「メロスは激怒した。」― 太宰治の名作『走れメロス』のあまりにも有名な一文です。
多くの日本人にとって、友情と信頼、そして友のために時間と戦いながら必死に走るメロスの物語は、深く心に刻まれていることでしょう。暴君ディオニスへの怒り、身代わりとなった親友セリヌンティウス、妹の結婚式、そして約束を果たすための疾走。この感動的な物語を知る人は少なくありません。
しかし、もし、その必死の道のりの最中に、メロスが次々と殺人事件に遭遇してしまったとしたら?
本稿でご紹介するのは、まさにそんな奇想天外な設定で話題を呼んでいる小説、五条紀夫氏による『殺人事件に巻き込まれて走っている場合ではないメロス』です。古典文学とミステリという、予想外の組み合わせが、読者に新たな驚きと笑いを提供します。
親友を救うため一刻も早く走らなければならないメロスが、なぜか探偵役までこなす羽目に。果たして、この誠実だが少し単純かもしれない主人公は、事件を解決し、友を救うことができるのでしょうか? このユニークな物語は、読者を緊迫感とユーモア、そして謎解きが融合した、これまでにない読書体験へと誘います。
『殺人事件に巻き込まれて走っている場合ではないメロス』とは?あらすじと注目のポイント
物語は、多くの人が知る『走れメロス』の筋書きを踏襲しています。暴君ディオニスに捕らえられたメロスは、妹の結婚式に出席するため、親友セリヌンティウスを人質として残し、3日間という期限付きで故郷へ戻ることを許されます。しかし、彼の旅路は、原作とは全く異なる困難に見舞われます。
故郷での妹の婚礼前夜、なんと花婿の父親が殺害されるという事件が発生します。さらに厄介なことに、事件現場となったのは、メロスと彼の妹しか開けることができないはずの羊小屋。つまり、状況は「密室殺人」なのです。
首都シラクスへ一刻も早く戻り、セリヌンティウスを救わなければならないメロスですが、目の前で起きた殺人事件を放置するわけにもいきません。友情のための時間との戦いと、正義のための事件解決という、二つの緊急事態が彼に同時にのしかかるのです。このジレンマこそが、物語の大きな見どころとなっています。
しかも、メロスを待ち受ける困難はこれだけではありません。故郷を発ち、首都へ向かう道中でも、山賊の死体や、荒れ狂う川での溺死体に遭遇するなど、次々と不可解な事件に行く手を阻まれます。
そして、これらの事件の先に、首都で待ち受ける「衝撃の真実」とは何なのか。「二度読み必至の傑作ミステリ!」と謳われている作品ですが、事実そうでした。これぞミステリの醍醐味です。
単なるパロディやコメディに留まらず、読者を驚かせるような、しっかりとしたミステリとしての仕掛けが用意されていました!友情のために走るという本来の目的と、予期せず探偵役を担うことになった現実との間の絶え間ない葛藤が、物語に独特の緊張感とユーモアを生み出しているのです。
走りたいのに走れない? メロスを待ち受ける奇妙な事件
『走れメロス』の主人公といえば、目的のためには脇目もふらず走り続ける、不屈の男というイメージが強いでしょう。しかし、本作のメロスは、その有名な疾走を、次々と発生する殺人事件によって中断させられてしまいます。この、原作の持つシリアスな雰囲気と、メロスが直面するある種コミカルな状況とのギャップが、本書の大きな魅力の一つです。
メロスが遭遇する事件は多岐にわたります。前述の「羊小屋の密室殺人」に始まり、道中での「山賊の死体」の発見 、そして「荒れ狂う川の溺死体」と、ミステリの定番ともいえるシチュエーションが次々と登場します。これらは、ミステリファンにとっても楽しめる要素と言えるでしょう。
しかし、探偵役を務めるメロス自身は、必ずしも名探偵タイプではありません。「フィジカルで単細胞な正義の人」 や、やや砕けた表現ながら「脳筋なメロス」と評されることもあるように、どちらかといえば直情的で体力勝負の人物として描かれています。そんな彼が、「何故かどの事件も見事に解決」してしまうという展開は、物語のユーモアと意外性を高めています。どうやって彼が真相にたどり着くのか、その過程をぜひ楽しんでください。
