グアダルーペ・ネッテル『花びらとその他の不穏な物語』- 怪物は、他人に見せない場所に住んでいる【読書日記】

垂れたまぶた、抜き取った毛髪、便器に漂う匂い、ブラインド越しの覗き見。
『花びらとその他の不穏な物語』が見つめるのは、人が他人の目から隠したがるものばかりだ。
2008年にスペイン語圏で刊行され、日本では2022年に宇野和美訳で現代書館から紹介された短編集である。
舞台はパリ、東京、カリブ海の島、ヨーロッパの都市へ移り、それぞれの主人公が、人には説明しにくい執着や習慣を抱えて暮らしている。恐ろしい大事件なんて起こらない。それでも、他人の身体や生活へ向けられる視線が少しずつ境界を越え、日常の手触りまで落ち着かなくさせる。
ネッテル自身は生来の視覚障害を抱え、幼少期には外見を理由に嘲笑も受けた。そんな経験は、本書に登場する身体の非対称や、社会から矯正を求められる特徴へのまなざしと無縁ではないだろう。
整っていること、健康であること、周囲と同じであること。それらを当然の基準として置かず、そこから外れた部分にこそ、その人固有の輪郭を見ようとする。
六つの物語は、この視線から始まるのである。
他人なら隠したいものを、彼らは手放さない
巻頭の『眼瞼下垂』では、形成外科へ通う患者の目元を撮影する写真館助手が語り手となる。
彼が惹かれるのは、手術によって左右を整えられた顔ではなく、まぶたが垂れたままの不均衡な表情だ。ある若い女性の目元に心を奪われたことで、医療が治療の対象と判断するものと、個人が美しいと感じるものの間に亀裂が生まれる。
『ブラインド越しに』の女性は、暗い部屋から向かいの住人を観察して暮らしている。相手へ近づくことも、生活へ入り込むことも望まない。窓とブラインドを隔てた位置にいるからこそ保てる親密さを、彼女は大切にしている。接触しないことが関係を壊さない条件になる、その距離には切実さがある。
東京を舞台にした『盆栽』では、夫婦関係の息苦しさが植物の生態へ置き換えられる。妻は周囲へ蔓を伸ばす植物、自分は乾いた土地で内部の水分を守るサボテン。
性格の不一致を感情論だけで片づけず、そもそも生存条件が違う生物同士のように捉える視点が冷たい。努力すれば分かり合える、話し合えば近づける。そんな希望を簡単には置かないところもネッテルらしい。
後半の三篇では、身体の感覚がさらに生々しくなる。『桟橋の向こう側』は、成長していく自分の肉体を嫌う少女と、死の気配をまとった同年代の少女との交流を描く。
『花びら』の青年は、人並み外れた嗅覚で女子トイレに残された痕跡を追い、見知らぬ女性の身体状態まで読み取ってしまう。『ベゾアール石』では、自分の毛髪を抜き、毛根を口へ運ぶ女性が、別の強迫的な癖を持つ男性と出会う。
題材だけなら異様なのに、語り口は平然としている。その落差が、こちらの判断基準までぐらつかせるのである。
正常へ戻すことが、本当に救いなのか
本書を貫くのは、社会が決めた正常への不信だ。
『眼瞼下垂』では、形成外科が患者のまぶたを整える。医学的には治療であり、多くの人にとって歓迎すべき変化だろう。しかし語り手には、それが個性を削り取る行為に見える。
垂れた数ミリの皮膚を欠陥として扱うのか、その人だけの美として眺めるのか。立つ位置が変われば、同じ身体でも意味はまるで違ってくる。
『ベゾアール石』の抜毛や、『花びら』の排泄痕跡への執着も同じ方向を向く。世間の側から眺めれば、不潔、病的、理解不能と分類される行為である。けれど本人にとっては、自分を保つための儀式であり、他人との距離を測る方法でもある。ネッテルは彼らを診断名だけで閉じ込めず、なぜそこに安堵や快感を感じるのか、その感覚へ近づいてゆく。
さらに、視覚だけが人間を理解する道具として優先されない点も大きい。匂い、触覚、毛根を口へ含んだ感触、ブラインドの隙間から届くわずかな光。
普段は脇へ追いやられる感覚が前面へ出て、整った顔や清潔な部屋といった表面的な情報の価値が下がる。見た目から判断できない人間の内部へ、別の感覚器官から入り込むような六篇だ。
そのため、登場人物たちの行動は変人の一言で片づけられない。最初は距離を取りたくなるのに、数ページ進むと、その癖が本人に必要な理由まで見えてしまうのだ。
理解を拒みたい気持ちと、どこか分かってしまう感覚が同居し、そこに独特の居心地の悪さが生まれるのである。
誰にも見せない部分で、人はつながろうとする
六篇を通して浮かぶのは、人が他人へ近づくために選ぶ距離と方法である。
『ブラインド越しに』の女性には窓越しの隔たりが必要で、『盆栽』のオカダには一人でいられる領域が欠かせない。『桟橋の向こう側』の少女たちは、言葉を重ねる代わりに身体の気配を分け合う。『ベゾアール石』の男女も、互いの癖を消そうとはせず、抱えたまま相手のそばへ寄る。
ネッテルが描く親密さには、覗き見、嗅覚への執着、抜毛、身体への嫌悪まで混ざる。通常なら人前から隠す部分が、ここでは他人へ伸ばす細い糸となる。社会へ合わせるため削り取ってきた部分こそ、誰かとつながる入口へ変わってしまう。この逆説が六篇に共通している。
巻頭に置かれた、不完全な世界に生きる不完全な人間と、怪物の美しさをめぐる二つの言葉も、最後まで読む頃には違った響きを持つ。人間は誰でも、他人には見せたくない癖や欲望、身体の傷を抱えている。
それを全部矯正し、均一な形へ戻せば幸福になれるのか。ネッテルの人物たちは、そんな常識の外側で、自分なりの暮らし方と他者への接近法を探している。
まぶたの数ミリの垂れ、便器に残った匂い、指先についた毛根、窓を隔てた向かいの部屋。
普段なら目をそらす細部ばかりが、この短編集では人間の輪郭を照らす手がかりになる。
六つの物語を抜けた先では、きれいに整えられた顔ではなく、隠しきれない欠けや癖のほうへ視線が向いている。
ネッテルがこちらへ手渡すのは、そんな少し居心地の悪い、新しいまなざしなのである。
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1.『赤い魚の夫婦』
妊娠、家族の崩壊、不倫、文化的ルーツへの違和感。そんな人間の不安定な瞬間に、闘魚ベタ、ゴキブリ、猫、菌類、蛇といった生き物が入り込んでくる5編の短編集。
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2.『一人娘』
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