小説を読み終えたあと、胸の奥にふんわりと温かさが残ることもある。
逆に、胃のあたりがずっしり重くなるような、不快感ややりきれなさに襲われることもある。
とくに後者。読後に「うわ……」となるタイプの作品たちは、よく「イヤミス」と呼ばれる。いわゆる「イヤな気分になるミステリー」だ。なんともストレートなネーミングだけど、これがけっこう根に残る。
救いもなければカタルシスもない。あるのは不条理、理不尽、そして得体の知れない不安。しかもそれが、読めば読むほど妙に気になってしまう。
……なぜ私たちは、わざわざそんな心に傷を残すような小説を読もうとするのか?
たぶん、そういう作品にしか描けない「現実の裏側」みたいなものがあるからだろう。ご都合主義じゃない。希望が打ち砕かれ、真実に打ちのめされ、それでも物語は終わってしまう。そんなバッドエンドは、妙にリアルで、強烈に焼きつく。
結末といえば、ついハッピーエンドを思い浮かべがちだ。でも、世の中すべてが報われるわけじゃないし、すべての善意が報いられるとも限らない。
そういう「救いのなさ」こそが、ある種の物語にとってはリアリティそのものだったりもする。
というわけで今回は、「後味の悪い小説」「イヤミス」「バッドエンド小説」など、読後にズンとくるタイプの作品たちを紹介していきたい。
覚悟のある人だけ、どうぞ先へ。
1.地下に広がる絶望のどんでん返し── 夕木春央『方舟』
大学時代の友人たちと従兄の翔太郎と共に、山奥の奇妙な地下建築物、通称「方舟」を訪れた柊一。そこで偶然出会った矢崎一家3人と合流し、総勢10人で一夜を明かすことになる。
しかし翌朝、事態は一変。地震が発生し、唯一の出入り口が巨大な岩で塞がれてしまう。
さらに悪いことに、地下建築内には徐々に水が流れ込み始め、いずれ完全に水没するという絶望的な状況に。そんな極限状態の中、仲間の一人が死体で発見される。
残された道はただ一つ。この施設から脱出するためには、誰か一人が残り、犠牲になる必要があった。彼らは、その犠牲者は裕哉を殺した犯人であるべきだと結論づける。
生き残りを賭けた犯人探しが、今、始まった。
極限の選択、驚愕の結末
なんといっても、『方舟』の真骨頂は、舞台となるあの地下建築の異様な存在感に尽きる。
地下三層。コンクリと配管の無機質な空間に、突然あらわれる洞窟のような区画。しかも一部は水没。近代と未開、人工と自然がごちゃまぜになったような構造で、最初から読者を不安に陥れてくる。
完全に「閉じられた」空間としての説得力がすごい。ここで何かが起きないわけがない。
クローズドサークルとしては極上だけど、この作品が他と違うのは、単なる犯人探しでは終わらないところだ。事件の背後には、生き残りをかけたサバイバル要素がべったり張りついている。水位がどんどん上がる。逃げ道はない。
そして突きつけられるのが、「一人が犠牲になれば、他は助かる」という極限の選択肢。そう、いわゆる“トロッコ問題”が、抽象論じゃなく現実の脅し文句として目の前にぶら下がる。
しかも厄介なのは、犯人を見つけること=誰かを犠牲にすること、という構図になっている点だ。推理が進めば進むほど、誰かの命が削られる。正義と倫理と、自己保身と、あとちょっとの打算。そういう感情がぐちゃぐちゃに混ざって、人間関係は一気に崩壊していく。
そして最後に待ち受けるのが、全てをぶっ壊すラスト。
これが本当に強烈だ。
読者の想像とか解釈とか善意とか、そういうのをまとめて叩き壊してくる。「そういう話だったのかよ……!」って、思わず本を閉じて呆然とした人も多いはずだ。
『方舟』ってタイトルは、最初は「閉じ込められる場所」くらいの意味だと思ってた。でも、読み終える頃には全然違う意味に変わってる。
誰が救われるのか。そもそも“救い”ってなんだっけ? そんなことを無理やり考えさせられる。
読後はたぶん誰かに話したくなる。話さないと飲み込めない。
で、気づいたらもう一回最初から読み直して、あの時の伏線が……って確認したくなってる。
そういう仕掛けがきっちり詰まった作品だ。
2.信じたものに裏切られる── 法月綸太郎『頼子のために』
「頼子が死んだ」
物語は衝撃的な一文で始まる。17歳の愛娘・頼子を何者かに殺された父親・西村。
警察が通り魔事件として処理しようとするのに納得できず、独自に調査を進める。やがて彼は、娘を殺害した犯人を突き止めたとして、その相手を刺殺。自らも命を絶とうとし、事の経緯を詳細に記した手記を残す。
しかし、その手記を読んだ名探偵・法月綸太郎は、完璧に見える復讐劇の記述に、ある種の違和感を覚える。真相解明に乗り出した綸太郎の前には、やがて驚愕の事実が次々と姿を現すことになる。
精緻な構成で読者を翻弄する、著者・法月綸太郎の転機となったとも言われる傑作ミステリ。
父の手記に隠された、哀しくも歪んだ家族の真実
この作品、何がすごいって、いきなり提示される〈父親の手記〉そのものが巧みな罠になってるってところだ。
物語は、最愛の娘を失った父の復讐譚として幕を開ける。読者は当然、その怒りと悲しみに共感するし、語り手である父の視点に肩入れして読み進めることになる。……が、名探偵・法月綸太郎の調査が進むにつれて、その前提が少しずつ崩れていく。
手記に書かれたことと、実際に起きたこと。そのあいだにズレがある。しかも小さな矛盾じゃない。積み重なっていくと、「これ、父親の言ってること、本当に全部が本当なのか?」と疑わざるを得なくなる。
最初に抱いた感情が、裏切られる。信頼していた語りが、実はごまかしと独りよがりでできていた。この裏返りの気持ちよさというか、読者の立ち位置が揺さぶられる感覚は、この作品ならではだ。
しかもここで終わらない。物語はさらに捻れて、もう一段深い真相が叩きつけられる。「そこまでやるか……」という衝撃が最後に待っていて、思わず言葉を失う。
ラストには救いがない。むしろ読者を突き放すような冷たさすらある。でも、それがいい。いや、それだからこそ忘れられない。苦い後味のまま、登場人物の感情がズルズルと引きずられていくのを、こちらも一緒になって呑み込むことになる。
法月綸太郎シリーズの中でも、とりわけ異質で、とびきり強烈な一作。論理の切れ味と、人間の業の描写がこれでもかと融合していて、まさに理詰めで感情を潰しにくるような作品だ。
本格ミステリを読み慣れてる人間でも、この一撃は効く。
軽く読もうと思って手に取ったら最後、もう抜け出せなくなる。
3.絶望と狂気の密室劇── 勇嶺薫『赤い夢の迷宮』
25年前、小学生だった「ぼくら」7人は、殺人鬼の噂が囁かれる街で、不思議な男OGの館に通っていた。OGは「やっておもしろいこと」を見せてくれる魅力的な存在であったが、館の地下室で「あれ」を見せられたことを境に、彼らはOGと疎遠になる。
歳月が流れ、大人になった彼らの元にOGからの招待状が届く。それは悪夢のような同窓会の始まりだった。集められたのは、トラウマの場所である「お化け屋敷」と呼ばれたあの館。
外界から閉ざされた館で、かつての仲間が一人、また一人と消えていく惨劇が繰り広げられる。ジュヴナイルミステリの第一人者が、その封印を解き放ち、フルスロットルで挑んだダークミステリ。
二つの顔を持つ作家が描く深淵
『赤い夢の迷宮』の一番の衝撃は、何よりもまず作者名だろう。
ジュブナイル小説でお馴染みの「はやみねかおる」が、「勇嶺薫」という別名義でこんな作品を書いていたなんて。そう聞いただけで興味を惹かれた人も多いはずだ。
で、読んでみると……想像以上に闇が深い。いつもの軽妙な冒険や謎解きは影も形もなく、徹底的にドス黒い。希望も救済も放り投げたまま、物語はどんどん深みにはまっていく。
それなのに文章自体は読みやすいもんだから、なおさら怖い。軽やかな文体で陰惨な描写を突きつけられるこの感覚、まさに地獄への滑り台だ。
舞台は定番の閉ざされた館。だが本作の場合、その舞台設定がまるで牢獄のように機能している。
外に出られない。誰も助けに来ない。
そんな中、登場人物たちは追い詰められ、普段は隠していた感情や過去の傷、そして狂気が一人また一人と表に出てくる。
トリックもあるにはあるが、本作の主軸はそこじゃない。読む者の胸に突き刺さるのは、なんといっても登場人物たちの壊れ方だ。閉じられた空間で、誰かが壊れ、誰かが嘘をつき、誰かが沈んでいく。その過程が妙にリアルで、生々しい。
物語のラストに明確な救いはない。事件は終わっても、感情は処理されない。残るのはわりきれなさ、やるせなさ、感情の行き場のなさ。
だが、それがいい。すべてが回収され、キレイに終わる話なんて現実にはない。そんな物語の方がよほどフィクションだと思わされる。
普段のはやみね作品が好きな人ほど、ギャップに驚くだろう。でもそれ以上に、この暗い一撃が好きな人も確実に存在する。
とにかく、油断して読むと足をすくわれる。これは勇嶺薫の名を借りた、はやみね先生のダークサイド全開の問題作だ。
4.インタビュー形式が暴き出す人間の本性── 貫井徳郎『愚行録』
エリートサラリーマン家庭の田向一家が惨殺された事件は、一年が経過しても未解決のままであった。週刊誌記者である田中は、改めて事件の真相を探るべく、夫妻の元同僚や大学時代の知人、元恋人など関係者への取材を開始する。
彼らの証言からは、理想的と思われた被害者夫婦の意外な実像が次々と浮かび上がる。同時に、証言者たち自身も、語る中で自らの偏見やエゴイズム、即ち「愚行」を露呈していく。
一方、田中自身も妹の光子が育児放棄の疑いで逮捕されるという問題を抱えていた。やがて、一家惨殺事件の取材と妹をめぐる状況は交差し、過去の因縁と結びつきながら、事件の衝撃的な真相へと繋がっていく。
人間たちの愚行のカタログ
この小説、何が面白いって、まず構成からしてひと癖ある。関係者へのインタビュー形式で進むのだけど、ただの再構成じゃない。語り手たちはみんな「自分の視点」でしか語らない。
それもかなりバイアスのかかった、歪んだレンズを通して。他人について話してるように見えて、じつは無自覚に、自分の内側を語ってしまっている。そこが巧妙だ。
証言という名の独白が積み重なるにつれ、読者はどんどん混乱していく。
「誰の言葉を信じればいい?」
「そもそも真実なんて存在するのか?」
登場人物の語りは、自己正当化と記憶の編集にまみれていて、そのズレがむしろ物語の推進力になっている。
読後感は決して軽くない。というか、だいぶ重たい。でも、それがいい。胸を張って人間の嫌な部分、エゴ、差別、階級意識、見栄、嫉妬、虐待。そういった愚行のオンパレードを、逃げずに描ききっている。
特に印象的なのが、大学という閉じた世界の中でうごめく人間関係だ。内部生 vs 外部生という露骨なヒエラルキー、そこに絡む学歴コンプレックスや家庭環境。それが悲劇の土壌になっていて、登場人物の誰もが加害者であり、被害者でもあるという複雑な構図を生んでいる。
さらに、最初はまったく別の話に見えていた記者と妹・光子の物語が、終盤で一家惨殺事件とリンクしてくる展開は圧巻だ。
「そう繋がるのか!」という驚きと、「これで終わりか」というやりきれなさが同時に襲ってくる。伏線の張り方と回収のタイミングも見事で、読後には鉛のようなものが心に残る。
貫井作品の真骨頂は、まさにここ。
論理や構成の美しさだけじゃなく、人間という存在のどうしようもなさをしっかりと物語に組み込んでくる。
この小説は、そういう意味でとことん本気だ。
5.あの一行で世界がひっくり返る── 貫井徳郎『慟哭』
連続幼女誘拐事件の捜査は難航し、警視庁捜査一課は窮地に立たされていた。指揮を執るのは、若くして抜擢されたキャリア組の佐伯一課長。
しかしその立場は内部の嫉妬や軋轢を招き、マスコミからも私生活まで追及される。世論と組織の圧力に苛まれる佐伯は、進展しない捜査にいら立ちを募らせていく。
一方、娘を失った松本は深い虚無感に囚われ、新興宗教に傾倒する。多額の布施を重ね、やがて黒魔術的な儀式に踏み込むまでに至る。
警察の緊迫した捜査と、絶望から狂気へ傾く男の遍歴。二つの物語は交錯し、事態は予期せぬ局面へと進んでいくのであった。