このように、本作は『走れメロス』という強固な物語の骨格(時間制限のある旅、友情というテーマ)を利用しつつ、そこにミステリ要素を組み込んでいます。そして、その異質な組み合わせから生じる状況や、メロスというキャラクターの持つある種の「ズレ」が、独特のコメディセンスを生み出しているのです。原作への敬意と、ジャンルを横断する遊び心が見事に融合した作品と言えるでしょう。
著者・五条紀夫の世界:ユーモアと本格ミステリの融合
このユニークな作品を生み出したのは、作家の五条紀夫氏です。五条氏は、2022年に『クローズドサスペンスヘブン』で第22回新潮ミステリー大賞の最終候補となり、翌2023年に同作でデビューした、比較的新しい書き手です。
デビュー作『クローズドサスペンスヘブン』は、「天国」を舞台にしたクローズドサークル・ミステリで、しかも登場人物は全員すでに死んでいる、という非常に斬新な設定で注目を集めました。このことからも、五条氏が型破りで想像力豊かな設定を得意としていることがうかがえます。
他にも、『私はチクワに殺されます』といった、タイトルからして奇妙な印象を与える作品を発表しており、その独特の発想力は本作『殺人事件に巻き込まれて走っている場合ではないメロス』にも色濃く反映されています。
五条氏の作風の特徴の一つとして、その独特のユーモアセンスが挙げられますね。本作では、登場人物のネーミングにその遊び心が表れています。例えば、メロスの妹は「イモートア」、その花婿は「ムコス」、事件の目撃者は「ミタンデス」、山賊のボスらしき人物は「ゾクノボス」といった具合です。これらの、役割や状況をそのまま名前にしたかのような、あるいは現代的な言葉遊びのようなネーミングは、物語全体に軽妙でコミカルな雰囲気を与えています。
しかし、そのユーモアや奇抜な設定の一方で、物語の構築はしっかりしているでご安心を。原作である太宰治の文体を巧みに取り入れていますし、小説としてはちゃんと形を成した、単なるおふざけではない、しっかりとした物語作りがされています。
つまり、本作は単なる『走れメロス』のパロディというだけでなく、五条氏がこれまでの作品で培ってきた、ユニークなコンセプト、独特のユーモア、そしてそれを支える確かな筆力という作家性を、この古典的名作の世界観に適用した作品なのです。ジャンルの境界を探求し続ける、五条氏ならではの挑戦が結実した一冊と言えるでしょう。
おわりに:安心して楽しめる、新感覚メロス体験
五条紀夫氏の『殺人事件に巻き込まれて走っている場合ではないメロス』は、誰もが知る日本の古典的名作を、大胆かつユーモラスに、そしてミステリアスに再構築した、まさに「新感覚」のエンターテイメント作品です。
この本は、次のような方々に特におすすめできます。
- とにかく笑える、明るく楽しい小説を読みたい方
- ミステリとコメディが融合した、ユニークな物語に触れたい方
- 文学作品のパロディや、創造的な翻案作品が好きな方
- 原作の『走れメロス』を知っていて、遊び心のある解釈を楽しめる方
- 難しいことを考えずに、サクサクと読める面白い本を探している方
そして、忘れてはならないのが、今作は「二度読み必至の傑作ミステリ」であり、単なるコメディでは終わらないという事です。最後に明かされる「どんでん返し」をぜひ味わっていただきたいです。
メロスがどのようにして奇妙な事件を解決していくのか、そして彼を待ち受ける「衝撃の真実」とは何なのか。その答えは、ぜひご自身の目で確かめてみてください。
読み始めれば、次々と起こる予想外の展開と、著者ならではのユーモアセンスに、ページをめくる手が止まらなくなることでしょう。この「走っている場合ではない」メロスの大奮闘(?)を、心ゆくまでお楽しみいただければ幸いです。