
静かな海辺の町が、ひとりの殺人鬼によって崩壊していく。
フランシス・ビーディング『イーストレップス連続殺人』は、そんな悪夢のような連続殺人の記録だ。
1931年の古典ミステリだけど、2025年6月に日本で初めて翻訳された文庫が発売されたのだ。嬉しい!
まあ、正直なところ「黄金期ミステリね、はいはい。どうせお上品なパズルでしょ」くらいの気持ちで手に取った。ところがだ。読み始めたら、どんどん空気が重たくなっていって、そのイメージが音を立てて崩れた。
舞台はノーフォーク海岸沿いの静かな保養地イーストレップス。いかにも平和そうな田舎町なんだけど、毎週同じ曜日に、人がこめかみを刺されて殺される。規則的に繰り返されるその犯行はあまりにも冷酷で、やがてメディアが犯人に「イーストレップスの悪魔」という名前をつける。名前がついた瞬間から、町全体が一気に物語化されてしまうあたりがリアルだ。
ここがすごい。殺人事件そのものよりも、その事件がもたらすパニックのほうが生々しく描かれるんだ。観光客は一斉に逃げ出すし、町の経済は壊滅するし、夜になると誰も外に出ない。警察が頼りにならないから自警団までできて、社会秩序はズタズタ。まるで連続殺人がウイルスみたいに町の空気を汚染していく。
黄金期ミステリって、密室とかアリバイとか〈謎解き〉が中心で、世界はあくまで舞台装置だと思っていた。でもこの本は、町そのものがじわじわ壊れていく過程を真正面から描いている。
だから今読んでもリアルなんだ。トゥルークライムや現代のクライムフィクションが扱う社会的インパクトの先取りみたいな作品だと感じた。
人間のイヤな部分がちゃんと出てくる
イーストレップスの住民たちも一筋縄じゃいかない。中心人物のロバートは、過去に投資詐欺をやらかして多くの人を破産させた男だ。しかも人妻と逢引するためにアリバイ工作をしていて、それが原因で疑惑の中心に引きずり出される。正直、嫌われても仕方ないやつなんだけど、恋人への気持ちだけは本気っぽくて、そこに妙な哀愁がある。この人物造形のグレーさがいい。
警察もまた、完璧じゃない。尊大だけど実はそこまで無能じゃない地元のプロザー警部、野心はあるけど少し空回りするラドック巡査部長、そしてスコットランドヤードから派遣されるウィルキンズ警部。三者三様のプライドと政治的な思惑がぶつかっていて、その力学がいちいちリアルだ。
語り口がまた面白い。視点がコロコロ変わるんだ。被害者の視点、容疑者の視点、警官、町の住民、時には猫まで。多角的視点で進むから、読んでいるこっちも混乱するし、町の恐怖がじわっと染み込んでくる。読者は“安全な探偵席”から冷静に眺めるんじゃなく、完全に混沌の渦の中に放り込まれる感じだ。
だから「この人が犯人だろ」と思っても、次の章では別の視点に移って、また違う真実が見えてくる。その疑心暗鬼の連鎖が、物語全体の不安を増幅させている。
黄金期ミステリのキャラクターって類型的な印象があったけど、この作品はちゃんと“生臭い人間”がいる。
サスペンスにシフトする、黄金期らしからぬ構造
読んでいて気づいたのは、この小説は《フーダニット(誰が犯人か?)》の形をとりつつ、実はサスペンス寄りだということだ。犯人の正体は、わりと早い段階で「察しがつく」タイプ。普通ならそれはミステリとしての弱点になる。でも、この作品では逆にそこが効いている。
なぜなら、読者は「警察が間違った方向に進んでいる」とわかるからこそ、むしろハラハラするんだ。無実の人が捕まりそうになる、証拠が積み上がっていく、誤認逮捕のリスクが高まる……その過程に、ドラマティック・アイロニー(劇的皮肉)が生まれている。
焦点は「誰がやったのか?」ではなく「間に合うのか?」に移る。この構造のシフトが、今読むとめちゃくちゃ現代的だと感じる。純粋なパズル解きよりも、心理的な緊張や時間との競争に比重が置かれている。
ある意味、アガサ・クリスティーの『ABC殺人事件』の先祖みたいな立ち位置かもしれない。いや、むしろもっとスリラー寄り。古典ミステリのフォーマットを持ちながら、ジャンルの境界を軽々と越えていく感じがある。
フェアプレイを破る、そして心に残るラスト
もうひとつ驚いたのは、いわゆる〈フェアプレイ精神〉をあえて破っているところだ。黄金期ミステリといえば「読者にも犯人を当てるチャンスを与える」のが前提だけど、この作品は決定的な手がかりを最後まで隠している。
なので、読者はどうやっても登場人物より先に真相にたどり着けない。
これは、パズル派には不評だったらしい。でも読んでみると、意図的にやっているのがわかる。読者が登場人物より先に真相にたどり着くことを不可能にすることで、ラストの衝撃をそのまま共有させる仕組みになっているんだ。探偵小説というより、心理スリラー的な読後感を狙っているのだと思う。
そして法廷シーン。ここがめちゃくちゃドラマティックで、登場人物それぞれの視点が交錯しながら一気に緊張が高まる。
ラストの結末はネタバレしないけど、「うわ、これで終わるのか……」と妙に心に残る。黄金期の定番みたいに、秩序が回復して「めでたしめでたし」にはならない。もっと暗くて皮肉で、不安が残る終わり方だ。探偵小説の約束事をさらっと裏切ってくる。
犯人の動機や心理がグロテスクなんだけど、それはモンスター的な意味じゃなく、人間の異質さそのものが怖いタイプ。読後に残るのはスッキリした満足感じゃなく、じわじわくる動揺。だからこそ、今の読者にも響くんだろうと思う。
黄金期の作品なのに、むしろ今の読者のほうがピンとくると思う。社会は簡単に元には戻らないし、犯人を捕まえても何かが失われたままだ、っていう現実的な余韻。そこがものすごく現代的だった。
おわりに:古典の皮をかぶった、現代的スリラー
『イーストレップス連続殺人』は、ただのヴィンテージ本格じゃない。
町が壊れていく過程を描き、視点を飛び回らせて疑心暗鬼を煽り、フェアプレイを破ってでもサスペンスを優先する。そして最後に残るのはスッキリじゃなく、不穏な余韻。
1931年にこれを書いたのは本当にすごいと思う。黄金期ミステリの常識をひっくり返しながら、今のクライムフィクションに直結するエッセンスを詰め込んでいる。古典が好きな人にも、心理スリラーが好きな人にもおすすめできる一冊だ。
古典だと思って油断していると、不安とざらついた感触がずっと残る。
もし「黄金期ミステリは上品で退屈」なんて思っているなら、この作品はそのイメージをひっくり返してくれるはずだ。
