【乱歩の10選】江戸川乱歩が選んだ海外ミステリ小説ベスト10

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四季しおり
ただのミステリオタク
年間300冊くらい読書する人です。
特にミステリー小説が大好きです。

日本ミステリの原点にして最大の推進力、それが江戸川乱歩という存在だ。

「日本の探偵小説の父」と呼ばれるのは伊達じゃない。作家としての実績はもちろん、評論家としての先見性、そして何より、海外の傑作ミステリを日本に紹介し続けた情熱。そのすべてが、今に続くミステリ文化の土台を築き上げた。

乱歩が本当に求めていたのは、ただの謎解きだけじゃない。読者の心に棘のように刺さる「謎の構成」、目が眩むほどの「驚き」、そして「闇の中の虹」とでも言いたくなるような、美しさと恐ろしさが混ざり合った世界。そんな強烈な印象を持つ作品群だった。

さて、今回語りたいのは、そんな乱歩が1951年に刊行した評論集『幻影城』の中で発表した「海外ミステリ黄金時代のベスト・テン」だ。

これは単なる好きな作品ランキングではない。乱歩が膨大な読書経験をもとに選び抜いた、「探偵小説とは何か?」という問いに対する一つの答えが、この10作品に詰まっている。

1950年代といえば、戦後の混乱が少しずつ落ち着き、日本にもようやく海外文化が入ってきた時代。そんな中で、乱歩のような権威ある人物が「これぞ」と勧めるリストは、当時の読者にとってまさに羅針盤だった。

密室、アリバイ崩し、倒叙、心理サスペンス……ジャンルの幅も広く、乱歩はこのリストを通じて海外ミステリの奥深さを体系的に紹介しようと試みていたのだ。

この記事では、その10作品を、現代の視点から改めて紹介したい。ネタバレは避けつつ、それぞれの見どころや、当時どのように受け止められたか、そしてなぜ今なお色褪せないのか。そんな観点から、丁寧に掘り下げていくつもりだ。

探偵小説の黄金時代を、その最前線で見てきた乱歩の眼を通して、もう一度名作たちと出会ってみよう。

そこには、今でもまったく古びない「ミステリの本質」が、きっと息づいている。

目次

1.イーデン・フィルポッツ『赤毛のレドメイン家』

英国デヴォン州の荒野ダートムアで、休暇中のロンドン警視庁の刑事マーク・ブレンドンが出会ったのは、燃えるような赤毛の美女ジェニー・レドメイン。これが運命の始まりだった。

彼女の夫が殺され、容疑者は彼女の叔父ロバート・レドメイン。だが死体は見つからず、ロバートも忽然と姿を消す。事件は死体なき殺人というやっかいな謎を抱えたまま、ブレンドンの前に立ちはだかる。

やがて事件は連続殺人へと発展し、舞台はイタリアのコモ湖へ。美しい風景のなかでも新たな犠牲者が出る。ブレンドンは、刑事としての職務と、ジェニーへの想いの狭間で激しく揺れる。

そんななか登場するのが、アメリカからやって来た老探偵ピーター・ガンズ。落ち着いた推理で、複雑に絡んだ謎と人間関係をひとつずつ紐解いていく。

衝撃の犯人 乱歩がベスト1に選んだ理由

この作品を海外ミステリのベスト1に選んだ江戸川乱歩。最大の理由は、やはり犯人の意外性にある。

どんでん返しというより、「そう来たか!」と唸らされる人物像。そして、終盤で犯人が語る独白の破壊力ときたら……一度読んだら、なかなか頭から離れてくれない。

乱歩が「眼花」や「闇の中の虹」といった派手な言葉で絶賛したのも納得である。

しかもこの犯人は、ただの異常者ではない。知性と孤独、ある種の執念と悲しみが渦巻いていて、怖さと哀しさが同居している。乱歩が惚れ込むのもわかる。こういうキャラがいるだけで、作品はぐっと文学寄りになるし、記憶にも残る。

風景と感情がシンクロする

フィルポッツの描写はほんとうに巧みだ。

ダートムアの荒涼とした景色も、コモ湖の静けさも、舞台背景というより登場人物の心情と呼応する語り手のように機能している。第一次世界大戦後の空気感、時代の翳り、人々の不安も含めて、ちゃんと物語に染み込んでいるのだ。

なかでも注目したいのが、ブレンドンの葛藤である。刑事として冷静に捜査すべき立場なのに、心はジェニーに惹かれていく。この揺れ方がなんともリアルだし、その感情が物語を引っ張っていく。

恋愛要素がただの味付けで終わってないところも、本作の良さである。この点は、E.C.ベントリー『トレント最後の事件』の空気にも近い。

本格ミステリとしての完成度

1922年の作品なのに、今読んでもまったく古くさくない。

むしろ構成のうまさに驚く。導入の死体なき殺人で一気に引き込んでおいて、レドメイン家の過去と現在が交錯する連続殺人劇、そして誰も予想できないあの犯人。クラシック本格の理想形のひとつじゃないだろうか。

