『飯沼一家に謝罪します』- 謝罪は終わらせるための行為ではなく、記録を永遠に呪うための儀式である【読書日記】

モキュメンタリーというジャンルは、今の時代とあまりにも相性がいい。
映像を見て終わるのではなく、SNSで断片が拡散され、考察が積み重なり、気づけば見ていた側まで作品の輪の中に引きずり込まれていく。
あの「どこまでが虚構で、どこからが現実なのか」が曖昧になっていく感覚は、普通のホラーともミステリとも少し違う。
そして『飯沼一家に謝罪します』は、その不安をかなり嫌な形で突き詰めた作品だった。
ここで言う「嫌」はもちろん褒め言葉である。派手なショックで殴ってくるタイプではない。もっと湿っていて、もっと後味が悪い。見ている最中も不穏なのに、見終わったあとでさらに気持ち悪さが増していく。
その中心にあるのが怪異そのものではなく、誰かの悲劇を記録として眺め、面白がって追いかけてしまうこちら側の視線だというのが、本作のいちばんいやらしいところだと思う。
しかも書籍版は、そのいやらしさをさらに強くする。これは単なるノベライズではない。放送時に断片的だった情報を再構成し、その後の顛末や新映像まで組み込むことで、「放送の記録」ではなく「まだ終わっていない案件の証拠物件」のような顔つきになっている。
本という物理的な媒体になったことで、映像では流れていったはずのものが手元に残り、現実に染み出してくる。
『イシナガキクエを探しています』の時もそうだったが、映像発のホラーが書籍になることで、ここまで嫌さの質を変えられるのかと興奮した。
三つの時間が絡み合い、真相より違和感だけが増えていく
本作の構造でまず面白いのは、1999年、2004年、2024年という三つの時間軸である。
1999年には、飯沼一家が『幸せ家族王』という番組に出演し、「幸福な家族」として消費される。
2004年には、矢代誠太郎が『飯沼一家に謝罪します』という番組で、自らの儀式の失敗を語り、謝罪する。
そして2024年、現代の制作陣が過去の映像を再検証し、関係者を追跡していく。
整理だけ見れば分かりやすい。だがこの作品が上手いのは、時間が進むほど真相に近づくのではなく、前提そのものが崩れていくところにある。
1999年の時点で、テレビは「幸せ」を映していたはずだった。だが後から見返すと、その幸福は最初からかなり危うい。画面の外に押し出されたもの、不在のまま処理されたものがある。
そして2004年の「謝罪」が、その穴を埋めるどころか、かえって怪異の入口になってしまう。謝罪とは普通、何かを終わらせるための行為のはずだ。ところが本作では、謝罪が新たな疑問を増やし、物語を永遠に閉じられなくする。
さらに2024年の再調査で、生存者の存在や長男をめぐる衝撃の事実が浮上すると、この物語は一気に別の顔を見せ始める。
単なる事故でも、単なる心霊現象でもない。家族の破綻、排除された者の視線、メディアの演出、そして名前や役割を奪われた人間の空白。そうしたものが絡み合って、怪異そのものより何を現実と呼んでいたのかが分からなくなる。
ここがかなりミステリ的に気持ちいい。本作は「事実が覆る」のではなく、「事実だと思っていたものの足場が外れる」タイプの作品なのだ。
「影の行列」の怖さは、由緒正しさではなく雑な継ぎはぎにある


『飯沼一家に謝罪します』12ページより引用
この作品のオカルト面を支えるのが、矢代誠太郎の儀式「影の行列」である。
これがじつに嫌な儀式で、鈴、セージ、鏡、箱、黒布、呪文、踊りと、いろんな宗教や民俗の要素を雑に継ぎはぎして作られている。
普通ならこの雑さは嘘っぽさにつながるのだが、本作では逆に妙なリアリティを生んでいる。なぜかと言えば、「それっぽい知識を寄せ集めて、もっともらしい儀式を作ってしまう人間の怖さ」が出ているからである。
しかもこの儀式は、本来排除するはずだった対象がズレている。家族の中で「悪いもの」とされていた長男はその場におらず、代わりに彼の役割を演じていた別人が参加している。このズレが、儀式をますます不気味にする。
失敗したのか。別の対象に成功してしまったのか。あるいは最初から怪異より人間の悪意のほうが強かったのか。そのどれとも取れる曖昧さが、最後まで嫌な余韻を残す。
私はここに、本作の面白さを感じる。怪異の正体を一つに固定しないまま、複数の読みを成立させているのだ。儀式の失敗、家族の歪み、明正の呪詛、替え玉による自己同一性の撹乱。
どれか一つに落とし込めそうで、最後まできっぱりとは定まらない。この、説明できそうなのにきれいには説明しきれない感じが、かなり厭で、かなり強い。
いちばん怖いのは怪異ではなく、テレビが「幸福」を捏造すること


