曽根圭介の傑作『鼻』と『熱帯夜』という短編集について語らせて – 恐怖でもなく、救いでもなく、ただ地獄がある

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2007年、日本の文壇がちょっとざわついた。

というのも、その年、ある作家がまさかの二冠を達成したのだ。

曽根圭介(そね けいすけ)。

ミステリ界の権威・江戸川乱歩賞を長編『沈底魚』で獲得しつつ、ホラー界の頂・日本ホラー小説大賞(短編部門)まで『鼻』でかっさらった。ひとことで言えば、「なにこの人?」である。

しかもこの快挙は、単なる器用貧乏では済まされない。ミステリとホラー、似て非なる二大ジャンルを股にかけて、圧倒的な存在感を放ってしまった。これはもう、カテゴリーの壁みたいなものを最初から無視しているというか、ぶっ壊してきた感じだ。

曽根作品の核にあるのは、「人間がいちばん怖い」という感覚だ。幽霊でもゾンビでもなく、生きた人間の中に潜む狂気や歪み。それを徹底的に掘り下げる。登場人物たちはたいてい、どこかおかしくて、しかもその「おかしさ」が止まらない。読んでて「うわ、イヤだ」と思うのに、物語にのめり込んでしまう。

しかもおかしいのは、そんな悪夢みたいな話なのに、読後に爽快な気分になることだ。これは矛盾でもなんでもなくて、むしろ曽根作品のいちばんヤバいところ。

中身は地獄なのに、構成やプロットがあまりにも巧みで、「ああ、やられた!」って思っちゃう。つまり、感情的にはドロドロなのに、頭では快感を覚えてしまう。そんな奇妙なカタルシスを生み出せる作家って、実はそう多くない。

今回は、そんな曽根圭介の世界を象徴する短編集――デビュー作『』と、さらにその作風を深く推し進めた『熱帯夜』という二冊を軸に、彼がどんなふうに読者の神経を逆撫でし、でも最終的には魅了してしまうのか、その秘密について語りたいと思う。

怖くて、気持ち悪くて、だけど最高に面白い。

そんな悪夢の文学の醍醐味を、ぜひ一緒に味わってみてほしい。

目次

デビュー作にして、すでに到達点―― 短編集『鼻』の衝撃

曽根圭介の短編集『鼻』は、ただのデビュー作なんかじゃない。むしろ、「これ以上どうすんの?」っていうくらい、初手からフルスロットルで振り切ってる。この一冊には、作家・曽根圭介のマインドと美学と狂気が、むき出しのまま詰まってる。

収録されているのは『暴落』『受難』、そして表題作の『鼻』の三編。どれもバラバラの話に見えて、実は深いところで一本筋が通ってる。

不条理、社会システムの冷酷さ、そして「何を信じればいいのか分からない」という認識の揺らぎ。

共通してるのは、プロットの巧さじゃなくて、もっと根っこの「破壊力」そのものだ。

1.『暴落』というディストピア―― 人間の価値が数字になる世界

たとえば『暴落』。これはとんでもない設定の話だ。

人間の価値が「株価」として数値化される社会。その数値で就職も結婚も、人生まるごと決まってしまう。しかも価値がゼロになった人間は、「ヒトノール」っていう燃料にされちゃうっていう、冷え冷えした地獄絵図だ。

主人公の「イン・タム」は、かつては花形の銀行員だったけど、ある日を境に人生が暴落。気づけばベッドに寝たきりになり、口もきけないまま、過去を回想する。物語はその動けない現在を軸に、彼がどうしてここまで堕ちたのかが少しずつ明かされていく。

読み進めるうちに、どんどん息が詰まってくる。でもその息苦しさって、完全に遠い世界の話って感じじゃない。今の社会の延長線上にありそうで、そこがまた怖い。

この物語で本当に怖いのは、「ヒトノール」とかじゃない。その世界が、妙にリアルで、妙に納得できてしまうことだ。見せかけの利他主義で株価を吊り上げたり、転落した人を食い物にする新たなビジネスが登場したり……それ、今もあるよね?って話ばかり。

曽根圭介は、こういう世界がどんな論理で回っていくかを、ちゃっかり丁寧に描いてくる。だから読んでると、「ヤバいな」と思いつつ、「でも、あり得るかも」と頭のどこかで思ってしまう。

怪物を生み出すのは、いつだって人間自身

「暴落」はSFっぽい設定だけど、宇宙人も悪魔も出てこない。出てくるのは、人間と、人間が作ったシステムだけだ。

つまり、怪物を生み出してるのは、いつだって自分たちってこと。恐怖の根っこは、外じゃなくて、内側にある。そのことを、あらゆるギミックを駆使して突きつけてくる。

この短編、読後に「嫌な気持ち」だけが残るわけじゃない。ある種の冷笑とか、納得しちゃった感とか、そういう複雑な後味をくれる。曽根圭介ってやっぱり、ただ怖がらせたいだけじゃないんだ。

