澤村伊智『ざんどぅまの影』- 比嘉姉妹シリーズの過去に沈む、海水と差別の記憶【読書日記】

澤村伊智の比嘉姉妹シリーズを追ってきた身として、『ざんどぅまの影』には妙な緊張感を覚えた。
なにしろ、比嘉琴子と真琴の物語でありながら、舞台は彼女たちが生まれる前の1981年。主役として前面に立つのは、姉妹の祖母である比嘉勝子だ。
つまりこれは、シリーズの過去編であり、比嘉家の血筋に流れるものをさかのぼるエピソードでもある。
こういう前日譚は、下手をするとファン向けの答え合わせになりがちだ。あの人の過去はこうでした、この設定の由来はこうでした、はい拍手、みたいなやつである。もちろん、それはそれで楽しい。私もそういう補完は好きだ。
だが『ざんどぅまの影』は、そんな親切なサービス精神だけで終わらない。むしろ、シリーズの根っこを掘り返したら、そこから海水と泥と差別の匂いが吹き上がってきた、という感じがある。まるで容赦がないのだ。
澤村伊智『ざんどぅまの影』は、比嘉姉妹シリーズの第5長編であり、デビュー10周年の節目に出た作品である。
舞台は1981年の神奈川県P市Q区。沖縄から移住してきた人々が暮らす街に、佐久間篤という青年が流れ着く。疎外感を抱え、各地を転々としてきた彼にとって、この街は初めて「ここにいていい」と思える場所だった。
そこへ出る。
びしょびしょのお化けが。
いや、言い方が悪い。
全身ずぶ濡れの怪異だ。
水のない部屋で人が溺れ死ぬ。肺には海水。室内には磯の匂い。最悪だ。風呂場も洗面所も廊下も、全部信用できなくなるタイプの怪異である。
しかも、この怪異がただのモンスターとして暴れるだけでは終わらない。街の人間たちの不安、差別、排外意識、集団心理の暴走が、そこに絡みついてくるのだ。
この作品は怪異も怖い。人間も怖い。
そして一番しんどいのは、その二つが別々に怖いのではなく、互いに手を組んで地獄を大きくしていくところだ。
要するに、最悪のタッグが結成してしまったのである。
口寄せという語りの仕掛けが、過去を現在に引きずり出す
まず、『ざんどぅまの影』の語り口がいい。
1981年の事件を、そのまま昔話として見せるのではない。現代のパートで、比嘉琴子が事件の当事者である佐久間篤の霊を口寄せし、その語りを野崎昆が聞き取る。
つまり、死者の証言によって過去が掘り返されていく構造になっているのだが、これがめちゃくちゃ不穏である。
普通の回想なら、過去は過去として閉じている。でも口寄せとなると話が違う。死んだ人間が、いま誰かの身体を通して語っている。語られている内容は昔の事件なのに、その声は現在の部屋に響いているのだ。過去がちゃんと死にきっていない。蓋をされたものが、まだ濡れたまま戻ってくる感じがある。
しかも、琴子はここでいつものように前線で怪異とバチバチやるわけではない。依代としてそこにいる。野崎も聞き手に徹している。真琴も直接は出てこない。
シリーズの中心人物たちが少し後ろに下がっているのに、むしろ比嘉家の存在感は濃くなる。このバランスが面白い。いや、面白いと言うと軽いか。読みながら、そう来るかあ……と変な声が出るタイプの構成である。
そして、祖母・比嘉勝子がいい。これがまた、ちゃんと比嘉家の人なのだ。霊能者としての凄みがあり、土地の人々から「おばぁ」と慕われる存在感がある。
ただ、彼女は万能のヒーローではない。怪異には立ち向かえる。だが、人間の集団が狂っていく流れを、霊能力だけで止められるわけではない。この無力感がえぐい。
ホラーにおける霊能者とは、ともすれば最終兵器になりがちだ。出てきたら安心、はい解決、みたいな。しかし澤村伊智の世界では、力があることと、すべてを救えることはまったく別である。
ここがいい。つらいけどいい。勝子が凛としているからこそ、どうにもならない現実の重さが余計に刺さるのだ。
怖いのは怪異だけではない、けれど怪異もちゃんと怖い
怪異「ざんどぅま」は、沖縄や奄美の伝承にあるザン、つまりジュゴンや人魚を思わせる存在と結びついている。水のない場所で人を溺れさせるという現象は、それだけでホラーとして抜群に嫌だ。
怖いというより、体の奥が冷える。肺に海水が入る死に方なんて、想像したくないのに想像してしまう。澤村伊智は、こういう身体感覚を狙うのが本当に容赦ない。
ただ、この作品の本当にしんどいところは、ざんどぅまが出たあとに人間たちがどう変わっていくかである。
最初は、街を守るための自警に見える。怪しい者を見かけたら通報しろ。逃げたら追え。抵抗されたら立ち向かえ。こういう言葉は、怪異が出るホラーの中では、まあ分からなくもない。みんな怖いのだ。自分や家族を守りたいのだ。ところが、その警戒心がだんだん別の方向へ向かっていく。
怪異を探していたはずなのに、いつの間にか人間を探している。守るための集団だったはずなのに、排除するための集団になっている。怪しいものが、よそ者や、沖縄出身者や、弱い立場の人にすり替わっていくのだ。
ここが本当に嫌である。ページをめくりながら、そっちに行くな、と思うのに集団は止まらない。恐怖がある。噂がある。怒りがある。そこに「自分たちは正しいことをしている」という感覚が乗った瞬間、人間はとんでもないところまで行ってしまう。