人は耐えがたい悲しみに慟哭する
貫井徳郎のデビュー作『慟哭』は、発売から年数が経った今もミステリ読みの間で語り草になっている。
その理由は明快。構成の巧さと、ラストでの大逆転だ。読者の足元をバッサリ持っていく“あの一撃”は、一度読んだらなかなか忘れられない。
物語は二つの視点で進行する。一つは、連続幼女誘拐事件を追うエリート刑事・佐伯。もう一つは、娘を失い、新興宗教に救いを求める松本。この二人の悲劇が交互に描かれ、まるで別々の出来事のように進んでいく──と、思わせておいてからの終盤がすごい。
読者の予想はことごとく裏切られる。何を信じて読んできたか、それすら疑いたくなるような真相が待っていて、最後の一行で物語そのものが反転する。文字通り、読み終えたあとに最初からもう一度読み直したくなるタイプの一冊だ。
もちろん、この作品は単なるトリック勝負の一発屋ではない。それぞれの人物が抱える心の闇、悲しみ、絶望がちゃんと描かれている。佐伯のほうは、警察組織の中で求められる成果と、家庭の崩壊というダブルパンチに悩まされる男。松本は、愛する娘を失った喪失感から、宗教にすがりつくしかなかった男。
この二人が抱える絶望は、それぞれに違うかたちをしているが、どちらも「救いにたどり着けなかった人間」の姿として描かれている。警察というシステムも、新興宗教という代替的な救済も、人間の“慟哭”を受け止めるには脆すぎる。
だからこそ、この小説には救いがない。ないのに読ませる力が半端ないのだ。
デビュー作とは思えない完成度で、構成力、テーマ性、読後の衝撃すべてが揃っている。
ミステリとして読んでも、文学として読んでも、骨のある一冊だ。
まだ読んでいないなら、ネタバレ踏む前に早めに手に取っておくべきだと思う。
6.いやだ。それでも目が離せない── 京極夏彦『厭な小説』
京極夏彦氏の『厭な小説』は、「厭(いや)」という感情を主題とした七編の連作短編集。職場や家庭といった日常に潜む、言葉にし難い不快感や生理的な嫌悪、不条理な出来事が描かれる。
例えば、家に山羊のような瞳を持つ不気味な子供が徘徊し始める「厭な子供」、陰湿な嫌がらせを繰り返す老人との息詰まる生活「厭な老人」、不可解で自分本位な行動により恋人の精神を蝕む「厭な彼女」、過去の不快な記憶や感覚だけが延々と反復される家に苛まれる「厭な家」など、普遍的ともいえる様々な「厭」が提示される。
これらは単なる嫌悪や恐怖とは異なり、理解不能な状況や終わりのない反復がもたらす、より根源的で生理的な不快感。明確な解決や救いはなく、日常が静かに侵食され、逃げ場のない後味の悪さだけが読者に残る構成となっている。
逃れられない圧倒的不快感
この作品の最大のキモは、いわゆる恐怖とか驚きじゃない。
描かれるのはもっと地味で、もっと根深くて、もっと厄介な感情──「厭(いや)」だ。
タンスの角に足をぶつける。隣人の咳払いが止まらない。コップの水がこぼれる音に、なぜか腹が立つ。そういう、小さな「嫌」の積み重ね。それを誰よりも丁寧に拾い上げて、精神の隙間に詰め込んでくる。そんな物語だ。
登場人物たちは、理由もなくイライラし、不安に苛まれ、理不尽に潰されていく。しかも、その不快感にはほとんど説明がつかない。なぜ起こっているのか、現実なのか幻覚なのか、誰が悪いのか。全部が曖昧で、霧の中にいるような不明瞭さがずっとつきまとう。
だがそれこそが、この作品における厭の本質だ。
何かが明らかになるわけじゃない。明確な謎も、すっきりする解答も与えられない。けれど、気づけば作品の中で誰かと一緒に「うわ、もうやめてくれ……」と呻いている。嫌悪、苛立ち、息苦しさ。そういった感覚に飲み込まれていく。
しかも困ったことに、そうした感情に引っ張られながらも、ページを閉じられない。拒絶したいのに、なぜか引き込まれる。触れたくないのに、目を離せない。“厭”という感情には、そんな矛盾した力があるのだ。
そしてそれを描き切った京極夏彦の観察眼が、容赦なく鋭い。人間の負の感情の奥底──とくに逃げ場のない閉塞と、理屈じゃ処理できない嫌悪。そういう部分に、ぬるりと切り込んでくる。
だから読み終えたあともずっと引っかかる。消えない。忘れられない。
スプラッターも幽霊も出てこないのに、やけに重い。
それなのに、妙に読む手が止まらない。
そういう作品だ。
7.浮かび上がるのは、死者の影だけ── 京極夏彦『死ねばいいのに』
『死ねばいいのに』――この挑発的で一度聞いたら忘れられないタイトルを持つ小説は、分厚い長編と緻密な世界観で知られる京極夏彦氏による、ノンシリーズの異色作。
百鬼夜行シリーズなどに代表される、時に超自然的な要素を織り交ぜながら複雑な謎を解き明かすスタイルとは一線を画し、本作は比較的短いページ数の中に、現代的な人間関係の歪みと心理の深淵を凝縮している。
物語の骨子はシンプル。三ヶ月前に自宅マンションで殺害された派遣社員、鹿島亜佐美。その死について、「死んだ女のことを教えてくれないか」と、彼女の関係者を訪ね歩く一人の若者・渡来健也。
物語は、この若者と関係者たち――亜佐美の上司、隣人、恋人、母親、担当刑事、そして弁護士との一対一の対話を通してのみ進行していく。
対話が炙り出す人間の昏がり
この作品、まず構造が異常だ。
全編を通して描かれるのは、渡来健也という男が、被害者である鹿島亜佐美に関わった人間たちと交わす一対一の会話のみ。地の文もモノローグもなく、あるのは延々と続く会話だけ。それなのに、妙に読まされる。
亜佐美自身の視点は、一切ない。彼女の過去も、直接的には語られない。代わりに、周囲の人間たちが口々に彼女の印象を語る。「いい子だったよ」「いや、あれはめんどくさい女だった」「お荷物だったよ、正直」──そんなふうにバラバラの像が並べられていく。
そして驚くべきことに、誰ひとりとして同じ亜佐美を見ていない。語る相手によって、彼女の像は変わる。まるで鏡を割ってバラバラにしたみたいに。その歪みや主観、記憶の選別、あるいは意図的な改ざんが、会話の中でじわじわと滲み出てくる。
本作における最大の謎は、「誰が亜佐美を殺したのか」ではない。むしろ、「鹿島亜佐美とは何者だったのか」が最大の謎になっている。けれど、その答えは与えられない。というより、最初からそんなものは存在しないのかもしれない。
語り手たちは、どいつもこいつも勝手で、自分のことしか見ていない。その無神経さや薄っぺらさに苛立ちを感じる人間もいるだろうし、健也のズカズカ踏み込む感じに抵抗を覚える人もいるだろう。
でも、それがこの作品の狙いだ。話しているのは他人のことのはずなのに、語っているのは自分自身。それがバレてないと思ってるところが、また厄介だ。
しかも、この作品には解決がない。京極堂が出てきて憑き物を落としてくれるような、おなじみのカタルシスは意図的に用意されていない。明快な答えも、すっきりした真相も出てこない。
代わりに残されるのは、「死ねばいいのに」という重い言葉と、「生きる意味とは何か」という根源的な問い。そして、それに対する割り切れなさが、ずっと心に引っかかる。
これは、京極夏彦らしくないと感じる人もいるかもしれない。
だがその違和感ごと、作品の一部なのだ。
8.人間の願いは、時に罪になる── 米澤穂信『満願』
米澤穂信氏の『満願』は、人間の心の奥底に潜む強い「願い」が引き起こす六つの事件を描く短編集。
交番勤務の警官が殉職した同僚の死の真相を探る「夜警」、復縁を望む男が訪れる奇妙な「死人宿」、美しくも危うい姉妹の関係が描かれる「柘榴」、海外ビジネスマンが窮地に陥る「万灯」、都市伝説の取材が思わぬ恐怖を呼ぶ「関守」、そして、殺人罪に服した女性の真の動機が明かされる表題作「満願」が収録されている。
いずれの物語も、登場人物たちの切実な願いや業が、時に歪んだ形で発露し、思いもよらぬ結末へと繋がっていく様を、緻密な心理描写と構成で描き出している。
心に響くテーマ性と忘れがたい読後感
この短編集、まず面白いのが構成だ。6編の物語はどれも独立していながら、「人間の願い」という共通項を軸にしっかりと結びついている。
で、それぞれの願いがまた厄介だ。ささやかな欲、歪んだ愛情、信念、祈り──どれもが、人を傷つける理由になってしまう。
全体的に「イヤミス」的なトーンが強い。事件の背後にあるのは、救いようのない人間関係や、どうしようもない社会のゆがみだ。そして、それに巻き込まれた人々が見せるどうにもならなさが、胸にズシリとくる。だが重要なのは、それが単なる不快感では終わらないという点だ。
米澤穂信は、登場人物を突き放さない。彼らがなぜそんな行動を取るに至ったのか、そこにどんな事情があったのか、丁寧に描いていく。たとえ道を踏み外していても、それは本人にとっての必然だったのだと思わされる。善悪ではなく、選ばざるを得なかったという切実さが芯にあるのだ。
特に印象に残るのが、『柘榴』と『満願』。前者は、危うくも美しい姉妹の関係が、官能と狂気の境を行き来しながら破綻していく話。後者は、無償の献身が、信じがたい結末へと繋がっていく表題作だ。どちらも、人の想いが極限にまで研ぎ澄まされたときの恐ろしさを見せてくる。
そしてわたしが大好きなのが、『万灯』と『関守』。前者では、異国の地で追い詰められていくビジネスマンの焦燥が、生々しく胸に迫る。後者は、都市伝説の取材を軸にしつつ、じりじりと精神を侵していく恐怖が秀逸だ。
全体として、この短編集は「後味の悪さ」を武器にしている。
だがそれは単なる陰鬱さではなく、人間という存在の複雑さと、そこに潜む哀しさへの鋭いまなざしでもある。人の心の奥底には何があるのか。
それを覗いてしまった者が味わうのは、驚きではなく、畏れに近いものなのかもしれない。
9.こっちは、いなくてもよかった世界── 米澤穂信『ボトルネック』
高校生の嵯峨野リョウは、二年前に事故死した恋人・諏訪ノゾミを追悼するため東尋坊を訪れる。そこで崖から転落したはずが、気づくと見慣れた故郷・金沢の街にいた。自宅に戻ると、彼を迎えたのは見知らぬ快活な少女、姉と名乗る嵯峨野サキだった。
リョウは、自分が存在せず、流産したはずの姉サキが生きるパラレルワールドに迷い込んだことを悟る。この世界では、不仲だった両親は円満で、死んだはずのノゾミは明るく生き、兄の怪我もなく、全てが好転しているように見えた。
サキと共に二つの世界を比較する「間違い探し」を続ける中で、リョウは自らの存在意義を揺るがす残酷な結論へと至る。
「若さ」の影を描き切る、青春ミステリの金字塔
米澤穂信の『ボトルネック』を読むと、しばらくこの物語から抜け出せなくなる。
その理由は単純じゃない。構造が面白いとか、ラストが衝撃的とか、そういう次元だけじゃない。この作品は、読んだ人間に「お前、それでも生きるか?」って問いをねじ込んでくる。
まず、設定が秀逸だ。陰鬱な青春小説と、パラレルワールドSFという一見相容れなさそうな要素をぶつけてくる。けれどこれが、異様なほど噛み合っているのだ。“自分が存在しない世界”に迷い込むというシチュエーションを通じて、物語はそのまま存在意義というド直球なテーマに殴り込んでくる。
主人公・リョウの視点も独特だ。彼は自分を嫌いで、自分に価値がないと信じていて、目の前の世界にひたすら居場所がない。その鬱屈した心情が、あまりにリアルに描かれる。若さゆえの自己嫌悪とか、世界に対する諦めとか、そういった感情に覚えがある人間には、たまらなく刺さる。正直しんどい。でも、それがこの物語のコアだ。
終盤の展開は、一種のスリラーとしても読めるほど緊張感がある。だが、真の恐ろしさはそこじゃない。
すべてを飲み込んだあとに残る空洞みたいな感覚。あれこそが、この作品最大の毒だ。
この結末にはカタルシスがない。救いもない。けれど、そういう終わり方しかありえなかったとも思う。リョウの物語が辿り着いたのは、納得ではなく、沈黙だ。
何かが終わった、ではなく、何も始まらなかった、という絶望。そしてそれが、あまりに現実的で恐ろしい。
米澤穂信という作家の冷たさと繊細さが、ここでは見事に共存している。構成も語り口も完璧にコントロールされていて、けして激情に走らず、終始突き放すように進むのに、気づけば足元が崩れているのだ。
