『ホロボの神 泡坂妻夫拾遺集』- デビュー50周年の祝祭。泡坂妻夫のからくりは、いまも回り続けている【読書日記】

泡坂妻夫氏デビュー50周年記念刊行として、『ホロボの神 泡坂妻夫拾遺集』が出た。これはもう嬉しいとしか言いようがない!
しかもただの記念本ではない。単行本には入っていても文庫化の機会を逃していた作品や、いわば幻に近いバージョンまで拾い上げた一冊である。
泡坂妻夫という作家の魅力をあらためて確かめるだけでなく、その広さと深さまで見渡せる拾遺集になっているのがたまらない。
泡坂妻夫という作家は、本格ミステリの名手として語ることもできるし、奇術的な発想を持ち込んだトリックメーカーとして語ることもできる。だが、そのどちらだけでも少し足りない。
家業である紋章上絵師として培われた精密な手つき、奇術師として身につけた視線の誘導、そして人の哀しみや可笑しみを冷たくなりすぎずに見つめる節度あるまなざしまで含めて、ようやく泡坂妻夫という作家の輪郭が見えてくる。
本書を読んであらためて思うのは、泡坂作品のおもしろさが、単にトリックの独創性だけではないということだ。事実を派手にねじ曲げるのではなく、事実の見え方をほんの少しずらすことで、まったく別の図柄を立ち上げてしまう。
論理の鮮やかさと演出の巧さ、その両方がぴたりとかみ合ったときに生まれるあの独特の快感こそ、泡坂妻夫の真骨頂なのだと思う。
あの感覚は、本格ミステリの快感であると同時に、奇術を見せられたときの快感にも近い。『ホロボの神』には、その泡坂妻夫らしさがいろいろな方向から詰まっている。
職人と奇術師、その両方だったから書けたミステリ
泡坂妻夫の経歴は何度見ても面白い。本名は厚川昌男。神田に生まれ、家業の紋章上絵師を継ぎ、生涯その仕事を続けた。
さらに奇術の世界でも高く評価され、石田天海賞も受けている。職人であり、奇術師であり、小説家でもあった。
しかもこの三つが、作品の中でちゃんとつながっているのがすごい。紋章上絵師の仕事は、決められた型の中で線を引き、均衡を取り、厳密な形を整えていく仕事だ。
その制約の中で美しさを立ち上げる感覚は、泡坂の本格ミステリそのものだと思う。ルールがあるからこそ、その中で鮮やかな反転が生まれる。
一方で奇術は、相手の目をどこへ向けるか、何を見たと思わせるかの芸である。つまりミスディレクションの芸術だ。これがそのまま泡坂ミステリの核になっている。泡坂作品では、手がかりがないのではなく、ちゃんとある。ただし意味が違って見えている。その意味のずれを最後にひっくり返すことで、世界の輪郭が一変する。
だから泡坂作品の魅力は、トリックの独創性だけではない。「こんなふうにしか見えなかったものが、別の角度から見た瞬間にこうなるのか」という感覚に毎回やられる。
論理はきっちりしているのに、そこへ至る道筋には芝居っ気があり、手触りにはどこか人情の気配もある。この硬さと柔らかさの同居が、泡坂妻夫の大きな魅力である。
表題作『ホロボの神』に宿る、初期泡坂の鋭さ
この拾遺集の中心にあるのは、もちろん表題作『ホロボの神』だ。
しかも今回収録されているのは、のちの改稿版ではなく、1977年『幻影城』初出の幻影城バージョンである!素晴らしい!
