島田荘司『切り裂きジャック・百年の孤独[改訂完全版]』- ロンドンの霧とベルリンの壁、その暗い線を追いかける【読書日記】

  • URLをコピーしました!

切り裂きジャックという名前には、ミステリ好きの神経を妙にざわつかせるものがある。

未解決事件、霧のロンドン、ホワイトチャペル、猟奇殺人、新聞報道、都市伝説。そんな単語を並べるだけで、暗い路地裏の入口が開いてしまう。

しかもそこへ島田荘司である。これがただの歴史ミステリで済むわけがない。こちらとしても、読む前から身構えてしまう。島田荘司が切り裂きジャックを扱うなら、普通に犯人候補を並べて終わるはずがないからだ。

切り裂きジャック・百年の孤独[改訂完全版]』は、1988年に書き下ろされた作品を起点とし、長い時間をかけて版を重ねてきた一冊である。集英社版、集英社文庫、文春文庫、南雲堂の全集版を経て、ハーパーBOOKS+版では改訂完全版として文庫化された。

しかも作家生活45周年の節目に出るという流れが、作品そのものの時間構造と妙に響き合っている。百年前の事件を扱った小説が、さらに時を経て新しい形で戻ってきた。

ミステリの本棚というのは、こういう時間差攻撃を平然と仕掛けてくるから好きだ。

目次

百年の霧は、1888年のロンドンから始まる

おすすめ度:(5.0)

Amazonで見てみる

物語は1888年のロンドンから幕を開ける。

ビクトリア朝の繁栄に沸く大英帝国。その華やかな表通りの裏側に、イーストエンド・ホワイトチャペルという暗い場所がある。

急激な都市化、移民の流入、凄まじい貧困、悪臭、不衛生な住環境。そこは都市の発展からこぼれ落ちたものが流れ込む、社会の底のような場所である。その最暗部で、生きるために街頭に立つしかなかった娼婦たちが、何者かによって次々と襲われる。

被害者たちは、頚動脈を切られ、腹部を執拗に裂かれ、内臓を引きずり出されるという、あまりにも惨烈な手口で殺害される。ロンドン警視庁の捜査も空しく、犯人は闇の中へ消える。

切り裂きジャック。世界で最も有名な未解決事件のひとつは、こうして歴史の霧の中に刻まれることになった。

……と、ここまでなら、史実を扱う歴史ミステリとして読める。だが島田荘司は、そこで終わらせない。

舞台はちょうど百年後、1988年の西ベルリンへ移る。冷戦の象徴である壁に囲まれた都市。東西緊張の最前線でありながら、徴兵免除に惹かれた若者、アナーキスト、反体制的な空気、退廃が入り混じる特異な孤島である。そこで、百年前の悪夢が再現されるのだ。

路地裏で発見された娼婦の遺体。喉を裂かれ、腹部を割られ、内臓を引き出されたその姿は、1888年のロンドンを思わせる。

しかも手口だけではない。標的とされる被害者の条件、犯行のペース、積み重なる犠牲者の数に至るまで、百年前の事件と不気味に符合していく。最終的に、ベルリンにおける被害者もまた、かつてのロンドンと同じ「五人」に達する。

百年前の殺人犯が、時を超えて甦ったのか。

もちろん、そんなオカルトめいた方向へ単純に走らないのが島田荘司である。ここで重要なのは、怪奇ではなく構造だ。

1888年のロンドンと1988年の西ベルリン。二つの時代、二つの都市、二つの連続殺人が、合わせ鏡のように並べられる。

現代の事件を追うことが、百年前の未解決事件を解く鍵になる。この大胆すぎる設計図こそ、本作の大きな引力だ。

ロンドンと西ベルリン、二つの孤島が映し合う

本作が面白いのは、切り裂きジャック事件を単なる猟奇犯罪として扱わないところにある。島田荘司は、犯罪を都市の中に置く。しかもその都市を、ただの背景としてではなく、事件を生み出す装置として描く。

1888年のロンドン・イーストエンドは、大英帝国の繁栄から切り捨てられた場所だ。光が強ければ影も濃くなる、という雑な比喩で済ませたくないくらい、そこには生々しい生活の圧力がある。

