ボルヘスとビオイ=カサーレスが組んで探偵小説を書いた──それだけで、ミステリ好きならテンションが上がるに決まっている。
そして生まれたのがこの『ドン・イシドロ・パロディ 六つの難事件』だ。
しかも、ただの探偵ものじゃない。安楽椅子どころか、独房探偵。登場するのは皮肉屋で哲学者めいた囚人探偵、事件は全て語りだけ、そして語るのはやたら話の長い人々。
「そんなの面白いの?」と思われるかもしれない。でも、これがめちゃくちゃ面白い。ミステリとしても読めるし、文学の遊びとしても楽しめるし、なにより読者の頭脳が問われるエンタメとして超一級だ。
今回はそんな「言葉だけで勝負する異色探偵小説」の魅力を、思いきり語っていこう。
ボルヘスとビオイ、共犯関係から生まれた第三の作家
まずは背景を押さえておこう。
ホルヘ・ルイス・ボルヘスとアドルフォ・ビオイ=カサーレス。
この二人が共作するにあたって使ったのが「H・ブストス=ドメック」というふざけたような、でも妙にリアルなペンネームだった。
なぜこんな名前かというと、それぞれの祖先の姓をくっつけたからだ。つまり、少しふざけた遊びでもあるし、創作上の仮面でもある。そしてこの仮面の下で、二人は自由に風刺を利かせたり、論理を極めたり、文学そのものを茶化したりできるようになる。
ボルヘスは元々、架空の書物や作家を創造する虚構作家として知られていたが、今回はその手法をさらに推し進め、現実に偽作家を登場させ、その作家が書いたという体裁で小説を書く。ここからして、もうジャンルと現実の境界線がゆらぐ。
そしてビオイ=カサーレス。彼は緻密な構成力と、人間をちょっと斜めから眺めるようなユーモアを持つ作家だ。この二人が合わさったとき、「ペダンティック(衒学的)なバロック文体」+「アルゼンチンの市井風俗」+「迷宮のような論理遊戯」=ブストス=ドメックの誕生となる。
だからこれは、単なる合作ではなく、二人の天才が作った「第三の作家」による、異形のミステリなのだ。
ドン・イシドロ・パロディ、その名も「パロディ」
さて、主人公であるドン・イシドロ・パロディ。この名前からして、もうジャンルへの仕掛けがある。「パロディ」=「探偵小説のパロディ」だ。
彼は元理髪師であり、なぜか殺人犯として逮捕され、いまは独房273号に収監中。そこから一歩も出ずに、面会に来る人々の話を聞いて、推理して、事件を解決する。つまり完全なるアームチェア・ディテクティブ。
しかも、マープルやネロ・ウルフよりも、さらに極まっている。彼は情報をすべて「言葉」だけで受け取り、「現場」も「物証」も知らない。視覚も触覚もない。あるのは、依頼人の話と、彼自身のロジックだけ。
つまり彼の独房は、図書館であり、迷宮であり、実験室。そして依頼人の話は、時に支離滅裂で、時に饒舌すぎて、情報なのか雑談なのかわからない。でもパロディはそこから、言葉の迷路をたどり、論理の糸を引っ張り出してくる。まさに現代のテセウスだ。
加えて、彼が元理髪師という設定も面白い。理髪店はかつて町の情報センターだった。つまり彼は、情報を耳で聞き取って、そこから人間模様を読み取るプロである。
そこに20年以上の獄中哲学が加われば、そりゃ最強の探偵になるというものだ。
語りの爆弾と、読者という探偵
この作品の何が難しいって、読みにくいところだ。いや、正確に言えば、情報が整理されていない。
各章ごとに登場する依頼人たちは、みんな自己愛のかたまりみたいな人たちで、自分の話をしたくて仕方がない。そのせいで、事件の説明がやたら長くて脱線も多く、全体像をつかむのが非常に困難である。