安易な救済を拒むこの一冊には、人間の弱さと醜さと哀しさが凝縮されている。
10.守るために、壊すしかなかった── 貴志祐介『青の炎』
櫛森秀一は湘南の高校に通う17歳。母と妹との三人暮らしの平穏な日常は、母が10年前に離婚した男・曾根の出現によって脅かされる。曾根は家に居座り傍若無人に振る舞い、家族に危害を加えようとする。
警察も法律も頼りにならず、話し合いも通じない相手に対し、秀一は家族を守るため、自らの手で曾根を殺害する完全犯罪を決意する。緻密な計画を練り実行に移すが、その先に待っていたのは、更なる苦悩と破滅への道であった。
思春期の心理と孤独
貴志祐介の『青の炎』は、青春小説でありながら殺人犯の物語だ。
しかもその犯人が、たった17歳の高校生という時点で、すでに胸にズシリとくる。家族を守る。その一心で、一人の少年が完全犯罪を決意する。そして、その覚悟がどこへ向かうのかを、わたしたちは追っていく。
舞台は湘南。陽光と海と、どこか浮かれた日常が広がる街だ。だが主人公・櫛森秀一の内面には、それとは真逆の冷たい火が燃えている。タイトルにもなっている『青い炎』は、激しくも冷ややか。激情ではなく、静かな決意の象徴だ。このギャップがまず鮮烈で、一度ハマると抜け出せない。
物語は倒叙形式。つまり、最初から「犯人は彼」だとわかっている。それでも読む手が止まらないのは、そこに描かれている心理の濃さだ。
愛する母と妹を守りたい。その思いがいつのまにか、誰かを殺さなければならないという結論にすり替わっていく。その流れが異常でありながら、妙に説得力がある。いや、そう思ってしまう自分が少し怖い。
犯行の知的な計画、バレないようにと神経をすり減らしていく日常、そして次第に募っていく恐怖と罪悪感。どれもが息苦しく、痛々しく、切実に描かれていく。犯人ではあるが、完全な悪ではない。むしろ、社会のどこにも頼れず、自分でなんとかするしかなかった少年の限界が、ずっと描かれている。
そして、あの結末。あれは、誰がなんと言おうと正しさではない。
でも、他に道があったのか? と問われれば、簡単に「あった」とは言えない。
だからこそ、この物語は心に残る。破滅の中にしか守るという行為を見出せなかった少年の、狂おしいまでのまっすぐさが。
『青の炎』は、青春の輝きと絶望が同居した、異常な熱量の小説だ。
読み終えたあと、しばらく頭から離れない。
たとえ間違った選択だったとしても、彼がそこに至った理由は、ちゃんと描かれていた。
だからこそ、苦い。でも忘れがたい。
11.絶望は、ノートにしか存在しなかったのか── 歌野晶午『絶望ノート』
中学2年生の太刀川照音は、ジョン・レノンにかぶれた父を持つ家庭環境や名前が原因で、陰惨ないじめに苦しんでいた。彼はその苦痛を「絶望ノート」と名付けた日記に克明に綴る。
ある日、照音は校庭で頭部大の石を拾い、それを「神」として崇め、血を捧げていじめの中心人物・是永雄一郎の死を祈る。
すると是永は校舎屋上から転落死した。しかし、いじめは止まず、照音はノートを通じて次々と級友や教師の死を神に願う。
やがて連続する不審死に警察が捜査を開始し、照音や、ノートを読んで息子の苦境を知った両親も事情を聴かれるが、事態は誰も予想しなかった衝撃的な真相へと突き進む。
願えば人が死ぬノートの秘密
とにかく構成が巧い。最初は、いじめられている中学生・照音の独白。というか「絶望ノート」と題された手記を読むような感覚だ。そこに綴られているのは、見るに堪えないほど陰惨で、やり場のない苦しみ。読んでいるこちらまで引きずられるような暗さがある。
そして、そのリアルさこそが最初の武器だ。クラス内の空気、教師の無関心、親の的外れな善意、全部が照音の絶望に拍車をかけている。だが、ページをめくっていくうちに、違和感が顔を出す。
「このノート、本当にすべて正しいのか?」
この不穏さを引っ張りながら物語は終盤へなだれ込み、あのどんでん返しが炸裂する。一気に視界が変わるあの瞬間。
それまで見ていたはずの景色が、全部ウソくさく見えてくる。しかも、この転調が説得力バッチリなので、裏切られた感より「うわ、やられた……」の感覚が勝つのだ。この一撃だけで、読後の印象が数段跳ね上がる。
ただし、『絶望ノート』はミステリ構造だけじゃ終わらない。家族の描き方もかなりキツい。ジョン・レノン気取りの父親は、とにかく自分の世界に酔っていて、現実が見えていない。母親も、照音の書いたノートを「すべて真実」だと思い込んで暴走する。
誰も対話をしない。この家庭は、どこまでも独り言で成り立っている。それが一番の地獄だ。
「文字」は真実を伝える手段であると同時に、現実をねじ曲げる道具にもなる。本作はそれを証明するような物語だ。一人称の信頼性、不確かな語り、受け手の解釈によっていくらでも変質するノートという媒体。その仕掛けが、構成全体とピタッとハマっている。
雰囲気は重苦しい。
でも、長さを感じさせず一気に読ませるだけの勢いがある。
そして最後には、読み手の中に「信じることの怖さ」だけが残るのだ。
12.恐怖は、すぐそばにある── 今邑彩『よもつひらさか』
読みを割ったあと苦味が残る、奇妙な味わいに満ちた全12篇を集めた戦慄のホラー短篇集。
惜しくも早逝した作家、今邑彩氏は、現代日本ミステリおよびホラー文学において、その心理描写の深さと読者を不安に陥れる独特の作風で知られる存在。
彼女の作品群の中でも、短編集『よもつひらさか』は、その特色を色濃く反映した一冊だ。
このコレクションは、日本のフォークロアと現代人が抱える内面的な不安とを見事に融合させ、ごく普通の日常がいかに容易く不可思議な領域へと滑り落ちていくか、その恐怖を描き出している。
日常に潜む静かな恐怖
今邑彩の書くホラーやミステリに共通しているのは、「いきなり人が死ぬ」ような派手な展開ではなく、ゆっくり精神を削ってくるような心理的な恐怖の描写だ。で、この短編集にもその持ち味がたっぷり詰まっている。
血が飛び散るわけでもない。化け物が飛び出すわけでもない。だけど、読んでいると確実にゾッとする。見慣れた日常の中に、ほんのわずかなズレが混ざり込んでくる──そんな「異質」が、気づかないうちに侵食してくるのだ。
登場人物はどこにでもいるような人たちだ。特別な能力を持っているわけでもないし、過去に大事件があったわけでもない。むしろ、何の変哲もない人間ばかり。だからこそ、妙にリアルだ。そんな普通の人間が、不穏な気配に絡め取られていく。その過程がめちゃくちゃ怖い。
今邑彩のすごさは、「なにかおかしい」と感じさせるタイミングの絶妙さだ。何気ない会話、ちょっとした表情、空間の温度感。そういった些細な描写の積み重ねが、気づけば背後に影をつくっている。
短編だからこそ、この空気の変化が早い。読み始めて数ページで「あ、まずいかも……」と思わせて、最後にはヒリついた結末が待っている。しかも、スッキリ解決する話ばかりではない。謎が残ったまま終わる話や、むしろ謎が深まる話すらある。それが逆に怖い。説明がないからこそ、後を引くのだ。
叫ぶでもなく、逃げるでもなく、じっとそこに佇んでいる怖さ。
それを味わいたい人には、この短編集はかなり刺さる。
派手さよりも、どこかで似たことが起きていそうな気味悪さを求める人には特におすすめしたい。
13.日常はひび割れ、崩れていく── 辻村深月『噛み合わない会話と、ある過去について』
人々が心に抱えた「過去」と向き合う姿を描いた四編の短編集。過去とは必ずしも美しい記憶ではなく、他者との認識のずれや、見て見ぬふりをしてきた感情でもある。
「パッとしない子」では、教師と教え子の記憶が食い違い、「ナベちゃんのヨメ」では、旧友への態度が思わぬ形で現在に影を落とす。
共通しているのは、自分の記憶と他者の記憶が噛みあわないときに突きつけられる現実の痛みだ。
鳥肌の立つ心理的恐怖:日常に潜む人間の怖さ
この短編集が投げかけてくる恐怖は、いわゆる超常現象とは無縁だ。幽霊も怪異も出てこない。ただし、安心して読めるかというとまったく逆で、人間関係に潜むズレ、誤解、無関心、そういったものがじりじりと効いてくる。
登場人物たちは、ごく普通に会話をしているように見える。けれど、そのやりとりにふとした違和感が差し込んでくる。「ん?」と思ったときにはもう遅い。ズレは少しずつ積み重なり、やがてどうしようもない亀裂に変わっていく。
恐ろしいのは、誰も悪人じゃないところだ。悪意のある加害ではない。けれど、それが逆にリアルで、厄介なのだ。
そして最終的に待っているのは、「あのときの言葉」がもたらす破壊。気づいたときにはすでに壊れていて、それがどこから始まったのかすらもう分からない。
『噛みあわない会話と、ある過去について』は、まさにタイトル通りの内容で、登場人物たちの記憶、言葉、関係性がすべて微妙にすれ違っている。しかも、それに気づくのが読者よりも少しだけ遅い当人たちなのだ。だからこそ読んでいて辛いし、妙に胸を揺さぶられる。
あくまで日常の延長線にある不協和音。だからこそ怖い。これは「会話劇」なのに、どの会話もどこかで壊れている。そしてそれが、どこからなのか断言できないまま、読者も同じズレの中に取り込まれていく。
こういう感触が苦手な人もいるだろうけど、「言葉では説明しきれない関係の崩壊」を描く作品としては、最高のキレ味だ。
派手などんでん返しもないし、カタルシスもない。
あるのは、気づかないふりをしていたものを、無理やり見せられたような怖さだ。
14.常識・推理・倫理のすべてを壊す── 麻耶雄嵩『神様ゲーム』
神奈川県の架空の地方都市・神降市で、残虐な手口による連続猫殺し事件が発生し、町は不安に包まれていた。
小学4年生の黒沢芳雄は、同級生のミチルに淡い想いを抱きつつ、友人と結成した探偵団の一員として事件の解明に挑もうとする。
そこへ転校してきたのが、鈴木太郎という謎めいた少年である。彼は自らを全知全能の「神様」と名乗り、進行中の猫殺しの犯人の名をあっさりと告げる。さらに、鈴木の予言めいた言葉通りに殺人事件までもが起きてしまう。
鈴木の言葉は真実なのか、悪ふざけなのか。芳雄は逃れられない試練の中で、残酷な真実に向き合うことになる。
忘れられない読書体験を
この作品について語るうえで、どうやっても避けて通れないのがあの結末だ。ラストで明かされる犯人の正体と、鈴木太郎=神様による「天誅」の内容。ここが本当に凄まじい。
それまで積み上げてきた推理とか、人物像の解釈とか、なにより自分の中の「善悪の感覚」みたいなものを、全部ガタガタに揺さぶってくる。
ある意味、これはミステリの皮をかぶった“倫理破壊兵器”だ。謎解きの爽快感? そんなものは吹っ飛ぶ。残るのは、「え、そういう話だったの?」という戸惑いと、「え、これって許されるのか?」というモヤモヤ。万人向けじゃない。むしろ、真っ向から好き嫌いが分かれるタイプの毒性がある。
ただ、その毒が強烈に効く。構成もテーマも仕掛けも、全部が挑発的だ。「神とは何か」「正義とは何か」「人を裁くとはどういうことか」──そういった根源的な問いが、派手なトリックよりもずっと重くのしかかってくる。
しかも、『神様ゲーム』というタイトルに込められた皮肉が、後半になるにつれてどんどん効いてくる。
「これはゲームじゃない。でも、ゲームとして扱われてしまった命がある」
そう思った瞬間、読み手の倫理観ごと試されている気がして、ちょっと立ちくらみしてしまう。
この作品は、既存のミステリの枠におさまらない。というか、枠そのものをぶっ壊しにかかってる。それでいて、エンタメとしての構成力もあるから、読み始めたら止まらない。でも最後に残るのは、スッキリ感じゃない。どこかに深く刺さったトゲのようなものが、あとからジクジク効いてくるのだ。
正統派の謎解きを求めている人にはキツいかもしれない。
でも、「ミステリでしかできないことって、もっとあるんじゃないの?」と思っている人には、このくらい振り切った一撃をくらってみてほしい。
15.救いなんて、最初から用意されていない── 麻耶雄嵩『あいにくの雨で』