後半で登場するピーター・ガンズの推理は、地に足がついていて読み応えがある。混沌とした状況を整理しながら、ちゃんと感情面にもフォローを入れてくれる名探偵だ。結末には、穏やかだけど確かなカタルシスがある。やっぱりミステリはこうでなくちゃ、と思わされる。

ちなみに最近は新訳版も出ていて、言葉も現代的で読みやすい。この機会にぜひ触れてみてほしい。今の感覚で読んでも、しっかり面白い。それどころか、今だからこそ沁みる部分もあるかもしれない。

『赤毛のレドメイン家』は、犯人の衝撃、風景と心理の描写、リアルな恋と職務の葛藤、そして王道のミステリ構造、すべてが揃った名作だ。読めば、乱歩が夢中になる理由がすぐにわかる。

2.ガストン・ルルー『黄色い部屋の謎』

フランスの田舎にあるグランディエ城。のどかな場所のはずなのに、そこで起きたのはミステリ史に残る大事件だった。

ある夜、博士の娘マチルダが、自室、いわゆる黄色い部屋で何者かに襲われる。瀕死の重傷。けれどその部屋は、内側から鍵がかかっていた。

窓も閉まっている。出入り口はどこにもなく、犯人の姿もない。あるのは、黄色い壁に残された血まみれの手形だけ。

どう考えても「物理的に無理」な事件である。この不可能な謎に立ち向かうのが、18歳の新聞記者ジョセフ・ルールタビーユ。まだ10代だというのに、これがとんでもない推理力の持ち主だ。警察とは違う視点で、冷静に、論理的に、あの密室を解いていく。

そしてさらに第2の密室事件まで発生して、物語は一気に加速する。

密室ミステリの金字塔「黄色い部屋」の謎

『黄色い部屋の謎』は、いわゆる密室ミステリの元祖にして金字塔のような作品だ。今読んでも、その仕掛けは驚きに満ちているし、トリックの構造もしっかりしている。

この作品の面白さは、「犯人は誰?」だけではなくて、「どうやってやったんだ?」にある。まさにハウダニットの醍醐味。トリック好きにはたまらないし、本格ミステリの基礎体力を養うにはちょうどいい一冊でもある。

しかもこの作品、100年以上前の1907年に書かれている。なのに、古びた印象はまったくない。むしろ、「もうこの時点でここまでやってるのか」と驚かされる。まさに、ジャンルをひらいた一冊だ。

ルールタビーユという探偵の新しさ

探偵役のルールタビーユは、ただの早熟少年ではない。論理、観察、推理、それらを徹底的に使いこなす理性の人である。

しかも、怪奇やオカルトには一切頼らない。「論理で説明できないなら、それはまだ説明しきれていないだけだ」と言わんばかりのスタンスが頼もしい。

そして彼が対決するのは、警視庁のラルサン。こちらは経験豊富なベテランで、決して無能ではない。だからこそ、二人の推理合戦が熱い。同じ情報をもとに、まったく異なる仮説を立てていく過程が、こちらの思考もどんどん刺激してくる。

この探偵、冷静でありながらどこか情熱的で、その若さも相まって魅力的だ。名探偵のテンプレを打ち破るような、新しい探偵像を提示していたと言っていい。

クラシックだけど、ちゃんと面白い

古典作品というと、正直構えてしまう人も多いと思う。でもこの『黄色い部屋の謎』は、語り口も軽快だし、メロドラマっぽい要素やユーモアも効いていて、エンタメとしてちゃんと面白い。

もちろん、密室トリックの部分だけ読んでも満足度は高いのだが、事件の構成、キャラ同士のやりとり、そして時代の空気までもが物語を支えていて、今読んでもスッと入り込める。

密室=超常現象、という幻想をばっさり否定し、「不可能状況も論理で説明できる」という姿勢。それは当時の科学的合理主義とリンクしていて、今読むとそこにも面白みを感じられる。

『黄色い部屋の謎』は、密室ミステリのはじまりにして、いまなお生きている原点である。

ミステリの古典は、実は思っているよりずっと面白いのだ。

3.ヴァン・ダイン『僧正殺人事件』

1929年のニューヨーク。物理学者ディラード教授の屋敷近くで、一人の男が胸に矢を突き立てられて倒れていた。

被害者はアーチェリーの名手、ジョーゼフ・コクレーン・ロビン。しかもその殺害現場は、あのイギリスの童謡「コック・ロビン」を不気味に再現したものだった。添えられていたメモには「僧正」の名。

こうして、見立て殺人というジャンルに革命を起こした事件が幕を開ける。

その後もマザーグースをなぞった殺人が次々と発生し、ニューヨーク中が謎と恐怖に包まれていく。事件に挑むのは、美術と文学と心理学にやたら詳しい素人探偵ファイロ・ヴァンス。

検事マーカムと警部ヒースと共に、この悪夢のような連続殺人の謎に挑むわけだが……犯人はなぜ童謡をなぞる? なぜ〈僧正〉を名乗る? そしてその歪んだ動機の奥にあるものとは?

