フレドリック・ブラウン。
名前は聞いたことがある。でもちゃんと読んだことはない。
そんな人も多いんじゃないだろうか。
昔のSF作家? ミステリも書いていた?
そんな印象のままスルーされがちなこの作家は、実はとんでもない物語の魔術師である。
というのも、この人のすごさは「ジャンルを超えて活躍してた」とか「多才だった」とか、そういう一言ではまったく収まらない。むしろ、あまりに多才すぎて逆に正当な評価を受け損ねてきたタイプなのだ。
たとえばハードボイルドを書いてたかと思えば、SFでもユーモアでもホラーでもぶん回す。そして全部クオリティ高い。
しかもこの作家、日本文学との接点もめちゃくちゃ濃い。 星新一がショートショートという形式に本気で向き合うきっかけになったのが、ブラウンの作品との出会いだったらしいし、筒井康隆なんかも影響を公言している。もはや日本のショートショート文化の源流に、フレドリック・ブラウンがいるといってもいい。
だけど現代の読者からすると、「どこから入ればいいの?」となるのも事実。
そこで今回語りたいのが、この短編集『死の10パーセント』だ。
これがもう、入り口として完璧すぎる。
名作短編のフルコース

『死の10パーセント』は、ただのベスト集じゃない。編者・小森収による文学のフルコースとして構成された、精密に計算された短編集だ。
前菜、メイン、デザート。短編を料理に見立てて読者に供する構成は、単なるお遊びに見えて、実はとんでもなく理にかなっている。ジャンルも文体も語り口もバラバラなブラウンの短編を、順序立てて楽しませるための編集的知恵。
それがあるから、この本は読み進めるほどに「食べ合わせ」がよく、読後感も抜群にいい。しかも本邦初訳の作品も入っていて、古参ファンも新規読者も一緒に楽しめるようになっている。まさに万全の布陣だ。
この「構成で読ませる」という発想は、実はブラウンという作家の最大の弱点(分類不能な多才さ)を逆手に取ったものでもある。
本書の構成は以下のとおり。
全収録作品一覧と簡単コメント
- 『序文──フレッド・ブラウンを思い起こして』(ウィリアム・F・ノーラン):かつての盟友が語る、ブラウンという人物の魅力とユーモアに満ちた回想録。
前菜
- 『5セントのお月さま』(訳:越前敏弥):やさしくて不思議で少し物悲しい、ブラウンらしい幻想譚。
- 『へま』(訳:広瀬恭子):泥棒が巻き込まれる小さな計算ミス。ブラックユーモアとアイロニーがきいた小品。
魚料理
- 『女が男を殺すとき』(訳:高山真由美):探偵エド・ハンターとアムおじ登場。シンプルな構成ながら、読後に効いてくる味わい深さ。
- 『消えた役者』(訳:高山真由美):同コンビ再登場。舞台裏と嘘と真実が交差する、舞台劇のような仕掛けが楽しい。
ソルベ(口直し)
- 『どうしてなんだベニー、いったいどうして』(訳:広瀬恭子):理由がわからない不安が人を狂わせる。ブラウンの奇妙な味成分多め。
肉料理
- 『球形の食屍鬼(グール)』(訳:廣瀬麻微):不気味な空気の中で進む、異質な恐怖の物語。ホラー寄りのブラウンを味わいたい人向け。
- 『フルートと短機関銃のための組曲』(訳:越前敏弥):音楽と暴力、緊張と緩和が入り混じる、不穏なサスペンス短編。
メインディッシュ
- 『死の警告』(訳:越前敏弥):本書中もっともガチのミステリ。完全なハウダニット。不可能犯罪ファンは絶対読むべし。
サラダ
- 『愛しのラム』(訳:武居ちひろ):女性の愛と欲望、そして冷酷な計算が交差する、切れ味の鋭い一篇。
チーズ
- 『殺しのプレミアショー』(訳:国弘喜美代):映画の華やかさと裏側のドロドロ。ミステリというより映像小説感が強い一本。
デザート
- 『死の10パーセント』(訳:越前敏弥):表題作。奇想天外な契約、強烈な皮肉、ジリジリと迫る結末。文句なしの奇妙な味の代表作。
コーヒー
- 『最終列車』(訳:越前敏弥):たった数ページで哀愁と詩情を詰め込んだ名短編。締めにふさわしい読後感。
このバランス感覚と編集センスの冴え、まさに職人技。
文学のフルコースは、胃袋じゃなくて脳を満たす
この構成で読んでいくと、自然と「今度はどんな味だろう?」と楽しみながらページをめくることになる。甘い話、苦い話、冷たい話、熱っぽい話。あらゆるジャンルを通過しながら、私たちの感情の舌をめいっぱい使わせてくる。
なにより、これだけジャンルがバラバラでもまったく飽きない。それはすべての短編に「ブラウンらしさ」が通奏低音のように流れているからだ。
それはユーモアだったり、どんでん返しだったり、奇妙な余韻だったり。しかもそのブラウン節がジャンルごとに違った形で立ち上がってくるのが面白い。ミステリでそれを感じるのと、幻想譚やブラックユーモアで感じるのでは、また違った味わいがある。
この体験は、いわば「短編という小皿をめぐるグルメフェス」だ。それでいて、ちゃんと構成されたコース料理としてまとまりがあるから、読後の満足感が違う。
翻訳が時代の壁を取っ払った
古い作品というのは、どうしても翻訳が古臭かったり、回りくどかったりで読みづらくなることがある。でもこの『死の10パーセント』は、そこが見事にクリアされている。
メイン翻訳者・越前敏弥さんを中心に、複数の実力派翻訳者が参加していて、文体が今の日本語感覚に合っているのだ。そして読みやすさのなかに、原文のウィットや皮肉、独特のテンポ感もきちんと残っている。
「軽妙だけど軽薄じゃない」
この絶妙なニュアンスを成立させてる時点で、この本は最高だ。しかもどの作品も文章にムラがない。
アンソロジーでここまでブレのない読み心地を実現できるというのは、けっこうすごいことだと思う。
なぜ今フレドリック・ブラウンなのか?
現代の小説は、どこかで見たような物語が溢れかえっている(ように見える)。そんな中で、ブラウンの短編を読むと、まるで違う化学反応が起こる。
何を読まされるかまったく予測できない。数ページ先でどんでん返しが待っている。その構造自体がユーモアで、しかも読後感まできっちり設計されている。
つまり短編の快感を最高の形で体現してくれる作家、それがフレドリック・ブラウンだ。
しかも、ただ奇をてらっているわけじゃない。人間の可笑しさ、悲しさ、皮肉、滑稽さ、そういう味の濃い成分が詰まってるから、何篇も読んでも飽きない。
これは、今こそ読み返したい文学的資源であり、驚きの博覧会だ。
この本は再発見じゃなく、再起動だ
『死の10パーセント』は、単なる過去作の寄せ集めじゃない。フレドリック・ブラウンという作家を、現代に向けて再起動するための完全装備の一冊である。
読む人の冒険心、驚きへの欲望、そして文学的遊び心。すべてを満たしてくれる。
最後の一滴まで味わい尽くしたとき、あなたはこう思うはずだ。
「他のブラウンの作品も読んでみたい!」と。
というわけで、ようこそ。
文学のフルコースへ。
食べ終わっても、ずっと味が残る。
これがフレドリック・ブラウンのあと味というやつだ。

















