「ノベライズというのは、どうせゲームのおまけだろう」
──そんなイメージを覆すような小説が現れた。それが、黒史郎氏による『サイレントヒルf』である。
この作品は、コナミの人気ホラーゲームシリーズ『サイレントヒル』の最新作『f』をベースにした完全ノベライズだ。だが、重要なのは「ノベライズであること」ではなく、「黒史郎がノベライズした」という一点に尽きる。
『サイレントヒル』シリーズといえば、内面のトラウマや罪悪感を異形の世界として具現化するスタイルが特徴で、2000年代初頭には「サイコロジカルホラーの金字塔」とも称された。
その最新作『f』では、なんと舞台を1960年代の日本に変更。霧の街はアメリカから昭和の山村へと変貌を遂げる。
この舞台設定の転換は、「恐怖」の定義そのものを再構築するという、かなり野心的な試みだ。そしてこの時、ゲームという媒体だけでは描ききれない「社会的トラウマ」や「文化的圧力」といった重層的テーマを補完する必要が出てくる。
ここで、黒史郎の出番である。
彼は怪談や伝奇ホラーを得意とし、日本の土着的な恐怖に深い造詣を持つ作家だ。そんな彼が、小説というテキストの形式で昭和という異界を描き出した。
それはノベライズというより、むしろ「新たな正典の創造」と言ってしまっていいと思う。
舞台は1960年代、異界の入り口は「村」にあった

『f』が選んだ舞台は、「1960年代の日本の田舎」である。これがとにかく恐ろしい。ホラー映画の定番と言えば廃病院や洋館だが、この作品では日常そのものが異界にすり替わっている。
時代背景を確認しよう。高度経済成長の只中、都市は西洋化と近代化を突き進んでいたが、地方には強固な家制度、女性差別、迷信、因習が根強く残っていた。つまり、現代とは違う意味で常識が狂っていた時代なのだ。
この作品の恐怖は、幽霊が出るとかゾンビに襲われるとか、そういう単純な話ではない。家の中で生きた人間が無言で支配し、近所の目が自由を殺し、知らず知らずのうちに心が押し潰されていく──そんな文化的な圧力こそが、最も深いホラーとして描かれている。
小説版では、ゲームで描ききれなかった細部までをしっかり補強していた。霧に包まれた村の景色や、虫の音、仄暗い廊下の冷たさ、そして人々の沈黙までもが、文章という形式を通して、こちらの神経をすり減らしてくる。
つまり、ノベライズは「追体験」ではない。むしろ「この恐怖の本質は、ここにある」と示す解体ショーなのだ。
黒史郎という翻訳者が見せた異界の精度
『f』のゲーム版には、やや派手なビジュアル演出やアニメ的な演技過多のような批判も一部で見られた。だが、それは視覚メディアの制約である以上、ある程度は仕方がない。問題は、それをどう補うかだ。
そこで黒史郎である。
小説版では、キャラクターたちは叫ばない。むしろ語らない。だからこそ、言葉の裏に潜む空白が効いてくる。
「この子は、どうして笑っているのだろう」
「なぜ、この人はこの場所から逃げないのだろう」
そうした違和感が、ページをめくるごとに蓄積し、最終的に「そういうことだったのか……」と呟いてしまうような構造になっている。
文章は過剰に説明的ではない。だが、だからこそ、雛子の視点で見える景色や、聞こえる音が、読み手の内面を侵食してくる。気づけば、読んでいる方も雛子の内側に引きずり込まれている感覚になる。
黒史郎は、ただの物語を再現しているのではない。彼は恐怖の構造を精密に分析し、それを日本的な文脈に合わせて再構成しているのだ。だからこそこのノベライズは、原作に対する一種の批評にもなっている。
雛子という名の「雛人形」が映す地獄
この作品のもう一つの凄みは、主人公の名前にある。
深水雛子。
この名前が示唆する意味を考えるだけで、鳥肌が立つ。
「深水」とは、心理学的に意識の底に沈んだトラウマを暗示する。
「雛子」は、雛人形──つまり、型に嵌められた存在。しかも、装飾としての女性性の象徴。
彼女は、深い水底に沈められた雛人形だ。社会に与えられた役割の檻の中で、声を失い、自我を沈めていく少女。
ここに、『サイレントヒル』の本質があるのだと思う。
このシリーズが描いてきたのは、個人の心の中にある「どうしようもない記憶」や「言葉にならない感情」だった。今回は、それが昭和という時代の集合的無意識と交差することで、さらに重く、陰鬱で、だが確かに自分の中にもあるような恐怖へと変貌している。
ノベライズは、単なる解説書ではない。
この小説は、雛子という少女の存在を通して、「私たちが過去に見ないふりをしてきたもの」に手を伸ばす試みなのだ。
ゲームと小説、そのあいだに生まれる新しい「サイレントヒル」

黒史郎氏による小説版『サイレントヒルf』は、人気ゲームの映像をそのまま文章に置き換えるだけの仕事ではない。
・舞台を西洋から昭和日本へと移したことによる文化の融合
・深水雛子という、名前そのものが象徴の塊みたいな主人公
・ゲームで過剰になってしまったかもしれないアクション性を、心理ホラーへ引き戻す役割
・そして、サイレントヒルという作品そのものの正典を補強するテキストとしての機能
これらを全部引き受けた、かなり野心的な文学プロジェクトだと思った。
ゲームが「霧の中を歩く体験」なら、小説は「霧の成分を理解する作業」である。
ホラーというジャンルは、「見えないもの」「言えないもの」をどう扱うかで真価が決まる。その意味で、黒史郎版『サイレントヒルf』は、ゲームが作り上げた異界に、もうひとつの言葉の異界を重ねる試みだ。
霧に包まれた昭和日本のどこかで、深い水の底で、ひとりの雛が沈んでいる。その姿をのぞき込むかどうかは、こっちの覚悟次第だ。
少なくともミステリとホラーが好きな身としては、このノベライズを読まずに『SILENT HILL f』を語るのは、かなりもったいない行為だと思う。
ゲームで街をさまよったあと、小説でその街の意味をさまよい直す。
そういう二重の旅路こそ、今回のサイレントヒルが用意している本当の恐怖なのだろう。
そして何より、この作品は読んで終わりではない。むしろ読み終えた後からが本番だ。
目を閉じると、霧の中に雛子の気配がある。
耳を澄ますと、あの時代の空気がまだ残っている。
私たちは今もなお、「深い水」の底に沈んだままなのかもしれない。

















