
長岡弘樹(ながおか ひろき)という作家の名前を聞くと、まず思い出すのはやっぱり『教場』。
あの、警察学校を舞台にした緊張感たっぷりの物語は、多くの読者の心に残っているはず。そんな彼が次に選んだ舞台が「交番」だなんて、ちょっと驚きじゃない?
『交番相談員 百目鬼巴』は、そんな予想を良い意味で裏切る一冊。交番で働く相談員――と聞くと、なんだかのどかで事件とは無縁な日常を想像してしまいそうだけど、この作品はそんなイメージとは真逆だ。
交番という「ごくありふれた日常空間」だからこそ、そこにひそむ異常やゆがみが際立つ。しかも、それを見抜くのは、定年間際のおばちゃん相談員――このギャップが抜群に効いている。
主人公の百目鬼巴(どうめきともえ)は、見た目はちょっと腰の低い優しいおばちゃん。でもその正体は、かつて県警でも一目置かれていた伝説の刑事。
今は警察を退職し、交番相談員としてのんびり……しているかと思いきや、街のあちこちに潜む謎を、さりげなく、けれど鮮やかに解いていく。これがもう、クセになるんだ。
事件をほじくり返さない名探偵?

百目鬼巴の信条は「物事をほじくり返すと、ろくなことがない」。一見すると、事件解決を目指す探偵とは正反対のスタンスだ。でも彼女がすごいのは、その“引いた姿勢”のまま、ちゃっかり真相にたどり着いてしまうところ。
この「受動的な推理」が本作最大の特徴だ。読者は「なぜこの人が動いたのか」に常に注意を払うことになる。そういう意味で、百目鬼巴はミステリにおけるトリガーでもあり、観測者でもある。
かの名探偵のような超人的推理ではない。でも、生活の知恵と、人を見る目、ちょっとした観察力がずば抜けていて、それが事件の核心をつく。たとえば、郵便碁やファクシミリの仕組みといった、一見どうでもいいような知識が、大きな謎のピースになる。
題材だけ見ると本当に些細なネタばかり。でも、それをミステリーの核にしてしまうのが長岡作品のすごさだ。小さな違和感が積み重なって、やがて一つの事件の真相に結びつく。その過程が、読んでいてたまらなく気持ちいい。
彼女は別に、自分から事件に首を突っ込むタイプじゃない。だけど、周囲で困っている人がいたら、つい手を差し伸べてしまう。そしてその手の差し伸べ方が、もう絶妙。
ちょっとした一言、何気ない観察眼、誰も気に留めなかった事実――それらをふわっと組み合わせて、まるでパズルを解くように真実に辿り着いてしまうのだ。
交番という舞台の妙
交番って、ある意味で“最も市民に近い警察の顔”だと思う。でもこの作品を読むと、その“日常の玄関口”にこそ、人間ドラマがぎゅっと詰まっているんだと気づかされる。
扱う題材は実はかなり重い。警察内部で起こる不正、職務中の過失、精神的なプレッシャー……。一見ゆるく見える物語が、いつの間にか組織の暗部へと読者を導く。その案内役を、にこやかな「交番のおばちゃん」が務めているという、このねじれ感がクセになる。
百目鬼巴は、交番の相談員という一見サブ的なポジションにいながら、なぜか誰よりも深く事件の核心に近づいていく。これはもう、彼女がただの相談員じゃないから、というのはもちろんあるけれど、それ以上に、交番という“日常”の場所だからこそ見える「ズレ」や「違和感」があるんだと思う。
たとえば、落とし物の相談に訪れた人の仕草、交番前をうろつく少年の行動。普通の人なら見逃してしまうような些細なことに、百目鬼巴はすぐに気づく。
そしてそこから、ちょっとずつ事件の輪郭が立ち上がってくる。まるで、何気ない日常の風景の中に、一本だけ色の違う糸が混じっていたことに気づくような感覚だ。
若手警官とのコンビが光る
この短編集、実は百目鬼巴の一人語りじゃない。毎話登場する若手警察官たちが語り手になっていて、彼らの視点で巴の姿を追いかけていく構成になっている。これがまた、すごく効いてる。
彼女自身の内面は多く語られないんだけど、若手たちが彼女に振り回されたり、驚いたり、感心したりする様子から、逆に巴という人物がくっきりと浮かび上がってくる。なんというか、「自分が見たものを信じるしかない」語り手たちと一緒に、読者も「この人、何者なんだ……?」とワクワクしながら読み進めることになる。
巴が口数少なく事件を読み解くさまは、まさに“安楽椅子探偵”。ただし、彼女の場合は「安楽椅子に座っていても人の心の奥が見えてしまう」タイプ。
推理が派手に炸裂するというよりは、ふとした瞬間に「実はこうなんじゃない?」と静かに差し出される感じ。これがまた、渋くてカッコいい。
静かで優しいミステリーの醍醐味
『交番相談員 百目鬼巴』を読み終えたときに感じたのは、「ああ、こんなミステリーもあるんだ」という新鮮な感覚。血みどろの殺人事件や、緊迫した追跡劇はない。だけど、じわじわと心に染み入る“謎”と、それを見抜く鋭い知性と、何より人間への温かなまなざしが、そこにはある。
事件の裏にはいつも、人の気持ちや事情がある。それを無視せず、でも押しつけがましくもなく、ただそっと受け止めて、できる限りの形で整えてあげようとする百目鬼巴の姿に、読みながら何度も胸が温かくなった。
正義とは何か、真実とは何か、という問いに対して、彼女は「それを暴いても意味がないこともある」と教えてくれる。それは決して諦めや投げやりではなく、むしろ人間を深く見つめたからこそ辿り着く優しさなのだと思う。
続編があれば、絶対に読みたい。もっと彼女の過去が知りたいし、もっとたくさんの若手と関わって、彼女の名探偵ぶりを間接的にでも味わっていたい。
静かなミステリーだけど、間違いなく今の時代にフィットした、新しい警察小説のカタチ。百目鬼巴というキャラクターとともに、長く愛されていくシリーズになる予感がする。
いわゆる「安楽椅子探偵」や「日常の謎」が好きな人にはもちろん、警察小説の新しいスタイルを体験したい人にも強く勧めたい一冊だ。
肩肘張らずに読めるのに、読み終える頃には何か大切なことを教えられた気になる。そんな本に出会えるって、嬉しい。
