アルゼンチン出身の作家ギジェルモ・マルティネス氏は、数学者としての顔も併せ持つ人物です。この知的な背景は、単なる経歴にとどまらず、彼の作品に独特の深みと論理性を与える重要な要素となっています。厳密な思考と文学的な技巧が交差する場所に、マルティネス氏の創作の魅力が息づいているのです。
『アリス連続殺人』は、そうした知的基盤の上に緻密なプロットと豊かな文学的教養が融合した、注目すべき本格ミステリー作品です。本作は、スペインの権威ある文学賞「ナダール賞」を受賞しており、その文学的価値の高さも認められています。ミステリーとしての構造美に加え、深い人間描写や洗練された文体を併せ持つことが、この評価につながったと言えるでしょう。単なる謎解き小説ではなく、幅広い読者層に訴えかける力を備えた一冊です。
原題は Los crímenes de Alicia。日本では扶桑社ミステリーより、和泉圭亮氏の訳で2023年に刊行されました。物語は、マルティネス氏が過去に発表し高い評価を受けた『オックスフォード連続殺人』(原題 Crímenes imperceptibles)の続編として位置づけられています。前作の登場人物たちが再登場し、今作では新たな謎に挑む姿が描かれており、シリーズファンには登場人物の関係性の深化や、扱われるテーマの発展を楽しむことができる内容となっています。
とはいえ、本作は前作を読んでいない方にも配慮された構成になっており、物語単体としても十分に楽しめます。新たにマルティネス作品に触れる読者にとっても、知的で緊張感あふれるミステリーの醍醐味を味わえるでしょう。
物語の舞台と背景:オックスフォードとルイス・キャロル

物語の舞台となるのは、歴史と知性が息づくイギリスの学術都市オックスフォード。主人公であるアルゼンチンからの給費留学生「私」は、オックスフォード大学において、筆跡に関するプログラムの開発という研究課題に取り組んでいました。そんなある日、「私」は旧知の間柄である高名な数学者アーサー・セルダム教授から、ある極秘の依頼を受けることになります。
その依頼とは、『不思議の国のアリス』の作者として知られるルイス・キャロルが生涯に記した日記に関するものでした。キャロルの日記には、一部が意図的に削除された、いわゆる「失われたページ」が存在すると言われています。セルダム教授は、「私」に対し、新たに発見された関連書類の筆跡鑑定を依頼してきたのです。
この筆跡鑑定をきっかけに、「私」とセルダム教授は、ルイス・キャロルをめぐる奇怪な連続殺人事件の渦中へと巻き込まれていきます。事件の背後には、「ルイス・キャロル同胞団」という団体の存在がありました。彼らはキャロルの日記の刊行を計画していましたが、日記の解釈や管理方針をめぐって内部には深刻な対立が生じており、やがて悲劇的な事件へとつながっていきます。
失われた日記の発見者とされる若い研究者クリステンは、その内容を公にする前に、謎めいた事故に巻き込まれてしまいます。彼女が見たものとは何だったのか。日記の秘密は、連続する死とどのように関係しているのでしょうか。そして、犯人の真の目的は一体何なのか――。
セルダム教授の明晰な論理と、「私」の筆跡鑑定の知識を武器に、二人は『不思議の国のアリス』のモチーフや数理数列が複雑に絡み合う、知の迷宮のような謎解きに挑んでいきます。歴史の闇に葬られかけたキャロルの秘密と、現代に巻き起こる連続殺人事件。二つの事件が交錯する中で、やがて驚くべき真相が明らかになっていくのです。
登場人物:再び謎に挑む探偵と語り手
前作『オックスフォード連続殺人』で鮮やかな推理を披露した数理論理学の碩学、アーサー・セルダム教授が、本作でも探偵役として登場します。彼の鋭い知性と論理的な思考は、ルイス・キャロルをめぐる複雑怪奇な事件の真相に迫る上で欠かせない要素となっています。セルダム教授の存在は、物語に知的な緊張感をもたらすと同時に、ある種の安定感も提供しており、読者を論理の迷宮へと導いてくれるのです。
また、彼の専門である数理論理学は、事件の解決が単なる直感や偶然によってもたらされるものではなく、厳密な知的プロセスと明確な論理原則に基づいて進められる、という事です。こうしたアプローチは、本作が「本格ミステリー」としての骨格をしっかりと持っていることの証でもあります。
物語は、オックスフォード大学で学ぶアルゼンチン出身の給費留学生である「私」の視点から語られます。「私」はセルダム教授の依頼を受け、ルイス・キャロルの日記に関する筆跡鑑定に携わることとなり、否応なく事件の渦中へと巻き込まれていくことになります。彼の専門が筆跡をめぐるプログラム開発であるという設定は、「私」を単なる語り手の枠にとどめず、事件解決において重要な役割を果たす存在として物語に深く関わらせています。
読者はこの「私」の目を通して事件の進展を追い、セルダム教授の卓越した推理に触れることができます。この語りの形式は、古典的な探偵小説におけるホームズとワトソンの関係を想起させますが、「私」がアルゼンチン出身の留学生であるという点が、伝統的な英国の舞台に独自の視点を持ち込む役割を果たしている点も見逃せません。
