【自作ショートショート No.15】『悪魔のささやき』

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「ようやくお前ともお別れだな」

「はい、お世話になりました。これからは真面目に働きます」

五、六メートルはあろうかという灰色の塀の下では、ワイシャツ姿の男が、紺色の制服を着た男に向かって頭を下げていた。

「そうだぞ。やっと刑期を終えたんだから、もうこんなところに戻るなよ」

「ありがとうございます。がんぱって社会復帰しようと思います。それじゃ、失礼します」

ワイシャツの男がそう言って歩き出そうとした時、制服の男は何かを思い出したように口を開き、呼び止めた。

「おっと、ひとつだけ忠告だ。『悪魔のささやき』には気をつけろよ」

「悪魔のささやき?なんです、それは」

「出所した奴らによく起こることなんだが、真面目に生活してるとな、頭の中から悪魔のささやきが聞こえるんだと。それでな、その悪魔にそそのかされて、ついつい再犯しちまう奴がたまにいるのさ」

「俺は、もう二度と罪を犯すことなんてありませんよ」

「そうだな、そうあることを期待してるよ」

制服の男は、遠ざかっていく後ろ姿を、しばらく眺めていた。

数週間後。建物の解体をしている工事現場に、何度も怒号が響いていた。

「バカヤロウ!なにちんたらしてんだ!走れ!もっと働け役立たずが!」

「す、すみません!」

「ったく、前科モンはこれだから使えねぇんだよ!なんだって社長はこんなゴミばっかり拾ってくるのか、理解に苦しむぜ」

「……」

「あ?なんだその目は。いいぜ、腹が立ったんなら殴れよ。お前にはムショ暮らしがお似合いだぜ」

「…いえ、すみませんでした」

その日の夜。小さなアパートの一室では、男が古い畳敷きの部屋に寝転がり、こぶしを握っていた。

「くそ…あれだけバカにされて、休みなしで働いて、給料はこれだけかよ…これなら本当にムショにいた方が……」

「ああ、その通りだぜ相棒」

どこからともなく、耳覚えのない声が聞こえてきた。男は起き上がって周りを見渡すが、汚れた壁紙と窓以外、目に入るものはなにもない。

「!?…なんだ?」

「おい、聞こえてるんだろう?」

「まさか、これが『悪魔のささやき』なのか……?」

「ああ、人間はそう呼んでいるらしいな。そんなことより、あんなにムカつく奴はよ、思い切りぶん殴っちまえばいいんじゃないか?」

「なにを言っているんだ。そんなことするわけないだろう」

「おいおい、それでいいのか?十歳以上年下のガキにナメられて、バカにされて、これからずっとみじめな人生を送るんだぞ?」

「うるさい!俺はもう、罪を犯さないと心に決めたんだ!悪魔なんかにそそのかされるものか!」

「ほう、見上げた人間だ。だが、それもいつまでもつかな?」

その夜から、男の頭の中では、悪魔がときどき話しかけてくるようになった。

「なぁ、やっぱり殴っちまおうぜ」

「会社の備品を盗んで売り払えば、いい小遣いになるぞ」

「お前は、怒りと衝動に身を任せればいいんだよ」

邪悪な誘惑に負けそうになりながらも、男は、あと一歩のところで正気に戻り、なんとか思いとどまっていた。

悪魔のささやきが聞こえるようになってから、数週間後。

「何度言えばわかるんだよこのクズが!壊した備品代は、給料から引いておくからな!」

「勘弁してください!そんなことされたら、生活していけません!」

「そんなもん知るか!」

「そんな……」

「…おい、お前はよくがんばったよ。だからよ、もういいじゃねぇか。前みたいに、銀行でも襲おうぜ。少し楽に金を稼ぐだけじゃねえか」

「……」

「銀行の金を盗んだところでよ、どうせ銀行が肩代わりするだけで、預けている奴らは何も損しないんだぜ。問題ないじゃねぇか」

「……」

それによ、そもそも世の中が間違ってるんだよ。お前みたいに一生懸命頑張っている奴がこんな暮らししてるなんて、おかしいと思わねぇか?」

「…そうだな。間違っているのはこの世の中だ」

「ああそうさ。やっとお前らしくなったじゃねぇか」

「ああ、みじめな暮らしはもうたくさんだ」

「お昼のニュースです。今日午前十一時ごろ、シティ銀行山の手支店で強盗未遂が発生しました。偶然現場に居合わせた人によると、犯人は全身黒づくめで、包丁を手に女性客を人質にとっていたとのことです。しかし、突然両手で頭を押さえるとその場にうずくまり、動かなくなったといいます。犯人はその後、病院に運ばれましたが、死亡が確認されました。警察は……」

「やれやれ、アイツも勝てなかったか。期待してたんだがな」

「せ、先輩、それが『悪魔のささやき』ですか?」

「ああ、お前は見たことがなかったな。ウチの刑務所に入った受刑者は、健康診断に見せかけて、この小さなチップを脳に埋め込まれるんだ。チップのおかげで、刑務所を出た後の行動を監視することができる」

「へぇ、それで再犯しないかどうかを見張っているんですね」

「それだけじゃないぞ。このコンピューターを介せば、チップから脳に直接声を届けることができるんだ。それで、本人からの強いストレスを感知したタイミングで『ささやく』のさ」

「そういう仕組みなんですね。ちょっと強引すぎるような気もしますが……。それに、何も命まで奪わなくても」

「我が国の刑務所の囚人収容率が満員に近いのは知っているだろう?再犯した奴をいちいち刑務所に戻してたら、すぐにパンクしちまうのさ。それに、『ささやき』にそそのかされて再び犯罪に手を染めるような奴は、遅かれ早かれどこかで罪を犯すものなんだよ。世の中には、いたるところに悪魔みたいな人間がいるんだからな……」

(了)

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この記事を書いた人

年間300冊くらい読書する人です。
ミステリー小説が大好きです。

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