無邪気な詩が殺意に変わる、見立て殺人の衝撃

本作最大の魅力は、やはりこの「見立て殺人」の設定に尽きる。誰もが耳にしたことのあるマザーグースが、皮肉にも殺人のレシピとして使われていく。

「コマドリのお葬式」「ハンプティ・ダンプティ」「マフェット嬢ちゃん」……子供向けの童謡が、一つずつ、冷酷な事件の演出として形を変える。

このギャップが生む不気味さと、詩に沿って殺人が進行していく構造の精密さ。読んでいて背筋がゾクッとする一方で、ミステリとしての快感も確実にある。

そして、このスタイルはまさに型として定着し、クリスティの『ABC殺人事件』や横溝正史の『獄門島』など、後の名作たちに引き継がれていく。

『僧正殺人事件』は、いわば「見立て殺人ミステリの母」のような存在なのだ。

ファイロ・ヴァンスという異端の名探偵

この複雑極まる事件に挑む探偵ファイロ・ヴァンス。

彼はとにかく知識が豊富で、心理学や美術や古典文学からアーチェリーの仕組みに至るまで、解説が止まらない。やたら博識で、言い回しもやや芝居がかっていて、合う人にはドンピシャ、苦手な人にはとことん合わないタイプかもしれない。

けれど彼の推理は、単に物的証拠を集めて分析するだけじゃない。犯人の内面に分け入り、その知性や価値観までを読み解こうとする姿勢がある。

言い換えれば、「誰が」やったかよりも「なぜ」それをやったのか、その異常性や論理の裏にある人間を見ようとしているわけだ。これが事件に独特の深みを与えている。

しかもこのヴァンス、ラウンジで紅茶を飲みながら軽口を叩くかと思えば、突如として鋭く犯人の心理に切り込む。そんなギャップもまた魅力だ。

興奮と文学性が共存する一作

『僧正殺人事件』が単なるパズルでは終わらないのは、動機の描き方にも理由がある。

「なぜ見立てを使ったのか?」という謎に対して、本作は単に趣味や奇抜さでは片づけない。そこには犯人の知性、偏執、価値観、そして社会に対する歪んだメッセージが潜んでいて、それがこの物語を「猟奇」から「哲学」へと半歩引き上げている。

数学者や物理学者といった頭脳派のキャラクターたちが、論理をぶつけ合いながら事件に巻き込まれていく様子も見応えがあるし、何より全体に漂うエンタメの空気が心地いい。

乱歩も高く評価しているし、日本の見立てミステリにもその影響は色濃い。まさにジャンルを方向づけた歴史的名作と呼ぶにふさわしい一冊である。

『僧正殺人事件』は、見立て殺人というジャンルを確立し、後のミステリ界に大きな地図を描いた傑作だ。

知的で、猟奇的で、ちょっと気障で、でも抜群に面白い。

ファイロ・ヴァンスが好きになれるかどうかで評価が分かれるかもしれないが、ミステリ史的には確実に読んでおきたい一作である。

4.エラリー・クイーン『Yの悲劇』

ニューヨークでも有数の変人一族として知られるハッター家。その当主ヨーク・ハッターが、青酸カリをあおって自殺……したかに見えたところから、すべては始まる。だがそれは、狂気の幕開けにすぎなかった。

盲目で聾唖という三重苦を抱える長女ルイーザのエッグノッグに毒が仕込まれ、それをうっかり孫のジャッキーが飲んでしまう。命は取りとめたが、危険な状態。

そして次に起きるのは、あろうことか家長のエミリー老婦人が寝室で撲殺される事件。現場に残された奇妙な足跡、毒の仕込まれた梨、壊れたマンドリン。どれもこれも意味深で、どこか狂っている。

事件が迷宮入りするなか、表舞台から退いた元シェイクスピア俳優にして名探偵、ドルリー・レーンが動き出す。探偵としての直感と、役者として培った観察眼を武器に、レーンはハッター家の中に巣食う何かへと迫っていく。

だがその先に待っていたのは、あまりにやるせなく、重たい真実だった。

家族という名の密室

この『Yの悲劇』、単なる連続殺人のミステリではない。

むしろ「家族」という閉ざされた共同体のなかで、どこか歯車が噛み合わなくなったまま、それでもなんとか持ちこたえてきた一族が、ゆっくり崩壊していく過程を描いている。読んでいて息苦しさすら感じるのは、その空気の描写が抜群だからだ。

なかでも強烈なのは、ルイーザの存在だ。目も見えず、耳も聞こえず、話すこともできない。けれど彼女は、事件の真相に触れてしまう。

そして、嗅覚と触覚だけで何かを伝えようとするあの場面。

ここが本作の緊張感のピークだと断言してもいい。言葉を超えたミステリ表現の極致である。

宿命に呑まれる人々と、その背後にあるもの

この物語に流れる悲劇性は、偶然の積み重ねではない。むしろ、最初から仕組まれていたかのような、あるいは血の中に刻み込まれたかのようなどうしようもなさが全編を支配している。