人々は貧困に押し込められ、不衛生な環境に閉じ込められ、明日を生きるために今日の身体を差し出すしかない。切り裂きジャック事件の恐怖は、犯行の異常性だけにあるのではない。そうした犯罪が発生しても不思議ではないほど、都市そのものが歪んでいることが怖いのだ。

一方、1988年の西ベルリンは、また別種の孤島として立ち上がる。壁に囲まれた西側の飛び地。政治的には自由の象徴でありながら、地図の上では閉じ込められた都市でもあった。そこへ反体制的な若者や、制度の隙間に入り込む人々が流れ込み、街には独特の退廃と混沌が漂っていく。

ホワイトチャペルを閉ざしていたのは貧困であり、西ベルリンを囲っていたのは壁だった。時代も制度も違う。それでも二つの都市は、社会のひずみが濃縮された場所として、奇妙なほどよく似た影を落としている。

ここがとても島田荘司らしいと思う。事件を単なるパズルとして閉じ込めない。なぜその場所でなければならなかったのか。なぜその時代でなければならなかったのか。

都市の構造、貧困、政治、身体、欲望。そうしたものが、犯罪の背景ではなく、ほとんどトリックの一部のように組み込まれているのだ。

ミステリでは、館や孤島が事件の舞台になることが多い。外部から遮断された空間があることで、容疑者が絞られ、論理の盤面が整うからだ。

本作におけるロンドンと西ベルリンも、広大な都市でありながら、一種の巨大な閉鎖空間として見えてくる。ホワイトチャペルは貧困によって閉じられ、西ベルリンは壁によって閉じられている。

つまりこの小説は、歴史都市を舞台にしながら、実はとんでもなく大きな密室ミステリでもあるのだ。

この読み方に気づくと、作品の見え方がぐっと変わる。切り裂きジャック事件を扱う猟奇ミステリ、というだけでは収まりきらない。都市そのものが犯行現場であり、時代そのものが密室の壁になっている。

そんな無茶な構図を、島田荘司は相当な腕力で成立させてしまう。ここで「相当」と言いたくなるくらいには、やっていることが大きい。

クリーン・ミステリ氏という、解く者であり解かれない者

絵:悠木四季

ベルリン警察の捜査は行き詰まる。壁に囲まれた都市の混沌、犯人の徹底した不可視性、百年前の事件をなぞるかのような異様な符合。

そこで現れるのが、イギリスからやって来た風変わりな男、クリーン・ミステリ氏である。

この名前の時点でニヤニヤせざるを得ない。名前からして怪しい。しかも彼は、自らを切り裂きジャック研究家と称し、並外れた推理力と、天体や占星術への独自の関心を漂わせながら、ベルリン警察の捜査に介入していく。

島田荘司作品を追ってきた人なら、ここであの名探偵の影を感じるはずだ。もちろん、そう単純に断定していいのかどうかは別として、この匂わせ方がなんとも楽しい。

クリーン氏は、犯行現場の物理的条件、被害者たちの行動パターン、警察が集めた物証を、論理のメスで解体していく。ここが本格ミステリとしての快感の中心である。

猟奇的な外見をした事件に対して、「怖い殺人鬼がいた」で終わらせず、「その手口でなければならなかった理由」を突き詰める。なぜ被害者は娼婦でなければならなかったのか。なぜ腹部を裂き、内臓を引きずり出す必要があったのか。なぜ犯行は五人で止まったのか。

このあたりの発想が、いかにも島田荘司である。狂気に見えるものを、物理と状況と社会条件から組み直す。猟奇の向こうに合理性を見つける。血と霧の中に、一本の論理の線を通す。

いや、こう書くと落ち着いた作業のように聞こえるが、読んでいる側は全然落ち着くことができない。島田ミステリの楽しさは、この大仰な奇想と冷たい論理が、同じページの上で殴り合うところにある。

そしてクリーン氏の推理が進むにつれ、1988年のベルリン事件は、1888年のロンドン事件を解くための鍵へと変わっていく。現代の事件を解くことが百年前の事件を解くことになり、フィクションの事件が、史実の未解決事件に論理の橋を架ける。この構図が本当に鮮やかだ。百年の隔たりが、ただの時間差ではなく、鏡の奥行きとして現れてくる。

