ミステリ好きとして長く本を読んでいると、この作家はちょっと普通ではない(もちろん良い意味で)と感じる瞬間に何度か出会う。
早坂吝(はやさか やぶさか)という作家は、私にとってまさにそのタイプである。
デビュー作『○○○○○○○○殺人事件』を読んだときもそうだった。タイトルそのものが仕掛けになっているという離れ業に、思わず唖然とした記憶がある。この人はミステリのルールを熟知しているだけでなく、そのルールを壊すことにも躊躇がないタイプだ、と。
よく早坂作品は「一流シェフが作るジャンクフード」と言われる。この言葉は妙に的確だと思う。使っている材料はむちゃくちゃなのに、料理としては完璧に成立している。むしろ、むちゃくちゃだからこそ成立するような精密な設計がある。
今回の『しおかぜ市一家殺害事件あるいは迷宮牢の殺人』は、そんな早坂ミステリの進化形と言っていい作品だった。
タイトルからして長い。しかも途中に「あるいは」が入る。この接続詞が意味深であることは、ミステリ好きならだいたい察しがつく。
そして実際、この作品はその「あるいは」がすべての鍵になっているのだ。
二つの物語が並んでいる奇妙な構造
本作の面白さは、まったく雰囲気の違う二つの物語が並行して進むことにある。
ひとつはタイトルにもある『しおかぜ市一家殺害事件』。
もうひとつが『迷宮牢の殺人』。
普通のミステリなら、どちらか一方だけで十分に一本の作品になる設定だ。ところがこの小説は、その二つを並べてしまう。
まず「しおかぜ市」のパートは、かなり陰鬱だ。主人公の餓田という男が、社会に対する鬱屈とした感情を抱えながら生きている。彼は非正規雇用で、家庭環境も最悪。
いわゆる毒親によって高学歴を強要されながら、結局その期待に応えられなかった人間だ。彼の唯一の楽しみはミステリ小説を読むことだったが、その内面には嫉妬と憎悪が積もり続けている。
自分の周囲を囲んでいるすべての小説が成功者に見えた。自分を嘲笑う声が聞こえた。
こうなってはもはや純粋な気持ちで楽しむことはできない。
『しおかぜ市一家殺害事件』25ページより引用
このパートでは、いわゆる「ぶつかりおじさん」が重要な役割を持つ。街中でわざと人に体当たりする中年男性。ニュースなどでもときどき話題になる、あの迷惑行為である。餓田はその男に強烈な嫌悪を抱き、やがて凄惨な事件へと傾いていく。
ここまで読むと、かなり重い社会派クライムノベルのように思える。イヤミスの方向に近い空気だ。ところがもう一つの物語、『迷宮牢の殺人』はまったく違う。
「といっても現代日本のミーノータウロスが喰らうのは人肉ではない。諸君らが私に献上するのは娯楽だ。古い言い方を借りれば『今日は皆さんに、ちょっと殺し合いをしてもらいます』というわけだ。七人で殺し合い、生き残った一人のみがこの迷宮牢から解放される」
死宮が周囲を見回すと、他の六人は恐怖や怒り、絶望といった表情ではなく、むしろ腑抜けたような顔をしていた。垂れ流される陳腐な言葉に現実感を喪失しているようだ。
『迷宮牢の殺人1』105ページより引用
こちらは完全にゲーム的な設定で、七人の男女が謎の施設に閉じ込められ、姿を見せないゲームマスターからデスゲームを命じられる。いわゆるクローズド・サークルである。しかも参加者の中には名探偵がいる。
この時点で頭が混乱してくる。この二つの話はどうやって繋がるのか、と。
その違和感こそが、この小説のエンジンになっている。
名探偵という存在の危うさ
死宮は軽く溜め息をつくと、こう言った。
「確かに私は分かっています。名探偵ですからね。しかし他人を馬鹿呼ばわりするならその証明をしなければならない。説明は貴方が行うべきです」
『迷宮牢の殺人2』111ページより引用
「迷宮牢」のパートに登場する名探偵が、死宮遊歩(しのみやゆうほ)という女性だ。このキャラクターがまた面白い。名探偵というと、普通は冷静で公平な人物を想像するが、死宮遊歩はかなり独善的である。
