歴史ミステリに手を出すとき、「難しそう」「知識が必要そう」と一歩引いてしまう人もいるかもしれない。
でも、もし最初の一冊で世界観に一気に引き込まれ、「歴史×ミステリってめちゃくちゃ面白いじゃん!」と感動したいなら、この『修道女フィデルマの慧眼』をおすすめしたい。
ピーター・トレメイン(本名はピーター・ベレスフォード・エリス)によるこのシリーズは、7世紀アイルランドを舞台にした歴史ミステリだ。
主役は修道女であり法廷弁護士でもあるフィデルマ。王族の血を引き、修道女としての信仰と、法廷での鋭い論理を武器に、不可能に見える事件を解決していく。これがもう、最高に痺れる。
今回読んだ『修道女フィデルマの慧眼』は、日本独自編集の短編集で、収録されているのは『祝祭日の死体』『狗のかへり来りて……』『夜の黄金』『撒かれた棘』『尊者の死』の5編。それぞれが完全に独立した短編ながら、7世紀の文化、宗教、法制度を背景にしたミステリとして、びっくりするくらい濃密な読み応えがある。
ブレホン法というアイルランド特有の法体系、ケルトとローマ教会の対立、部族社会の緊張感、そして女性の権利といったテーマが、作品の裏側できっちり息づいている。
そう、ただの時代劇ではなく、ちゃんと現代に通じるテーマが詰まっているのだ。
フィデルマという女性探偵の魅力

まず語らなきゃいけないのは、もちろんこのシリーズの主人公、フィデルマのカッコよさである。
王女でありながら修道女、しかも法律の専門家で法廷に立つダライ(法廷弁護士)。つまり、王族の気品と宗教者の静謐さと、ロジックで相手をねじ伏せる法の力、その全部を持っている。もう反則級のスペックだ。
けれど彼女は、決して傲慢でも冷酷でもない。むしろ、どこまでも理性的で誠実。事件に対しては徹底して「事実」と「証拠」に基づいて判断する姿勢が貫かれていて、読んでいるこちらもそのロジックの美しさに惚れ惚れする。
しかも、相棒のイーダルフとの掛け合いがいいのだ。サクソン人の修道士で、ちょっと優しげで温和。フィデルマの怒りを抑えたり、逆に「それは違うだろ」とツッコミを入れたりしてくれる、いわば良心の役割を担っている。
二人の関係性はただのコンビというより、人生の旅路を一緒に歩むパートナーという感じで、ほんのり恋愛要素もあるが、それがメインにはならないのも好感である。
収録5編をざっくり紹介してみる
それぞれの短編、内容もトーンも結構違う。以下、ざっくり紹介していこう。
『祝祭日の死体』
聖デクランの祝祭日、巡礼の地で起きた殺人。しかも死体があったのは、聖人の遺骸が眠る聖域の上。まさに「神聖の冒涜」。
フィデルマは巡礼に訪れていた立場ながら、当然のように事件に巻き込まれ、論理と観察力で聖域の闇を暴いていく。祝祭の熱狂と、静かなる信仰、そこに絡む殺意。舞台としての巡礼地の使い方が見事。
『狗のかへり来りて……』
個人的ベスト。20年前の事件が、今になって再び表面化する。いわゆる「コールドケースもの」。
時間の経過とともに人の記憶は曖昧になり、真実は複数の語りの中に埋もれていく。それを丁寧に掘り返すフィデルマの捜査は、まるで歴史家のようだ。重いけど深く沁みる一編。
『夜の黄金』
飲み比べ祭りの最中に起きた毒殺事件。みんな同じ酒を飲んでいたはずなのに、死んだのはただ一人。
毒殺ミステリの醍醐味「どうやって?」が炸裂する作品で、容疑者たちの心理や祝祭の混乱ぶりもスパイスになっている。地元の修道院長ラズローンとのコンビも、新鮮で面白い。
『撒かれた棘』
フィデルマが法廷弁護士として少年の弁護に立つ一編。状況証拠は最悪。周囲も「こいつがやったに決まってる」と断定モード。そんな中、彼女は法廷でひとつずつ矛盾を突いていく。
この作品のキモは「偏見」との戦い。ブレホン法の公正さが、物語の推進力になっている。ラストの逆転劇がめちゃくちゃ気持ちいい。
『尊者の死』
高名な尊者が殺される。誰もが尊敬していた存在のはずなのに、なぜ? これはもう偶像破壊ミステリだ。
聖人視されていた人物の裏の顔が、少しずつ暴かれていく展開がスリリングで、犯人の動機にも考えさせられる。館もの的な楽しさもあり、シリーズらしい構造美が光る。
歴史と謎解きの幸福な出会い
この短編集を読み終えたとき、「これぞ歴史ミステリの理想形だ」と素直に思った。
ミステリとしての面白さ──つまり、トリック、論理、犯人当ての快感──がしっかりありつつ、7世紀アイルランドという異文化のなかで、それがちゃんと機能しているのだ。
たとえば「なぜ警察がいないのに事件が解決するのか?」という疑問にも、ブレホン法の存在が答えてくれるし、「なぜ女性が法廷に立てるのか?」という点も、当時のアイルランドの女性地位の高さでしっかり裏付けられている。
翻訳者・田村美佐子さんの訳もすばらしい。固有名詞の多さや、宗教・法制度の説明が必要な場面でも、過不足なくスムーズに読ませてくれる。東京創元社の編集センスも相変わらず冴えていて、長編未読の人でもすっと入れるように構成が工夫されているのも素晴らしいポイントだ。
個人的には、この短編集を読んだあとに長編シリーズに突入するのがベストルートじゃないかと思う。世界観にもキャラクターにも慣れた状態で、より複雑で重厚な長編を味わえるという点で、読書体験としての満足度がすごく高くなる。
そして最後にひとこと。
このシリーズを読んでいると、論理で世界の矛盾を切り裂く快感と、人間の感情の複雑さ、その両方を同時に味わうことができる。
つまり、考えるミステリがちゃんとエンタメとして成立している。
フィデルマの慧眼に導かれ、霧の中のアイルランドを歩く時間。
それは、現代に生きる私たちにとっても、決して他人事ではない「正しさ」と「誤り」の物語なのだ。