このへんの描写は、ホラーでありながら社会派でもある。でも説教臭くはない。なぜなら、ちゃんと怪異が怖いからだ。
ざんどぅまは比喩だけの存在ではない。本当に人を殺す。本当に海の匂いを残す。本当に理不尽な死を運んでくる。だから人間たちの恐怖にも、ある程度の理由がある。そこがまた嫌なのだ。
完全な勘違いだけなら、まだ距離を取れる。でもこの街には、本当に異常なことが起きている。だからこそ、人々の不安が暴力へ変わっていく過程に妙な説得力がある。これが怖い。ざんどぅまが人間を壊しているのか、人間がざんどぅまの影を育てているのか、その境目がどんどん溶けていくのだ。
信太という人物も忘れがたい。吃音を持ち、篤と同じようによそ者として扱われてきた青年である。彼の「行くところがない」という感覚は、この作品全体の底に沈んでいる。
怪異から逃げる場所がないだけではない。社会の中にも逃げ場がない。居場所を得たい人間が、別の誰かの居場所を奪っていく。
この流れがあまりにもきつい。きついのに、物語としては目が離せない。ホラー小説としてずるい引力がある。
神様の影が残るとき、人間のほうが先に壊れていく
「ざんどぅま」という名前の響きもいい。いや、いいと言うと変だが、耳に残る。
澤村伊智の怪異は、名前が怖い。「ぼぎわん」「ずうのめ」「ししりば」などもそうだが、意味が分かりきらないのに、口にした瞬間に何かが近づいてくる感じがある。ざんどぅまもまさにそれだ。濁った音、湿った感じ、海の底から浮かんでくるような語感。名前だけでもう嫌な気分になる。
しかも本作では、その名前が街の中で広がっていく。噂として、恐怖として、説明不能なものを説明するための言葉として。人は名前をつけると、分かった気になる。しかしその名前が、逆に恐怖を増やしていくこともある。ざんどぅまという言葉は怪異を指すと同時に、人々の不安を集める器にもなっているのだ。
ザンの伝承には、人を救う存在としての側面もある。津波を予言する人魚のような話があり、同時にジュゴンは捕らえられ、搾取されてきた存在でもある。神聖なものとして語られながら、人間に奪われてもきた。この二重性が、本作の怪異に深く関わっている。
いなくなった神様の影。このイメージが本当に良い。神様そのものではない。救いでもない。かつてあったはずのものが失われ、その輪郭だけが残っている。ざんどぅまは、どこか遠くからやってきた怪物というより、人間が壊してきたものの残響なのだと思う。
澤村ホラーの怪異は、いつも人間社会の隙間から入ってくる。家庭のひび割れ。共同体の空気。誰かに押しつけられた沈黙。見捨てられた孤独。そこに怪異が足をかける。
だから、祓えば終わりにはならない。お化けを倒しても、人間の側に残った傷や歪みは消えない。ここが本当に怖いところであり、シリーズを追い続けたくなる理由でもある。
さらに本作は、読む側の立ち位置まで揺らしてくる。篤の語りに寄り添い、彼の痛みに同情しながら読んでいると、終盤でその読み方自体がひっくり返される。
自分は冷静に見ているつもりだった。暴走する集団を外から眺めているつもりだった。だが、本当にそうなのか。誰かの苦しみを、自分に理解しやすい形に整えて受け取っていただけではないのか。
これをホラーでやられると余計に効く。かなり嫌な場所をグサっと突かれる感じだ。怪異の正体に迫るだけではなく、自分の見方そのものが疑わしくなる。
ミステリ的な反転としても見事だし、読書体験としても刺さる。ページの向こうの事件を読んでいたはずなのに、最後にはこちら側の足元まで濡れている。つまり、最悪で最高である。
『ざんどぅまの影』は、比嘉姉妹シリーズの前日譚でありながら、ただのファン向け過去編ではない。むしろ、シリーズの根にあるものを掘り返し、その土の中から怪異と差別と痛みをまとめて引きずり出す作品である。
比嘉勝子はかっこいい。ざんどぅまは怖い。人間たちは見ていてしんどい。そしてその全部が絡み合って、読み終えるころには、胸の中にずしんと重たい海水が残る。
楽しい読書ではない。しかしホラー好きとしては、こういうやつを読まされるために私はホラーを読んでいるんだよ!と言いたくなる。嫌な汗をかきながら、ページをめくる手が止まらない。怖い。苦い。しんどい。なのに、物語としての吸引力がすごい。
神様がいなくなったあと、影だけが残る。その影に照らされて見えてくるのは、怪異の姿だけではない。人間が誰かを追い詰めるときの顔であり、共同体が正義の名で壊れていく瞬間であり、見ている自分の中にもあるかもしれない小さな偏見の芽である。
だから『ざんどぅまの影』は怖い。
お化けが出るから怖い。
人間が壊れるから怖い。
そして、読んでいるこちらが安全な場所にいられないから、怖い。
比嘉姉妹シリーズの過去を知るための一冊でありながら、同時に、澤村伊智という作家が十年かけて磨いてきた恐怖の形がぎゅっと詰まった一編である。
読み終えたあと、しばらく海の匂いが鼻の奥に残る。
もちろん実際には匂っていない。
なのに、どこか濡れている気がする。
そういう嫌な余韻を置いていくところまで含めて、これは完全に澤村ホラーの沼である。