彼女は、自分が探偵であることを当然の事実として振る舞う。つまり、自分は犯人ではないと最初から決めている。言い換えれば、残りの六人はすべて犯人候補だという前提になる。この発想は、冷静に考えるとかなり乱暴だ。しかしミステリというジャンルでは、これが普通だったりもする。
名探偵は常に「自分は探偵である」という立場から推理を始める。その前提自体が疑われることは、あまりない。早坂吝はそこを突いてくる。
死宮遊歩の推理は鋭いが、その鋭さは同時に暴力的でもある。彼女の言葉は、他の参加者の疑心暗鬼をどんどん煽っていく。
普通のデスゲームなら、参加者は生き残るために戦う。しかしここでは違う。死宮遊歩の存在によって、ゲームそのものが「犯人当て」になってしまう。
つまりこれは、デスゲームでありながら、本格ミステリでもあるのだ。
レイヤーで構築されたトリック
この作品を読みながら、ある比喩を思い出した。「Photoshopのレイヤー」である。早坂ミステリの構造は、まさにこれだと思う。
普通の本格ミステリは、一枚のキャンバスに描かれた騙し絵のようなものだ。伏線は同じ画面の中にあり、あとから見返すと「ここにあったのか」と気づく。しかし早坂作品は違う。複数のレイヤーが重なっている。それぞれ別の物語、別の文脈で情報が提示される。
読んでいるときは、それが同じ絵の一部だと気づかない。ところが最後にレイヤーが結合すると、すべてが一つの図像になる。しかも厄介なことに、設定自体はとても「ありがち」なのだ。
デスゲーム。クローズド・サークル。迷宮。未解決事件。どれもミステリでは見慣れた要素である。だから読んでいる側は、ついジャンルの型にはめて理解してしまう。そして、その思い込みこそが罠になる。
読み終えたあと、それはズルい、と思った。しかし同時に、きちんと伏線は置かれている。理屈としては成立している。このバランス感覚こそ、早坂吝という作家の恐ろしさだと思う。
迷宮は一本道である
「迷宮と、迷路だあ? ちょっと言い回しが違うだけじゃねぇのか」
「いいえ、本来この二つの言葉は正反対の意味を持っているのです。元々、迷宮──ラビリンスという概念は次のようなものでした。交わらない一本道であり、分岐はない。通路は渦を巻くように中心の側を繰り返し通りながら、最後には必ずそこに到達する。迷宮内の領域はすべて通路で埋め尽くされており、中心に向かうだけで内部空間を余さず通ることになる。中心から脱出を望むなら、元来た道を引き返す他ない」
『迷宮牢の殺人1』90ページより引用
本作のキーワードの一つが「迷宮」である。作中では、「迷路」と「迷宮」の違いが語られる。迷路は分岐があり、どこへ行くか迷う構造だ。一方、古典的な迷宮は一本道だという。
遠回りはする。何度も同じ場所を通るように感じる。だが、必ず中心へ到達する。この説明を読んだとき、この小説そのものじゃないかと思った。
物語はぐるぐる回る。二つの事件はなかなか繋がらない。視点もジャンルもバラバラだ。しかし最後には、必ず一つの地点に辿り着く。そこにある結論は、奇妙なほど必然的で、そして少し悪趣味でもある。
早坂吝という作家は、ミステリというジャンルを愛している。それは間違いない。だが同時に、ミステリの読者をからかうことも大好きなのだろう。しかもかなり手の込んだ方法で。
読み終えたあと、少しニヤけてしまう。まんまと騙された、という感覚が気持ちよかったからだ。ミステリというジャンルは、まだまだこんな遊び方ができる。そんなことを改めて思い出させてくれる一冊だった。
もしこの本を読むならば、できれば余計な情報は入れないほうがいい。
表紙を開いて、そのまま迷宮に入ればいい。
安心してほしい。この迷宮は一本道だ。
ただし、その道のりはかなり意地悪で、そしてとびきり楽しい。
【おすすめ度:(4.3)】