人の意思なんて、遺伝や性格や環境といった外的要因の前では無力なんじゃないか──そんな無言の問いが背筋を冷やしてくる。

論理で解決する探偵小説なのに、感情の泥沼が深すぎて、読後にスッキリしない。だがそれこそが、『Yの悲劇』というタイトルに込められた重みなのだと思う。

ドルリー・レーンという名探偵の苦悩

探偵ドルリー・レーンは、冷静で、論理的で、優雅な人物だ。だがこの作品では、ただ解く人ではなく、呑み込まれる人として描かれている。事件が進むにつれて、彼の中にある演じる者としての仮面が剥がれ、ひとりの人間として揺らいでいく。

彼が直面するのは、合理的に説明のつくトリックではない。狂気、執着、憎しみ、愛情。論理では語りきれない感情の塊の前で、名探偵レーンは沈黙する。

そしてその沈黙こそが、この作品の怖さであり、深さでもある。

『Yの悲劇』が今も読み継がれる理由

この作品が発表されたのは1932年。探偵小説が謎解きゲームとして全盛を誇っていた時代だ。

そんな中で、本作はあまりに異質だった。犯人の意外性も確かに驚きだが、それよりも、物語の終盤でズシンと落ちる感情の重量の方がよほど強烈である。

だからこそ、日本ではいまだに人気が高いし、江戸川乱歩も高く評価した。論理と感情、構造と悲劇、ミステリと人間ドラマ。それらが見事に交差した、金字塔という言葉がふさわしい一作だ。

『Yの悲劇』は、ただのうまいトリックで終わらない。読んだあと、なにか大きなものを失ったような気分になる。

けれど、その喪失感の中にこそ、探偵小説が文学になる瞬間があるとすれば……まさにこの作品がそうなのだと思う。

5.E・C・ベントリー『トレント最後の事件』

アメリカの大物実業家シグズビー・マンダースンが、イギリスの片田舎にある別荘で謎の死を遂げた。胸に銃弾を受けた状態で発見されたものの、そこに至る状況がどうにも腑に落ちない。

この事件に挑むのが、新聞社からの依頼を受けて現地入りした、画家であり素人探偵でもある男、フィリップ・トレントだ。

このトレントという探偵が、なかなかに面白い。名探偵といえば、冷静沈着、無感情、推理マシーンのような存在を思い浮かべがちだが、彼はちょっと違う。なんなら、事件の容疑者の一人である未亡人メイベルに一目惚れしてしまう。

冷徹な推理と恋心との間で揺れまくる探偵。そんな情けないところが、逆にリアルで魅力的に映るのだ。

そしてこの作品は、ただの本格ミステリでは終わらない。

いや、むしろそれを裏切るために書かれていると言ってもいい。

「名探偵=正しい」なんて、誰が決めた?

本作最大の特徴は、中盤でいったん事件が「解決したように見える」ところにある。トレントは推理を披露し、読者も「なるほど、そういうことだったのか」と納得しかける。だが、物語はそこで終わらない。

その後、事態は思わぬ方向へと動き出し、「探偵の推理は必ず正しい」という前提が見事に崩される。

この構造は、いわばアンチミステリの先駆けである。事件の真相が二転三転するだけでなく、探偵自身が「自分は間違っていた」と自ら認めてしまうあたり、当時の読者に与えた衝撃は相当なものだったはずだ。

「絶対の秩序」「完璧な論理」「犯人=悪」みたいな価値観に、そっと疑問符を突きつけるような語り口。今読んでも、新鮮というより、むしろ先を行っている印象すらある。

恋をする探偵と、揺らぐ推理

本作を語るうえで外せないのが、やはり恋をする探偵というモチーフだ。事件の捜査中、トレントはメイベル・マンダースンに惹かれていく。そしてその感情が、彼の推理を濁らせる。

ミステリにおいて「探偵の中立性」って実はかなり重要なファクターなのだが、それをトレントは、あっさり手放してしまう。

だがそこがいい。完璧じゃない探偵、間違える探偵、感情に振り回される探偵。こういう欠けた名探偵像が登場することで、ミステリというジャンルはより人間的になった。

後に続く長編ミステリの探偵像(ちょっと弱さがあるポアロとか、ハードボイルド探偵たち)に与えた影響も、かなり大きかったはずだ。

革新は1913年に始まっていた

『トレント最後の事件』が書かれたのは1913年。まだ本格ミステリの黄金時代が始まる前の時代である。

当時は短編が主流だったなかで、長編として構成された点も珍しかったし、恋愛要素を絡めてきたところも新しかった。何より、「名探偵の推理が間違っている可能性」を真正面から描いたのは革命的だった。