読む側の頭の奥の、まだ誰も触れてこなかった場所を、そっとえぐってくる。しかもニヤニヤしながら。

2.『受難』が描く理不尽の恐怖―― 不条理の迷宮に放り込まれる

短編『受難』は、読んでいて本当に息が詰まる一編だ。ストーリーはシンプル。

ある男が、何の前触れもなくビルとビルの間の狭い隙間に押し込まれ、手錠で繋がれたまま放置される。それだけ。誰がやったのか、なぜこんなことになったのか、まったくわからない。

でも、このわからなさこそが、この作品の本質だ。男の周囲には、人が通り過ぎていく。誰も彼を本気で助けようとはしない。見て見ぬふりをする者、からかう者、謎の理屈で説教を垂れる者。ひたすらに話が通じない。

ここにあるのは、悪意とか犯罪じゃない。もっと薄気味悪くてやっかいな、理性や共感が一切通用しない世界そのものだ。

助けのようでいて、地獄の底をひっかくようなやり取り

読んでると、ふと気づく。この話には、いわゆるどんでん返しが存在しない。

曽根作品といえば、最後に一撃食らわせてくるようなどんでん返しが代名詞みたいなところがある。でも『受難』は違う。謎は明かされない。希望も提示されない。ただただ、終わる。バッサリと。

じゃあ、この話に意味はあるのか? そう思うかもしれない。でも、それこそが曽根の狙いなんじゃないかと思う。これはつまり、「意味のなさ」そのものを描いた物語なのだ。悪がいるわけでも、陰謀があるわけでもない。ただ、理不尽だけがそこにある。

たとえば、助けに見えて助けじゃない介入の数々。手錠を切ろうとするがうまくいかない人、なぜか説教だけして立ち去る人、話がかみ合わない通行人たち……彼らに悪意があるとも言い切れない。

でも、無責任で、バラバラで、結局誰も何もしない。その空気感が、ゾッとするほどリアルなのだ。

この短編が特別なのは、技巧的な面白さをいっさい削ぎ落としているところだ。伏線もなければ、プロットの妙もない。あるのは、ただひとつ、説明のつかない状況に放り込まれた人間の苦しみだけ。

つまりこれは、曽根圭介という作家の核にある「人間こそが最も怖い」という信念を、ど真ん中からぶち抜いて見せた純度100%の一撃だ。

そして何より怖いのは、読者がそれを受け入れてしまうことだ。人は、理解できないものを怖がる。でも同時に、なぜかその理解できなさに惹かれてしまう。曽根はそこを突いてくる。

理屈も結末もいらない。ただ「こういう恐怖がある」と、まっすぐ叩きつけてくる。

3.表題作『鼻』のねじれたトリック―― 狂気の万華鏡に迷い込む

短編集のトリを飾る表題作『鼻』は、ちょっとしたトリック短編とかそういう次元の話じゃない。構造、テーマ、読者の思考までもを巻き込んで、ぐるぐると渦を巻く、ある意味で「読み手の正気すら試してくる」ような傑作だ。

まず、物語は二重構造になっている。ゴシック体で描かれるのは、鼻の長い「テング」が「ブタ」たちから迫害されているSF風の物語。そこには、善良な医師が登場し、迫害される母子テングを救おうと誓う、どこか寓話的で、切なくて、理想に満ちた世界が広がっている。

一方、明朝体で進むのは、まったく別の空気を持ったハードボイルドな物語。失踪した少女を追っているのは、強迫観念と暴力性に満ちた刑事。その言動はどこか歪んでいて、見ていて落ち着かない。

読者を共犯者にする物語構造

この話がただの「うわ、ひっくり返された〜」系のどんでん返しで終わらないのは、読み手自身がこの物語に乗っかってしまっているところだ。

最初に提示された「テングとブタの世界」を、こちらはあっさり受け入れてしまっている。その時点で、すでに作者の仕掛けた罠にハマっているわけだ。

この感覚、他の作品ではなかなか味わえない。「読んでいたものが崩れ落ちる」というより、「自分の読み方そのものが揺らぐ」感覚だ。読書って、ここまで不安定な行為だったのか、と気づかされる。

読み終えたあとに残るのは、ただの驚きじゃない。むしろ、滲み出てくる不気味さと、自分の認知が試されていたという感覚。物語の中で狂っていたのは主人公だけど、物語を信じていた自分もまた、同じ穴のムジナだったのかもしれない。

『鼻』は、読むたびに別の顔を見せる。真相を知ったあとで再読すれば、細部の意味が全然違ってくる。何気ないセリフや設定が、全部「狂気の補強材料」になっていることに気づいてゾッとする。

