三津田信三を読むと、毎回「あぁ、やっぱりこの人すごいな」と唸ってしまう。
ホラーとミステリを組み合わせる作家は他にもいるけれど、「曖昧性」そのものを物語のエンジンにしてる作家はそうそういない。
怖いのか? 謎なのか? どっちでもあり、どっちでもない――そんな境界線の綱渡りを、彼は当たり前のようにやってのける。
『寿ぐ嫁首 怪民研に於ける記録と推理』は、『歩く亡者 怪民研に於ける記録と推理』に続く「怪民研シリーズ」の第二作だ。
三津田ファンにはおなじみの刀城言耶シリーズの姉妹編でありつつ、新規読者にも親切な作りになっている。全体の構造は「記録と推理」。現地で体験した恐怖の記録と、それに対して安全地帯から論理をぶつけていく探偵役の推理。その繰り返しで話が進む。
三津田作品に触れるたびに思う。「謎が解けたのに、全然スッキリしない」。
それは悪口じゃなく、むしろ最高の褒め言葉なんだ。
因習村に響く、嫁首様の声
出たよ、ド田舎の因習村!(最高!)
『寿ぐ嫁首』で描かれる盂蛇村(うだむら)は、いかにも三津田作品らしい“閉ざされた空間”だ。
その中心にあるのが、嫁首様という屋敷神の存在。花嫁の首を差し出すことで災厄を避ける――そんな信仰が、代々皿来(さらく)一族の中で受け継がれてきた。そして今回、村ではまた一つの婚礼が執り行われようとしていた。
瞳星愛は、この婚礼に「付き添い嫁」として同行する。が、もちろんそれはただのお手伝いなんかじゃない。もうね、村に足を踏み入れた瞬間から空気が違うのよ。見知らぬ村人の視線、よそ者に対する妙な距離感、そして、儀式に付きまとう“何か”。その違和感の積み重ねが、読者の皮膚の下に少しずつ入り込んでくる。
そしてついに現れるのが、あの花嫁姿の怪異。行列の後ろに現れるもう一人の“誰か”。無言でついてくるその存在は、実体なのか幻なのか、誰も答えられない。愛もまた恐怖に凍りつくが、それでも儀式は進む。誰も止めない。誰も、止められない。
その後の事件は、一種の神罰のようでもある。舞台となる「迷宮社」は、その名のとおり物理的な迷宮であり、心理的な迷宮でもある。そこに残された死体、捻じ曲げられた首、血まみれの動物たち……。
理屈じゃ片付けられない描写の数々に、ホラー好きは狂喜乱舞し、ミステリ好きは戦慄しながらメモを取るだろう。
そして、それでも探偵は言う。「これは、人間の仕業だ」と。
信じるかどうかは、あなた次第。
ミステリとホラーの「間」で揺れる読書体験
これがもう、読んでいて実に緊張感がある。読者は、恐怖を追体験する一人称パートで血の気が引き、その直後に論理の光を当てて冷静さを取り戻す。そしてまた次の怪異で血の気が引く。
そうやって感情の波に揺さぶられながら、少しずつ謎に近づいていく。ホラーの空気とミステリの思考が交互に襲ってくる感覚は、まさに読書体験というよりも儀式に近い。
そして特筆すべきは、この構造が「曖昧さ」を徹底的に守っていることだ。最後まで読んでも、「あれは本当に人間の仕業だったのか?」「怪異はどこまで本物だったのか?」という問いが残る。
犯人は捕まっても、首の奥に残る冷気だけは説明がつかない。三津田作品って、謎が解けた後に「それでも怖い」って感情が残るんだ。
普通、解決って安心をもたらすものだけど、彼の場合は「むしろ怖くなったんですけど?」ってなる。不思議な話だ。
安楽椅子に座った、極度のビビリ探偵
シリーズの探偵役・天弓馬人(あまゆみ・まひと)は、三津田作品には珍しいくらい「感情のある」キャラだ。彼は怖がりで、慎重で、ちょっと面倒くさい。でもそこがリアルでいい。
なんなら彼が推理に乗り出す動機は「怖すぎて眠れないから、自分を安心させるために解きたい」だったりする。こういう人間くさい探偵って、ミステリ界隈では実は貴重な存在かもしれない。
相棒の瞳星愛(ひとみ・ほしあい)は一転、エネルギッシュで行動的な女子大生だ。好奇心旺盛で、怖がる馬人を面白がりながらも、しっかり現地取材してくる。事件の現場に足を運び、儀式に巻き込まれ、怪異と正面から対峙する。
彼女がいなければ物語は始まらないし、馬人がいなければ終わらない。このコンビのバランスが絶妙なのだ。
面白いのは、ふたりの関係性が「ホラーとミステリの象徴」になっていることだ。愛はホラーの象徴。怪異を体験し、不可解な現象に巻き込まれる。
馬人はミステリの象徴。冷静に分析し、合理的な答えを導こうとする。この二人のやりとりを通じて、読者も「怖がる自分」と「考える自分」を行き来することになる。
三津田信三は、物語の中に「読者の心の揺れ」を映し込む仕掛けまで用意しているのだ。
恐怖の記録 vs. 論理の推理
本作のサブタイトル『怪民研に於ける記録と推理』って、実はすごく重要だ。これは、愛が村で体験したことを「記録」として残して、それを大学の研究室にいる馬人が「推理」するっていう、物語の構造そのものを表してるんだ。
この構造がすごく面白い。愛の「記録」は、いわばホラー小説的なパート。読者も彼女と一緒に、怖い村をさまよい、呪いに震える。そのあと馬人の「推理」パートが入ると、さっきの怪異をどうやって説明するかっていうミステリ的な分析が始まる。
つまり読者は、ホラーとミステリを交互に体験させられるんだ。しかも、どっちかに逃げようとしても、次の章でまた引き戻されるっていう…。そういう意味では、読者にとってもこれはある種の「儀式」かもしれない。
そして最終的に、馬人が事件の合理的な解釈を提示してくれる。でもね、全部に説明がつくわけじゃない。なんかまだ残ってる。首すじに、ひんやりした気配が。
この「ちょっとだけ残る怪異」ってのが、三津田作品の美学なんだよなあ。
推理と怪異のはざまで
本作の構造は、まさにジャンルの“メタ”だ。
愛の記録パートでは、恐怖と違和感と生理的な嫌悪感が容赦なく襲ってくる。読者は彼女とともに迷宮をさまよう。
一方、馬人の推理パートでは、そこに理屈を持ち込むことで、少しだけ光が射す。でもそれが完全な解決にならないところがミソだ。
記録は感情、推理は理性。どちらかに偏ると、三津田作品は成立しない。むしろ、偏らずに「両方ある状態」に読者を閉じ込めることこそが、彼の狙いなんだ。
最後に事件が解決したとしても、嫁首様の存在は消えない。
儀式はまたどこかで繰り返されるのかもしれない。
村人たちの中には、いまだ祟りを信じる者がいる。読者の中にも、きっとそう思ってしまった人がいる。
そこまで含めて、『寿ぐ嫁首』という物語は完成しているのだ。
読み終えたあと、思わず天井の隅を見上げてしまう。
そこには何もいない。そう願いたい。