この作品は、ミステリの型を破ることで、逆にジャンルの幅を広げてみせたのだ。秩序を守るはずの探偵が、秩序の不在を証明してしまう。そんな逆説的な物語構造が、この作品の最大の魅力である。

『トレント最後の事件』は、名探偵が犯すミスを中心に据えた、ミステリ史上の異端児にして金字塔だ。

トレントが最後にたどり着いた結論は、もしかしたら事件そのものよりも、もっと深くて切実な「人間の複雑さ」だったのかもしれない。

6.アガサ・クリスティ『アクロイド殺し』

舞台はイギリスののどかな田舎町キングズ・アボット。カボチャを育てながら隠居生活を楽しんでいた名探偵ポアロは、思わぬかたちで村の殺人事件に巻き込まれることになる。

殺されたのは村の名士にして富豪のロジャー・アクロイド。自室で短刀によって刺殺されていた。しかも事件の前日には、彼との再婚が噂されていたフェラーズ夫人が、睡眠薬の過剰摂取で謎の死を遂げていた。どう考えてもただの偶然とは思えない。

語り手を務めるのは、村で開業医をしているジェイムズ・シェパード医師。彼の冷静な語りを通じて、ポアロの捜査や屋敷の人々の秘密が少しずつ明らかになっていく。

鍵のかかった書斎、黙り込む家政婦、妙に落ち着きすぎた秘書、怪しい来客。登場人物は皆なにかを隠している。

ポアロは相変わらず、灰色の脳細胞をフル稼働させ、ほんの小さな矛盾から糸口を探っていく。

そしてたどり着く結末は──言うまでもなく、ミステリ史をひっくり返す大技である。

誰もが信じていた当たり前が、あっさり裏切られる

この『アクロイド殺し』がやってのけたことは、ミステリのルールを根底から揺るがすものであった。

当時の読者は、ミステリに対してある無意識の前提を持っていたはずだ。だが、この作品はその思い込みを見事に逆手に取ってくる。

「それは、やっていいのか……?」

当時の読者の大半が、そう感じたに違いない。発表直後から大論争を巻き起こしたこのトリックは、ミステリというジャンルにおけるフェアプレイの概念すら考え直す契機となった。

しかも、それがただの話題づくりの奇抜さでは終わっていないのが、本作のすごさである。伏線の張り方、語りの巧妙な誘導、ミスリードの美しさ。すべてが、トリックの衝撃だけでなく「文学としての構築美」へとつながっている。

名探偵ポアロの凄みは、論理と人間のあいだにある

もちろん、ポアロの推理も健在である。彼は物的証拠だけでなく、人の言動や沈黙の裏に隠れた心理を見抜く。

例えば、誰かが嘘をついた理由を論理的に推理しつつも、その奥にある感情まで読み取ってみせる。トリックを暴くのではなく、人間の嘘に迫っていくスタイルが、ポアロというキャラクターの知的で優雅な魅力を際立たせているのだ。

さらに、語り手シェパード医師の手記という形式が、読者をポアロと一緒に謎を追う感覚へと誘う。読みながら推理し、まんまと欺かれ、最後にひっくり返される。これぞ、ミステリを読む醍醐味だろう。

「語ること」の不確かさを描いた、極めて文学的なミステリ

『アクロイド殺し』は、いわゆるどんでん返しとして語られることが多いが、その本質はむしろ、「語りの信頼性」そのものにメスを入れた構造にある。

語り手の主観が、読み手の認識をどれだけ左右するか。あるいは、語られなかったことの重さとは何か。こうした問いかけが、あの村の空気感や人間関係のねじれと相まって、物語に奥行きをもたらしている。

ポアロの論理だけでなく、人々の心理、自己欺瞞、語ることの限界といったテーマが巧みに織り込まれていて、この作品は一種の罠として機能しているのだ。

『アクロイド殺し』は、物語の構造ごとひっくり返す大胆な実験でありながら、破綻せず、むしろ「これが本当のフェアプレイなのかも」と思わせてしまう完成度を持っている。

そしてそれは、単なるトリック小説を超え、ジャンルの在り方そのものを問う文学だったのだ。

7.ジョン・ディクスン・カー『帽子収集狂事件』

1930年代のロンドン。街はマッド・ハッターなるふざけた通り名の人物による、連続帽子盗難事件でざわついていた。

狙われるのは有名人の帽子ばかり。妙にユーモラスなようで、どこか不気味さを感じさせるこの事件、当然ながらただの悪戯では終わらない。

そんな中、文学好きにはたまらない事件が発生する。なんとエドガー・アラン・ポーの未発表原稿が盗まれたのだ。所有者はアメリカの古書収集家ジュリアス・アーバー卿。文化的に見てもかなりの大事件である。

しかもその直後、彼の甥がロンドン塔の逆賊門で他殺体となって発見される。頭には、盗まれたはずのシルクハットがわざわざかぶせられていた。これはもう完全に「やっている」。