セルダム教授と「私」の関係は、単なる探偵と助手という構図を超えて、師弟関係や、天才とそれを観察する者の対比、さらには異文化間の交流といったテーマを内包している可能性もあります。前作では、セルダム教授がやや「世離れした人物」として描かれていましたが、彼の抽象的思考への傾倒は、人間的な動機の理解において独特のアプローチや、ある種の盲点を生むことも考えられます。こうした描写が、セルダムというキャラクターに多層的な魅力を与えているのです。
謎の中心:ルイス・キャロルの失われた日記と連続する事件
物語の中核をなすのは、ルイス・キャロルが残した日記、特にその中で行方不明となった部分や、一部が破り取られたとされる記述です。「失われたページ」には一体何が書かれていたのか、そしてその内容が現代にどのような影響を及ぼすのか――この点が、本作における最大の謎として提示されます。中でも注目すべきは、キャロルがリデル夫人から「今後、家族に近づかないように」と忠告された時期の記録が抜け落ちているという事実です。
この欠落は、日記の内容がキャロルの私生活における極めて繊細な部分、あるいは論争の火種となりかねない領域に触れていたことを強く示唆しています。そしてその「真実」こそが、事件の動機と深く関係しているのです。
また、物語に登場する「ルイス・キャロル同胞団」という団体は、キャロルの日記を編纂・刊行する計画を進めていましたが、その内部では解釈や公開のあり方をめぐって意見が対立し、不穏な空気が漂い始めます。やがてその対立は、連続する奇怪な事件へとつながっていくのですが、「同胞団の中に蠢く不穏な動きと、奇怪な死の連鎖」という構図からは、単なる学術団体とは思えない危うさが立ち上がってきます。
知的な情熱が、執着や権力欲へと変質し、それがやがて犯罪へと結びついてしまう――そんな人間の本質を浮かび上がらせる要素も含まれているのです。キャロルの遺産をいかに管理し、どう解釈するかを巡る主導権争いが、悲劇の温床となっていた可能性も否定できません。
事件の謎解きには、『不思議の国のアリス』に登場する幻想的なモチーフだけでなく、数理数列などの数学的・論理的な要素も複雑に絡み合います。文学的でときに不可解なアリスのイメージと、抽象的かつ厳密な論理を要求する数列の構造。この異質な組み合わせは、本作が単なる文学ミステリーではなく、象徴と数理が交錯する知的なパズルでもあることを示しています。犯人は、文学的な暗示と数学的なパターンを意図的に組み合わせ、メッセージを残しているのです。
こうした要素が絡み合う本作は、まさに「アリスと数理数列に彩られた知の迷宮」と呼ぶにふさわしいでしょう。物語の構造は多層的であり、解決には文学、歴史、数学といった複数の分野を横断する学際的な視点が求められます。その複雑さこそが、本作を唯一無二の知的ミステリーとして際立たせているのです。
知と謎の迷宮へ
本作は、ルイス・キャロルという実在の人物や、世界的に有名な作品『不思議の国のアリス』を題材としているため、文学史や歴史の謎に関心を持つ読者の知的好奇心を大いに刺激します。史実とフィクションが巧みに交錯する展開の中で、「何が真実で、どこからが創作なのか」を考察する知的な楽しみがあり、読者は自然とページを繰る手を止められなくなるでしょう。
本格ミステリーとしての構造も精緻で、物語の随所に巧妙な伏線が張り巡らされています。読者は探偵役のセルダム教授とともに、それらの伏線を丹念に拾い上げ、論理の力によって事件の真相に迫ることになります。複雑に絡み合った謎は、まさに「知の迷宮」と呼ぶにふさわしいものであり、それを解き明かしたときの達成感は格別です。
「そこで明かされる連続殺人の真相は、奇抜でありながら、伏線からすれば必然であり、つまりは仰天必至だ」と評されており、驚きと納得感の両立したエンディングが待っています。これは、優れた本格ミステリーが読者に与える最高の報酬のひとつだと言えるでしょう。
ただし、作品の魅力を最大限に味わうには、ある程度ルイス・キャロルに関する知識や、アカデミックな雰囲気を持つミステリーに対する親和性が求められるかもしれません。しかしそれもまた、本作が持つ知的な挑戦の一部です。深い思索や、複層的な構造を好む読者にとっては、むしろ大きな魅力として映るはずです。
おわりに
ギジェルモ・マルティネス氏の『アリス連続殺人』は、ルイス・キャロルの失われた日記という魅力的な謎を中心に据え、オックスフォードの知的な空気を背景に、数学的な論理と文学的深みを見事に融合させた本格ミステリーです。碩学の探偵セルダム教授と語り手である「私」が再び挑む事件は、読者を複雑で刺激的な知の迷宮へと誘い、驚きと論理的カタルシスに満ちた結末へと導いてくれることでしょう。
歴史、文学、そして論理が織りなすこの重層的な物語は、単なるミステリーファンにとどまらず、知的な刺激を求めるすべての読者にとっても、忘れがたい読書体験となるに違いありません。緻密に構築された謎解きの世界に、あなたもぜひ足を踏み入れてみてはいかがでしょうか。
