ある文庫の背表紙に、こんな名前が並んでいる。
乙一、中田永一、山白朝子、そして安達寛高。
知らない人が見たら「人気作家による豪華共演だな」と思うかもしれない。でもこの並び、実は全部、ひとりの作家によるペンネームと本名である。
そう、これは奇才・乙一による25周年記念アンソロジー『沈みかけの船より、愛をこめて』。いわば、自作自演の超大型「ひとり文学展」だ。
アンソロジーといえば、普通は複数の作家がそれぞれの持ち味を発揮して場を盛り上げるものだが、この本はちょっと違う。
全編を通して書いているのはたった一人。それなのに、読むとまるで別々の作家が筆を執ったように感じる。名義ごとにまるで違う世界観が広がっていて、各作風がまさに人格を持っているように機能しているのだ。
「乙一」名義は、彼の原点。黒くて残酷で、それでも切ない。逆に「中田永一」は甘酸っぱくて明るい青春文学。「山白朝子」は現代の怪談師で、暗く美しい恐怖を語る存在。そして本名「安達寛高」は監修者としての立場で、この三者を束ねて全体をキュレーションしている。
これはつまり、安達寛高という作家が、自分自身の分裂した内面をコントロールし、ひとつの短編集として構成した「構造そのものが物語」という、非常に実験的かつ批評的な作品集なのだ。
三つの顔、それぞれの作風と世界観

乙一
彼の作風は、昔からファンの間で「白乙一」と「黒乙一」に分けられてきた。白は切なくて叙情的、黒はグロテスクで残酷。その両極がこの本ではしっかり出ている。
たとえば表題作『沈みかけの船より、愛をこめて』は家族の崩壊と再生を描く感動作。一方『カー・オブ・ザ・デッド』ではゾンビ映画顔負けのホラーを展開していて、このふり幅に驚かされる。
中田永一
いわば、光の専門家だ。日常から始まり、ちょっとした奇想を経て、いつの間にか胸を締め付けるような切なさに包まれる。
『無人島と一冊の本』は寓話のように始まりながら、人間の知性と孤独を描いているし、『パン、買ってこい』は使い走りに命を懸ける少年の姿が、なんだか眩しくて笑えて、でも少し泣ける。
山白朝子
一編しか収録されていないが、『背景の人々』はこの作家(というか人格)の存在感を強烈に印象づける。静かな恐怖と、どこか民俗学的な気配。語られざる何かが、この短編集の中に冷たい重みを添えている。
安達寛高は、監修という立場でこのアンソロジー全体を見渡している。だからこそ可能になった、ジャンルも文体も異なる三名義の作品群の編集と統一感。
そしてそれを通して浮かび上がる「作家という存在は、どこまでが本人なのか?」というテーマこそ、本書の仕掛けの核心なのではないかと思う。
11編の物語と、誰かの弱さ
本書に収録された作品は全部で11編。掌編から中編までボリュームもさまざまだが、どれもそれぞれの名義らしさがきっちり活きていて、読み進めるのが楽しい。
ネタバレは避けつつ、簡単に紹介してみたい。
乙一:全6編
1.「五分間の永遠」
いじめられっ子の友達役を5分間だけ引き受ける少年の話。短いが、胸がギュッと締め付けられる。
2.「電話が逃げていく」
ある日突然、電話が逃げていく。以上。なのに、すごくシュールで好き。
3.「東京」
孤独な青年が東京で出会った奇跡の話。ちょっと宗教っぽくもあり、でも切なくてあたたかい。
4.「カー・オブ・ザ・デッド」
車に閉じ込められた男女とゾンビの話。完全にジャンルホラー。黒乙一の本領発揮。
5.「二つの顔と表面」
表と裏、二つの顔を持つ男の物語。アイデンティティの不安定さがテーマ。作家自身のメタ構造っぽさあり。
6.「沈みかけの船より、愛をこめて」
家族が崩壊しかけている中、どちらの親についていくか選ばされる姉弟。切なくもあたたかい、珠玉の家族小説。
中田永一:全4編
7.「無人島と一冊の本」
百科事典とともに流れ着いた男が、猿たちの神になる。ナンセンスなようでいて、深く哲学的。
8.「パン、買ってこい」
パシリの少年が、究極のパン買いに挑む。バカバカしくて笑えるけど、なぜか感動する不思議な青春譚。
9.「蟹喰丸」
どこか懐かしい田舎町で、少年たちが出会う怪異。ノスタルジックでほんのり怖い。
10.「地球に磔にされた男」
時間跳躍機構を見つけてしまった少年。SFだが、描かれるのは人の孤独と喪失感。かなり壮大。
山白朝子:全1編
11.「背景の人々」
他人の背景にしかなれない存在たちの話。怖いというより、ぞわっと来る。怪談というより、人の闇。
テーマは奇想と叙情、そして壊れかけの心

一見バラバラな11作だが、ちゃんと通底するテーマがある。それが「奇想と叙情」。
突飛なアイデアがあるのに、必ず人の気持ちに帰着する。ジャンルは違っても、心の脆さや優しさに収れんしていく構造がある。
『五分間の永遠』の少年も、『パン買ってこい』の少年も、『沈みかけの船より、愛をこめて』の姉弟も、どこかで壊れかけている。でも、その壊れかけのまま誰かとつながろうとする。
そうした人物像が、ジャンルや文体の差を超えて一貫しているからこそ、この本はバラバラに見えて、ひとつの作品として成立しているのだと思う。
これはもはや「短編集」というよりも…
この『沈みかけの船より、愛をこめて』という作品集を、単なる短編集だと思って手に取ると、たぶん驚く。
ジャンルも文体もバラバラで、ホラーも青春もSFもファンタジーもある。なのに、全体としてものすごく統一感がある。不思議だ。
それは、おそらく乙一=安達寛高という作家の中にある感情の核が全ての作品を貫いているからだ。ジャンルや設定は変わっても、そこに描かれるのは常に「人の弱さ」や「未熟さ」、それゆえの「優しさ」や「やるせなさ」だ。
そしてそれを語るために、彼は自らの中に異なる声を持った人格たちを作り出し、それぞれの声で語りかけてくる。それが、乙一、中田永一、山白朝子という三つの名義の正体である。
つまりこれは、「乙一とは誰か?」という主題を、本人自らがぶつけてくる作品集なのだ。読めば読むほど、その多面性がただのペンネームの使い分けではなく、もっと深い、作家であることそのものの表明に思えてくる。
これは文学という名の「船」の旅
『沈みかけの船より、愛をこめて』は、沈みかけているのに、まだ進み続ける「物語」の船だ。
小説という営みが、商業主義やジャンルの壁のなかで揺られながらも、まだ何かを届けようとしている。その「何か」は、もしかすると、読者への愛情かもしれないし、創作という行為への執念かもしれない。
この本を読むと、自分の中にもいくつもの顔があるのだと感じる。黒乙一に共鳴する自分もいれば、中田永一に涙する自分もいる。山白朝子に戦慄しながらも、美しさを感じる自分もいる。
一冊で三人分、いや、四人分の小説体験ができてしまうこの個展。まだ体験していない人がいたら、本気でおすすめしたい。読書という旅の、贅沢な寄港地として、忘れがたい作品になるはずだ。
推し名義を見つけるもよし、全部味わい尽くすもよし。
たったひとりの作家による、最高に贅沢な「多重人格ショー」をどうぞ。

















