奥田英朗『伊良部シリーズ』紹介 – 最強の処方箋? 日本で最も奇妙なクリニックへようこそ

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「いらっしゃーい!」

甲高い声で迎えられる伊良部総合病院・地下の神経科。

でもそこに待っているのは、癒しも共感もまるでない。患者たちを出迎えるのは、白衣にぽっちゃり体型、注射大好きでマイペースすぎる精神科医・伊良部一郎(いらぶいちろう)だ。

悩みもけっこう深刻なのに、治療(?)は無茶苦茶。プール依存症、陰茎強直症、先端恐怖症……とんでもない症状ばかりなのに、伊良部のやりたい放題な診察に振り回されるうちに、なぜか患者たちはすこしずつ変わっていく。

奥田英朗の《伊良部一郎シリーズ》は、そんな「トンデモ医者に翻弄されながら、気づけば心が軽くなる」という不思議な物語だ。

でもこれは、ただのギャグ小説じゃない。どこまでがふざけてて、どこからが本気なのか。伊良部って本当に名医なの?  それともやっぱりただの迷惑男? そんな根本的な疑問が、シリーズ全体を引っ張っていくのだ。

深刻だったはずの悩みが、「なんかどうでもよくない?」って思えてくる。伊良部というカオスに振り回されることで、患者たちは自分の問題と自然に向き合えるようになる。

やり方はめちゃくちゃだけど、なぜか効く。

伊良部シリーズがくれるのは、ちゃんと悩むことから解放される、あたらしい快感だ。

目次

1.破天荒な処方箋、効きすぎ注意── 『イン・ザ・プール』

精神科に行って「こっちが病みそうなんだけど…」と思ったことはあるだろうか。

もしないなら、この本を読んでみるといい。伊良部一郎、最強で最悪な精神科医が、そんな経験を無理やり提供してくれる。

『イン・ザ・プール』に登場する伊良部一郎は、白衣の天使どころか白衣の混沌。太っていて汗っかき、注射が大好きで、診察より遊びが優先。患者から見れば不安でしかない存在なのに、なぜか読後は、伊良部がいないと物足りない。そんなとんでもない精神科医が織りなす、爆笑と回復の連作短編集だ。

物語の舞台は、伊良部総合病院の地下にひっそりと存在する「神経科」。やってくるのは、携帯依存の高校生、勃起が止まらないサラリーマン、ストーカーに悩む女性、プール中毒の中年男など、一筋縄じゃいかない患者たち。彼らを迎えるのが、セクシーすぎる看護師マユミと、どう見ても医者に見えない伊良部だ。

診察はとにかく自由奔放。プール依存の患者には「一緒に泳ぎたい」とゴネ、ストーカーに悩む女には「ストーカーの気持ちも考えてみて」と言い出す始末。それでも不思議と、みんな立ち直ってしまう。というか、突き放されることで勝手に回復していく。そのカラクリが絶妙だ。

笑いの中にあるのは、現代人なら誰もが抱える小さな不安や孤独。奥田英朗の筆は、それを大げさにせず、でも確実に本質を突いてくる。誰かに話すほどでもないけれど、自分の中にずっと引っかかっていた感情。それを、伊良部のめちゃくちゃな介入が解きほぐしていく感じが、妙に心地いい。

まともな治療なんか一切ないのに、読む側がどんどん浄化されていく。

『イン・ザ・プール』は、医療ドラマのふりをした、最高のコメディであり人生の処方箋だ。

2.重力も常識も吹っ飛ばせ── 『空中ブランコ』

精神科の常識って、ここじゃまったく通用しない。伊良部一郎という存在が、すべてをひっくり返してくるからだ。

白衣の巨体がサーカスに出張し、ヤクザの抗争に介入し、さらにはエリート医師の義父のカツラにまで目を輝かせる。めちゃくちゃなのに、どこかしら効いてくる。それが『空中ブランコ』という物語だ。

今回、伊良部の診察室を訪れるのは、前作よりもさらに切羽詰まった面々。空中ブランコに乗れなくなったサーカス芸人、刃物が怖くなったヤクザ、カツラを剥ぎたくて仕方がない医者。

どれもギャグみたいな症状に見えるけれど、本人たちは至って真剣。むしろ、命やプライドがかかっている。笑ってる場合じゃない。

でも、伊良部は相変わらずマイペース。真顔で「やってみたい」と空中ブランコに挑戦するし、ヤクザのシマ争いにもずかずかと踏み込んでくる。そこにあるのは、治す意志じゃない。ただ「面白そう」という好奇心だけだ。

でも、その無邪気さが、凝り固まった患者たちの心に風穴を開ける。プロとしての自意識、社会的立場、責任感。そんな重たい看板を、「それって楽しいの?」の一言で崩してしまう。

今作で光っているのは、「人と関わることでしか解けない痛み」へのまなざしだ。自分の悩みを自分だけで抱えているとき、世界は恐ろしく孤独に見える。でも他人の弱さや意外な一面に触れることで、ふっと肩の力が抜ける。伊良部の役割は、まさにそのほころびをつくことにある。