町に初雪が降った日、高校生の烏兎、獅子丸、祐今は、雪に囲まれた廃墟の塔で男性の他殺死体を発見する。現場には塔へ向かう一筋の足跡しか残されておらず、不可解な密室状況を呈していた。
殺害されたのは、他ならぬ祐今の父親であり、彼は8年前に同じ塔で祐今の母親を殺害した容疑者として失踪中だった人物だった。突然、両親を失う形となった祐今の窮状を目の当たりにし、親友の烏兎と獅子丸は、祐今のために事件の真相究明に乗り出す。
しかし、彼らの行動をあざ笑うかのように、町ではさらなる悲劇が発生し、事態はより一層深刻な様相を帯びていくのだった。
「麻耶ワールド」特有の歪んだ世界観
麻耶雄嵩の小説を語るとき、まず真っ先に出てくるのが空気の重さだ。
この作品も例に漏れず、全体を覆っているのは圧倒的な陰鬱さ。晴れやかな展開なんて、最初から誰も期待していない。雨、雪、曇天。そういった湿った天候が効果的に使われ、世界はずっとグレー。
たとえるなら、日光が差さない部屋の中で、延々と人間関係の軋みを聞かされているような感覚だ。
この空気が、登場人物たちの内面と完璧にシンクロしている。みんな何かしらを抱えていて、うまく喋れない。気持ちが噛みあわない。そのズレが引き金になって、悲劇が連鎖する。事件が起きても、それが「解決」に向かう気配はほとんどない。真相が明かされても、スッキリすることはない。むしろ、どんよりと濁った後味が残る。
いわゆる、後味の悪さ。麻耶作品の代名詞とも言えるこの感覚は、本作でも健在だ。事件の謎が解かれたところで、それによって救われる人間なんて一人もいない。関係性は壊れたまま、喪失は回収されないまま、未来は何も明るくならない。むしろ、登場人物たちの背中には、今後もずっと付きまとう「何か」が残る。
そして、作者はその「何か」を絶対に軽く描かない。麻耶雄嵩は、登場人物に対してとことん容赦がない。甘さを排除し、わざと結末にカタルシスを用意しないことで、青春の残酷さや人生の不条理をむき出しにする。それが苦しい。でも、だからこそリアルに響く。
この落下していくような読後感こそが、「麻耶ワールド」の真骨頂だ。
決して万人受けはしない。
でも、この痛みに惹かれて何度も読み返す人間がいるのも事実だ。
明るさや希望よりも、どうしようもなさの中にこそ真実を見たいと思うなら、この麻耶作品は避けて通れない。
16.推理合戦の果てに待つ、容赦なき反転劇── 西澤保彦『聯愁殺』
一礼比梢絵は自宅マンションで何者かに襲われ、重傷を負いながらも一命を取り留める。犯人は連続殺人事件の容疑者とされ、現場に残された手帳には梢絵を含む複数の標的の名が記されていた。しかし、犯人は直後に姿を消し、梢絵は唯一の生存者となった。
事件から四年後の大晦日。迷宮入りした事件の真相、とりわけ「なぜ自分が標的となったのか」という動機を解き明かすため、梢絵は素人探偵集団〈恋謎会〉が開く推理合戦に参加する。
メンバーはミステリ作家、学者、元刑事など多彩な顔ぶれであり、それぞれが持ち寄った情報をもとに、謎に包まれた『聯愁殺』事件の核心へと迫る議論を夜通し繰り広げることになる。
推理合戦の妙、予測不能な結末
この作品の一番の肝は、過去の未解決事件をめぐって〈恋謎会〉の面々が延々と繰り広げる「推理合戦」にある。
形式的にはアントニイ・バークリーの古典『毒入りチョコレート事件』を思い出させるが、内容はもっと泥臭く、もっとカオスだ。
メンバーが次々と提示する仮説は、ただの知恵比べじゃない。新しい推理が出るたびに「じゃああの情報はどう説明する?」と情報が後出しされ、場の空気は二転三転。まるで参加しているこちらまで翻弄されていく。
面白いのは、このやり方自体が思考のシミュレーションになっていることだ。事件の断片が小出しにされるたび、頭の中の前提が崩れ去り、組み立て直しを迫られる。推理小説というより、巨大な論理パズルの実演ショーを見せられているような感覚だ。
だが本番は終盤にやって来る。これまで積み上げられた推理、解釈、前提のすべてが一瞬で崩れ去る大転換。
あれだけ議論を重ねてきたものが、実は真相から目を逸らすための壮大なミスディレクションだったのでは──そう思わせるほどの反則級のどんでん返しだ。仕掛けを暴かれた瞬間、「自分はいったい何を読んでいたのか……」という感覚になる。
しかもその結末は、人間の行動や偶然の突発性が、どれだけ整然とした推理をも飲み込んでしまうことを痛烈に示している。論理の強度がどれだけ高くても、現実はあっさりと裏切ってくる。そこにこそ本作の残酷な真実味があるのだ。
だから一度読み終えたあと、細部を改めて検証する再読がやたら楽しい。
張り巡らされていた伏線の意味がわかる瞬間、もういちど騙され直す体験ができる。
こういう構造を成立させる筆力と悪意は、まさに西澤保彦の特別な才能の証だ。
17.美しいはずの感情が暴力に変わるとき── 新堂冬樹『吐きたいほど愛してる』
本作は独立した四つの物語から成る短編集である。各編は「吐きたいほど愛してる」という題名が示す通り、異常な愛情や執着、そこから生まれる狂気を共通のテーマとしている。
第一編「半蔵の黒子」では、自分の人生の不遇を名前と顔の黒子のせいだと信じ込む毒島半蔵が登場し、歪んだ自己愛と妄想を募らせていく。
第二編「お鈴が来る」は、夫の不貞を知った妻・吉美が精神を崩し、変わり果てた姿で夫の帰りを待ち続ける物語である。
第三編「まゆかの恋慕」では、傷を負って声を失った美少女まゆかと、彼女を助けた主人公との関係が描かれるが、その背後には悲劇的な秘密が潜む。
第四編「英吉の部屋」は、寝たきり老人・英吉の独白であり、彼は娘から虐待を受けながらも、かつて自身が家族に行った非道を「愛のお仕置き」と信じて疑わない。
四つの物語はいずれも、愛の名のもとに行われる身勝手な解釈や異常な執着、そして破滅的な結末を鮮烈に描き出している。
この「愛」に耐えられますか?
この小説の最大の魅力であり、同時に問題作とされる理由は、誰もが美しいものと信じている「愛の概念」を根底からひっくり返し、そのグロテスクで恐ろしい側面を徹底的に描いている点にある。
登場人物たちの行動原理は、一見すると「思いやり」や「情」めいた言葉で包まれている。だが中身は自己中心的で歪んだ妄想に過ぎない。しかも彼ら自身は、それを純粋な愛と信じ切っているからタチが悪い。
たとえば、虐待を繰り返す老人・英吉は、娘への仕打ちを「愛のお仕置き」と正当化し続ける。毒島半蔵もまた、自分の歪んだ認識に基づいて行動し、結果的に周囲を傷つける。こうした人物像を突きつけられると、「これも愛と呼べるのか?」という問いを無理やり考えさせられてしまう。愛とは何か、という根源的なテーマに、真正面から挑んでくるのだ。
新堂冬樹は意図的に、愛という感情の主観性をえぐり出している。一歩間違えれば、それは容易に他者を傷つける狂気に変わる。その怖さを、容赦のない筆致で見せつけてくるのだ。
もちろん、この作品はかなり人を選ぶ。グロテスクな描写や精神的にきつい展開、救いのないストーリーが連続するため、軽い気持ちで手を伸ばすと、確実にダメージを食らう。ページを追っている間も、読み終えた後も、不快感や嫌悪感が残る可能性は高い。
それでも、ありきたりな物語では物足りない人間にとっては、この作品は強烈すぎる刺激になる。
綺麗ごとをすべて吹き飛ばし、人間の奥底に潜む醜さを「愛」というテーマで抉り出す。
だからこそ、一度触れたら忘れられない一冊になるのだ。
18.凍りついた心の奥に潜むもの── 新堂冬樹『摂氏零度の少女』
誰もが認める美貌と明晰な頭脳を持ち、名門進学校でトップクラスの成績を維持、一流大学医学部への進学も確実視される完璧な女子高生・桂木涼子。しかし、その完璧な仮面の下で、彼女は恐ろしい秘密を抱えていた。
それは、実の母親である祥子に対し、人知れず劇薬タリウムを少しずつ飲ませるという「悪魔の実験」。母の体は日に日に蝕まれ、刻一刻と死へと近づいていく。
なぜ涼子は、最も身近で、自身を理解してくれるはずの最愛の母を標的にしたのか。日常に潜む静かな狂気と、完璧な少女の内面に広がる底知れぬ闇が、読む者を息苦しいほどの緊張感で包み込む。
心の凍てつく深淵へ
まずモチーフからしてズルい。実際に起きた「女子高生による母親へのタリウム毒殺未遂事件」。フィクションとしてはギリギリだ。でも、それをあえて書いてしまう。だからこそ、読んでる側の倫理観がガンガン試される。
主人公・涼子。外から見れば文句なしの優等生だ。頭もいい、顔もいい、黙っていれば完璧。しかしその内側は、徹底的に冷えている。命に対する価値観も、人との関係性も、すべてがどこかズレている。
カタカナで綴られる異様な会話。虫や動物への異常な観察視点。どれもこれも、心の温度がゼロ度どころか氷点下に近い。
でも彼女は、自分のことを「壊れてる」とは一切思ってない。むしろ母を救ってあげたという自覚すら持っている。そこが本当に怖い。
善悪じゃ裁けない。涼子の論理には筋が通っているようにすら見える。だからこそ、「どこからおかしかったのか?」と問われても答えが出ない。それがこの作品の気持ち悪さの根っこだ。
『摂氏零度の少女』というタイトルは伊達じゃない。感情がないんじゃない。あるけど、全部が極限まで冷えている。愛情も、痛みも、怒りも。すべてが変質して、他人を壊すための装置になってしまっているのだ。
母親が衰弱していく描写は、ハッキリ言ってキツい。でも、その過程すら涼子にとっては「観察対象」に過ぎない。あまりに無感情で、読んでるこっちの感情だけが勝手に消耗していく。
これが新堂冬樹という作家だ。熱じゃなく、冷たさで攻めてくる。で、それがめちゃくちゃ刺さる。
これは感情が爆発するタイプの異常者じゃない。感情を整理整頓して、殺し方を最適化する異常者の物語だ。
もちろん気軽に人に勧められる本ではない。
でも、「愛って何?」「救済って誰のため?」みたいな問いにズブズブになりたい人には、かなり効く。
そして読後は、うっかり誰かと話したくなるか、ひとりでしばらく黙り込むか、そのどちらかになる。
19.救われない現実と、壊れてしまった救済── 誉田哲也『主よ、永遠の休息を』
物語の主人公は、通信社・共有通信の東京支社社会部に勤務する若手記者、鶴田吉郎。池袋警察署の記者クラブに詰める彼は、コンビニ強盗に偶然遭遇し、犯人逮捕に協力したことでスクープを得る。
その際、店員の芳賀桐江と知り合い、さらに現場で出会った謎の男から、暴力団事務所襲撃事件について奇妙な問いを受ける。
調査を進めるうち、鶴田は14年前の少女誘拐殺人事件と、その犯行を記録した「実録映像」がかつてネット上で配信されていたという事実に行き当たる。事件の犯人は逮捕されたが、精神鑑定によって責任能力なしとされ無罪放免となっていた。
過去の凄惨な事件の闇と現在の暴力団抗争、そして桐江との関わりが複雑に絡み合い、鶴田は否応なく事件の核心へと引きずり込まれていく。
静かな狂気に呑み込まれていく
誉田哲也の小説はだいたい重い。けど、これは群を抜いて重い。しかも、質量のある重さだ。
一発の衝撃ではなく、胸に圧をかけ続けてくるような読後感がある。だけどその重さは、ただ辛いだけの読書体験とは違う。そこには確かな意味があるし、覚悟を持って描かれているのがわかる。
作品の中心にあるのは、被害者の癒えない傷と、法では裁ききれない悪だ。現代社会において「これは救えない」と切り捨てられてきた場所に、あえて切り込んでいく。
しかもその描写が生ぬるくない。とくに過去の加害の描写は、目を背けたくなるレベルで詳細だ。読むのがきつい場面も多い。でも、それを避けずに描いたことで、この作品はリアリティと倫理的な問いを両立させている。
多くのミステリがやるような「最後にスカッと真相解明!」みたいな流れは、意図的に用意されていない。むしろ、やるせなさと絶望が最後まで残り続ける。それが狙いでもあり、効き方が深い。
で、ラスト。この落とし方はずるい。カタルシスがないわけじゃないけど、「そうくるか……」って重さがズドンとくる。“永遠の休息”という言葉が、ここまで痛々しく響くことってあるだろうか?
