世の中にあるホラー作品の多くは、人を怖がらせるために存在する。
だが、稀に「怖がる事しかできない」本がある。そういう作品の前では、理性も娯楽も無力だ。
郷内心瞳(ごうない しんどう)の『拝み屋怪談 花嫁の家』は、その代表格であり、化け物である。
これは、ホラー好きとしても気安く「面白かった!」なんて言えない類の本だ。
というのも、この本に書かれているのは、「物語」ではない。あくまで、現役の拝み屋である郷内が体験した、あるいは相談を受けた「実際に起きたこと」だからだ。
フィクションには、どれだけ血なまぐさくても、どこかに「これは作り話ですよ」という逃げ道がある。しかしこの作品には、その逃げ場がまったくない。
そもそも作者自身がガチで呪いや霊に関わってる人物で、しかも読者に向かって「これはほんとにあったことです」と言い切ってくるのだ。もう、こっちは怖がる以外の選択肢がない。
しかも郷内心瞳の文体は、淡々としていて妙にリアルだ。怨霊が出てきても、いちいち説明したり演出したりしない。「こういうことがありました」と、まるで交通事故の報告みたいな口調で記述される。これが逆にリアリティを増幅させていて、読んでいて鳥肌が止まらない。
このリアリティの根っこには、郷内の職業的な立場がある。彼は物書きである以前に、「現場の人」なのだ。
その人が語る怪異の報告書に、どこまで無関心でいられるだろうか?
点が線になり、線が呪いに変わる構造

『花嫁の家』の何が凄いって、最初はバラバラに思えた怪異譚の断片が、最終的に「一つの巨大な呪い」に収束していくところにある。
話の出だしはいつも唐突だ。例えば「霊感の強い子どもが不可解な現象に悩まされている」とか、「亡くなった母の霊が帰ってきた」みたいな、よくある心霊相談。個々のエピソードもそれぞれ十分に怖いのだが、読み進めていくうちに、それらがある共通の病巣につながっていることに気づかされる。まるで点と点が、糸で結ばれていくように。
で、その糸の先に現れるのが『花嫁の家』だ。そこに嫁いだ女は必ず死ぬ、という不気味な旧家・海上家。彼らが代々守り続けてきた何かが、あちこちで怪異を引き起こしていたのだと判明するあたりで、背筋がガチガチに凍る。
この構造は、ホラーというよりサスペンスやミステリに近い。バラバラの謎がひとつに収束する快感がある。いや、「快感」ではない、正確には「絶望感」だ。点が線になったと思ったら、その線が全部呪いだった、という絶望。
しかもこの呪いは、単なる「霊が祟る」みたいな単純な話ではない。土地に根差し、家系に染み込み、まるで感染症のように広がっていく。
これはもう、パンデミックだ。霊的パンデミック。そんな言葉が浮かぶくらい、スケールが大きくて、容赦がない。
呪いの構造が張り巡らされた舞台
『花嫁の家』の話は、本当におぞましい。
この海上家という家系では、花嫁を迎えるたびに、その女性が3年以内に死ぬ。しかも、それを当然のように受け入れている。
理由は、家に伝わる“あるもの”のせいだ。それが、「人形」とも「ミイラ」とも言われる、人体の一部を使った呪物。もうこの時点でだいぶアウトである。
しかもこの「人形」は、単なる呪いのトリガーじゃない。もっと象徴的な意味を持っている。要は、外から来た花嫁という存在を、家のために生贄として消費してきたということだ。血のつながらない女は、家にとって「捧げるもの」でしかない。その結果、彼女たちは名前も人格も奪われ、死んだあとも祭具として部屋に飾られ続ける。
この作品の恐ろしさは、「怖い話が起きました!」という一発芸ではなく、「この家にはずっと何かがある」という持続性にある。つまり、根が深い。だから怖い。
そしてこの旧家をめぐる怪異を、郷内氏は二部構成で描く。『母様の家』『花嫁の家』という二つの中編は、まったく別々に語られるが、読み進めていくと身の毛がよだつ。リンクしていたのだ。この構造の妙は、まさに横溝正史ばりの複雑性を孕んでいる。
そして最悪なのは、この『花嫁の家』の呪いが、物語の中だけの話じゃなくて、「現実のどこかにも存在してるかもしれない」と思わせてくることだ。
いや、存在してないと言い切れる自信が、あなたにあるだろうか?
わたしは、ない。
拝み屋という、人間とそれ以外の境界線
郷内心瞳は、この物語の語り手であり、当事者であり、拝み屋という立場の専門家でもある。
普通のホラー小説だと、専門家はだいたい「知識と力をもって悪霊を退治する」という役割だが、郷内心瞳は全然違う。彼自身かなり怖がっているし、何度も「逃げたい」と言っている。実際にうまくいかないことも多いし、死人も出る。
これが逆にリアルだし、怖い。専門家ですら「無力」なのだ。じゃあ、素人であるこっちがそんな現象に巻き込まれたら、どうしたらいいのか。逃げ道は? 助かる方法は? ……ない。そう突きつけてくる。
そして彼は、あくまで「緩和」しかできない。祓うんじゃない。止めるんじゃない。ただ、少しでも被害を減らすために動いてるだけだ。そんな立場にいる彼の目線で語られるからこそ、物語には妙な説得力があるし、読んでいて変な汗が止まらない。
郷内心瞳の語り口は、どこまでも真面目で、どこまでも人間臭い。だからこそ、「こんな人が本当にいるんだ」と思わせてくるし、「こんな世界が、本当にあるのか……」という妄想にリアリティを与えてしまうのだ。
終わらない供養の体験
怖い怪談というのはたくさんある。けれど、その多くは終盤で緊張感が途切れる。尻切れとんぼになる。だが『花嫁の家』は違う。最後の最後まで、むしろ終盤にかけて、どんどん畳みかけてくる。
「これで終わりかな」と思った時、また別の恐怖が追ってくる。因縁が二重三重四重に折り重なり、もはや何を解決すれば物語が終わるのか、見えなくなっていく。いや、「終わらせない」ことがこの作品の目的なのかもしれない。
読後、ページを閉じても、その怪異は終わらない。なぜならそれは、記録されただけで、成仏したとは限らないからだ。
読み手である私たちは、その供養に間接的に立ち会ったつもりになっていたが、もしかすると「見た」だけで済んだと思った自分が、一番浅はかだったのではないか。
しかもこの作品、かつて絶版になっていた時期がある。そうやって「手に入らない物語」だったこと自体が、さらに作品に禁忌的な力を宿していたように思う。2022年に新装版が刊行され、電子書籍化された今でも、その呪力は変わらない。
終わらない恐怖は、本の外にまで広がっている
というわけで、『拝み屋怪談 花嫁の家』は、怖い話がいっぱい詰まっている「ホラー小説」ではない。
むしろ、読む側の現実感を壊してくる、「ホラーの体験装置」のような作品だ。
そしてその恐怖の根底にあるのは、土地というものの記憶、家という共同体の業、そして人間の理解を超えた何かへの不信感だ。
郷内心瞳が生きる東北の土地、そしてそこに刻まれた震災の記憶までもが、この作品には息づいている。
読み終えたとき、あなたが抱く感情は「怖かった」ではなく、「帰ってきたくなかった」になるかもしれない。
あの世界に足を踏み入れたことを後悔するほどに、この本は深く、濃く、確実にこちら側を侵食してくる。

















