山白朝子『スコッパーの女』- 創作という名の呪い、あるいは発掘という名の加害、あるいは小説家という名の怪異について【読書日記】

山白朝子の新作が読める。その事実だけでうれしいはずなのに、同時に少し怖くもなる。
しかも今回は『スコッパーの女』である。題名だけでもう、何か掘り返してはいけないものを掘り返しそうな気配が濃い。
そして実際そうだった。かなり怖い。だが、本作の怖さは単に怪異が出てきてびっくりする、みたいな種類のものではない。
もっとねちっとしていて、もっと後に残る。小説を書く人間、小説を読む人間、その両方の奥にあるあまり見たくないものを、じわじわではなく、ごりごり掘ってくる感じの怖さである。
まず、山白朝子という名義がかなり好きだ。乙一名義の作品には、トリッキーさとか鮮やかな構成とか、そういう切れ味のよさがある。一方で山白朝子には、もっと湿ったもの、古びた怪談や土地に染みついた気配みたいなものがある。
土、死者、因縁、旅先でふいに踏み抜く異界。そういうものが、説教くさくもなく、大げさにもならず、すっと立ち上がってくる。だから今回も、最初はそういう系統の恐怖を想像していた。
ところが『スコッパーの女』は、その感触を残しつつ、舞台をぐっと現代の、それもかなり生々しい場所に持ってくる。小説家、編集、講師、投稿サイト、創作の現場。要するに、怪異が遠くの山の向こうにいるのではなく、物語が生まれるすぐそばにいるのである。この近さが実に嫌で、実にいい。
読んでいて何度も思ったのは、これは小説家を題材にしたホラーというより、小説家という生き物そのものを怪異として見ている短編集なのではないか、ということだった。
本作に出てくる書き手たちは、もちろん人間ではあるのだが、どこか根本のところで普通の社会生活と噛み合っていない。
何かを見ている角度が違う。執着の向きがおかしい。気にする場所がずれている。
そういう人たちが、たまたま小説を書いているのではなく、その異様さゆえに小説を書いてしまっているように見える。
小説家という怪異を、山白朝子はかなり冷たく見ている
収録作はいずれも「書く人」の異常さを少しずつ違う方向から照らしているのだが、その見せ方がうまい。
いや、うまいというと少し軽いのだが、読ませ方がほんとうにいやらしい。露悪的に騒がず、わりと淡々と話を進めるのに、気づくとかなり変なところまで連れていかれている。
たとえば、あらゆるものの終わりまでの距離を「深さ」として見てしまう作家の話。設定だけ抜き出すと少し不思議系にも見えるのだが、実際に読んでいるとかなりきつい。
終わりが見えるということは、未来がわかって便利、という話ではまったくない。むしろ、自分も他人も、人気も寿命も価値も、全部がいつか尽きるものとして先に見えてしまうということだ。
書く人間は、結末を先に見てしまうからこそ書ける、みたいな言い方もできるのだろうが、本作ではそれが才能というより、もう呪いのように描かれている。創作ってそんなに明るいものではないよな、とあらためて思わされる。
小説講師の話もかなり好きだった。というか、好きというには嫌な感じが強すぎるのだが、あの嫌さがいい。師弟ものとか、才能を育てる話とか、そういう美談っぽくなりそうな枠組みの中に、嫉妬とか支配欲とか、自分の衰えへの怯えとか、かなり濁った感情がどろどろ入っている。
表向きは教育でも、実際にそこで起きているのはもっと生々しい何かである。私はミステリを読んでいて、人間関係の表面がぺりっと剥がれて、その下から本音や欲望が出てくる瞬間がかなり好きなのだが、本作はそこをホラーとしてやってくる。いやなものを見せるのがうまい。
さらに、虚構が現実ににじみ出してくるタイプの話もある。こういう設定はメタっぽい遊びに寄りやすいのだが、山白朝子はそちらにはあまり行かない。むしろ、想像力ってそんなにきれいなものではないし、下手をするとそのまま災厄になるよね、という方向へ話を持っていく。
書いたものが現実になる、だったら楽しそうにも思えるのに、全然そうならない。書くことは祝福ではなく、たいてい面倒で危険なものとして描かれる。この感じはかなり一貫している。
怖いのは怪異より、書き手の偏り方そのものかもしれない
