島田荘司『異邦の騎士』- 魂を救う物語は、探偵小説の顔をしてやって来る【傑作小説エッセイ】

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四季しおり
ただのミステリオタク
年間300冊くらい読書する人です。
特にミステリー小説が大好きです。

島田荘司の『異邦の騎士』を初めて読んだとき、自分がどんな気持ちになったのか、いまだに言葉にしづらい部分がある。

「泣けるミステリ」なんて安直な言葉は使いたくない。けれど、これは間違いなく心を揺さぶられた読書体験だった。そう簡単に忘れられるような本じゃない。

御手洗潔シリーズの一作でありながら、その中でも特異な位置づけを持つこの作品は、トリックの妙よりも、登場人物の内面の痛みと再生を描くことに力点がある。事件の真相を解き明かす喜びよりも、「過去とどう向き合うか」「自分とは何者か」といったテーマが深く巻き込んでくる。

途中からは謎が少しずつ明かされていくが、それでも読み手は「真相」に向かって一直線、という感覚では読んでいない。むしろ、主人公がどんなふうに自分を見つけ出すのか、そのプロセスを一緒にたどっていくような気持ちになる。ミステリでそんな読後感を味わえる本というのは、実はかなり貴重だ。

本作は、ただの傑作ではない。

読む人にとって、ある種の通過儀礼だ。

読んだあと、人はすこし変わってしまう。

それくらい、この作品がもたらすインパクトは大きい。

目次

失われた自分を探す物語、だがそれだけでは終わらない

記憶を失った男が、自分の過去を探っていく。設定だけを見ると、よくあるサスペンスやスリラーのように思えるかもしれない。

けれどこの物語には、はっきりとした違いがある。主人公はただ記憶を失っているだけじゃない。自分の「顔」すら認識できなくなっているのだ。

容貌失認。この症状のもたらす恐怖は、想像以上に深い。自分の顔がわからない。鏡を見ることができない。こんな状態で人と関われるわけがない。世界そのものが、何重にも曇って見える。

この設定のおかげで、物語全体がどこか奇妙にズレた空気を帯びている。誰が誰なのかわからない。信じていい相手なのか、それとも危険な存在なのか。読む側も主人公と同じように手探りで進むことになる。地に足のつかない感覚が、ずっとつきまとう。

そこに追い打ちをかけるように、少しずつ記憶が戻ってくる。その中に浮かび上がってくるのは、「自分が殺人事件に関わっている」という最悪の可能性だ。これが、ただのミステリで終わらない決定打になっている。

この物語は、過去を探すというより「自分自身に判決を下すまでの過程」と言ったほうがしっくりくる。だからこそ、読んでいるこちらまで苦しくなる。

「自分は本当に生きていていいのか」

この問いに対して、きちんと向き合わなきゃいけない物語なのだ。

「最初の作品」から現れたもうひとつの島田荘司

『異邦の騎士』がここまで感情に訴えかけてくる理由は、物語の内容だけではない。実はこの作品、島田荘司が最初に書いた長編小説でもある。

執筆を始めたのは1979年。だけど実際に出版されたのは1988年、つまり『占星術殺人事件』(1981年)よりもあとだ。

この9年の差が本作にとっては非常に大きい。もしこれがそのままデビュー作として世に出ていたら、荒削りな部分も含めて「若い作家の第一作」として受け止められて終わっていただろう。

でも実際は、ロジックの鬼として評価された島田荘司が、完成された論理の人になった後で、いきなり「感情のかたまり」のような作品を投げ込んできたわけだ。

だから読者のほうも面食らう。こんなに情熱的で、危うくて、切実な物語が書ける人だったのか、と。しかもそれが、御手洗潔というシリーズの顔を使って描かれているのだから、インパクトは倍増する。

これはもう、若さの爆発だ。後年の島田荘司とはまた別の種類の熱量が詰まっている。だからこそ、この作品は特別な一作として記憶に残り続けるのだ。

ミステリとしての顔と、ラブストーリーとしての本質

『異邦の騎士』を語るとき、多くの人が「これは恋愛小説だ」と言う。あるいは「ミステリというジャンルの限界を越えている」とすら評される。それは決して誇張ではない。

この物語は、たしかに謎があり、仕掛けがあり、驚きがある。

だがその中心には、圧倒的な感情のうねりがある。

記憶を失った主人公が、再び世界と繋がっていくプロセス。良子という不器用な女性との関係。その中にある些細な愛情表現──たとえば、ステレオの使い方がわからない彼女を見つめる場面。雨が降っている中、主人公のことを駅で何時間も待っていた彼女に会うシーン。そこに込められた「つきあげてくるようないとおしさ」の描写。

この描写の深みこそが、島田荘司の詩人としての一面を証明するものであり、同時にこの作品が「魂の小説」であることを確かなものにしている。

私自身、数多くのミステリを読んでいるが、ここまで感情の震えをともなって読み終えた作品は多くない。解かれるべき謎よりも、取り戻されるべき人生が中心に据えられた作品など、そうあるものではないのだ。

探偵としてではなく、「人」としての御手洗潔

物語の後半、御手洗潔が登場する。シリーズのファンなら「待ってました」と思うかもしれない。けれど、ここで出てくる彼は、いつもの御手洗とは少し違う。

論理を武器に難事件を解決する名探偵……ではない。今回の彼は、迷える主人公のもとに現れた「人」だ。颯爽とバイクに乗って現れるその姿は、まるで異世界から助けにきたようなインパクトがある。

もちろん事件は解決する。でもそれよりも印象に残るのは、御手洗の「人間」としての面だ。彼は主人公に対して理屈で迫るのではなく、共に過ごし、音楽を聴き、心を通わせていく。特に、ビートルズのレコードを一緒に聴く場面。あそこは本当に泣ける。

シリーズを通して見ても、ここまであたたかい御手洗は珍しい。むしろ、あとから読んだ人ほど驚くはずだ。

「こんな御手洗がいたのか」と。

本作の御手洗潔は、読者にとっても救いのような存在だ。誰かを助けたい、誰かに寄り添いたい。そういう気持ちが、しっかりと行動に現れている。

探偵である前に、人として素晴らしいキャラクターだと感じさせてくれるのだ。

読む順番という逆説──「原点」はいつ読むべきか

シリーズの「原点」にして「到達点」、それが『異邦の騎士』のややこしくも面白いところだ。

設定上は、御手洗潔の最初の事件。だから、シリーズの導入として手に取りたくなる。でも、少し待ってほしい。たぶんこの作品は、シリーズをある程度読んでからのほうが、何倍も心に刺さる。

なぜかというと、他の作品で御手洗の論理の人としての姿に慣れておいたほうが、本作で見せる人間的な顔がより鮮やかに映えるからだ。先に『占星術殺人事件』や『斜め屋敷の犯罪』を読んでおけば、その違いは歴然である。

つまりこの作品は、「順番を逆に読むことで完成する」という仕掛けを持っている。御手洗というキャラクターを、読者がどう受け取っているかによって、作品の印象そのものが変わるのだ。

そんな作品は、多くはない。だからこそ、この『異邦の騎士』はただのシリーズの一編ではなく、ミステリという枠を軽々と超えた特別な一作なのだ。

たかが探偵小説、されど探偵小説。

でもこの作品を読んだあとでは、もうそんな風に軽く扱えなくなる。

本気でそう思わせてくれる物語に出会えたこと、それ自体がすでにちょっとした奇跡だと思っている。

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