
誰だって一度は「ハンニバル・レクター」という名前を耳にしたことがあるはずだ。
映画『羊たちの沈黙』の名優ホプキンスが演じた、あの上品で残酷なカニバリスト。彼は殺人鬼なのにやけに知的で、丁寧な言葉遣いと美食への執着が妙に魅力的だった。
そんな彼の食卓にまつわる料理本が存在すると聞けば、誰だって「どういうこと?」と首を傾げるはずだ。だがこの本『ハンニバル・レクター博士の優雅なお料理教室』は、その「?」に真っ向から応える作品だ。
書いたのは、テレビシリーズ『ハンニバル』のフードスタイリスト、ジャニス・プーン。だが「スタイリスト」という肩書きでは到底おさまらない仕事ぶりだ。彼女は料理という手段を通して、あの耽美で凄惨な世界を創造し、レクター博士の内面を皿の上に描き出した、もうひとりのストーリーテラーなのだ。
この本を単なるレシピ集と思って読んではいけない。写真集でもあり、舞台裏の制作日誌でもあり、作品世界の拡張資料でもあり、さらには〈再現可能な異常性〉をそなえた魔導書でもある。
ページをめくるごとに、こちらの感覚は侵食されていく。食欲と好奇心と倫理観がぶつかり合い、「これ、本当に家で作れるのか?」という、変な興奮が喉元にこみ上げてくる。
たしかに、再現レシピには人肉は登場しない。でも逆に言えば、それ以外はすべてリアルなのだ。肉の火入れ、皿の配置、ナプキンの折り方まで、徹底的に美しく、そしてどこか怖い。
読者はいつのまにかハンニバルの目で料理を見ることを強いられる。その異常な読書体験こそ、この本の最大のごちそうだ。
料理は語る 沈黙のドラマを皿の上で演出する

『ハンニバル』のなかで、食卓は会話の場であり、心理戦のリングであり、誘惑と支配の舞台でもある。
ハンニバル・レクターが何を、どのように出すかは、彼の感情と思想、そして相手との関係性を映す鏡になっている。ジャニス・プーンが再現したその食卓は、一皿一皿がまるで台詞のように雄弁だ。
例えば、あるレシピでは鴨の血で作られたソースが、赤ワインと区別のつかないようにガラスの器に注がれている。これは単なる美食ではない。客人の目と舌を騙すゲームであり、同時に「この席では真実は常に味付けされている」という宣言でもある。レクター博士が仕掛けるのは、ナイフとフォークで綴る詩のような心理劇なのだ。
また、彼が特定の人物にふるまう料理も、微細な変化を見せる。ウィル・グレアムに出される料理は、シリーズが進むにつれてあたたかくなっていく。だがそれは同時に、より危険な香りを帯びていく。愛と狂気が絡み合った皿の上には、言葉にならない感情のうねりがある。
プーンはこうした感情の皿を、実際のレシピとして立ち上げていく。難易度の高い料理であっても、ひとつひとつに意味がある。単なるグルメではなく、物語としての料理がここにはあるのだ。
そしてそれを、わたしたちのキッチンで再現できてしまうところに、この本の背徳的な魅力がある。
美しさと不気味さは共存する
この本を読みながら何度も思ったのは、「なんでこんなに美しいんだ?」ということだ。掲載されている写真は、まるで17世紀の静物画。カラヴァッジョのような明暗対比、重厚な色合い、ちょっと不安になる光の使い方。まるで死と美が一皿に共存している。
スケッチもまた印象的だ。角の生えた料理、カラスの羽根が添えられた盛り付け。これはただのメモではなく、料理というよりは儀式の設計図に近い。読みながら感じたのは、「この人は、料理人というより美術監督なんじゃないか?」ということ。いや、もう芸術家だ。