事件が終わっても、傷は終わらない。法が届いても、心の整理はつかない。それでも人は何かしらの決着を求める。その決着の形が、本作ではとんでもなく歪んでいる。だからこそ、読後の印象は強烈だ。
『主よ、永遠の休息を』は、決して軽い気持ちで読める本ではない。だけど、「こういう重さの物語じゃなきゃ意味がない」と思ってしまう瞬間が、確かにある。
誉田哲也という作家の持つ凄みの、また違う側面が露出したような一作だ。
20.あの夜に戻ったのが、間違いだった── 雫井脩介『仮面同窓会』
住宅設備メーカーの営業マンとして働く新谷洋輔。彼は高校時代の体罰教師・樫村へのトラウマと、18年前に亡くした兄の事故という過去から逃れるように故郷を離れていた。
しかし、人事異動で地元に戻り、同窓会に出席することになる。そこで再会した友人の希一、和康、八真人と共に、かつての恨みを晴らすべく樫村への「仕返し」を計画する。
それは、樫村を拉致して少し懲らしめるだけの、ほんの「いたずら」のつもりだった 。しかし計画実行後、置き去りにしたはずの樫村が別の場所で死体となって発見される。
仲間の中に殺人犯がいるかもしれない――。恐怖と疑念が、かつての友人たちの間に暗い影を落とし始める。
過去の呪縛と、賛否両論の衝撃的結末
同窓会って、何かしら過去と向き合うイベントだ。でもこの作品は、向き合うどころか過去の呪いに巻き込まれて沈んでいくタイプの物語だ。
「ケリをつけるため」だったはずの行動が、逆に過去を掘り返し、記憶の迷路に迷い込む。気づけば、現在が過去に侵食されていく感覚が襲ってくる。
で、この物語のキモは、なんといっても終盤の“二度騙し”だ。「え、これが真相?」と思わせてからの、もう一発。このダブルパンチで頭を殴られたような読後感になる。しかもそれがスッキリ終わらない。モヤモヤを意図的に残す構造になっているのだ。
だからこそ評価は割れる。「後味が悪い」「消化不良だ」という声が出るのもわかる。でも、むしろその割り切れなさこそが、この作品の強みだと思う。
過去を清算しようとした人間たちが、結局なにも納得できずに終わる。その感じがめちゃくちゃリアルだ。人生って、そんなに綺麗に整理つかないよねって話でもある。
『仮面同窓会』は、単なる犯罪ミステリじゃない。人間関係の脆さと再会の残酷さ、そして「自分は誰か」というアイデンティティ崩壊の恐怖まで描いてくる心理サスペンスだ。
最後には、「あの夜、あそこに戻らなければ……」ってセリフが冗談じゃなくなっている。スリルもあるけど、それ以上に、人間の裏をえぐってくるタイプの作品である。
覚悟して読むべし。
21.すべてが覆る、その瞬間のために── 我孫子武丸『弥勒の掌』
物語は、二人の苦悩する男性を中心に展開する。一人は、愛する妻を殺害され、自身も汚職の疑いをかけられるベテラン刑事・蛯原。もう一人は、教え子との不倫関係の末に妻が失踪し、途方に暮れる高校教師・辻。
それぞれが抱える事件の真相を追う中で、二人の道は新興宗教団体「救いの御手」へと収斂していく。一見無関係に思われた二つの事件と謎めいた教団が結びついていくのだった。
蛯原と辻は互いの事情を知り、それぞれの目的のために協力して教団の闇に迫ることを決意する。失踪と殺人、そして不気味な宗教が絡み合い、物語は緊張感に満ちて進んでいく。
迫真のリアリティ、サスペンス、そして謎解きの美しさ
ミステリで大事なのは何か。キャラ? 謎? 雰囲気?
いろいろあるけど、『弥勒の掌』が見せてくれるのは、「構成の妙」と「記憶に残る衝撃」である。読んでるあいだは緊張感のある社会派サスペンス、なのに気づいたらどっぷり本格トリックの泥沼に落ちている。そして終盤、すべてを持っていかれるのだ。
物語は、二人の視点で進んでいく。ひとりは警察官・蛯原。もうひとりは教師・辻。どっちも今どき珍しいくらい“いい人じゃない”。抱えてる問題がリアルで、精神的にも余裕ゼロ。でもその不安定さが物語に引っかかりを与えて、グイグイ引き込んでくる。
そんな彼らが関わっていくのが、新興宗教団体「救いの御手」。こいつがまた不気味だ。ありがちなカルト描写で終わらず、心理操作や信者の盲信が生々しく描かれている。じっくりと精神を追い詰めてくる空気が、ページをめくる手にブレーキをかけてくるタイプだ。
で、何がすごいって、この物語、ちゃんとミステリとして“やってる”ところだ。終盤で仕掛けられるトリックの衝撃度は、正直えげつない。「え? そういう話だったの?」って思考停止するくらい、根本からひっくり返されるのだ。
叙述ミステリでもトリックミステリでも味わえない、視点と構造を利用した殴打。このギミックにハマれた瞬間、完全に我孫子ワールドの虜になる。
もちろん、読後に残るのは爽快感じゃない。むしろ、「なんでこんな話を読まされて、面白かったって言わなきゃならないんだ……」という罪悪感に近い地獄の後味が待っている。でもそれがたまらない。毒が強いからこそ、忘れられない。
我孫子武丸といえば『殺戮にいたる病』の印象が強いけど、この『弥勒の掌』もミステリの枠組みを極限まで活かした問題作であることは間違いない。
サスペンス、宗教、トリック、倫理、全部混ぜ込んで最後に爆破。そういうやつだ。
「お前それ本当に見抜けたのかよ?」と本に煽られたい人、ぜひどうぞ。
22.生き地獄と、言葉にならない叫び── 重松清『疾走』
物語の舞台は、閉塞感を漂わせる瀬戸内海沿いの小さな町。中学生のシュウジは、寡黙な父、気弱な母、そして優秀で自慢だった兄との四人家族だった。
しかし、町にリゾート開発計画が持ち上がり、明るい未来への期待が揺らぐ中、進学校に通っていた兄が放火事件を起こしたことをきっかけに、シュウジの日常と家族は崩壊していく。
「犯罪者の弟」というレッテルを貼られ、学校でも孤立を深め 、頼るべき大人も失っていくシュウジ。彼は、教会で出会う神父や、同じく孤独を抱える少女エリといった人々との関わりの中で、過酷な運命の中を文字通り疾走していく。
胸を抉るような、少年の過酷な現実
この小説のいちばんの魅力は、間違いなく、主人公シュウジが背負わされる現実の重さにある。ただしそれは、読んでいて心が擦り減るタイプの魅力だ。
希望に満ちていた兄の転落、自分のせいでもないのに崩壊していく家庭、学校でのいじめ、地域からの疎外、そして貧困。およそ「子どもが背負うには重すぎる」問題が、これでもかと押し寄せてくる。
重松清は、そういった不条理を泣き落としで描いたりはしない。むしろ淡々と、残酷なほど冷静に、それが現実であるかのように並べていく。そして気づいたら、こっちの心が削れている。容赦がない。でも目が離せない。
シュウジは決して「闘う少年」ではない。周囲に迎合することを拒み、自分を偽らず、ただ「ひとり」であり続けようとする。その姿勢は孤高にも見えるけれど、本当は誰よりも「誰かと繋がりたい」と思っている。そこが痛い。とても痛い。
「ひとり」でいることの誇りと、「ひとり」でしかいられない寂しさが、彼の中でずっと揺れている。自分で選んだ孤独のはずなのに、心の底では「誰かに声をかけてほしい」と思っている。その矛盾が、どうしようもなくリアルだ。
終盤に向けて、展開が劇的に動くわけではない。ただ、胸の内側で感情が重なり合って、にごって、溢れてくる。
涙が出るとか、感動するとか、そういう分かりやすい体験ではない。ただ、読む前と後では、世界の見え方が変わる。それくらいの衝撃はある。
軽く読める内容ではまったくない。むしろ「一度読んだらしばらく何も読めなくなる」タイプの小説だ。
もちろん、読後感がいいわけじゃない。
でも、現実を描いた小説として、圧倒的な力を持っていることだけは間違いない。
23.本格作家の描く、悪意と日常── 歌野晶午『正月十一日、鏡殺し』
表題作「正月十一日、鏡殺し」は、夫を亡くした嫁と姑、あるいは祖母と母との間で板挟みになる少女を中心に、閉塞感漂う家庭内の緊張を描く。
正月十一日、鏡開きの日に向け、鏡餅に託された願いや、鏡というモチーフが不穏な影を落とす中、日常に潜む憎悪は増幅していく。
物理的な密室トリックよりも、登場人物たちの心の内に渦巻く感情が、物語の中心となる謎を形作っている。
家庭という閉鎖空間で育まれる負の感情が、どのような結末を迎えるのか、目が離せない。
日常に潜む悪意と「イヤミス」の魅力
歌野晶午といえば、緻密な論理展開とぶっ飛んだトリックで読者を転がす正統派本格の職人というイメージが強い。でも、そのイメージだけでこの短編集を手に取ると、かなりの確率で面食らうはずだ。いい意味で。
まず最初に強調しておきたいのは、これは「本格」じゃない。いや、厳密には“論理中心の謎解き”という意味での本格ではない。むしろ、ここにあるのは人間のドロドロした感情とか、日常に潜んだ悪意とか、そういうやつだ。
派手な事件なんて起きない。けど読んだあとにズシッとくる。いわゆる「裏本格」「イヤミス系」の短編集である。
家庭の崩壊、こじれた恋愛、歪んだ執着、ねじれた職場。そういった場所で、人間の黒い部分があぶり出されていく。そして何が怖いって、それが全部ありそうな話なのだ。ドラマチックでもなく、淡々と人が壊れていく。
たとえば、猫への異常な愛が暴走する『猫部屋の亡者』。あるいは、記憶喪失をめぐる信じたい嘘と忘れたい真実が絡みあう『記憶の囚人』。
設定はバラバラでも、どの話にも共通してるのは、「日常にほんの少し亀裂が入っただけで、こんなにも人間は怖くなるのか」という不安感だ。
しかも、短編といえど、ちゃんと仕掛けがある。決して大技ではないけど、さりげなく読者の思い込みを裏切ってくるひねりが効いていて、その裏切り方がまた嫌らしい。いわゆるオチの強さではなく、「そう来たか……」ってじんわり効く系のひっくり返しが多い。
この短編集には、後の歌野晶午の冷静にして冷酷な視点や、構造フェチっぷりの萌芽がはっきりと見える。論理と感情のバランスを探っている途中の、若干ブレーキの壊れた初期衝動がそのまま詰まってる感じだ。
だからこそ、完成された名作とはまた違った面白さがある。
「本格の作家」という枠をぶち壊しにきた短編集。
歌野晶午はこの時点で、すでにただの本格ミステリ作家で終わる気はなかったのだなと、よくわかる。
24.油断したら裏切られるの毒盛り合わせ── 歌野晶午『ハッピーエンドにさよならを』
本書は、独立した物語でありながら通底するテーマを感じさせる十一編の短編およびショートショートから構成されている。舞台となるのは家庭、学校、職場といったごく普通の日常風景。
しかし、その平穏に見える日常の裏側には、家族間の確執、恋愛のもつれ、受験戦争の重圧、ストーカー被害など、現代社会が抱える問題に起因する歪んだ人間関係や狂気が潜んでいた。
タイトルが示す通り、幸福な結末はほとんど用意されておらず、皮肉に満ちた結末や苦い後味、さらには破滅や転落が待ち受けている。
鮮やかな「どんでん返し」と構成力
歌野晶午といえば、鮮やかなどんでん返しの名手として知られているけど、この短編集でもその本領はバッチリ発揮されている。
中盤まで「そういう話ね」と思ってたら、終盤でひっくり返される。しかもただ意外なだけじゃなく、前提そのものがひっくり返るタイプのやつである。
登場人物の印象が真逆になったり、見えていた世界が全然違う意味を持ち始めたり。あの感覚が好きな人間にとっては、たまらない構造だ。
しかも、どれも短編なのに伏線の張り方が細かい。後から「あれがそうだったのか」とわかる仕掛けが、ぬるっと効いてくる。だから読み終えたあと、ついページを遡りたくなる。あの感触こそ“歌野を読んだ”という実感だ。
ただし、注意点がひとつある。読後感はめちゃくちゃ悪い。人間のイヤな部分、どうしようもない身勝手さ、にじみ出る悪意──そういうのが容赦なく描かれている。
読んでて「うわ……」ってなるし、最後に「救いは?」ってなる。でも、そこがいい!
