2025年4月、『ラミア虐殺』が光文社文庫から復刊された。
このニュースを見て、「まさか」と思った人も少なくないはずだ。
だってこの作品、初版は2003年。20年以上ものあいだ、古本屋とネットオークションの世界で〈伝説の獣〉として語り継がれてきたのだから。
だけどただの復刊じゃなかった。グッズ付き、イベント付き、まるで「ラミア復活祭」とでも言うべき盛り上がり。みんな、この怪物を待っていたのだ。自分もそのひとりだった。
そもそも「ラミア」って何だ? と調べてみると、ギリシャ神話の怪物で、もともとは美しいリビアの女王だったが、ヘラの嫉妬により狂気に堕ち、子どもを喰らう半人半蛇の化け物に変貌したらしい。つまり、もともと「悲劇の化身」なのだ。
この物語が、そんなラミアの名を冠する意味とは? 本当にただの本格ミステリなのか?
そんな素朴な疑問を胸に本を開いた結果、思い知ることになる。
この作品は、ジャンルの境界線なんてものをぐちゃぐちゃに踏みつけて、読者の頭をぐりんぐりんにかき混ぜてくる、異形の怪物だったのだ。
山荘と雪と殺人と怪物

さて、肝心の物語。これがまた、一見すると古典的なミステリのお約束から始まる。
話の舞台は、孤立した雪山の山荘。私立探偵が謎の美少女からボディガードを頼まれて、吹雪の中の山荘に同行する。
電話は不通、外界からは完全に遮断。……はい、出ました、クローズド・サークル。本格ミステリ好きなら、ここでまずガッツポーズだ。
でも、ここからがおかしい。いや、おかしいっていうのも語弊があるけど……変なのだ。
出てくる人物たちは、いわゆる異能力者っぽい人たち。殺人事件が起きても、協力して謎を解こうなんて気配はまるでない。それどころか、「全部殺せば、犯人も死ぬだろ」的な発想で動き出す。こうなると、もはや推理どころじゃない。なんというか、人間性が根こそぎ剥がれていくのが見える。
さらに意味不明なのは、途中から物語がちょいちょい〈外〉へ視点を移すことだ。テレビのニュースで「世界各地で謎の怪物(蛇とか翼人とか)が目撃された」みたいな話が挟まれてくる。最初は「?」だけど、次第に「え、これ本当にこの世の話なのか?」って不安になってくる。
山荘という密室空間の中で起きてるはずの殺人が、なんだか宇宙的なスケールの何かと繋がっているような、ぞわりとした違和感。これは、明らかにラヴクラフト的というか、いわゆる「コズミック・ホラー」の感触だ。
で、決定的なのは、登場人物たちが「謎を解こう」としないことだ。普通のミステリなら、探偵役がいて、証拠を集めて、推理を披露して……という流れがある。
でも『ラミア虐殺』は、「そもそも犯人を見つけるなんて無理だろ?」みたいな空気が支配している。
しかも、それが自然に感じられるように書かれているのが恐ろしい。
本格ミステリとグロテスクな美の危険な同居
そして驚くのが、作者・飛鳥部勝則(あすかべ かつのり)という人の正体だ。
経歴だけ見ると、新潟の高校で美術教師をやりながら、本格ミステリを書いて賞まで獲っている異色の作家。その肩書きだけで「これはただの推理小説じゃなさそうだな」とわかる。
改めて『ラミア虐殺』を読んで感じたのは、これがただ「論理で解かれる謎」の物語じゃないということだ。もっとこう、視覚的というか、絵画的というか、全体が見えてくるタイプの小説なのだ。
論理でがっちり組まれた構造の中に、ぐちゃぐちゃで妖艶で、ちょっと引くくらいグロテスクな「美」がぶち込まれている。つまり、額縁はしっかりしてるけど、その中の絵はとんでもなく狂ってる。その狂いこそが、画家でもある飛鳥部勝則の真骨頂なんだろう。
物語の中心には「殺人」がある。だけどその殺人さえも、論理でスッキリ解決されるような雰囲気じゃない。むしろ、どこか粘着質で、泥の中に沈んでいくような気配がある。
この小説、なにかこう……気高い顔をしながら、ずっとこちらをあざ笑ってるようなところがある。
そう、こちらが「これはこういうジャンルだ」と安心した瞬間、ラミアは牙を剥くのだ。
ラミアが喰らうのは、読者の頭そのもの
この物語のタイトルにある「ラミア」は、実在の登場人物じゃない。だけど、読み終えてみると、「ラミア」というのは、まさにこの物語そのものだったんじゃないかと思えてくる。
上半身は美しい女性、下半身は蛇。つまり、「うわ、これ本格っぽくて面白そう!」と思って読み始めると、どんどん蛇の身体に呑み込まれていく。そう、ミステリの皮を被ったホラー。理性の仮面をつけた狂気。読者にとって一番怖いのは、そこなんだよ。
物語の途中で、「これはどこに連れて行かれるんだろう……」という不安と興奮がごちゃまぜになっていく。気づけば、ジャンルの外に放り出されていて、でもなぜか最後まで読まされてしまう。
ラミアは、読者の「ジャンル感覚」そのものを喰らいにくる怪物だったのだ。
クライマックスでは、論理と暴力、謎解きと破壊、知性と本能が全部混ざり合って爆発する。これは、もはやジャンルじゃない。感覚の洪水、認知のカタルシスだ。
この読書体験は、他の小説ではなかなか味わえない。「すごく面白かった」とか「名作だった」とか、そういう言葉じゃ形容できない。むしろ、「あれはなんだったんだ……」と呆然とする類の作品だ。
ちなみに、この作品は飛鳥部の別作品『黒と愛』(これも復刊してくれ!)と世界観を共有してるんじゃないか、とわたしは思っている。ということは、ラミアの世界は、まだまだ広がっているのかもしれない。
覚悟のないやつは、扉を開けるな
『ラミア虐殺』は、間違いなく読む人を選ぶ。
いわゆる正統派ミステリの文法で読み始めると、間違いなく裏切られる。だけど、その裏切りがあまりに強烈で、圧倒的で、虜になってしまう。
これは、推理小説を期待してはいけない。というか、小説であることすら怪しい。ジャンルの皮を被って、読む者に牙を突き立てる「物語そのものがラミア」なのだ。
論理的な読書体験をしたい人にはおすすめしない。
でも、ジャンルを壊された先に何があるのか、見てみたいという人には、これ以上ない贈り物だ。
覚悟して扉を開けるか。
それとも閉ざされたまま雪山を素通りするか。
選ぶのは、自分だ。