プーンが描き出すこの美学は、日本の異色作家たち――たとえば白井智之や麻耶雄嵩の作品世界とも奇妙に通じている。倫理観を故意に外し、不快と魅力を同居させる感覚。それは読みやすさではなく、読み続けずにいられない不穏を生む。
この本もまさにそうで、ページを閉じるタイミングが見つからない。気づけば写真を凝視し、レシピの詳細に震え、スケッチの筆圧に作者の狂気を感じ取ろうとしている自分がいる。
美しい料理というのは、一般的には清潔感やシズル感を指すのだろう。でもこの本の美しさは違う。死を美しく盛り付けるという、まるで宗教画のような神聖さが漂っている。見た目は完璧。でも、どこかがおかしい。そのどこかが、ずっと特定できないまま、ページが進む。
しかもプーンは、料理の外見だけでなく、その背後にある思想まで盛り付けてくる。肉の部位、切り方、ソースの粘度、骨の残し方――すべてがメッセージであり、物語のピースだ。
読むというより、嗅ぎ取る読書。これはもはや味覚と視覚だけじゃなく、倫理にも触れてくる一冊だ。
フィクションはキッチンに侵入する
最大の恐ろしさは、この本が実用的であることだ。読者はこれらの料理を、実際に家で作れる。スーパーで買える肉と、手に入る道具で、あのハンニバルの食卓を再現できてしまう。
これって、けっこうスゴイ仕掛けじゃないか。映画や小説がどれだけリアルでも、体験できるのは頭の中だけ。でもこの本は、「再現」を通して、匂い、触感、味覚まで巻き込んでくる。つまり全感覚型のファンダム体験だ。
料理をする手が、いつのまにかハンニバルの手になっている。それってすごくワクワクしないか!しかも、完成した料理がめちゃくちゃ美味しそうなのが、また困る。これはもう、ただの読書ではない。参加型ホラーだ。
クレイ・ベイクド・チキンを焼いてみる。オーブンから漂う香ばしさ。その瞬間、レクター博士が口元を吊り上げる幻がよぎる。ここは本当に我が家なのか? なぜ今、こんなにも異様な満足感があるのか? そう思ったときにはもう遅い。あなたはすでに、物語の共犯者になっている。
プーンはその侵入を計算ずくで仕掛けてくる。彼女が語る逸話――「肺をどうやって美味しそうに見せるか」「料理写真に死をどう宿すか」――それらは一見おかしな話に見えるが、読めば読むほど、彼女がどれだけ真剣にフィクションをリアルにすることに命を削っていたかが分かる。
『ハンニバル』は、彼女なしでは完成しなかった。いや、彼女こそがレクター博士のもう一つの顔だったのかもしれない。
この本の真の恐ろしさは、「読み終えても終わらない」ところにある。レシピは残る。料理はできる。キッチンはそこにある。つまりあなたは、いつでも続きを作れるのだ。
そしてその続きを誰にふるまうか、それはあなただけが決められる。
食後酒としての結論
『ハンニバル・レクター博士の優雅なお料理教室』は、ただのタイアップ本じゃない。これは、美と狂気の臨界点を皿の上で探る、一冊の異端の芸術書だ。
ジャニス・プーンがやってのけたのは、レクター博士の精神を「料理」という行為に変換し、それを現実に召喚可能な形で我々に提供するという、狂気と優雅が混ざり合った試みだった。
読んでいるあいだは、ずっと問いが頭を巡る。
「これは本当に料理本なのか?」「でも、美味しそうに見えてしまうのはなぜ?」「自分が今感じているのは興味か、恐怖か?」
そして気づく。「自分もこの食卓に座ってしまっている」と。
最後のページを閉じても、レクターの料理の記憶は舌に残る。問題は、それをまた味わいたいと思ってしまう自分を、どう扱うかだ。
あなたはその招待状を受け取るだろうか?
それとも、知らぬふりをしてページを閉じるか?
どちらを選んでも、一度このキッチンに足を踏み入れてしまったら、もう元の食卓には戻れない。
