久永実木彦『雨音』- 惨劇のあとに鳴り続ける音を描いた、痛切な喪失の物語【読書日記】

日常が壊れる音というものがある。
それは爆発音かもしれないし、ガラスの割れる音かもしれない。あるいは、何の前触れもなく鳴り響く銃声かもしれない。
久永実木彦『雨音』は、その音を聞いてしまった人間たちの物語である。しかも本作が恐ろしいのは、事件そのものよりも、そのあとに続く時間を描いているところだ。
惨劇は終わった。犯人も死んだ。報道も少しずつ落ち着いていく。世間は別のニュースへ移っていく。だが、そこにいた者たちの内側では、何も終わっていない。耳の奥では、まだ音が鳴っている。雨のように降り続ける。
タイトルの『雨音』とは、単なる自然音ではない。止めようとしても止まらない記憶の反響であり、死者の気配であり、生き残ってしまった者の罪悪感でもある。
これはとてもしんどい作品である。読む前に「今日は重いやつを受け止めるぞ」と心の腹筋を少し鍛えておいたほうがいいタイプだ。だが、ただ暗いだけの小説ではない。むしろ久永実木彦という作家が、暴力のあとに残された世界で、それでも人が誰かへ手を伸ばすことの意味を、ものすごく真面目に、そして繊細に書こうとした作品だと私は感じた。
しかも本作は、SF作家として評価されてきた久永実木彦が、SF的な装置をほとんど使わずに書いた長編である。宇宙もロボットも怪獣も出てこない。けれど、久永作品らしさはむしろ濃い。
孤独、喪失、他者との距離、世界を少しでも優しくしたいという切実さ。その核だけが、現代日本の銃乱射事件という生々しい題材の中に移植されている。
これはジャンルの引っ越しではない。作家の芯が、別の場所で鳴り始めた作品なのだ。
銃乱射事件のあと、世界はどう見えるのか
物語の中心にあるのは、東京都内の私立大学・奥石大学で起きた銃乱射事件である。
ペストマスクを被った犯人がキャンパスに現れ、死者三十二名、負傷者三十名以上という凄惨な被害をもたらす。犯人はネット上で「痩せ烏」と呼ばれる存在となり、事件は社会的な記号として消費されていく。
この設定だけを見ると、派手な犯罪小説を想像するかもしれない。犯人の動機を追い、真相へ迫り、最後にすべてが明かされるタイプの作品だと思うかもしれない。
だが『雨音』の重心はそこにない。本作が見つめるのは、事件の解決ではなく、事件のあとに残された人間たちの呼吸である。
主人公のスミヒコは、映画同好会「幻燈」に所属する大学生だ。事件当日、彼は仲間たちとカフェテリアにいた。だが結果として、自分だけが無傷で生き残ってしまう。ここがもう痛い。生き残ることは幸運のはずなのに、本人にとっては呪いにもなる。「なぜ自分だけが」という感覚が、彼の中でずっと消えない。
スミヒコは事件のドキュメンタリーを撮ろうとする。これが本作の大きな軸だ。彼はカメラを持ち、関係者の声を集め、出来事の輪郭を掴もうとする。だが、その行為は単純な記録ではない。むしろ、崩れてしまった世界に、もう一度触れるための儀式に近い。
カメラを向けることは、誰かの傷口を覗き込むことでもある。撮る側の正しさだけでは済まない。映像にすることで、悲劇をもう一度再生してしまう危うさもある。スミヒコ自身もその危うさを抱えたまま進んでいく。ここが実に久永作品らしい。
善意だけで人を救えるとは書かない。表現がいつも美しいものだとも言わない。むしろ、表現には暴力性がある。記録することは、誰かを傷つけるかもしれない。それでも撮らずにはいられない。そこに、本作の苦しさと誠実さがある。
ミステリ好きとしては、この構造だけでそわそわする。事件があり、記録があり、証言があり、視点が重なっていく。いかにも「真相へ向かう形式」に見える。
しかし本作が向かうのは、犯人当ての快楽ではない。むしろ、真相という言葉では包みきれないものをどう抱えるか、という方向へ進んでいく。推理の形を借りながら、最終的には祈りの物語へ変わっていくのだ。この転調が見事だった。
ベニという存在が、物語を別の深度へ連れていく
本作で忘れがたい人物が、ベニである。二十歳でありながら、ハンバーガーも夏祭りも知らない。普通の暮らしから隔絶され、自分の人生を自分のものとして持つことさえ許されなかった人物だ。
このベニが登場してから、物語の温度は一段変わる。奥石大学の事件は、もはや突然現れた怪物による凶行では済まなくなる。痩せ烏という存在の背後に、家庭内の支配、虐待、社会的な不可視化があったことが見えてくるからだ。