これはもう、構造そのものがホラーなのだ。ジャンルとしての恐怖ではなく、現実そのものがズレているかもしれないという感覚。読者の中に、確実に何かを残していく。この短編がラストに配置されているのは、単なる構成上の都合じゃない。

まさに「出口なき狂気の迷路」の最深部。人間が逃げ場のないところまで追い詰められる、最後の一撃なのだ。

『熱帯夜』の洗練された地獄

短編集『熱帯夜』も、はっきり言ってすごい。前作『鼻』で見せつけた破壊力が、今作では制御された爆発物に進化している。扱っているテーマは相変わらず容赦なく暗い。

でもその暗さが、より洗練され、物語としての完成度がグッと上がっている。狂気の叫びが、今作では冷たい笑みに変わった、そんな感じだ。

収録されているのは、『熱帯夜』『あげくの果て』『最後の言い訳』の三編。それぞれに強烈なパンチがあって、一つ一つの構成がとにかく緻密。

前作のようなむき出しの暴力性や妄想的パワーも健在なんだけど、今作ではそれが抑制という技術で包まれている。だからこそ逆に、もっと怖い。

1.悪意のピタゴラスイッチ―― 『熱帯夜』に仕組まれた地獄の連鎖装置

表題作『熱帯夜』は、出だしだけ見ればありがちな人質スリラーに思える。ヤクザの男が、ある家族を自宅で脅している――そんな導入。だけど、そこにふらっと現れるのが、交通事故を起こした看護師。明らかに無関係そうな存在だ。

ところが、読み進めていくとこの「無関係」が罠だったことに気づく。まさに、「闇のピタゴラスイッチ」。誰もが自分の意志で動いているように見えて、実は全員が巨大なシステムの部品として働かされている。そういう、得体の知れない構造が、脳に効いてくる。

この話、じつは『走れメロス』のダークなパロディとして読むこともできる。信頼とか、友情とか、自己犠牲とか、そういう美しい物語の骨組みを借りておきながら、最終的には全部ひっくり返して笑ってみせる。その冷笑ぶりが、とにかく痛快でニヤニヤしてしまう。

物語のラストで、正体が明かされる瞬間、すべての歯車がカチリと噛み合う。そして「ああ、そうだったのか」と背筋がゾワっとすると同時に、「うわ、うまいな」と思わず唸ってしまう。

残酷で皮肉で、人間不信がてんこ盛りなのに、なぜか読後感は爽快だ。これはもう、曽根圭介の構成力がそれだけ巧みってことだ。

「一発逆転」ではなく、「ゆっくり崩す」構成の妙

『鼻』が一発の大どんでん返しで世界を反転させるタイプの作品だったとすれば、『熱帯夜』はその真逆をいく。

伏線を張り、小さな違和感を積み重ね、少しずつ少しずつ読者の足元を削っていく。そして気づけば、知らないうちに物語の罠にずぶずぶと沈み込んでいる。

しかも、それぞれの視点がとにかく上手い。語り手を変えながら、場面をつなぎ、物語を進める。すべての要素が見事に交差し、無駄な登場人物がひとりもいない。

時計職人のような精密さで回る構成に、ただただ感心するしかない。

2.近未来の姥捨山―― 『あげくの果て』が突きつける、絶望の直球

『あげくの果て』は、曽根圭介の短編群のなかでも、異色中の異色だ。どんでん返しもなければ、狂気の構造トリックもない。でも、読後のダメージはとびきり大きい。というのも、これは社会そのものが怪物になった話だからだ。

舞台は、近未来の日本。少子高齢化がいよいよ限界を迎えたこの国は、なんと「高齢者徴兵制度」なる仕組みを導入する。一定の年齢に達した市民は、戦地へ送られるか、施設に強制収容される運命を背負うことになる。

つまり、国家ぐるみの姥捨てシステムができあがってしまったわけだ。

どんでん返しのない裏切りが効いてくる

物語では、三世代にわたる家族の姿が描かれる。この家族が直面する現実はあまりにも過酷で、それぞれの立場からくる葛藤や選択が、とにかく苦しい。でもその苦しみが、決して作り物っぽくないのだ。あり得る。起きそう。そう思えてしまうのが、本作の最大の恐怖だ。

そして本作が興味深いのは、曽根作品によくある意地悪などんでん返しが、ほとんどないこと。むしろ、正面から殴ってくる。どんな救済も、どんな希望も差し出されない。私たちはただ、その現実と向き合うことを強いられる。

この潔さというか、逃げ道のなさが、逆に曽根圭介という作家の幅を感じさせる一編になっている。どんなに構成の妙で魅せられる作家であっても、こうやって何もしないことの強さを描けるというのは、ただごとじゃない。