しかもクリーン氏自身が、また別の謎として残る。名探偵は謎を解く存在である。ところが本作では、その名探偵めいた人物そのものが、作品の中で最も気になる謎の一つになっている。

あの名探偵なのか、別人なのか、変装なのか、遊びなのか。答えを一つに固定しないことで、彼は物語の外側にまで余韻を広げる。

事件の霧は晴れても、探偵の輪郭には別の霧がまとわりつく。この反転がいい。全部を説明しないからこそ、作品が読み終わったあとも勝手に増殖していくのだ。

猟奇の奥にある、論理と哀しみ

切り裂きジャック事件を扱う作品は、どうしても猟奇性に引っ張られやすい。

凄惨な遺体、異常な犯人像、都市を覆う恐怖。そうした要素だけでも十分に刺激がある。

しかし島田荘司の視線は、そこに留まらない。むしろ本作が目指しているのは、狂気と見なされてきたものを、論理の側から組み替えることだ。

もちろん、凄惨なものは凄惨である。そこを薄めてはいない。だが、島田荘司は「なぜ切り裂かれたのか」という部分に、単なる異常心理ではなく、切実な物理的必然を見出そうとする。ここが本格ミステリとしてめちゃくちゃ熱いのだ。

猟奇的な外見をした事件に対して、感情的な怪物像ではなく、条件と制約と動機の連鎖を組み立てる。そこには、島田荘司が本格ミステリに託してきた、論理への信頼がある。

奇想は派手でいい。むしろ派手なほうがいい。だが、最後には理屈が通らなければならない。驚きは偶然ではなく、構造によって生まれるべきだ。『占星術殺人事件』にも『奇想、天を動かす』にも通じる、あの大きな仕掛けと論理への執念が、本作にも流れている。

さらに印象的なのは、この小説が猟奇の裏側に哀しみを置いていることだ。被害者たちは、単なる事件の駒ではない。都市の周縁に追いやられ、生きるために路上へ出ざるを得なかった人々である。

ロンドンでもベルリンでも、彼女たちは社会の裂け目に立っている。だからこそ、本作の謎解きには、ただ犯人を暴く爽快感だけではない重みがある。論理のナイフは霧を裂くが、その先に見えるのは、人間の悲惨さでもある。

『切り裂きジャック・百年の孤独[改訂完全版]』は、歴史の謎に挑む本格ミステリであり、二つの都市を重ねた社会派ミステリであり、さらに名探偵そのものを謎として残すメタ・ミステリでもある。

要素だけを並べると盛りすぎに見えるが、島田荘司の場合、その盛り方が作品のエンジンになる。過剰で、大胆で、でも最後には論理で着地しようとする。その姿勢がやはり好きだ。

切り裂きジャックという百年の霧に、島田荘司がどう刃を入れるのか。もしそこに惹かれるなら、本作は文庫で手に取れる今こそ触れておきたい。

猟奇の暗さ、都市の孤独、探偵の謎、そして本格ミステリの底知れなさ。

その全部が、一冊の中で妙な熱を帯びている。

あわせて読みたい
『御手洗潔シリーズ』のおすすめ作品と読む順番について【島田荘司】 島田荘司の『御手洗潔シリーズ』はどれもめちゃくちゃ面白い。 傑作も名作もそろっているし、どこから読んでもある程度は楽しめる。 ……でも、結論から言ってしまうと、...
Amazonの聴く読書『Audible(オーディブル)』で聴ける神ミステリ10選

① 綾辻行人 『Another
② 有栖川有栖『月光ゲーム
③ 森博嗣『すべてがFになる
④ 麻耶雄嵩『翼ある闇 メルカトル鮎最後の事件
⑤ 今村昌弘『屍人荘の殺人
⑥ 殊能将之 『ハサミ男
⑦ 青崎有吾 『体育館の殺人
⑧ 知念実希人 『硝子の塔の殺人
⑨ 夕木春央『方舟
⑩ アガサ・クリスティ『そして誰もいなくなった

悠木四季

あの傑作ミステリを「聴ける」という奇跡!

私も利用しているけれど、「読む」とはまた違った良さがある。

何より、寝ながら聴いたり、散歩中に聴いたりと便利すぎるのだ。

この記事を書いた人

悠木四季
ただのミステリオタク
年間300冊くらい読書する人です。
特にミステリー小説が大好きです。

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次