本書の中でとくに忘れがたいのは『青軸卿』である。青軸キーボードの打鍵音に取り憑かれた作家の話、とだけ言うとちょっと変な笑い話みたいにも聞こえるのだが、読んでみるとぜんぜんそんな軽さでは済まない。むしろ、かなり本気で気味が悪い。
この作品のおもしろさは、執筆という本来かなり内面的で孤独な行為が、徹底して物理的な暴力として描かれているところにある。打鍵音が快楽であり、美であり、儀式であり、その偏愛がついには周囲を侵食していく。本人にとっては至高のこだわりでも、他人から見ればただの迷惑であり、脅威ですらある。この食い違いがものすごく怖い。
私はミステリの中でも、人物の偏執がロジックの核になっている作品が好きなのだが、この話もその意味ではたまらない。しかもこの偏執には、どこかわかってしまう成分があるのが厄介だ。
たとえば書く人間には、どうでもよさそうな一点に異常なまでにこだわる瞬間がある。言い回しでも、リズムでも、道具でも、作業環境でもいい。そのこだわりが作品を支えることもあるし、ただの変な癖で終わることもある。
だが本作では、そのこだわりが怪異一歩手前、いやもう半分怪異そのものとして立ち上がる。そこがほんとうに嫌で、ほんとうにおもしろい。
本書全体を通して感じるのは、創作というものがぜんぜん清潔でも崇高でもない、という視線である。もちろん、創作には美しい面もあるし、救いになる面もある。だが山白朝子は今回、そっちを前に出さない。
むしろ、書くことは執着であり、偏愛であり、場合によっては周囲を巻き込む厄介な営みである、という側面をかなりしつこく見せてくる。小説家なんてだいたい変な人である、と雑に言ってしまうことはできる。
だが本作は、その雑な一言をちゃんとホラーとして成立させてしまっているのがすごい。
表題作がいちばん痛いのは、読んでいる側まで刺してくるからだ


絵:悠木四季
そしてやはり表題作『スコッパーの女』が強い。かなり強い。ここでついに視線は書き手だけでなく、読む側、探す側、発掘する側にも向く。
ネット小説文化の中で「スコッパー」といえば、埋もれた良作を見つける熱心な読み手のことだ。普通に考えれば、かなり善意寄りの存在である。宝探しのような楽しさもあるし、知られていない才能を見つける喜びもある。
だが山白朝子は、この言葉に土を掘る感じ、埋まっていたものを掘り返す感じ、死体を発見してしまう感じを重ねてくる。
これがかなり嫌らしい。つまり、いい作品を見つけたい、もっとすごいものを読みたい、という欲望自体が、どこかですでに加害的なのではないか、という話になってくるからだ。
他人のテキストの奥へ潜って、その人の核みたいなものを見たい、暴きたい、そういう気持ちはほんとうに無垢なのか。私はミステリ好きなので、つい構造を見たくなるし、作家の癖を見抜きたくなるし、どこで騙しているのかを探りたくなる。
だが表題作は、その「もっと奥へ行きたい」という読みの欲望そのものを、ぞっとするものとして見せてくる。ここが本作のいちばんうまいところ、いや、いちばん意地が悪いところかもしれない。作家だけを化け物として眺めて終わらせないのである。
異様なものを書く側も怖い。だが、その異様さを面白がって、もっと見せろと手を伸ばす側も、そこまで無関係ではない。本作はそこをきっちり巻き込んでくる。だから読み終わったあと、単に怖かった、面白かった、では済まない。自分もそっち側に少し足を踏み入れていたのではないか、という妙な後ろめたさが残る。
山白朝子という名義は、もともと残酷さと美しさの距離が近い書き手だったと思う。だが『スコッパーの女』では、そこに創作そのものへの冷たい自己言及が加わった。
その結果、怪談であり、出版奇譚であり、創作論でもある、かなり妙な一冊になっている。怖い話としてしっかりおもしろいのに、読み終えると小説を書くことも読むことも、少しだけ前と同じ顔では見られなくなる。この感触がとてもいい。
なんだか、世の中の作家を見る目が少し変わってしまった気がする。平然とした顔で社会の中に立ちながら、頭のどこかでずっと変な穴を掘っている人たちなのではないか、と思えてしまったのである。
そしてたぶん、物語を好きでたまらない側の人もまた、その穴の縁に立っている。
『スコッパーの女』は、その事実をいやに親切な顔で教えてくる。そこがいちばん恐ろしかった。



