ベニは、いわば「戦場を日常として生きてきた人間」である。私たちが平穏だと思っている場所のすぐ隣に、誰にも見えない戦場がある。本作はその事実を容赦なく突きつけてくる。大学の銃乱射事件は外側に向かって爆発した暴力だが、ベニの人生にあった暴力は、家の内側で長い時間をかけて彼女を縛り続けていた。
スミヒコとベニの関係は、いわゆるボーイ・ミーツ・ガールの形を取る。だが、そこに甘い恋愛の高揚だけを期待すると、たぶん少し違う。二人の間にあるのは、もっと不器用で、もっと切実な共鳴だ。どちらも、世界から少しずつはぐれている。どちらも、自分の中に鳴り続ける音を持っている。
ベニが初めてハンバーガーを食べる場面は、本作の中でも特に印象に残った。大事件や社会問題を扱う小説で、ハンバーガーがこんなに尊いものとして立ち上がることがあるのか、と少し驚いた。
肉と脂とパン。かなり俗っぽい食べ物である。だが、ベニにとっては、それが生きていることの手触りになる。世界は怖い。暴力は消えない。それでも、誰かと何かを食べる時間がある。その小ささが逆に泣けるのだ。
ここで久永実木彦は、救済を大きく描かない。人生が劇的に回復するわけではない。傷がなかったことになるわけでもない。ただ、ほんの少しだけ息ができる瞬間がある。その一瞬を過剰に美化せず、大切に書く。私はここに、本作の優しさがあると思う。
フジオやキミドリの存在も重要だ。事件によって身体と未来を奪われたフジオ。現実との接点を保とうとするキミドリ。彼らは単なる脇役ではなく、スミヒコが世界を見直すための鏡になっている。
誰かを救いたいと思うことと、実際に救えることの間には、とんでもなく深い溝がある。本作はその溝を見ないふりしない。そこがいい。いや、よくはないのだが、作品としてはとても信頼できる。
暴力に対して物語は何ができるのか
『雨音』を読みながら、何度も「物語は暴力に勝てるのか」と考えた。銃弾は一瞬で人を壊す。虐待は長い時間をかけて人を削る。
ネットの言葉は事件を記号化し、被害者も加害者も雑に消費していく。その中で、映画を撮ること、小説を書くこと、誰かの声を聞くことに、どれほどの意味があるのか。
本作は、その疑念に気持ちよく答えてはくれない。映画を撮れば誰かが救われる、とは言わない。祈れば世界が変わる、とも言わない。むしろ、そんな簡単な話ではないと何度も示してくる。
だからこそ、スミヒコの行為は痛々しい。彼は正解を持っているわけではない。ただ、撮らなければ自分が壊れてしまう。あるいは、死者たちが完全に消えてしまうように感じている。
ドキュメンタリー制作は、事件の真相を暴くための道具であると同時に、失われた仲間たちへ向けた手紙でもある。死んだ人間は戻らない。傷ついた人間の時間も巻き戻らない。それでも、声を集める。映像に残す。見つめようとする。その行為そのものが、暴力への抵抗になる。
ここに、久永実木彦という作家の到達点を感じる。『七十四秒の旋律と孤独』では、宇宙的なスケールの孤独が描かれた。『わたしたちの怪獣』では、異形の存在を通じて、日常の脆さや孤独が浮かび上がった。
そして『雨音』では、異形の怪物ではなく、人間の中にある暴力そのものが描かれる。舞台は近未来でも異世界でもない。現代日本である。だから逃げ場がない。
それでも本作は、絶望だけで終わらない。ここが本当に大事だ。暴力は消えない。雨は止まない。耳の奥の音も、たぶん完全には消えない。けれど、その雨の中で誰かと並んで立つことはできる。ハンバーガーを食べることはできる。カメラを回すことはできる。名前を呼ぶことはできる。
この作品の希望は派手ではない。むしろ頼りない。だが、その頼りなさこそが本物に近いのだと思う。傷ついた人間に向かって「大丈夫」と軽く言わない。けれど、「大丈夫ではないまま、隣にいることはできる」と差し出す。その距離感が、私はとても好きだ。
『雨音』は、犯罪小説であり、青春小説であり、喪失の物語であり、願いの物語でもある。
ミステリとして読むなら、事件の構造や証言の重なりに注目したい。文学として読むなら、傷を負った人間が世界と再接続しようとする過程に胸を掴まれる。
久永実木彦の作家性を追ってきた人なら、SF的想像力を封印したように見えて、実はもっと根本的な場所で久永作品そのものだと感じるはずだ。
雨音は止まない。だが、その音の中でしか聞こえない声もある。
久永実木彦『雨音』は、そのかすかな声を拾い上げるために書かれた、痛切で、優しくて、危険なほど胸に残る物語だった。


