『伊根の龍神』- 伝説と現代が交錯する、御手洗潔シリーズ最新作の深淵

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日本の本格ミステリー界に燦然と輝く巨星、島田荘司氏。1981年の『占星術殺人事件』における衝撃的なデビューは、その後の日本のミステリーシーンを一変させました。氏が生み出した稀代の名探偵・御手洗潔と、その誠実な相棒・石岡和己が織りなす物語は、「御手洗潔シリーズ」として、壮大かつ奇抜なトリック、深い人間洞察、そして時に胸を打つ抒情性をもって、数多くの読者を虜にしてきました。  

その島田氏による待望の御手洗潔シリーズ最新書き下ろし長編が、本作『伊根の龍神』です。原書房より2025年3月に刊行され、前作『ローズマリーのあまき香り』(2023年)から比較的短いスパンでの登場は、長年のファンにとって嬉しい驚きとなりました。舞台は、風光明媚なことで知られる京都府伊根町の舟屋群。古くからの伝説と現代社会の闇が交錯する、島田氏ならではの重厚でスケールの大きな物語が展開されます。  

物語は、伊根湾に「龍神」が現れたという謎めいた噂から幕を開けます。このUMA(未確認生物)を思わせる話に興味を抱いた石岡和己に対し、御手洗潔は「本当に危険なんだよ」「近寄ってはいけない」「大怪我するよ」と、普段の彼からは想像しにくいほどの強い警告を発します 。この不穏な幕開けは、単なる伝説探訪ではない、深刻な事態の始まりを予感させ、読者を一気に物語世界へと引き込みます。

目次

水面に揺れる謎:龍神伝説と不穏な影

物語の幕開けは、伊根湾に「龍神」と呼ばれる正体不明の巨大生物が出現した、という不可思議な噂です。地元の伝説やUMA(未確認動物)を想起させるこの謎めいた話が、読者の好奇心を掻き立てる最初のフックとなります。  

作家であり、御手洗潔の長年の友人でもある石岡和己は、ひょんなことから知り合ったUMA研究会に所属する女子大生・藤浪麗羅に、半ば強引とも言える形で誘われ 、この龍神の調査のために伊根へと赴くことになります。しかし、石岡がこの計画を御手洗に打ち明けると、彼は「生命の危険がある」「大怪我をする」と、いつになく強い口調で石岡の伊根行きを諌めるのです。

天才探偵・御手洗によるこのただならぬ警告は、単なるUMA騒動やローカルな伝説の探求では済まされない、深刻で危険な何かが伊根に潜んでいることを強く示唆しています。  

実際に伊根に到着した石岡と麗羅が目の当たりにするのは、穏やかな観光地のイメージとはかけ離れた光景でした。物々しい自衛隊の展開 、何かを固く口止めされているかのように秘密主義的な村人たちの態度 、そして周辺地域の封鎖 など、平和な漁村には似つかわしくない異常な状況が、緊迫した不穏な空気を醸し出します。  

そして、当初はUMA探しのように始まった彼らの旅は、やがて想像を絶する深刻な事件へと発展していきます。滞在先の舟屋の女将が忽然と姿を消し、近くの洞窟では身元不明の女性の遺体が発見されるなど、不吉な出来事が連鎖します。

物語は、オカルティックな龍神伝説というヴェールを剥ぎ取り、より現実的で、人間の深い闇や社会的な陰謀を孕んだ、複雑なミステリーへとその様相を急展開させていくのです。この序盤における期待の裏切りとスケールの拡大は、島田作品ならではの読者を惹きつける手法と言えるでしょう。  

旧知の二人、深まる絆:御手洗潔と石岡和己

本作『伊根の龍神』では、長年コンビを組んできた御手洗潔と石岡和己の関係性にも、新たな光が当てられています。物語の語り手として中心的な役割を担うのは、石岡和己であり、読者は彼の視点を通して、伊根で展開される不可解な出来事や、そこに潜む闇を追体験することになります。石岡は、年下の奔放な女子大生・麗羅に振り回されながらも 、事件の渦中へと足を踏み入れていきます。

そしてなんと、今作は2020年の物語なのです。つまり、シリーズ一作目の『占星術殺人事件』が1979年の物語で、当時は御手洗も石岡も20代後半だったので、つまり2020年の時点では、二人は70代ということ!この年齢設定が、彼の行動原理や心理描写、そして長年の友人である御手洗との関係性に深みを与えています。

石岡は時に御手洗の指示通りに動く「使い走り」のようでありながら、核心部分では御手洗の推理に対して懐疑的な態度を見せることもあるという、彼の複雑な立ち位置が描かれています。麗羅との年齢差は「孫と爺さんのよう」とも表現されており、世代間のギャップや交流も物語の一要素となっているのです。  

一方、探偵・御手洗潔は、物語の序盤においては、石岡に対して強い警告を発するという、影からの導き手のような役割を果たします。しかし、事件が深刻化するにつれて、その比類なき洞察力と推理力によって、伊根に隠された「昏い真実」を白日の下に晒すことになるのです。その存在感は圧倒的であり、「要所に出てきて良いところを持っていく」、「御手洗の活躍も見事」と評されるように、物語のクライマックスにおいて決定的な役割を果たしてくれます。