事件の解明に挑むのは、不可能犯罪といえばこの人──ギデオン・フェル博士である。

不可能犯罪×怪奇趣味=ジョン・ディクスン・カー

「密室のカー」の異名を持つカーは、本作でもその本領を存分に発揮している。帽子泥棒という滑稽な始まりから、ポーの原稿盗難、そしてロンドン塔殺人と、事件はどんどんと不穏な方向へ転がっていく。

何が現実で、何が演出か。その曖昧さの中で、まんまとカーの論理の罠に引き込まれるのだ。

被害者の頭に例の帽子がかぶせられていた、という状況設定ひとつ取っても、カーの発想力の異常さがよくわかる。不条理すれすれの奇想を、厳密な論理で見事に回収していく。これぞ不可能犯罪作家の美学である。

そしてこのトリックには、江戸川乱歩が「密室以上の驚き」と絶賛したと言われている。確かに、そう言いたくなる仕掛けだ。

フェル博士という語りの装置

ギデオン・フェル博士は、もう探偵というより装置である。謎を解くだけでなく、謎の世界観を支える存在そのものだ。

巨体で、奇抜で、風変わりで、でもその頭脳は切れ味抜群。そんな博士が、ハドリー警部と皮肉を飛ばし合いながら事件を追う様子は、硬派なミステリにちょうどよいユーモアとテンポを与えてくれる。

フェルはただ謎を解くのではない。怪奇と論理、幻想と現実の狭間に橋をかけてくれる役割を担っている。だから彼が登場すると、物語が一段とカー的になるのだ。

乱歩も惚れる世界観

本作の舞台も抜群である。ロンドン塔、濃霧、文化財の盗難、そしてポーの原稿。怪奇小説と推理小説の間を漂うようなこの素材感は、明らかにカーの趣味全開である。

そしてそれがまた、日本の江戸川乱歩と妙に波長が合う。乱歩が本作を高く評価した理由は、トリックの妙だけではなく、この幻想的でどこか悪夢的な物語空間にもあったのではないだろうか。

たしかに、カー作品には論理を超えた気配のようなものがある。仮に密室が解けたとしても、何かが不気味に残る。そんな空気感に酔いたい人には、本作はたまらない一冊だ。

『帽子収集狂事件』は、帽子泥棒から始まってポーの原稿と殺人へと至る、一見バラバラな要素を見事に結びつけた、奇想と論理の粋である。

論理の迷宮を突き進む面白さと、どこか幻想めいた怖さが共存していて、読むほどに「やっぱりカーは凄い」と唸らされるのだ。

8.A.A.ミルン『赤い館の秘密』

イギリスの田舎町。のどかな景色に囲まれた赤い屋敷で、突如として銃声が響いた。

殺されたのは、15年ぶりに帰ってきた兄ロバート。そして姿を消したのは、この館の主人である弟マーク。

完璧な閉鎖環境、現場には不可解な痕跡。クラシック本格好きなら、「ああ、これは期待できる」と思う展開だ。

偶然その場に居合わせたのが、陽気な青年アントニー・ギリンガム。たまたま訪ねてきただけなのに、事件を目の当たりにした彼は、友人のビルをワトソン役に据えて、探偵まがいの捜査を始める。

もちろん、警察のような堅苦しさはない。むしろその自由さこそが、この物語の魅力である。

ミルン節で描かれる、軽やかな謎解き

本作の作者は、あの『くまのプーさん』のA・A・ミルンである。児童文学の名匠が書いたたった一冊の長編ミステリ、それがこの『赤い館の秘密』だ。

ミルンがミステリを書いたという事実だけでもう面白いのだが、実際の内容もこれがなかなか優秀で、ふざけているようでロジックはガチ。

館の構造、アリバイの分解、登場人物たちの供述と矛盾。きっちり本格の筋を通しながら、会話にはウィットがあり、展開には軽快な遊び心がある。まさにミルンらしさが謎解きと絶妙に融合している。

そして、探偵役アントニー・ギリンガムと、ワトソン役のビルのコンビがとにかく愉快だ。ふたりのやりとりはもはやコメディに近く、しかもその漫才のようなやりとりの中に、しっかりと推理の糸口が織り込まれている。これが実に巧妙なのだ。

現実味がない? だからこそ面白い

この作品、かのレイモンド・チャンドラーからは「現実味がない」とバッサリ切られた経歴がある。しかしそれは、ある意味この作品の本質をついている。現実味ではなく、推理小説という遊びとしての完成度が高いのだ。

事件を解くことそのものにフォーカスし、人間の闇よりもロジックの爽快さを優先する。この姿勢にこそ、ある種のクラシック本格の理想がある。そしてそれを、ユーモアとエレガンスで包み込む筆致は、さすがミルンと言うほかない。

乱歩がこの作品を高く評価したのもよくわかる。構成の妙、軽やかな読後感、そしてミステリ的な愉しみ。すべてが品よくまとまっていて、たった一作であるがゆえの潔さと完成度が光る。