この短編集は、スカッとした謎解きじゃなくて、ゆっくり毒を味わうタイプだ。ぞっとしたり、胸がざわついたり、嫌な記憶が蘇ったり。いわゆる「イヤミス」としての完成度が高い。
予定調和じゃ物足りない。真相を知ってから地獄が始まるような話が読みたい。そういう感覚を求めているなら、この本は間違いなくハマる。
歌野作品のトリックの妙を求める人にも、人間の暗部をえぐる物語に飢えている人にも、この短編集はちょっとした覚悟とともにおすすめしたい。
25.これが「平山ワールド」の本性だ── 平山夢明『他人事』
14編の物語を通じて、現代社会に蔓延するかもしれない「他人事」という名の恐怖を描き出す短編集。その根底にあるのは、コミュニケーション不全や相互理解の欠如から生まれる根源的な不安感。
例えば、交通事故で助けを求める切実な声が、通りすがりの男の無関心によって踏みにじられる表題作「他人事」。あるいは、引きこもりの息子に追い詰められた末、究極の選択を迫られる老夫婦の絶望を描く「倅解体」。
他にも、孤独な老婆を襲う理不尽な災厄「仔猫と天然ガス」や、定年という節目で社会的な繋がりを剥奪される男の恐怖「定年忌」など、日常の延長線上に突如として現れる悪夢のような状況が、多様な切り口で描かれる。
日常に潜む狂気と無関心の恐怖
とにかく一言でいえば、容赦がない。
平山夢明の描く世界には、遠慮も加減もない。内臓が飛び出すようなグロ描写、生理的嫌悪感をブン殴ってくるような文章、あまりに強烈すぎて、本気で「吐いた」とか「読後に風呂入った」って声すらある。
でも、それを「悪趣味」の一言で片づけるのは早すぎる。むしろその暴力性は、人間の尊厳が削り取られる瞬間を、読む側の皮膚に直接刻み込むための、緻密に計算された刃物だ。
目を背けたくなるような描写の中で、浮かび上がってくるのは不条理とか虚無感とか、言葉じゃどうしようもない絶望みたいなやつだ。
そして恐ろしいのは、こういう話がどこにでもある「日常」から始まることである。会社とか、家庭とか、学校とか、見慣れた風景が、知らない誰かひとりの「歪み」で一気に地獄に変わる。その瞬間、もうこっちも笑ってられない。
しかも、「ちゃんと終わる」話の方が珍しい。解決? 救い? そんなもん知らん、って勢いで話がスパッと切れる。だからこそ、恐怖が読後も続くのだ。「え、ここで終わるの?」「このまま?」ってなって、そのまま夜にうっかり思い出してゾッとする。
そこに平山特有のブラックユーモアが時折混ざってくるから、またタチが悪い。語り口が妙に軽妙だったり、ギャグかと思ったら地獄だったり、その温度差が逆に怖い。
生理的にしんどい。でも、それでも読み進めてしまう。
そういう意味で、平山夢明は中毒性のある恐怖を描いてる作家だ。
グロ耐性があるなら、絶対に体験しておくべき地獄がここにある。
26.心の支配という名の地獄── 東野圭吾『殺人の門』
裕福な歯科医の家庭に生まれた田島和幸の人生は、幼少期のある出来事をきっかけに少しずつ歪み始める。
彼の人生の転機には、いつも小学校の同級生である倉持修の影があった。倉持は悪魔的な魅力と巧みな話術で和幸を翻弄し、彼の人生を不幸へと巧みに誘導し続ける。
和幸は倉持に対して繰り返し強い憎悪と殺意を抱くが、そのたびに倉持の口車に乗せられたり、状況に流されたりして、決定的な一線を越えることができない。
物語は、数十年にわたり倉持によって人生を狂わされ続けた和幸が、いかにして「殺人の門」と呼ばれる心理的な境界線へと追い詰められていくのか、その苦悩の軌跡を描き出す。
心の闇に潜む殺人願望を描く、衝撃の問題作
この小説をひとことで言うなら、「人間の弱さ」をこれでもかってほど叩きつけてくる作品である。最大の見どころは、主人公・田島和幸の細かすぎるほどの心理描写だ。しかもそれが痛い。めちゃくちゃ痛い。
和幸は、倉持修という男にすべてを奪われる。家族、金、女、信用。人生まるごとぶっ壊される。で、何をするかと思えば……何もしない。
いや、正確には「殺してやる」とは何度も思うのだけど、実行に移せない。もう、読んでる側は「今だ! そこだろ!」って何度も言いたくなる。でもやらない。やれない。そうやって、壊れていく。
この、「殺意はあるのに手が出せない」というもどかしさと逡巡の繰り返しが本作のキモで、その波の細かさがとにかくリアルだ。頭では「もう終わりにしよう」と思ってるのに、気づいたらまた倉持に連絡取ってる。そしてまた騙される。この繰り返しが、ほんとにキツい。読んでるこっちのメンタルまで削られてくる。
「何でこいつ、縁切らないの?」「何回目だよ、そのパターン」って思うのは自然なんだけど、その苛立ちこそが狙いなんだと思う。心理的支配ってのは、そう簡単に抜け出せるものじゃない。自分でもおかしいとわかってるのに、逃げられない。その感覚をここまでリアルに描かれると、もう黙って読むしかない。
和幸は受け身で、優柔不断で、正直見ててしんどい。でも、だからこそリアルなのだ。「そうなるやつ、いそう」と思わせる説得力がある。
読後に残るのは、何の救いもない重苦しさとやり切れなさだ。でもそこにこそ価値がある。
軽いエンタメや派手な事件、気持ちのいい逆転劇を求めてる人には向いてない。でも、人間の闇の深さとか、心理のもつれのしつこさに興味がある人には、がっつり刺さるタイプの一冊だ。
27.タイトルに騙されるな── 多島斗志之『少年たちのおだやかな日々』
舞台は、夏の気配が漂う地方都市。そこで暮らす、ごく普通の中学生の少年たちが主人公。
タイトルにあるような「おだやかな日々」を過ごしているかに見える彼らですが、友人の母親の秘密を目撃してしまったり、奇妙なゲームに巻き込まれたり、不可解な大人たちとの関わりの中で、その日常はゆさぶられていく。
どこか懐かしい風景の中で、少年たちの平穏が脅かされていく、その危ういバランスの上に物語は成り立っている。事件の核心や結末に触れることなく、少年たちが経験する日常の微妙な変化と、そこに潜む不穏な空気感が漂う。
脆く美しい日々の裏側にあるもの
まずタイトルを見て「ほのぼの系かな」と思った人は注意してほしい。
『少年たちのおだやかな日々』──そんな穏やかな話ではない。いや、穏やかだったかもしれない。最初は。でも、その日々がどんどん壊れていくのだ。そしてその崩壊を、ただじっと見つめるしかない少年たちが、ここにいる。
この作品の核になってるのは、ノスタルジーと不穏の混在だ。少年時代の、少し乾いた空気、午後の光、埃っぽい部屋。どこか懐かしい描写の中に不気味な違和感がにじんでくる。気づけば、読んでるこっちも落ち着かなくなってしまう。
語り手は一貫して少年たちだ。彼らは世界のルールがわかっていない。というか、大人の言動があまりにも不可解すぎる。怒りも疑問もある。でも、それをぶつける術はない。ただ黙ってやり過ごすしかない。その受け身の痛々しさが、読み進めるほど心に響くのだ。
もちろん、中には「ドンデン返し」と呼べるような構造の話もある。でもこの作品の真骨頂はそこじゃない。日常のズレが、ゆっくりと非日常へと変わっていくその過程だ。ラストで驚かせるより、ジリジリと心を侵食してくる感じが強い。
典型的な青春小説でもなければ、王道ミステリでもない。どちらにも見せかけておいて、最後はまるで別ジャンルに連れていかれる。
甘さよりも苦さを、爽快感よりもやるせなさを、綺麗なカタルシスよりも、心に引っかかる棘みたいな読後感を求めてる人にはぴったりだ。
28.甘くて脆い、絶望の中の友情── 桜庭一樹『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』
地方の町に住む中学二年生の山田なぎさ。早く大人になりたいと願い、現実的な思考を持つ彼女は、パートで働く母と、部屋に引きこもる兄との三人暮らし。そんななぎさのクラスに、ある日、東京から海野藻屑という少女が転校してくる。
藻屑は初対面の挨拶で「ぼくは人魚なんです」と言い放ち、常にミネラルウォーターを手放さない不思議な存在。最初は藻屑の奇妙な言動に戸惑うなぎさですが、次第に彼女が抱える秘密や痛みに触れ、特別な絆を育んでいく。
しかし、物語は冒頭から悲劇的な結末を予感させ、二人の少女を取り巻く過酷な現実、思春期特有の友情のもろさ、そしてどうしようもない喪失感が、切なくやるせない空気の中で描かれる。
直木賞作家がおくる、暗黒の少女小説
この作品の真ん中にいるのは、まるで正反対の二人の少女だ。現実主義で、貧しさのなかから「実弾」を手に入れようともがく、なぎさ。金、学歴、社会的ステータス。そういう効き目のある武器こそが生きる術だと信じている。
一方の藻屑は、「自分は人魚だ」と語る少女。現実に耐えきれず、嘘や空想という名の砂糖菓子の弾丸で、心を守ろうとしている。父親の暴力を、きっと夢のように遠くへ押しやるために。
交わるはずのないふたりが、少しずつ歩み寄る。お互いの痛みに気づきはじめる。でもそれは、ほんの短い時間だけ許された、かけがえのない幻想だった。物語の終わりが近づくたびに、その幻想が破裂する音が聞こえてくるようで、胸が締めつけられる。
タイトルの『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』という言葉は、そのままこの作品の命綱であり、絶望の象徴でもある。子どもたちが持ちうる抵抗の手段――嘘、強がり、空想、願い。そのすべては、現実という名の鋼鉄の壁の前では無力だった。
この無力さは、物語を通じて確かに描かれている。藻屑のような子どもは、どこかに実在しているだろう。そして今も、声をあげられないまま、ひっそりと傷ついている。
この作品は、ただの悲劇では終わらない。
子どもという存在の脆さと、そこに宿る微かな強さとを、きっちり描ききっている。
救いはない。けれど、逃げずに向き合いたくなるような物語だ。

29.救いなんて、最初からない── 木爾チレン『みんな蛍を殺したかった』
物語の舞台は、京都にある「底辺」と呼ばれる私立の女子高校。スクールカーストの最下層に位置するのは、猫井栞、五十嵐雪、大川桜というオタク女子三人組であった。
活動らしい活動もない生物部を拠り所とする彼女たちの前に、東京から七瀬蛍という息を呑むほど美しい少女が転校してくる。誰もが羨む容姿を持つ蛍はクラスの人気者になると思われたが、意外にも自ら「私もオタクなの」と名乗り、生物部に入部して三人に積極的に関わろうとする。
戸惑いながらも、栞たちは蛍の屈託のない優しさに触れ、次第に友情を深めていく。しかし、輝かしい存在であった蛍は、ある日突然、線路へ身を投じて衝撃的な死を遂げる。
彼女の死は数々の謎を残し、遺された者たちの間に後悔と悲劇の波紋を広げていくのだった。
イヤミスとしての魅力と複雑な読後感
読む前から「イヤミス」だと覚悟していても、その予想を超えてくる小説だ。
嫉妬、劣等感、見下し、妄執。そういう感情が、フィクションの仮面をかぶって、真っ正面からぶん殴ってくる。
ハッピーエンド? そんなものは最初から存在しない。あるのは、どうにもならない現実と、誰かが誰かを傷つける連鎖だ。それでも、手が止まらない。話の展開がとにかくうまいからだ。
視点は複数あるし、ミスリードも巧妙で、読みながら頭の中で情報整理するのが楽しい。伏線の張り方も、嫌な感じであとから効いてくる。
本作が興味深いのは、「救いがある」と感じる人すらいる点だ。その救いは、物語の結末に希望があるからではない。むしろ逆だ。誰の心にもあるかもしれない醜さを、物語が代わりに晒してくれるからこそ、「自分だけじゃなかった」と思える。そういう意味での浄化作用がある。
テーマとしては、スクールカーストや外見至上主義、その中で壊れていく友情、すれ違う好意、歪んだ羨望など、学校という小さな社会でしか成立しない地獄を、ものの見事に描き切っている。どの人物にも同情はできないが、理解できる部分があるのが怖い。
読後に残るのは、もやっとした重さと、居心地の悪い自己認識だ。
でも、それがこの作品の持つ一番の効能なのかもしれない。
物語に「正しさ」や「感動」を求めてない人には、どこか深く刺さってくるはずだ。
30.正しさなんてとっくに壊れてる── 湊かなえ『告白』
物語の舞台は市立中学校。春休みを目前に控えた終業式の日、1年B組の教室は落ち着かない空気に包まれていた。
担任の女性教師・森口悠子は、生徒たちへ最後の挨拶を行う。しかしそれは単なる別れの言葉ではなく、衝撃的な「告白」であった。
数ヶ月前、学校のプールで溺死したとされた彼女の幼い娘・愛美。警察は事故死と判断したが、森口は断言する。愛美は事故で死んだのではなく、このクラスにいる二人の生徒に殺されたのだと。
この終業式の告白は、森口が周到に準備した恐ろしい復讐劇の幕開けにすぎなかった。
「イヤミス」としての完成度と強烈な読後感
『告白』は、イヤミスというジャンルを語る上で、避けて通れない作品だ。
とにかく嫌な気分になる。読後、胸の奥に残るのは不快感、やり切れなさ、そしてちょっとした恐怖。でもその一方で、なぜか読む手が止まらなくなる。この矛盾した体験こそが、本作の最大の中毒性である。
全編を貫いているのは、「正義」と「復讐」の危うい境界だ。
誰が悪いのか? 誰が罰を受けるべきか?