『飯沼一家に謝罪します』25ページより引用
本作を読んでいて何度も思ったのは、これは怪異の物語である以上に、テレビという装置そのものの物語だということである。
『幸せ家族王』は、その象徴だ。家族の笑顔、絆、賞金、ハワイ旅行。テレビは「幸福」を発見するのではなく、「幸福に見える絵」を作る。そしてその絵に合わないものは、画面の外へ押し出す。
飯沼一家の場合、その押し出されたものがあまりにも大きかった。本物の長男の不在、家庭の逼迫、見せかけの団欒。そうしたものを消したうえで成立する幸福は、当然ながら脆い。そして消されたものは、なかったことにはならない。むしろ、消されたからこそ別の形で戻ってくる。
さらに2004年の「謝罪番組」もまた、メディアによる加工である。謝罪という本来私的で切実な行為が、電波に乗った時点で見世物になる。
誰がそれを望み、誰がそれを流し、誰がそれを見るのか。ここで謝罪は救済ではなく、消費の形式へと変わる。この構図が本当にきつい。
今の私たちは、何かが起きるとまず記録を見にいく。切り取られた動画、誰かの証言、画像、文章。その断片をつなぎ合わせて真相に近づいた気になる。だが本作は、その行為そのものがすでに誰かの編集の中にあるのだと突きつけてくる。
映像も、謝罪も、再調査も、書籍化でさえも、全部が「誰かの意図」を通っている。だから記録が増えるほど、真実は近づくどころか遠ざかっていく。この感覚が、本作のいちばん現代的な怖さなのだと思う。
書籍版は「補完」ではなく、嫌さを五感にまで広げる


『飯沼一家に謝罪します』57ページより引用
書籍版のよさは、映像の補足にとどまらないところにある。
夜馬裕の文章は、映像では一瞬で流れる嫌さを、じっとこちらに居座らせる。焦げた匂い、煙のまとわりつき、変質していく肉体の感触、言い淀みや沈黙の重さ。
そうしたものが文字になることで、かえって逃げ場がなくなる。読む速度がこちらに委ねられているぶん、嫌な場面を自分の頭の中で何度も再生させてしまうのである。
そこへ写真や資料の断片、さらにQRコードで視聴する新映像が差し込まれることで、体験はまた映像へ戻る。紙の本を読んでいたはずなのに、気づけばスマホを取り出し、続きを見ている。
この、媒体をまたいで物語が侵食してくる感じが、本書の一番うまいところだと思う。物語が増殖すること自体が恐怖になっているのだ。
『飯沼一家に謝罪します』の書籍版は、モキュメンタリーのかなり嫌な到達点である。怪異の正体を追う話であり、家族の崩壊を描く話であり、謝罪という行為が終わらない呪いへ変わる話でもある。
そして何より、記録を見ることそのものが加害になりうる、という救いのなさがある。
考察好きにもホラー好きにも刺さる作品だが、いちばん強く刺さるのはたぶん、メディアが作る幸せや真実をもう無邪気には信じられない人だろう。
結局のところ、壊されるのは事件の真相ではなく、記録というものに対する私たちの信頼なのだ。
最後にひとこと
もし映像版をすでに見ているなら、この書籍版は見逃せないものとなっている。
放送では明かされなかった展開が、書き下ろしと新映像によって補完され、物語は確実に先へ進むからだ。
そして、その先に待っている結末は、あまりにも嫌で厄介で、後味の悪いものであった。



