『赤い館の秘密』は、素人探偵の推理ごっこが本当に事件を解いてしまうという、ゆるくて知的なミステリである。

ユーモアとロジック、のどかさと緊張感、その絶妙なバランスに、「これはこれでアリだな……」と納得させられてしまう。

派手な事件はいらない。こういう穏やかで粋なミステリも、いつまでも色褪せないのだ。

9.クロフツ『樽』

ロンドンの波止場で、作業中に落下した樽の中から出てきたのは、金貨と……人間の手首だった。警察が駆けつける前に、その問題の樽は謎の消失。

もうこの時点で完全に事件は動き出している。

そして数日後、その樽はフランス人画家のアトリエで発見され、中からは若い女性の絞殺死体が。事件は国境を越え、ロンドンとパリを結ぶ国際捜査へと発展する。

登場するのは、ロンドン警視庁のバーンリー警部、パリ警視庁のルファルジュ警部、そして後半から私立探偵のジョルジュ・ラ・トゥーシュまで参戦するという豪華布陣。

だが誰も超人的な天才ではない。だからこそ面白い。

ミステリ史の地殻変動、それが『樽』

1920年のデビュー作にして、F・W・クロフツはやってのけた。これまでの名探偵のひらめきが支配していたミステリに、「地道な捜査と証拠積み上げによるアリバイ崩し」という新ジャンルをぶち込んだのである。

そして本作は、何から何まででリアルだ。時刻表、船荷リスト、郵便の転送記録、港湾の証言、ちょっとした言い間違い。それらが一つ一つ組み合わさって、完璧に見えたアリバイが崩れていく過程は、もはやミステリというよりドキュメンタリーの域。読み手は名探偵の助手というより、警察の捜査班に加わっている感覚に陥る。

舞台はロンドンとパリ、そして重要なのは樽の流れである。このたった一つの物体の所在を突き止めるために、複数の警察組織が記録を洗い直し、地味な事実の積み重ねだけで真相を導き出していく。そこにあるのは派手な演出ではなく、緻密な構成の快感だ。

名探偵が出てこなくてもミステリは成立する。

いや、むしろその方が現実に近くて面白い。

クロフツはそう教えてくれる。

乱歩が惚れたのは、「地味」じゃなくて「精緻」

江戸川乱歩がこの『樽』を高く評価したのもよくわかる。

彼は怪奇と幻想の作家でありつつ、ミステリのロジックや構成に関しては異常なほど厳しい人だった。その乱歩が惹かれたのは、本作に漂うリアリズムの手触りと、演出ではなく構造で勝負する潔さだったのだろう。

捜査の過程に嘘がなく、探偵役が万能でもない。まるで報告書のように積み上げられた情報から、犯人のアリバイがゆっくりと、でも確実に崩されていく。その感覚に痺れるタイプの人なら、本作はまちがいなく刺さる。

そしてもうひとつ。『樽』のすごさは、これが処女作だという点である。つまり、クロフツは最初からこの完成度だったわけで、ここから時刻表トリックや警察捜査小説といったジャンルを切り拓いていく。その原点がここにある。

『樽』は、ひらめきじゃなく積み上げで勝負する、リアル捜査系ミステリの元祖にして金字塔である。

アリバイが破られる快感を、汗臭いほどリアルな捜査描写とともに体験したい人へ。

これこそ、ミステリのもうひとつの本道なのだ。

10.ドロシー・L・セイヤーズ『ナイン・テイラーズ』

物語は、雪の大晦日、フェン地方の片田舎フェンチャーチ・セント・ポール村から始まる。

車が故障して立ち往生していたピーター・ウィムジイ卿が、偶然たどり着いた教区牧師館に泊まることになる──というのが導入だが、ここからすでにただの事件物では終わらない空気が漂っている。

なにしろ、鐘である。しかもただの鐘じゃない。「チェンジ・リンギング」と呼ばれる、伝統ある9時間もの鳴鐘演奏が展開される。ウィムジイ卿が即席の鐘つき要員として参加し、重厚な音の連なりの中で読者もまた、村とこの物語に取り込まれていくのだ。

そして数ヶ月後、墓の下から現れた「顔なし、両手なし」の死体。一気に物語は20年前の宝石強奪事件とつながり、ウィムジイ卿は再びあの村へ戻ることになる。

鐘と謎。時間と罪。

この作品は、ただの推理劇じゃない。

ミステリの皮をかぶった文学とは、こういう作品のことだ

ドロシー・L・セイヤーズの『ナイン・テイラーズ』が一目置かれる理由は、とにかく「構成と格調の高さ」に尽きる。

村に伝わる文化、教会の鐘、雪に閉ざされた風景、抑制の効いた筆致……これらがぜんぶ、事件そのものに密接に絡んでくるのが本作のすごいところである。

特にタイトルにもなっている「ナイン・テイラーズ」、つまり9つの鐘の音は、雰囲気づくりの小道具どころか、トリックや主題そのものと深く結びついている。言ってしまえば、「音」がミステリの解決に関与する、というだけでもう唯一無二の存在感を放っている。