そんな問いかけは、とっくに吹き飛んでいる。ただただ、怒りと絶望が、冷徹に研ぎ澄まされていく。その果てにあるのは、スカッとした解決じゃない。もっと重くて、もっと陰惨な結末だ。
ところがこれが妙に気持ちいい。歪んだ意味での「痛快さ」がある。誰もが口に出さずにしまい込んでいる怒りや憎しみを、登場人物たちが全部ぶちまけてくれる。だからこそ、読んでいる側にも一種の解放感があるのだと思う。それが、どこかねじれていて、だからこそやめられない。
語りは冷静で、テンポは速い。だからこそ、感情が追いつかないまま物語が進んでいく。気づけば取り返しのつかないところまで来ているのに、それでも読み進めるしかない。
ラストに向けての加速感はまさに怒涛。あまりにも静かで、あまりにも恐ろしい終わり方が、この物語をイヤミスの枠を超えた何かにしている。
『告白』は、「嫌な気持ちになる小説」じゃない。
「嫌な気持ちにさせることでしか語れない物語」なのだ。
31.呪いとしか言いようのない責任── 湊かなえ『贖罪』
十五年前の夏休み、とある田舎町で都会から転校してきた少女・エミリが惨殺される事件が発生する。直前まで彼女と遊んでいた四人の同級生は、犯人と思われる男を目撃していたが、その顔を思い出せず、事件は迷宮入りとなった。
娘を失った悲しみと怒りに駆られた母・麻子は、四人に言い放つ。
「あなたたちを絶対に許さない。必ず犯人を見つけなさい。それができないなら償いをしなさい」と。
この言葉は少女たちの心に十字架として刻まれる。本作は、「贖罪」という重荷を背負った四人の女性が、十五年後、それぞれ悲劇的な運命の連鎖に巻き込まれていく様を描くものである。
「贖罪」という重荷をテーマにした、イヤミスの神髄
この小説の核心はタイトル通り「贖罪」だけど、そこにあるのは自発的な反省でも悔恨でもない。むしろ一方的に押しつけられた、重くて歪な義務のようなものだ。
物語の発端は、少女が殺された事件。しかし、語られるのは加害者の話ではない。現場に居合わせた4人の少女たち。彼女たちは殺したわけじゃない。ただ、犯人の顔を思い出せなかった。恐怖で動けなかった。それだけだ。
にもかかわらず、被害者の母・麻子の言葉が、彼女たちを縛りつける。
「あなたたちの誰かが、犯人だったかもしれない」
「思い出せなかったことが、あの子を殺したのかもしれない」
こうして始まるのは、責任の強制であり、贖罪という名の呪いである。4人の少女は、まるで罰ゲームのように「償い」を始める。それは誰のためでもない。ましてや自分自身のためでもない。押しつけられた言葉を背負い続けた結果、彼女たちは、自分の人生すらまともにコントロールできなくなっていくのだ。
トラウマ、沈黙、罪悪感、そして勝手に定義された「責任」。その全部が、救済ではなく破滅へと向かっていく。
湊かなえは、こういうイヤな話を描かせると本当に容赦がない。語り手の主観が錯綜し、視点が切り替わるたびに真実が揺らぐ。
そして最後に見えてくるのは、誰が悪かったのかではなく、「誰がどこまで許されてよかったのか」がわからなくなる感覚だ。
贖罪とは何か。
それは他人が決めるものなのか。
そんな綺麗な話じゃない、ってことをこの小説ははっきり突きつけてくる。
32.女たちの醜さがむき出しになる地獄絵図── 桐野夏生『グロテスク』
物語は、渋谷で発生した二人の女性殺人事件から始まる。被害者はユリコと和恵。いずれも名門Q女子高の卒業生であり、発見時には娼婦として働いていた。
語り手である「わたし」は、類まれな美貌を持つユリコの姉であり、和恵の同級生でもある。彼女はエリート意識と階級意識が渦巻くQ女子高での日々を振り返りつつ、ユリコと和恵、そして自身の歪んだ関係を語り始める。
なぜ二人は娼婦となり、無残な死を遂げなければならなかったのか。語り手の独白、被害者の日記、関係者の証言を通じて、美醜への執着や階級への渇望、嫉妬や孤独といった複雑な心理が徐々に明らかにされていく。
圧倒的な筆致で現代女性の生を描ききった、桐野文学の金字塔
『グロテスク』の何がすごいって、まず語り手がどうしようもなく信用できないということに尽きる。
表面上は冷静な語りを装っていても、その内側では妹ユリコへの激しい憎悪、劣等感、そして歪んだ優越意識が渦巻いている。
同級生・和恵に向けるあの侮蔑も相当なものだ。でも、それが全部一方通行の語りだから、こっちは真実にたどりつけない。なのに、なぜか説得力があるように見えてくる。このねじれた構造が、恐ろしく気持ち悪い中毒性を生んでいるのだ。
物語は彼女の語りだけじゃなく、殺された女性たちの手記や別視点も差し込まれてくる。そのせいで、語り手が見下していた人々のほうが、実はよほど理性的で、強くて、壊れていたのはむしろこっちじゃないか?という感覚になってくる。
正しさがどこにもない。あるのは主観の応酬と、無様な自己正当化だけだ。
舞台は名門女子校。そこに漂う閉鎖性とエリート主義、顔面格差による階級差別。これがえげつないほどリアルだ。そこから社会に出た女性たちが何を失っていくのか、あるいは何を犠牲にしてまともな顔を保ってきたのか。そのすべてが、残酷なほど暴かれていく。
事件そのものは、「東電OL殺人事件」がモチーフになっている。でもこれは、誰が殺したとか、どうやって死んだとかいう話ではない。
なぜこの女たちは、ここまで歪んでしまったのか――という話だ。
タイトルの『グロテスク』が指すのは、内臓でも血でもない。むしろ、外見で人を裁き、地位にすがり、欲望に振り回され、憎しみと嫉妬を原動力に生きていく人間のありのままの姿だ。
この小説を読んでスッキリする人はいない。
けれど、強烈な印象だけは確実に残る。
そんな“気持ちの悪い傑作”であることは、間違いない。
33.この家は、快適すぎて壊れてる── 神津凛子『スイート・マイホーム』
スポーツインストラクターの清沢賢二は、寒がりの妻・ひとみと幼い娘・サチのため、快適なマイホームを建てることを決意する。住宅展示場で出会った「まほうの家」と呼ばれるモデルハウスは、わずか1台のエアコンで全館を暖められる画期的な空調システムを備えていた。
賢二はこの家に魅了され、ついに理想の住まいを手に入れる。新居の完成と共に二人目の娘・ユキも誕生し、一家は幸せの絶頂にあった。
しかし生活が始まるや否や、説明のつかない不穏な出来事が続発する。まとわりつくような気配、赤ん坊の瞳に映る異様な影。夢の家は次第に言いようのない恐怖に包まれていくのであった。
「オゾミス」としての衝撃と読後感
ホラーといえば、古い洋館とか曰く付きの村とか、いかにもっていう舞台を想像しがちだけど、この作品の恐怖は、むしろ逆方向からやってくる。
舞台は、最先端の技術が詰まったピカピカの新築住宅。いわば、理想のマイホーム。多くの人が夢に見るであろう「便利で安心な家」こそが、本作の発火点だ。
最初は幸せの象徴だった〈まほうの家〉。でも、便利で優しいはずの機能が、ある瞬間から違和感に変わる。
便利すぎる。親切すぎる。心地よすぎる。そのちょっとした違和感がいつのまにか空気を濁らせ、生活そのものが、気づかぬうちに檻になっていくのだ。
これがいわゆる「オゾミス(おぞましいミステリ)」の真骨頂である。突拍子もない事件じゃなく、じわっと滲む不快感が、こちらの神経を削ってくる。それは「家の中で起きる異常事態」っていう、人間の本能に根ざした不安を突いてくるからだ。
そして終盤、物語は想像もしなかった方向へと加速する。この家、何かがおかしい。誰が? 何が? という謎を追いながら、最後に待っているのはひどすぎる結末だ。
これは、作者自身も「書いててひどいと思った」ってコメントしてるらしいけど、その言葉は伊達じゃない。倫理観や価値観ごと叩き壊しにくるタイプのオチで、読んだあとしばらく引きずる。
しかも、それを引きずらせるように、物語全体が構成されている。決して「怖かった〜!」では終わらせてくれない。
むしろ「何だったんだ、あれは……」と、自分の中に変なざらつきを残していく。この後味こそが、「オゾミス」と呼ばれる所以だろう。
安心して住めるはずだった家が、知らぬ間に壊れていく恐怖。
それをこんな形で叩きつけてくるのが『スイート・マイホーム』という作品だ。
あらかじめ覚悟してから読んだほうがいい。本気で、嫌な気分になるから。
34.SNS時代の地獄が詰まった心理サスペンス── 宿野かほる『ルビンの壺が割れた』
物語は、50代の男性・水谷一馬がFacebookで偶然、かつての恋人・水野未帆子を見つけるところから始まる。二人は大学の演劇部で出会い、28年前、結婚式直前に未帆子が理由も告げず姿を消したまま別れていた。
水谷は「突然のメッセージで驚かれたことと思います。失礼をお許しください」と言葉を添えて彼女に連絡を取る。最初は無視されるが、やがて返信があり、ぎこちないやり取りが始まった。
ノスタルジックに始まった会話は次第に変質し、過去の認識のずれが浮かび上がるにつれ、不穏な空気が漂い始める。水谷が抱き続けてきた疑問――なぜ未帆子は結婚式当日に姿を消したのか――その核心に触れることを避けながら続くやり取りは、言いようのない不安と疑念を呼び起こしていく。
真実が反転する、読書体験のスリル
これは、ある男女のメッセージのやりとりだけで構成された物語だ。
地の文も説明もない。ただ、水谷という男と、未帆子という女の、SNS上の会話ログが淡々と並ぶだけ。なのに読み始めたら止まらない。まるで誰かの秘密を盗み見しているような背徳感と、やりとりの妙なテンポに取り憑かれてしまう。
最初は、再会した男女のなんだかぎこちない雑談。でも、その中に少しずつズレが見えてくる。
言ってることが食い違ってる。記憶が合わない。温度差がある。
この違和感が積み重なった先に、すべてをひっくり返すラストが待っている。
……とだけ言っておく。
これ以上は本当に言えない。この作品の構造は、感想戦で初めて効いてくる。読み終わったあと、誰かと「いや、あれさ……」って話したくなるタイプのやつだ。
もちろん評価は割れる。「後出しジャンケンじゃん」と感じる人もいるだろう。だが、その強引さこそがこの物語の設計そのものだ。
何が真実だったのか、誰が何をどう隠していたのか。それを言葉の断片から読み取る行為が、この小説の醍醐味になっている。
構成も短さも異常。でも、間違いなく現代的な読み物の極北であり、SNSというツールに潜む地雷原を、これほどイヤらしく描いた作品もそうない。
人間のズレ、記憶の歪み、言葉の罠。
そこにほんの少しの悪意を混ぜただけで、こんなにも恐ろしくなるのかと思わされる。
35.「やられた」と思うか「読まなきゃよかった」と思うか── 真梨幸子『殺人鬼フジコの衝動』
フジコ。彼女は幼少期に一家惨殺事件に巻き込まれ、ただ一人の生存者となった。悲劇を生き延びたものの、その後の人生は決して平坦ではなかった。
親族のもとでの不遇、学校でのいじめ、成人後のDVや暴力。絶え間ない不幸とトラウマがフジコの心を蝕み、やがて彼女の人生を狂わせていく。
いつしかフジコは「人生は、薔薇色のお菓子のよう」と呟きながら次々と人を手にかける「伝説の殺人鬼」へと変貌する。
「イヤミス」の代表格としての強烈な読書体験
この作品がやたらと話題になるのは、たぶん単純な理由だ。
読んだ人間の精神にまるで棘のように引っかかるからである。気分が悪くなる。最悪の気分になる。それでもなぜか、物語に吸い込まれてしまう。
『殺人鬼フジコの衝動』は、「イヤミス」というジャンルの代名詞とまで言われることが多い。
甘さも救いもない。徹底的にやる。フジコという女性の人生を通して、人間のどうしようもなさ、暴力の連鎖、歪んだ承認欲求、壊れていく過程がこれでもかというほど叩きつけられる。それはもう、邪悪という表現でも生ぬるいほどにえげつない。
ただし、これが単なる地獄巡りにならずに成立しているのは、構成の妙があるからだ。過去をたどるかのように進んでいく物語は、実は非常に計算されている。真実が少しずつ滲んでくるように仕掛けられ、気がつけば深みに落ちている。
そして最後、「あとがき」がトドメを刺してくる。
