森バジル『探偵小石は戻らない』- 読み進めるほどに最初の景色が変わっていく【読書日記】

前作『探偵小石は恋しない』の最後で、小石と蓮杖の関係には大きな変化が訪れた。
シリーズ第2弾『探偵小石は戻らない』は、その続きを甘い余韻のまま始めてはくれない。
冒頭で突きつけられるのは、連続毒殺事件と「犯人は、小石でしょう?」の一言である。
「犯人は、小石でしょう?」
沈黙を破ったのは、七瀬の張りつめた声だった。動き出しになった小石への敵意が、その指先を震わ
せている。
森バジル『探偵小石は戻らない』より引用
舞台は前作と同じ福岡で、西新にある小石探偵事務所を中心に、天神や中洲川端など実在の街が事件の動線へ組み込まれている。
小石は人の恋心を赤い矢印として見る特殊体質を持つ一方、血を目にすると直前の記憶を失う探偵だ。恋愛沙汰を嫌っているのに、事務所へ舞い込む仕事の大半は浮気調査。相変わらずちぐはぐな日常である。
ところが今回は、その小石自身が毒殺犯として疑われる。しかも物語の語られ方にもひと癖あり、読み始めてすぐ、いつもの順序で事件を追っている感覚が崩される。前作で築いた人物と世界を使いながら、見せ方を大胆に変えてきた。
前作から約一年で届いた続編だが、入口からして大胆である。小石と蓮杖の距離が変わった直後を受けながら、恋愛の進展だけに頼らず、探偵本人へ殺人容疑をかけるところから始める。
さらに、小石の妹・願依と記者・烏丸まで投入し、事務所の外側から小石を見る視線も増えた。前作で見慣れた人物へ、別角度から光を当てた続編だ。
知っているつもりなのに、何も分からない
冒頭で提示される状況は絶望的である。
小石が毒殺事件の現場におり、目の前には被害者、そして彼女を疑うだけの材料まで揃っている。蓮杖は無実を信じたいが、親愛だけで証拠を消せるはずもない。相棒への信頼と、目の前にある事実が正面からぶつかる幕開けだ。
そこから本書は、事件を素直な一本道として追わせてくれない。
場面が重なるたび、それまで欠けていた会話の前提や人物同士の事情が少しずつ補われていく。何気なかった言葉に別の重さが加わり、単純に見えた行動も違った意味へ変わってしまう。
連続毒殺、過去の死傷事件、小石探偵事務所が受けていた色恋案件。当初は互いに距離のある出来事として現れるが、ページを進めるほど関係が近づき、先に見た場面まで新しい意味を持ち始める。
すでに読んだ会話を、あとから得た情報でもう一度頭の中で組み直す感覚も独特だ。人物の沈黙や視線に意味を読み取った直後、別の事情が加わることで、その理解まで崩される。
知っていると思った場面ほど危うい。自分が欠けた前提を無意識に補っていた事実まで露出し、物語の順番自体が情報の受け取り方を揺らしてくるのだ。
どこまで書けば初見の驚きを守れるのか迷う作品でもある。だからこそ、事前に知るのは「語られる順番に工夫がある」程度で十分だろう。その先は実際にページをめくり、自分で違和感の正体を確かめるほうが楽しい。
赤い矢印が見えても、人の心までは見えない
小石の赤い矢印も、今回あらためて面白い働きをする。
恋愛感情の向きが目で分かるなら、人間関係を調べるうえでは圧倒的に有利だ。口では否定できても、矢印までは隠せない。
しかし小石が見られるのは、あくまで誰から誰へ好意が向いているか。その感情がどれほど深いのか、何を望んでいるのか、そこへ嫉妬や執着が混ざっているのかまでは分からない。ここに、この能力の面白さがある。
恋心が見える世界なのに、人間の内側まで透明にはならない。好意を持っているからこそ嘘をつく人もいれば、相手を守ろうとして判断を誤る人もいる。赤い矢印は事実の一部を教えてくれるが、人物の心全体まで説明してはくれないのだ。
そこで蓮杖の存在が生きる。少女漫画を大量に読んできた彼は、人の感情が単純な一直線で片づかないことをよく知っている。小石が目に見える事実から考え、蓮杖が言葉や態度の裏側を拾う。この二人の役割分担があるから、特殊能力を使った捜査が万能になりすぎない。
願依と烏丸の登場も、人間関係の幅を広げた。家族の立場から見る小石と、探偵事務所で働く小石では、当然ながら見え方も異なる。前作まで知っていた人物像に新しい面が足され、シリーズ世界にも奥行きが出た。
そして福岡の街が、その人間関係をしっかり現実へつなぎ止める。西新から天神へ動く距離、繁華街での尾行、人の流れを利用した張り込み。
赤い矢印は非現実的なのに、調査自体は足を使う地道な仕事だ。この組み合わせが、小石シリーズの独特な手触りになっている。
題名の「戻らない」が、だんだん気になってくる
読み進めていると、やはり『探偵小石は戻らない』の「戻らない」が気になってくる。
事件の事情が少しずつ明かされ、人間関係の背景まで見えてくるほど、過去に起きた出来事の重さも増していく。一度知った事実は消せず、誰かと交わした言葉も、経験してしまった傷もなかったことにはできない。
小石たちの周囲でも、前作からさまざまな出来事が積み重なっている。同じ西新の事務所で働き、同じように依頼を受けていても、そこにいる二人まで以前と同じ状態には戻れない。
森バジル自身、前作を一冊で完結するつもりで書き、続編の着手には大きな苦労があったと明かしている。第2弾で何を描くべきか悩み抜いた末、行き着いた答えはとても素朴だった。
劇的な物語のあとにも、人物たちの生活は続く。
だから同じ事務所へ帰ってきても、同じ場所に立つだけでは済ませない。色恋調査、赤い矢印、福岡の街、小石と蓮杖を引き継ぎながら、前作とはまるで違う手順で彼らの現在を見せてきたのである。
題名に重なるのは、知ってしまった過去を抱えたまま現在を選び直す感覚だ。小石が何をしたのか、なぜ毒殺事件の現場にいたのか。その答えへ近づくほど、事件だけでなく小石自身の見え方まで変わっていく。
物語の順番には大胆な工夫がある。けれど、その具体的な形は知らずに読んだほうがいい。
最初に覚えた違和感が少しずつ別の意味へ変わり、やがて題名の「戻らない」と重なる。
その瞬間まで取っておきたい続編である。
悠木四季この『探偵小石は戻らない』を読む前に、前作の『探偵小石は恋しない』を読んでおくことを強くおすすめする。この順番を守らないと面白さがまるで変わってしまうのだ。


