『堕ちた儀式の記録』-「これは本当にフィクションか?」って思った時点でもう遅い【読書日記】

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最初に言っておく。この本は、小説じゃない。いや、小説なんだけど、たぶん違う。

ページをめくってると、物語を読んでるって感覚がどんどん薄れていって、「これは……どこかで本当に起きたんじゃないか?」と思えてくる。それくらい、読後感が不気味に残る一冊だ。

タイトルは『堕ちた儀式の記録』。斉砂波人(いみずな なみと)という作家の名前は前から気になっていた。カクヨム発のホラー作家ってことで、SNSやらレビューやらでやたら耳にする。でも実際に作品を手に取ってみたのはこれが初めてだった。ホラー小説好きの界隈では名前が出始めてたけど、この本で一気に「本格派」として印象づけられた感がある。

これは、いわゆる「モキュメンタリーホラー」ってやつだ。フェイクの報告書や新聞記事、断片的な証言の羅列で、まるで実在の事件を読まされてるような感覚になる、あのジャンル。

背筋氏の『近畿地方のある場所について』が有名だけど、本作はその流れを受け継ぎつつ、さらに一歩深く、冷たく、読者の神経に食い込んでくる。

読む前と読んだ後で、同じ現実を見ているはずなのに、どこか足元の空気が違って感じられる。

「これは物語だ」と言い切れない不穏さが、ずっと残るのだ。

目次

二つの儀式が語る、わからなさの恐怖

『堕ちた儀式の記録』は、二つの章立てで構成されている。一つは東北の「瀧来集落」、もう一つは四国の「高山集落」。この二つの記録、直接の繋がりは明言されてない。

でも、どちらも「儀式」によって引き起こされる恐怖という点で、深く共鳴している。

まず「瀧来集落」。これは雨乞いの儀式をめぐる話で、儀式のたびに選ばれた少女が失踪するという、完全に「それホラーやん」な状況。でも、現地の大人たちは誰も騒がないし、調査に入った側もどこか冷めてる。読んでいる側としては「誰か突っ込めよ!」って言いたくなるけど、誰も言わない。むしろ、沈黙こそがこの集落の恐怖の根源にあるんじゃないかとすら思えてくる。

次に「高山集落」の「オハチヒラキ」。こちらは一転して、霊力を開花させるという、もっとスピリチュアル系の儀式。だけど内容はどこかおぞましい。術者自身が何かに取り憑かれるような描写が続く。恐怖の方向性は「瀧来」の外からくるものとは違って、内側からゆっくり壊れていく系だ。

興味深いのは、どちらの儀式も「何のために?」「誰の利益のために?」という疑問に一切答えてくれないことだ。儀式がもたらすのは結果だけ。

そこに理屈や意味を探すのは野暮ってことかもしれない。だからこそ、余計に怖い。わからなさそのものが不気味なのだ。

モキュメンタリーホラーの沼へようこそ

この作品が面白いのは、「ホラー小説」として読むよりも、「モキュメンタリー」として体験するほうがしっくりくるところだ。モキュメンタリーって要するに、「フェイク・ドキュメンタリー」のこと。ドキュメンタリーのフリして、騙してくる。で、気づいたときにはもう逃げられないっていう。

この本の文体、構成、挿入されるスクラップ的な資料――どれもが、あたかも本当に存在する集落についての報告を読まされてるようなリアリティを演出してくる。新聞記事の切り抜きとか、誰かのメモの断片とか、そういう要素が絶妙に怖い。

特にうまいなと思ったのは、「語らないことで恐怖を残す」構成だ。クライマックスも、オチも、なんなら明確な主人公すらいない。なのに、読み終えたあと、やたらと頭に残る。あれ? もしかして、読み落とした何かがあった? とか、あの儀式って結局なんだった? とか、考えれば考えるほど霧が濃くなってくる。

でもそれがいい。ホラーって、「わかる」と安心できてしまう。でも「わからない」まま終わると、ずっと自分の中でくすぶる。その火種を残すために、斉砂波人はあえて全貌を描かない。

読者に「空白を抱えて生きてみろ」と言ってるような、そんな不敵さすら感じた。

「語られないこと」が、いちばん怖い

結局のところ、この作品を読み終えて感じたのは、「これは記録なのか、それとも呪いなのか」っていう、妙な疑念だった。いや、そんなオカルト的な意味じゃなくて、もっと精神的な話だ。読んでしまったことで、何かを「知ってしまった」ような感覚。で、その「知ってしまった」ものは、たぶんもう、自分の中からは消せない。

『堕ちた儀式の記録』ってタイトルもまた絶妙で、「堕ちた」のは儀式なのか、それとも読者自身なのか、読み終えてから考え込んだ。もしかすると、わたしたちが「フィクション」として読んでしまうことそのものが、すでに一種の「堕落」なのかもしれない。

だって、もしこれが本当にどこかの集落の現実だったら?

そしてその記録が「なぜか」本になってしまったのだとしたら?

この本は、いわゆるエンタメ的なホラーとは違って、読後に爽快感も、すっきりした解決もない。でもだからこそ、あとからじめじめ来る。

夜、ふと窓の外を見たときとか、ネットで「〇〇県 奇習」とか調べちゃったときとかに、「やべ、これは深掘りしない方がいいやつだ」って思わせるリアルさがある。

この手のホラーが好きな人なら、絶対に刺さるはず。むしろ、この手の作品こそ、今の時代に必要なんじゃないかとすら思えてくる。あらゆる情報が拡散され、フィクションと現実の境界が曖昧になった現代だからこそ、「これってどこまで本当なの?」って問いかけるような作品が、妙にリアルで、妙に怖い。

あなたも共犯者かもしれない

最後に。

この本を読んだことで、たぶん、わたしは少しだけ「向こう側」に踏み込んでしまった。

つまり、知らなきゃよかった何かを、知ってしまったということ。

読者は、基本的には安全地帯にいるつもりでいるけど、モキュメンタリーホラーってその立場を崩してくるんだよなあ。

「お前は今、ただの読者じゃなくなったぞ」って。作中で儀式の調査をしてる人たちと、同じポジションに引きずり込まれてる。

斉砂波人の作品には、そういう共犯性を読者に与える仕掛けが満載だ。物語が閉じたと思ったら、それは序章だったっていう。

この本を読むことで、こっちの世界がちょっとだけ変わってしまう。

いや、もしかしたら、変わったのは自分の感覚のほうかもしれない。

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この記事を書いた人

年間300冊くらい読書する人です。
ミステリー小説が大好きです。

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