『#ニーナに何があったのか?』- ハッシュタグが裁く真実、親たちが背負う地獄【読書日記】

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大学生のニーナとサイモン。あの週末、誰もが想像するような若いカップルの休暇だったはずだ。山間の別荘、恋人同士、自然の中でのんびりと過ごす休日。

でも、その週末が終わったときに帰ってきたのはサイモンだけだった。ニーナは姿を消した。そしてそれっきり、誰も彼女を見ていない。

読者としてはここで既に、背筋に冷たいものが流れる。どこかで見たような失踪事件の構図。けれど、ダーヴラ・マクティアナンの描くこの物語は、単なる「彼女はどこへ行ったのか?」では済まされない。

サイモンの証言は曖昧で、どこか取り繕っているように見える。「別れ話になって、彼女は先に帰った」と言うが、その態度には不安の種がいくつも埋まっている。そして、ニーナがいなくなったという事実をきっかけに、世の中は一斉に口を開く。

SNSで、テレビで、カフェの会話で、誰もが知ったような顔で語り出すのだ。「サイモンがやったに決まってる」「継父が怪しい」「炎上目的の狂言じゃないか」――。

犯人は誰か、という謎以上に、誰がどんな話を作り、それがどう世の中に拡がっていくか。それがこの物語の焦点だ。事件が起きたその瞬間から、現代社会の情報回路に乗って、ひとつの「悲劇」は「消費される物語」へと変質していく。

読者が見せられるのは、真実にたどり着くまでの捜査劇ではなく、真実がどのように歪められていくのか、その全過程だ。

目次

ハッシュタグの支配する世界で

本作のタイトルにわざわざ「#」が付いているのには、ちゃんと意味がある。これは単なる検索用の記号ではなく、「真実」がどのように消費され、拡散されていくのかを象徴する存在だ。

ニーナの失踪がニュースになった途端、世の中は正義感に燃える〈自称探偵〉であふれかえる。ネット上では次から次へと「それっぽい説」が飛び交い、顔も知らない人々が彼女の写真にコメントを付け、涙を流し、怒りをぶつけ、そして忘れていく。

だけど、それがどれだけ人を傷つけるのか。そのリアルがこの小説では徹底的に描かれている。特に、サイモンの家族が雇ったPR会社の描写はゾッとする。彼らの狙いは「真実」ではない。世論の流れを変えること。そのためなら、ニーナの家族を“悪者”に仕立て上げることも厭わない。

読んでいて思い出したのは、実際にあったいくつものネット炎上事件だ。SNSで誰かが断罪され、それに拍手喝采が送られ、気づけば誰も責任を取らないまま、当事者だけが潰れていく。

マクティアナンはそこに切り込んで、読者に語りかける。

「あなたはこの社会の一部として、誰かの痛みに鈍感になってはいないか」と。

「親」という名の狂気と祈り

この物語には、ニーナとサイモンという若い二人だけでなく、両家の「親たち」が重要な役割を果たしている。彼らの存在が物語を、ただのサスペンスから一段も二段も深い人間ドラマへと引き上げているのだ。

まず、ニーナの母・リアン。彼女は、ただただ娘を探し、真実を知ろうとする。けれど、富も権力もない普通の母親が、相手にするのは法の網を潜り抜けるだけの財力と戦略を持つ「敵」だ。

絶望のなかで、彼女は「ルールを破るしかないかもしれない」と考え始める。その瞬間、読者は彼女にただ共感するだけでなく、彼女の苦悩を自分のことのように感じるようになる。

一方で、サイモンの母・ジェイミーは全く別の方向に突き進む。彼女は「息子を守るためなら何でもする」という強烈な信念を持ち、巨額の資金と影響力を使ってメディア操作を始める。冷酷で、利己的にも見えるけれど、そこにあるのは「母親としての本能」にも思えるのだ。

この「二人の母」の対比が、本作を単なる善悪の物語にしない。どちらも、自分の信じる「家族の正義」に向かって突き進んでいる。その姿は、どこかで私たちの中にある「守りたい気持ち」と地続きなのだ。

読み進めるうちに、どちらが正しいとか、誰が悪いとか、単純なラベル貼りができなくなってくる。

それが怖い。でも、それがリアルなのだ。

ミステリーの構造をひっくり返す

『#ニーナに何があったのか?』を読んでいて、ある瞬間にふと気づく。あれ、この小説、「犯人が誰か」を追うタイプじゃないぞ、と。

実は、物語のある段階で「ニーナに何が起きたか」は読者にも見えてくる。でも物語はそこからが本番なのだ。ミステリーといえば「どんでん返し」や「伏線回収」が魅力だけど、マクティアナンはそのお約束をきれいに裏切ってくる。

この作品は、“その後”を描くスリラーだ。事件が起きたあと、人々の感情がどう動き、どんな行動に出て、社会がどんな反応をするのか。サイモンの家族は何を守ろうとするのか。ニーナの家族は、真実の代わりに何を失うのか。登場人物たちは、それぞれの「正義」の名のもとに、時に愚かで、時に勇敢な行動をとる。

複数視点で語られる構成も、非常に効果的だ。それぞれの人物の視点から描かれることで、同じ出来事がまったく違って見えてくる。それはまるで、ネット上の炎上事件を、立場の違う人たちのツイートで追っているような感覚だ。

何が本当で、何が操作されているのか。それを見極めるのは、現代の読者にとってもはやサバイバルスキルだと感じさせる。

答えのない読後のざらつき

この小説の読後感を一言で言えば、「気持ち悪い」。もちろん良い意味でだ。

読者は、ニーナの失踪という大きな事件の「答え」を求めて読み進める。でも、最後に突きつけられるのは、明確な解決ではなく、「一体、自分は誰の味方をしていたのか?」という自問自答だ。

マクティアナンは、ドメスティック・スリラー、心理サスペンス、信頼できない語り手、そしてSNSという現代的要素を、恐ろしくうまくブレンドしている。

読んでいる最中もずっと居心地が悪くて、でも目が離せない。まさに〈洗練されたイヤミス〉だ。

そして、ニューヨーク・タイムズ紙の書評が放った一言が、この作品の読後感を完璧に要約している。

「最後のシーンは、あなたの血を凍らせるだろう」。

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この記事を書いた人

年間300冊くらい読書する人です。
ミステリー小説が大好きです。

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