でも、そこが面白い。これはつまり、読者もパロディと同じ状況に置かれているのだ。信頼できない語り手から、断片的で主観に満ちた情報だけを与えられ、それでも真相を解き明かさねばならない。私たち自身が、探偵役にされてしまっている。
しかもこの会話劇、単なる冗長ではない。情報を「小出しにする」「ズラす」「ミスリードする」というミステリ的技巧が、語りのなかに巧妙に埋め込まれている。
よく読めば伏線だらけ。読み飛ばせば、パロディに置いていかれる。
六つの事件、迷宮としての世界

そんな情報迷宮のなかで語られる六つの事件。ここでは簡単に、それぞれの入り口だけ紹介しよう。
「世界を支える十二宮」
イスラムの秘儀のさなか、教祖が殺されるという、宗教的で閉鎖的な共同体の中で起きた密室殺人事件。
儀式の意味、黄道十二宮の象徴性、信仰と論理の対立。そのどれもが複雑に絡み合い、まさに世界の構造そのものを問うような深遠な謎に発展していく。
「ゴリアドキンの夜」
ロシア皇女の高価な宝石が、夜を徹して走る急行列車内で忽然と消える。舞台は動く密室。
限られた登場人物、すれ違う証言、そして誰もが何かを隠している状況の中、事件は思わぬ展開を見せる。推理小説らしい夜の列車の魅力が詰まっている。
「雄牛の神」
パンパの広大な草原にある農場での祝祭の最中、農場主が人々の目の前で刺殺される。だが、誰にも犯人の姿は見えていない。
何百人もの目撃者がいながら、誰も真相に近づけない。スケールの大きな群集劇でありながら、殺人自体は消失してしまっている。そんなパラドックスを孕んだ、挑戦状のような一編。
「サンジャコモの先見」
ブエノスアイレスの場末のホテルにふらりと現れた、一見冴えない田舎者。だが、彼の語る未来の出来事が次々と現実になることで、宿泊客たちは混乱と不安に包まれていく。
予知能力か、偶然か、それとも何か別のロジックがあるのか。静かな舞台設定のなかで心理戦が展開される。
「タデオ・リマルドの犠牲」
裏社会に生きる人々の間で語られる、名誉と犠牲の物語。家族を守るための殺人なのか、裏切りなのか。
物語は道徳的ジレンマの迷宮へと誘う。血縁や義理といったアルゼンチン独特の社会観が色濃く反映され、どこか哀切ささえ漂う一編である。
「タイ・アンの長期にわたる探索」
中国の奥地からやってきた魔術師タイ・アンが、聖なる宝石を探し求めてブエノスアイレスの街をさまよう。
東洋の神話的モチーフと、探偵小説の論理的構造が絶妙に融合した一編であり、幻想文学のような雰囲気も漂う。文化の交差点としてのブエノスアイレスが鮮やかに描かれている。
どれも舞台がぶっ飛んでるし、登場人物も一癖も二癖もある。そしてそのすべてが、独房という極小の空間で再構成されていく。
世界は広い。でも、真相は狭い部屋の中で完結するのだ。
パロディは遊びじゃない、本気の頭脳バトルだ
結局この作品を読み終えたときに残るのは、「ミステリは、こんなに自由なんだ」という驚きと、「読んでる自分も試されている」という緊張感だ。
『ドン・イシドロ・パロディ 六つの難事件』は、探偵小説を愛してやまない二人の作家が、本気でジャンルを遊び倒した結果である。
だがこれは単なるパロディでも、単なる笑いでもない。すべては、「言葉の中に真実を見いだす」ための真剣勝負だ。
ボルヘスとビオイ=カサーレスが、探偵小説というゲームボードの上で仕掛けた、一大知的遊戯。その迷宮に、ぜひ迷い込んでみてほしい。
知識とユーモア、論理と脱力、迷宮と独房。
この作品に挑む者こそ、探偵なのである。

