読んだあと、胸の奥に鉛が沈むような感覚が残る作品だ。でも、それでも目を逸らせない。今この時代にこそ読む意味のある、社会派SFの異様な一本だ。

3.終末世界の倒錯した愛――『最後の言い訳』に込められた、曽根流の残酷な皮肉

『最後の言い訳』は、曽根圭介の短編のなかでもとりわけ気持ち悪さが光る一編だ。

ゾンビもの、終末もの、恋愛もの――ジャンルとしてはお馴染みの素材を使っているのに、仕上がった料理はまったく別の味がする。見た目はゾンビ、でも中身はほとんど関係性の地獄とでも言うべき倒錯のラブストーリーだ。

この物語に登場する「蘇生者」は、いわゆるゾンビではない。腐ってうろついてるだけの怪物ではなく、ちゃんと意識を持ち、地球の次の担い手として君臨している。つまり人類は、もはや前の住人という扱いになってしまっているのだ。

ゾンビで、恋愛で、社会批評で――なんでもありの終末ドラマ

物語の中心にいるのは、一人の男と、彼の幼なじみだった女性――いや、今や彼女は蘇生者になってしまった存在。この二人の関係が、物語の核になっている。

初めは、ちょっと切ないラブストーリーのように見える。人類最後の男と、かつての愛した人。もしかしたら、ここに救いがあるのかもしれない、なんて思って読み進めると、いつのまにか足元の地面が崩れ始める。

しかし物語が進むにつれて、次第に違和感に気づく。この男、本当に彼女を愛してるのか? それとも、自分が孤独でいたくないだけなんじゃないのか? 彼の行動には、どこか打算と自己正当化がにじんでいて、それがラストで一気に爆発する。

タイトルの『最後の言い訳』とは、まさに彼がやらかすとんでもない選択を、自分の中で正当化するための呪文なのだ。この物語の恐ろしさは、ゾンビも終末世界も背景に過ぎず、結局すべてが「利己心のための言い訳」に回収されてしまうところにある。愛すらも、利用される。

ゾンビ×恋愛の脱構築、それは愛に見せかけた裏切り

普通、ゾンビとラブストーリーを掛け合わせると、何かしら希望を残す作品になることが多い。違いを越えて想い合う、とか、生きるとは何かを見つめ直す、とか。

でも曽根圭介は、そこをばっさり切り捨ててくる。人間はそんなに美しくないし、愛はいつだって身勝手なものだろ?と、笑いながら突きつけてくる。

そのやり口が、あまりに冷たく、そして鮮やかだ。どこかしら詩的で、幻想的な描写もありながら、最後の最後でグサッと心に刺さる。

ああ、やっぱりそうなるのか、という読後の虚しさは、まさに曽根作品の真骨頂だ。

そして、曽根圭介は読まれ続ける

ここまで見てきたように、曽根圭介という作家の引力は、ひと言で語りきれない。

テーマは暗い。人間は信用ならないし、社会は理不尽だし、希望なんてほとんど描かれない。でも、それにもかかわらず――いや、だからこそ、彼の物語にはどうしようもなく惹きつけられるものがある。

その理由のひとつは、やっぱり「技術の明るさ」だと思う。彼の描く世界はどこまでもドス黒くて冷酷なのに、構成や展開の運びには、どこか遊び心すら感じられる。読む側は、血まみれの地獄にいながら、目の前の物語構造の美しさに見とれてしまう。そのギャップがたまらない。

曽根圭介の作品がもたらすカタルシスは、感情の共鳴じゃなくて、知性がビリッと痺れる快感だ。緻密なプロット、構造的なトリック、皮肉なツイスト――それらが全部、無駄なく組み上がっていくさまを眺めることが、このうえない喜びになる。怖い。なのに気持ちいい。それが曽根作品の不思議な中毒性だ。

彼はただの「イヤミス作家」や「ホラーの人」ではない。ジャンルを使って、社会や人間の深い闇をスキャンしていく、文学的な解剖医だ。ゾンビも、未来社会も、妄想も、すべてはツールにすぎない。

その奥には、人間という存在そのものへの問いがある。しかもそれを、誰にも媚びず、でもちゃんとエンタメとして仕上げてくる。このバランス感覚が、とにかくすごい。

2007年のデビュー時から、曽根圭介はずっと「異物」だった。けれどそれは、偶然迷い込んできたわけじゃない。小説というフィールドに突如出現した、抗いがたい必要悪のような存在だったのだと思う。

彼の物語が描き出すのは、人間の業と弱さ、欲望と裏切り、そしてそのすべてを見下ろす冷笑。

そんな世界に、わたしたちは今日もまた、ページをめくって足を踏み入れる。

そして気づくのだ。

悪夢の中に、目をそらせない美しさがあることに。

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この記事を書いた人

年間300冊くらい読書する人です。
ミステリー小説が大好きです。

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