ふざけた話のようでいて、どこか人生の本質に触れてくる。重力に逆らう空中ブランコのように、読後には心がふわっと浮く。

それが、この物語のすごさだ。

3.伊良部、島を揺らす── 『町長選挙』

伊良部がついに島に上陸した。注射器片手に診療所の地下じゃなく、伊豆の離島である。

しかも、ただの診療応援じゃない。なんと町長選挙の真っ只中。右も左も選挙、選挙、選挙。そんな島の空気に、あの伊良部が巻き込まれないはずがない。

島民たちは、それぞれの推す候補を勝たせるために必死だ。で、なぜか伊良部を引き入れようと現金攻勢やら接待やらの大盤振る舞い。どっちが病んでるのか分からない。しかも伊良部は相変わらずで、のらりくらりと人の懐に入り込み、なぜか最終的には物事がうまくまとまってしまう。もう手品の域。

本作は、これまでの個人の悩みから、一気に「社会」へと視野を広げた作品だ。町長選挙という舞台がすでに寓話っぽいのに、そこにモデルっぽい著名人まで投入してくるあたり、もう完全に現代風刺劇である。

登場するのは、プライドの塊みたいな社長や、カリスマぶってる芸能人、やたら影響力を欲しがる若手実業家。みんな何かしらこじらせている。

でもそのこじれ具合を、伊良部は全力で肯定する。「いいじゃんそれ」みたいなスタンスで踏み込んで、何もかもぐちゃぐちゃにする。すると不思議と、患者たちは変わっていく。自分の中にあったバカバカしさに、ようやく自分で笑えるようになるのだ。そこにマユミの視線がピシッと刺さって、物語がキレよく締まるのも嬉しいポイント。

このシリーズは、どれも笑える。でも笑ってるだけじゃなくて、「こういうことで悩んじゃうのって人間だよな」と思わせる芯がある。

『町長選挙』は、その人間くささと社会の滑稽さがうまくブレンドされた一作だ。伊良部という異物が、どこに放り込まれても変わらず機能する強さがここにある。

「何やってんだろうな、みんな」って笑いながら、どこか背筋が伸びる。そんな後味が心地いい。

4.こんな時代にこそ、あの医者が必要だ── 『コメンテーター』

あの伊良部が、ついに令和の世界に戻ってきた。しかも、よりによってパンデミック真っ只中。

世の中の空気が重苦しくなるなか、地下の神経科から、またしても常識破りの騒動が巻き起こる。

今回は、ワイドショーのリモート出演に疲れ果てたテレビコメンテーターや、長引く自粛生活で人と話せなくなった大学生、煽り運転に怯えるサラリーマンなど、「今だからこそ」の悩みを抱えた人たちが登場する。そんな彼らの前に現れるのが、白衣の肥満児・伊良部先生。注射大好き、空気読まない、話聞かない。だけど、なんだか最後には全部うまくいく。

この『コメンテーター』、前作からじつに17年ぶりなのに、まったく古びてないのがすごい。というより、むしろ今の時代にピッタリすぎる。

人と会えない、話せない、何か言えば炎上する……そんな息苦しさに、伊良部のやりたい放題が突き刺さる。リモート出演に疲れた有識者に「じゃあスタジオ行きます?」と乗り込んでくる無神経さ。それが逆に、こじれた思考をほぐしてしまうのだ。

しかも今回は、「巨大な社会」よりも「身の回りのしんどさ」に焦点が戻ってきた。社交不安、近所付き合い、リモート疲れ。こういう、ありそうな悩みに伊良部が土足で突入する展開こそ、やっぱりこのシリーズの本領だ。

仮装パレードに大学生を放り込むとか、やってることはメチャクチャなのに、読んでいると「それでいいのかも」と思えてくるのが不思議だ。

そして、マユミのキャラがさらに進化してるのもいい。相変わらずセクシーで口数少なめだけど、伊良部との掛け合いに味が出てきた。シリーズとしての熟成を感じるし、伊良部の「本気で人を治そうとしてないようで、実は誰よりもまっすぐ向き合ってる」感じも、今回はより際立っている。

17年のブランク? まったく気にならない。

むしろ、今だからこそ帰ってきてくれてありがとうと言いたい。

おわりに 混沌の先にこそ、救いはある

なぜ、あの太ってて、注射フェチで、空気も読まずにやりたい放題な医者が、これほど多くの人の心をつかみ続けるのか。

その理由は、とてもシンプルだ。

この物語の主人公は伊良部じゃない。毎回現れる「悩める誰か」こそが主役で、伊良部はただ、その人の人生に勝手に踏み込んで、全部をかき回していくだけ。しかも治療らしいことは何もしない。

だけど、だからこそ変化が起きる。笑えて、呆れて、でも読み終わったときにはなぜか、ちょっとだけ自分の悩みも軽くなっている。

奥田英朗が言うように、このシリーズには「最初から決められた展開」なんてない。物語はキャラが勝手に動いて勝手に着地する。だからこそ、生きてる感じがする。

伊良部の行動も、まったく同じだ。何も考えてないようで、どこか信じてくれている。強引にでも患者を自分の人生に向き合わせてくる。

つまりこれは、「混沌こそが処方箋」って話なのかもしれない。

完璧なルールの中じゃ、人は息が詰まる。でも、どうしようもないくらいバカバカしくて、予測不可能で、自由すぎる存在と向き合ったとき、人はようやく自分の硬さや重さを手放せるのだ。

伊良部シリーズが教えてくれるのは、きっとそういうことだ。

人生、真面目に考えすぎたら負け。

たまには自分の悩みを笑ってみよう。

注射でも打ってもらおう。

混乱の中から、案外いい未来って生まれてくるかもしれないんだから。

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この記事を書いた人

年間300冊くらい読書する人です。
ミステリー小説が大好きです。

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