二十年以上続いた絆は、ひと晩で簡単に形を変える――それがこの物語の始まりだ。
貫井徳郎『不等辺五角形』は、読み始めたときの空気と、読み終えたときの空気がまるで違う。
最初は爽やかな夏の海辺、旧友たちの再会、葉山の別荘という閉ざされた空間。いかにも「何かが起こるぞ」と思わせる舞台設定ではあるけれど、そこに流れているのは懐かしさと心地よい時間の匂いだ。
三十歳を間近に控えた、五人の男女が集まる。マレーシアのインターナショナルスクールで共に過ごした特別な絆で結ばれた仲間たち。重成、聡也、梨愛、夏澄、そして雛乃。二十年以上の時間を経てもなお続いている友情。……いや、そう“思わせて”くる導入なんだ。
ところが深夜、雛乃が頭から血を流して倒れている。
悲鳴が響き、混乱の渦の中で梨愛が言う。
「私が殺したの」
このシーンで、完全に空気が変わる。葉山の穏やかな景色は一瞬で色を失い、読者は突然真っ暗な深みに突き落とされる。さっきまで羨ましかった友情が、一気に恐ろしく感じられる。
ここから先は友情の表面が剥がれ落ち、歪みと欺瞞の底が覗き込まれていくのだ。
この落差がすごく心地悪い。でも、その心地悪さがクセになる。
そして気づく。これは友情が悲劇によって壊された話じゃなく、友情だと思っていたものがそもそも歪んでいたんじゃないか――と。
殺人事件はその歪みを暴くための触媒にすぎない。読んでいくうちに、事件そのものよりも「五人の関係に何が潜んでいたのか」の方が気になってくる。
自白から始まるミステリ、空白が呼ぶ不安

多くのミステリは、犯人の自白はクライマックスに置かれる。すべてが解き明かされたときのカタルシスのための装置だ。でも『不等辺五角形』では、自白は物語の入り口にある。
梨愛は「私が殺した」とあっさり言ってしまう。そしてその後、一切の動機を語らない。
この「語らない」がめちゃくちゃ強い。だって、フーダニットは終わっちゃったのに、ホワイダニットがまったく見えてこない。梨愛が黙っていることで、物語の中心に巨大な空白が生まれるんだ。
なぜ友達を殺したのか。なぜ理由を言わないのか。この二重の「なぜ」が読者を縛りつける。
そして彼女の沈黙は受動的じゃない。むしろ能動的だと思った。動機を隠すことで、残された三人――重成、聡也、夏澄――に勝手に理由を探させる。彼らは自分の視点で、過去の出来事を思い出しながら梨愛の行動を解釈するしかない。
読者も同じだ。つまり梨愛は、自分を理解させるための物語を他人に作らせる。これってすごくしたたかな方法じゃないか?
この沈黙が読者の心をざわつかせる。「本当はそんなに単純な理由じゃないんだろうな」と思わせるし、「もしかして彼女は誰かを庇ってる?」なんて疑いも浮かぶ。沈黙ひとつで、いくつもの推測が生まれる。この余白の多さが、読書体験をすごく豊かにしている。
証言という迷宮をさまよう
ここから物語は、担当弁護士が三人の仲間に話を聞く証言録の形式になる。重成、聡也、夏澄。それぞれが事件の夜や、五人の関係について語るんだけど、これが本当にやっかいなんだ。
まず、同じ出来事でも語り手が変わると意味が全然違う。ある人は「楽しい思い出」として語るのに、別の人は「あのときのあの言葉に傷ついた」と語る。雛乃は誰からも愛される天使みたいに言われるけど、別の視点では彼女の狡猾さや冷たさが見えてくる。
このズレが積み重なって、読者の頭の中で「正五角形」だったはずの関係図がどんどん歪んでいく。
さらに厄介なのが、誰の証言にも自己保身や嫉妬、思い込みが混じってることだ。読んでると「あ、これは本当のことを言ってないな」とか「いや、これはただの勘違いだろ」と思う瞬間がある。でも、どこからどこまでが嘘で、どこからが真実なのかは断言できない。
だから証言のたびに頭の中で関係性を書き換えて、また次の証言で壊される。この繰り返しがめちゃくちゃスリリングだ。
そしてラストの独白。でも、その独白が「これが真実です」とすべてを明かすわけじゃない。むしろ「本当の真実は誰にも届かないかもしれない」と思わせる。読み終わってもはっきりした答えはなくて、逆に余計に考え込むことになる。
不等辺のまま終わる人間関係
タイトルの「不等辺五角形」、最初は単なる比喩だと思ってた。でも読み進めると、これが物語の核なんだって気づく。
友情って、対等だと信じたい。でも実際は、片方だけが強く思ってたり、都合のいい関係にしてたり、恋心と友情の境界が曖昧だったりする。五人の間にもそういうアンバランスがたくさんあった。
AがBに抱いた純粋な思いは、Bにとってはただの軽い気持ち。CはDを密かに妬んでいて、Eはそんな全員を冷めた目で見ている。五角形をつなぐ線は全部長さが違って、角度も違う。最初から「正」じゃなかった。
その歪みが積み重なった結果が、雛乃の死なんだ。事件は突然起こったわけじゃなく、もともとあった亀裂がただ表に出ただけ。
読んでると、妙に自分の周りの人間関係まで思い出してしまう。「あのときのあの関係も、実は自分だけがそう思ってただけじゃないのか」とか。怖いけど、こういう感覚を呼び起こすからこそ、この作品はただのミステリじゃなく心理劇なんだと思う。
イヤミスの快感と余韻
読み終えた後、正直に言えば気持ちのいい読後感じゃない。だけど、それが逆に心に残る。
貫井徳郎の作品って、『愚行録』でもそうだったけど、人間の多面性をえぐるのがうまい。証言形式を使うことで、読者に「真実はひとつじゃない」って突きつける。人はみんな自分の都合のいいように物語を語ってるだけなんじゃないか――そんな疑いがじわじわ広がっていく。
『不等辺五角形』もまさにその系譜。殺人事件をきっかけに、友情という一番近い関係がどれだけ脆くて、一方的で、不確かなものかを見せつける。イヤミスって、ただ「嫌な気分になる小説」じゃなくて、こういう深い不安を呼び起こすものだ。
友情ってなんだろう。信頼って本当に信じていいのか。自分が見てる人間の顔は、本当にその人の全部なのか。そんな問いが頭の中をぐるぐる回る。
そしてラスト、歪んだ五角形は最後まで修正されない。誰かが真実を語るわけでもなく、五角形は五角形のまま、ただ不等辺の形で残る。読者はその歪みを抱えたまま、本を閉じるしかない。
でも、この気持ち悪さが、なんとも言えずクセになるんだ。
まとめると
『不等辺五角形』は、殺人事件を扱っているけれど、メインの謎は「誰がやったのか」じゃなく「なぜこうなったのか」にある。友情の崩壊を描いているようでいて、実は最初から友情なんて存在しなかったのかもしれないと思わせる。
葉山の爽やかな海辺から始まって、最後はどこまでも重たい感情だけが残る。でも、そこに人間のリアルがある。
読み終えた後、友達の顔を思い浮かべるとちょっとだけ怖くなる。でも、そういうところまで考えさせる小説って、やっぱりただのエンタメじゃなくて文学的な深みがあるんだと思う。
「イヤミス」の快感を知りたい人、人間関係の歪みを覗き込むスリルを味わいたい人には、ぜひ読んでほしい一冊だ。