデヴィッド・ケインなのか、それとも「ホーソーン」と書かれた人物なのか。トレーラーに掛けられた一枚のネームプレートだけで、犯人の標的まで揺らいでしまう。
これだけ仕掛けを重ねながら、謎解き自体はきっちりフェアだ。ホロヴィッツが見落とした小さなしぐさ、会話の違和感、現場の細部は、すべて文章の中に置かれている。
語り手が意味を理解していなくても、情報そのものは隠されていない。そして最後はホーソーンの観察と論理に戻ってくる。この律儀さが、シリーズを安心して追える理由でもある。
前作『死はすぐそばに』は過去の事件記録を再構成する形式だったため、現在の二人が一緒に動く場面は控えめだった。今回はそこから一転、いつもの凸凹コンビが本格的に復活する。
嫌味を言われ、置いていかれ、勝手な行動に走り、それでも相棒のことが気になって仕方がないホロヴィッツも含めて、シリーズの楽しさが帰ってきた。
俳優デヴィッド・ケインの刺殺から始まった事件は、本物と偽物、現在と過去を行き来しながら、シリーズ開始以来ずっと閉ざされていたホーソーンの人生に近づいていく。
六作目まで付き合ってきたからこそ、その扉がほんの少し開くだけで胸が高鳴ってしまうのだ。
〈ホーソーン&ホロヴィッツ〉シリーズの読む順番やおすすめ