この「あとがき」は、よくあるあとがきではない。完全にトリックの一部である。物語の本編で得た理解を、終盤でまるごとぶち壊してくる。読み終わったあとの安心感を引き裂くために存在しているとしか思えない。
このやり方に関しては、好みが分かれるのもわかる。「やりすぎだろ」と思う人もいれば、「そこまでやってくれるのか」と逆に拍手する人もいるだろう。ただ、どちらにせよ一度読んだら忘れることはまずない。
万人にはおすすめできない。というか、軽い気持ちで読むと後悔するタイプの作品だ。
でも、「イヤミス」というジャンルを語る上では、どうしたって避けて通れない通過儀礼のような一作であることは間違いない。
36.暴力と絶望に殴られ続ける── 七尾与史『失踪トロピカル』
物語は、主人公・国分が恋人の奈美と秘密の海外旅行でタイのバンコクを訪れる場面から始まる。熱気と喧騒に包まれたマーケットで、奈美は迷子の子供の親を探しに行ったまま人混みに消えてしまう。言葉も通じにくい異国で、国分は必死に彼女の行方を追う。
現地在住の奈美の兄・マモルや、日本の両親が依頼した探偵・蓮見も加わるが、捜索は難航。国分が撮影していたビデオには、奈美に執拗な視線を送る不審な男の姿が残されていた。
やがて奈美の失踪は偶然ではなく、凶悪な犯罪組織が関わる誘拐事件の可能性が高まっていく。奈美を救うため、国分たちは危険な闇の世界へ足を踏み入れるのだった。
予測不能な展開と結末への期待
この作品、最初の数ページで覚悟を決めさせられる。
行方不明になった恋人・奈美を追って、主人公の国分が東南アジアのど真ん中に足を踏み入れる。だけど、それだけで済む話じゃない。
ここから先は、「気づけば死体が増えてる」「知らないうちに包囲されてる」みたいな、息つく間もない全編修羅場モードに突入する。
とにかく展開が速い。そして容赦がない。街の空気も人の目も何もかも信用できないまま、国分はトラップのような現実に足を取られていく。助けを求める暇もない。誰かに頼ろうとしても、次の瞬間にはその誰かが死んでいたりする。登場人物の命の扱いがとにかく雑すぎる。でも、それがこの世界では当たり前だ。
「恋人を救いに来た男の物語」だなんて思って読んだら、まず間違いなく痛い目を見る。これは、自分がどれだけ「甘かったか」を思い知らされる小説である。
結末もまた、感情を破壊するタイプの着地だ。希望も、カタルシスも、温もりも、ここには存在しない。
そういうわけで、「ハードなサスペンス」とか「イヤミスが読みたい」とか、軽く言ってる人にはこの作品は勧めない。読んだらしばらく本を開く気が起きなくなるかもしれないから。
ただし。
もし本気で「地獄を覗いてみたい」と思ってるなら、『失踪トロピカル』はその入り口だ。
これは、覚悟を決めて読むべき暴力であり、絶望であり、そして文学である。
37.なぜあの子は死ななければならなかったのか?── まさきとしか『あの日、君は何をした』
北関東の前林市で、平凡な主婦・水野いづみの幸せは、息子・大樹が連続殺人犯と間違われ事故死したことで一変した。深夜、家を抜け出した大樹は何をしようとしていたのか。その謎は母を苦しめ続ける。
15年後、新宿区で若い女性が殺害され、不倫相手の百井辰彦が重要参考人として行方不明に。彼の母・智恵は息子の無実を信じ奔走しますが、妻・野々子はどこか無関心に見えた。
刑事の三ッ矢秀平と田所岳斗は捜査を進めるうち、無関係に見えた15年前の少年の死と現在の事件を結びつける、衝撃の鍵に迫っていく。
心揺さぶる慟哭のミステリー
15年前の少年の不可解な事故死と、現代で起きる殺人事件。一見すると何の関係もなさそうなふたつの出来事が、刑事コンビの三ツ矢と田所の捜査によって、少しずつ交差していく。
「なぜ少年は深夜に家を抜け出して、命を落とさなきゃならなかったのか?」
その問いがずっと物語の中心にあって、しかも答えに近づけば近づくほど、胸が苦しくなってくる。
特に印象に残るのは、ふたりの母親の存在だ。子どもを失ったいづみ、そして行方不明の息子を探し続ける智恵。このふたりの抱える感情がものすごく濃い。愛とか喪失とか、どろどろした感情がリアルで、正直こっちの胸まで締めつけられる。
「イヤミス」的な空気も強い。読んだあと、スッキリとはしない。でも、それが逆に心に残る。救いがあるようでないようで、でも物語としての完成度はすごく高い。
家族、記憶、社会の無関心。テーマは重いけど、それを読ませる力がちゃんとある。テンポもいいし、構成もうまい。ミステリーとしても人間ドラマとしても読み応えは抜群だ。
物語の終盤、タイトルの意味と「あの日」の真実が明かされる瞬間、背筋がゾッとする。あるいは、耐えきれずに涙するかもしれない。
読み終えたあと、しばらくぼーっとしてしまうタイプの作品だ。
38.その悪意は、いつの間にか隣にいた── ジャック・ケッチャム『隣の家の少女』
1958年の夏、アメリカ東部の郊外住宅地。物語は、当時12歳だった少年デイヴィッド(一人称「わたし」)の回想として語られる。
隣家には、交通事故で両親を亡くした美しい少女メグと妹スーザンが引っ越してくる。姉妹は叔母ルース・チャンドラーとその三人の息子のもとに身を寄せることになった。
デイヴィッドは快活なメグに心惹かれるが、やがてルースが「しつけ」と称して姉妹を折檻する姿を目撃する。当初は親しげだったルースの態度は次第に歪み、虐待は息子たちや近所の子供たちをも巻き込みながらエスカレートしていく。
デイヴィッドは恐怖と無力感の中で、ただ事態の進行を傍観するしかなかった。
読まなければよかった小説No. 1。美しくも酷い、伝説の名作
『隣の家の少女』は覚悟して読むべき地獄の一冊である。
この作品は、ただの残酷描写で読者を叩きのめそうというタイプじゃない。むしろ日常そのものが侵されていく過程にこそ、本当の恐怖が詰まっている。
舞台はごく普通のアメリカ郊外。芝生がきれいに刈られた住宅地の片隅で、確実に狂気が育っていく。そこに住むルースという女と、その家に預けられた少女メグ、そして彼女を取り巻く普通の子どもたち。
誰もが最初は善良に見える。なのに、どうしてこうなった……?としか言いようのない展開が待っている。
特に凄まじいのが、語り手であるデイヴィッドの存在だ。彼はこの地獄絵図をすべて目撃し、けれど手を出せず、ただ見ていた。この「傍観者」という立ち位置が絶妙に効いていて、読んでいるこっちまで、いつの間にか共犯者になった気がしてくる。
何かを止められたんじゃないか? いや、自分だったら止められたのか?――そんな自問を突きつけてくる。
しかもこの話、ただのフィクションではない。実際の事件をベースにしているという事実が、読後にズシンと響く。読み終えたあと、ひとつ深呼吸しないと日常に戻れない。そんなレベルの衝撃がある。
本作を読むのに、エンタメ的なカタルシスを期待するのは間違っている。それどころか、最後のページまで苦しみと無力感に打ちのめされることになるだろう。
でも、それでも目が離せないのは、この小説が「悪とは何か」「何もせずにいることの罪とは何か」を、これでもかというほど突きつけてくるからだ。
これは、ただのイヤミスでは済まされない。
ある種の読書体験として、忘れられないほどの重みと毒を持った悪魔の一作である。
39.最後の一撃で世界がひっくり返る── カトリーヌ・アルレー『わらの女』
物語の舞台は、第二次世界大戦後のドイツ・ハンブルク。主人公ヒルデガルトは34歳の独身女性で、戦争で両親を亡くし、翻訳の仕事で細々と生計を立てていた。貧しい生活を送りながらも、いつか「降って湧くような幸運」が訪れることを密かに夢見ていた。
ある日、新聞の求縁広告欄に「億万長者、良縁求む」という見出しを見つけた彼女は、これこそが待ち望んでいた機会だと直感し、すぐに応募を決意する。ほどなくして広告主から南フランス行きの航空券と手紙が届き、彼女の運命は大きく動き出す。
しかし、待ち受けていたのは莫大な富を持つ偏屈な老人カール・リッチモンドと、彼の遺産を狙う者たちが仕掛けた巧妙で危険な計画であった。
息詰まるようなサスペンスの世界へと誘う、不朽の名作
この作品のまず語るべきは、完全犯罪計画の完成度だ。
舞台は大富豪の遺産。金額がとんでもない。これをどう奪うか、どうバレずに手に入れるか。その計画が、もう緻密で、冷徹で、そしてとにかく“うまそう”なのである。
一歩ずつ詰めていく準備、油断のない立ち回り、感情を巧みに利用した駆け引き。どれも鮮やかで見事。ただ犯人が有能なだけではない。
読んでる側も「これ、いけるんじゃないか?」と本気で思わされるくらい、理詰めの説得力がある。そのせいで、逆にちょっとでも綻びが見えた瞬間、こっちの心拍数が上がるのだ。
そして、この作品が1956年に発表されたというのがまた恐ろしい。「古典」でひとくくりにしてしまうには惜しいくらい、いま読んでも余裕で面白い。毎年のように何かしらの「おすすめミステリ」ランキングに顔を出してくるのも納得だ。
特筆すべきは、あまりにも有名なあの“最後の一撃”である。何が起きるのかは書けない。知ってしまったらすべてが台無しになる。だからこそ、未読の人は絶対にネタバレを避けてほしい。あれは初読でこそ効く。全神経を持っていかれる。
時代を越えて色あせないのは、この物語が描いている欲望や裏切り、孤独といった感情が、現代人の心にも刺さるリアルさを持っているからだ。
派手なアクションがあるわけでも、猟奇的な事件があるわけでもない。
なのに、気づけば引き込まれ、ラストで頭を抱える羽目になる。
それが『わらの女』の魔力である。
40.じっとりした違和感を楽しむ── 『居心地の悪い部屋』
『居心地の悪い部屋』は、翻訳家の岸本佐知子氏が独自の視点で選び抜いた、英語圏の作家たちによる12編の短編小説を集めたアンソロジー。
編者によって貫かれている選定基準は、読後になんとも言えない落ち着かなさ、文字通りの「居心地の悪さ」や、見慣れた世界から不意に見知らぬ場所へと放り出されたかのような当惑感を残す作品であることだった。
「二度と元の世界には帰れないような気がする」短篇たち
この本に収められた作品群は、どれもがはっきりとした「起承転結」や、気持ちよくまとめられた結末を持っているわけではない。
むしろ、どうにも説明のつかないこと、何かがおかしいのに誰もおかしいと言わないこと、そんなズレや歪みにフォーカスしている。
不穏な空気をまとった家。妙に無感情な登場人物。何も起きていないようで、何かが決定的に狂っている。そんな居心地の悪い部屋に、気がつけば読者も一緒に閉じ込められている構造だ。
しかもこの「部屋」は、物理的な空間とは限らない。家庭環境、人間関係、記憶、心の奥底。いろんなレイヤーでいたたまれなさが襲ってくる。
派手などんでん返しを期待していると拍子抜けするかもしれない。でも、この作品群が刺さる人にとっては、そこが最大の魅力だ。明確な解決や説明を与えず、感情のモヤモヤだけをポンと置いていく。そういう終わり方ばかりなのに、なぜかやめられない。
読んでる最中も、読んだあとも、どこか身体に引っかかってくる。「怖い」というより「落ち着かない」感じだ。「嫌いじゃないけど、ずっと一緒にはいたくない」みたいな作品ばかりが並んでいる。
明確なメッセージや教訓を求めるタイプの読書には向いてない。
けれど、「物語は不安定なほうが面白い」と思っている人間にとっては、この一冊はなかなかにクセモノで、しかも満足度が高い。

おわりに
「後味が悪い」ってのは、ただ嫌な気持ちになるってだけの話じゃない。
むしろ、心の奥底にズシンと残るような読書体験って、こういうやつのことを言うんじゃないかと思う。
読後にモヤモヤする。何かを突きつけられたような気がする。でもそれが、妙に忘れられない。
きれいに片付いた物語じゃ得られない、引っかかりとざらつき。そこには、棘みたいに刺さる問いがあって、考え続ける余地がある。
安全圏からほんの少しだけ踏み出して、知らなかった感情に触れる。
その怖さと引き換えに得られるものが、確かにある。
そんな物語に、一歩踏み込んでみるのも悪くないと思う。
きれいじゃないけど、忘れがたい読書体験が待っているのだから。