そしてウィムジイ卿。貴族探偵でありながら俗世を知り、ユーモアと知性を武器にして事件に挑む。執事バンターとの軽妙なやりとりも健在だが、本作ではそれ以上に「人の過去と向き合う」姿勢が印象に残る。

ウィムジイ卿の魅力がもっとも文学的に描かれているのが、この作品ではないだろうか。

構成美の鬼、かつ読後に残る重み

事件はシンプルな殺人ではない。死体の正体、村に伝わる旧い秘密、鐘の演奏と過去の事件が、まるで重なり合う旋律のように展開していく。しかもその展開に一切の無駄がなく、ある意味で冷徹なまでにロジカルだ。

だが、読み終えたあとに残るのは「論理の爽快感」ではなく、「物語としての余韻」である。

人はなぜ罪を犯すのか。なぜそれを隠し、また語らずに死んでいくのか。

セイヤーズはその問いに対し、決して安易な答えを出さない。それどころか、読者に「あなたならどうする?」と投げかけてくるような、そんな読後感がある。

これこそ、江戸川乱歩がこの作品をベストの一つに選んだ理由だろう。

乱歩は「構成の妙」や「トリックの意外性」には敏感な人だったが、同時に「ミステリは文学たり得るか」ということを常に抱えていた。その乱歩がこの作品を絶賛したという事実、それだけでもう価値がある。

『ナイン・テイラーズ』は、「鐘」と「謎」と「過去」がひとつに溶け合った傑作である。

ただ推理するだけでは辿り着けない、音と時間の響きが宿る物語。

読めば、「ああ、こういうのがあるからミステリを読むのだ」と思わせてくれるに違いない。

おわりに 乱歩が選んだ古典の不滅の輝き

江戸川乱歩が選び抜いた海外ミステリ・ベスト10は、ミステリ好きにとってまさに聖典のような存在だ。

発表から幾十年も経っているのに、そのリストに並ぶ作品たちは、今なお古びることなく、多くのミステリファンを惹きつけてやまない。むしろ、だからこそミステリというジャンルの核が詰まっていることを、あらためて実感させられる。

振り返ってみると、これらの作品群には共通する美点がある。たとえばトリックの独創性、プロットの緻密さ、キャラクターの魅力、そして人間心理への深い洞察。どれも「優れたミステリ」の必要条件を、文句なしに満たしている。

密室、見立て殺人、アリバイ崩し、語りのトリック、社会背景を描いたもの、文学性に振り切ったものまで、とにかくバリエーションが豊かで、ミステリというジャンルがひとつの型で括れないことを痛感させられる。

つまり、乱歩が選んだ10作は、ジャンルの幅と奥行きの両方を示してくれるラインナップなのだ。

もちろん、これらを読む意味は「古典だから読んでおこう」という義務的なものにとどまらない。現代ミステリに繋がる技法の原点がここにあるし、今もなお効いてくる構成や語りのアイデアに出会うことができる。

というか、現代のどんな先鋭的なミステリを読んでいても、「あ、これは『アクロイド殺し』のタイプね」と気づかされることはよくある。ジャンルの進化を実感するためには、やはり始まりを知る必要があるということだ。

そしてなにより、これらの作品に共通しているのは、人間そのものの描き方にブレがないことだ。善と悪、愛と憎しみ、隠された欲望や罪。そういったものがきっちりと描かれている。

謎解きが面白いのは当然として、「なぜ人は罪を犯すのか」「なぜ真実を隠そうとするのか」という感情の原点が、そこにはちゃんとある。だからこそ、時代が変わっても響くのだ。

江戸川乱歩がこの10作を「正典」として提示した背景には、ミステリというジャンルを日本文学の地平にきちんと位置づけたいという、強い意思があったはずだ。彼はただの選書リストを作ったわけではない。あれは戦略的な文学行為だった。

日本の探偵小説が、世界水準へと自立していくための「学ぶべき手本」としての10作品。そう考えれば、このリストの持つ意味が、ただの好みを超えたところにあったことがよくわかる。

現代社会は複雑で、フェイクと真実が曖昧な時代だ。でも、そんな時代だからこそ、ロジカルに世界を解き明かすミステリの思考法は、意外と有効なのではないかと思う。

事実と証言、動機とアリバイ、語られなかったことに光を当てる視点。そういった探偵のまなざしを、自分のなかに持てる読書体験というのは、やっぱり貴重だ。

江戸川乱歩の慧眼と、ミステリというジャンルへの熱すぎる愛情が結晶したこの「海外ミステリ・ベスト10」。

それは今も変わらず、私たちに差し出される価値ある文学の招待状である。

読み逃している作品があるなら、今こそ手に取ってほしい。

ミステリがなぜこんなにも面白く、深く、そして人を夢中にさせるのか──その理由が、ここにあるからだ。

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この記事を書いた人

ただのミステリオタク。

年間300冊くらい読書する人です。
ミステリー小説が大好きです。

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