こういう異同は単なるおまけでは終わらない。作家がどこを削り、どこを残し、どのくらい論理の輪郭を整えたのかが見えるからだ。デビューまもない泡坂妻夫の、生の野心がよりはっきり浮かぶ。
『ホロボの神』は亜愛一郎ものの一編だが、このシリーズはやはりいい。
亜愛一郎は、いかにも超人的な名探偵ではない。どこか頼りなく、ふわっとして見える。ところが、その曖昧さの奥に異様な観察眼と論理の跳躍力が潜んでいる。この見た目と中身のずれがまず泡坂的だ。
舞台は南方の孤島。遭難した男たち、ホロボ族の集落、酋長の妻の急死、祠にこもる酋長、盗まれた拳銃。こうした要素が並ぶだけで不穏だが、泡坂妻夫は異境趣味に流れない。異文化を飾りとして使うのではなく、文明人の論理がそのままでは通用しない場として機能させているのがうまい。
この作品のおもしろさは、事実の不足ではなく、事実の解釈のズレにある。見えているものは同じでも、意味づけが違えば世界そのものが違って立ち上がる。
読んでいるこちらは情報を受け取っていたはずなのに、その理解の枠組みをいつのまにか限定されている。そして最後に、その枠組みが外れる。あの瞬間の気持ちよさは、まさに本格ミステリの醍醐味だと思う。
しかも初期泡坂作品には、後年より少し剝き出しの鋭さがある。洗練前の粗さではなく、まだ遠慮の少ない野心である。論理をただ美しく閉じるだけでなく、その論理が持つ残酷さまで差し出してくる感じがある。
記念碑的な拾遺集の顔として、この作品が置かれているのはとても嬉しい。
紋章と奇術、泡坂文学を支える二つの柱
この本が面白いのは、『ホロボの神』だけで終わらないところだ。
収録作を眺めていると、泡坂文学には大きく二つの柱があることがよくわかる。ひとつは紋章上絵師としての世界、もうひとつは奇術師としての世界だ。そしてこの二つは、題材が違うだけで根っこではつながっている。
『揚羽蝶』『雪月梅花』『紋の華苑』『鳥居と兎』といった紋章上絵師ものには、泡坂の本業がそのまま血肉になっている。家紋や意匠は、ただの小道具ではない。
そこには家の記憶があり、土地の履歴があり、人の矜持がある。しかも泡坂妻夫は、それを説教くさく書かない。職人の世界が持つ厳しさや寂しさを、あくまで物語の肌触りとして滲ませてくる。
とくにこの系列の作品には、失われていくものへの感覚が流れている。昭和後期という時代の中で、和装文化も、町の商いも、職人の手仕事も少しずつ後ろへ退いていく。
その気配が、事件や謎の背後にずっと漂っている。泡坂作品はパズルとして読むだけでも面白いのだが、こういう消えゆくものへの哀惜があるから、読後に独特の余韻が残る。
一方で『精神感応術』『おじいちゃんのシンブル』『小さなサーカス』など、奇術の匂いが濃い作品群では、泡坂妻夫のもうひとつの顔が前に出る。超常現象めいたもの、不可能に見える出来事、舞台装置としての小道具。こういう題材を扱いながら、結局は「虚構がどう作られるか」を描いているのが実に泡坂らしい。
泡坂妻夫は奇術を暴くことそのものより、虚構が成立する条件に興味があるのだと思う。
人はなぜ騙されるのか。どこを見て、どこを見落とすのか。あり得ないと思ったものを、なぜ受け入れてしまうのか。その仕組みを知り尽くした人がミステリを書くと、こういう肌触りになる。
ここで面白いのは、紋章ものも奇術ものも、結局は見え方を扱っていることだ。
紋章は線と形で意味を織り込み、奇術は視線と認識を操る。どちらも表面の奥に、別の層がある。
泡坂妻夫のミステリは、その奥の層を最後にひらく文学なのだと思う。
拾遺集だからこそ見える、泡坂妻夫の広さ
拾遺集という言葉から、資料集のようなものを想像する人もいるかもしれない。けれど『ホロボの神 泡坂妻夫拾遺集』は、そういう本ではない。
むしろ、泡坂妻夫入門としてもかなりいい本なのではないかと思った。もちろんコアなファンにとっては、『ホロボの神』の初出バージョン収録だけでも十分に大きい。だが、それだけでは終わらず、作風の広がりまで一望できるのがこの本の強みである。
後半に入る『コロスケの貯金箱』『祝電。』『時は対なり』のような小品も楽しい。長編や連作で見せる緻密さとは別のかたちで、泡坂の発想の軽やかさが見えるからだ。ノスタルジーのあるもの、ホラー寄りのもの、時間感覚をずらすもの。短いからこそ、泡坂妻夫のひらめきの鋭さがそのまま出る。
そして何より、この本を読んで強く感じるのは、泡坂妻夫が「論理だけの人」では決してないということだ。
たしかに論理は強い。構造は美しい。反転は鮮やかだ。だが、そのからくりを動かしているのは、いつも人の感情であり、記憶であり、見栄であり、哀しみである。
だから読み終えたあとに残るのは、「うまく騙された」という満足だけではない。もう少し柔らかくて、少し切ない感触が残る。
本格ミステリを読むとき、論理の強度はもちろん気にする。けれど同じくらい、その論理が何を照らしているのかも気になる。
その点で泡坂妻夫は本当に信頼できる作家だ。からくりは見事だが、からくりだけで終わらない。人の営みの妙な可笑しさや、時代の移ろいの寂しさまで、ちゃんと残していく。
デビュー50周年という節目に出たこの拾遺集は、過去の作品を懐かしむためだけの記念本ではない。
泡坂妻夫という作家が、どれだけ精巧に物語を組み立て、どれだけ豊かな感情をその内部に織り込んでいたかを、もう一度見せてくれる本だ。
泡坂妻夫のからくりは、解けたら終わりではない。解けたあとで、むしろ少しずつ効いてくる。
『ホロボの神 泡坂妻夫拾遺集』は、その尽きない魅力をあらためて手渡しながら、泡坂妻夫という作家の魔法がまだ終わっていないことを、そっと教えてくれた。






