長年にわたる御手洗と石岡のコンビネーションは、シリーズを通してファンを魅了してきた核心的な要素です。本作では、人生経験を積み、年齢を重ねた二人の間に流れる友情や信頼関係が、より深く描かれています。御手洗の石岡に対する保護的な態度や世話焼きな一面、そして以前と比較してややソフトになったとされる物腰など、彼らの関係性の変化も見どころです。

島田荘司氏の壮大な構想、社会への問い、旅情

島田荘司氏の作品世界は、常に読者の予想を裏切る壮大なスケールと、社会の深層に切り込む鋭い視点、そして物語の舞台となる土地への深い洞察によって特徴づけられます。『伊根の龍神』においても、その作家性は遺憾なく発揮されています。

まず、物語の構想の壮大さです。「龍神」というオカルティックな伝説から始まる物語は、単なる地方の怪異譚に留まらず、やがて国家レベルの秘密や国際的な謀略をも巻き込む、予測不可能な展開を見せてくれます。これは、島田作品に一貫して見られる、個人的な事件が巨大な構造と結びついていくダイナミズムの表れと言えるでしょう。

用いられるトリックも、個別の密室やアリバイ工作といったパズル的なものに留まらず、伊根という土地の地理的特性や、物語全体を覆う社会的な背景、あるいは人間の心理そのものを利用した、大掛かりで奇抜な仕掛けが施されています。

そして、旅情ミステリーとしての側面も本作の魅力の一つです。舞台となる伊根町の、海と密接に結びついた舟屋群の美しい描写は、物語に豊かな情感と独特の雰囲気を与えています。閉鎖的とも言える漁村の空気感や、美しいながらもどこか神秘的な、あるいは不穏な気配を漂わせる風景が、ミステリーの舞台装置として効果的に機能しているのです。特に、石岡が麗羅と共に伊根を訪れる導入部は、読者を風光明媚な、しかし謎めいた土地へと誘う旅情ミステリーとしての魅力に溢れています。  

さらに、伊根湾に伝わる「龍神」の伝説が、物語の根幹に関わる重要な要素として巧みに組み込まれています。島田氏はしばしば、作品の舞台となる土地固有の歴史や伝承、風土を深く掘り下げ、それを物語世界の構築やトリックの着想に活かしますが、本作でもその手法によって、物語にリアリティと独自性、そして深みが与えられています。

長大な物語の新たな一頁

『伊根の龍神』は、40年以上の長きにわたり紡がれてきた御手洗潔シリーズという壮大な物語に、新たな一頁を刻む作品です。

石岡和己の一人称視点が久々に採用されている点は、初期からのファンにとっては感慨深いものがありますね。また、物語の時代設定が現代であることも、現代社会が抱える問題とリンクさせる上で重要な要素となっています。

作風としては、純粋な本格パズラーというよりも、冒険小説的なスリルや社会派ミステリーとしての色合いが濃く、これは『星籠の海』(2013年)など、近年の島田作品に見られる傾向と共通しています。壮大なトリックや奇抜な着想といった島田ミステリーの根幹は維持しつつも、社会へのメッセージ性をより前面に出した作品と言えるでしょう。    

日本のミステリー文学史において、島田荘司氏は新本格ムーブメントを切り開き、常にシーンを革新し続けてきた存在です。本作『伊根の龍神』もまた、現代社会が直面する困難な問題に対し、本格ミステリーという枠組みの中で真摯に向き合おうとする、氏の作家としての姿勢を強く示す作品として位置づけられるでしょう。壮大な物語性と社会への深い問いかけを両立させようとするその試みは、現代ミステリーが取り組むべき課題の一端を示唆しているとも言えます。  

おわりに:伊根の深淵への誘い

島田荘司氏による御手洗潔シリーズ最新作『伊根の龍神』は、多くの魅力と論点を内包した、読み応えのある長編ミステリーです。日本の原風景とも称される京都府伊根町の舟屋群という、類まれな美しさを持つ舞台設定。そこで語られる「龍神」の伝説というオカルティックな導入部から、読者はやがて、現代社会の抱える深刻な闇と、人間の業が複雑に絡み合った、壮大な謎の世界へと誘われます。

長年のファンにとっては、御手洗潔と石岡和己という不滅のコンビが、年齢を重ねながらも新たな事件に挑む姿を見届けられる喜びがあります。島田荘司氏ならではの、常識を覆すような大胆な着想とスケール感、息をのむような情景描写、そして社会への鋭い問題提起が、本作でも渾然一体となって読者に迫ります。

もちろん、その重厚なテーマ性や独特の語り口は、一部の読者にとっては好みが分かれる部分もあるかもしれません。しかし、単なる謎解きエンターテインメントに留まらず、読了後に深い思索を促し、現実世界について改めて考えさせる力を持っていることは確かです。ネタバレを避けてその全貌を語ることは叶いませんが、島田荘司氏にしか描けない、唯一無二の濃密な物語世界が、この『伊根の龍神』には広がっています。

御手洗潔シリーズの熱心な読者はもちろんのこと、骨太な社会派ミステリーや、美しい風景描写が織り込まれた旅情ミステリーに関心のある方々にとっても、本作は決して期待を裏切らない一作となるでしょう。ぜひ、ご自身の目で、伊根の入り江に潜む「昏い真実」を確かめてみてください。

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この記事を書いた人

年間300冊くらい読書する人です。
ミステリー小説が大好きです。

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