「人は人生の3分の1を眠って過ごす」なんてのはよく聞くけど、ブレイクはそこからもう一歩踏み込む。
「じゃあ、その間に人は何ができる?」と、ちょっと挑発的な質問を投げてくる。この時点で「この人ただのスリラー作家じゃないな」と思った。
で、本題だ。
アンナ・オギルヴィー。まだ若いのに、作家として注目されはじめたその矢先に、親友二人を刺殺した容疑で現場にいるところを発見される。しかも血のついたナイフを握って。ここまでは完全にクロっぽい。
ところが、その直後から彼女は深い眠りに落ち、なんと4年間、一度も目を覚まさないのだ。
しかも、この事件の唯一の目撃者=被疑者本人という完全に詰んだ状況だ。話を聞けないどころか、意識の世界に閉じこもったまま。そりゃメディアも飛びつく。すぐに「眠り姫事件」とか呼ばれ出して、ネットには真相究明ブロガーまで出てくる。悲劇が、あっという間に消費される物語になっていくのがなんとも生々しい。
そして彼女を目覚めさせようとするのがベン・プリンス博士。肩書きは「睡眠殺人の専門家」という、それだけで興味をそそるポジションだ。でも、この人はただの正義感の塊じゃない。元妻は事件の元主任捜査官だし、自分は不眠症に悩まされている。仕事と私情がごちゃ混ぜになりそうな危うさが、もう見ていてハラハラする。
物語は主にベン視点で進むけど、ところどころでアンナの日記や母親の証言、元妻の調書が差し込まれる。この構成がすごく効いてて、「やっと全体像が見えてきた!」と思った瞬間、次の章でそれが崩れる。
古典的な密室ミステリーを人の意識の中に置き換えたみたいで、「この密室、鍵穴すら見えないじゃないか…」と何度も頭を抱えた。
眠り続ける彼女は殺人犯なのか?

この小説の妙にリアルな感じは、「諦念症候群」という実在の症例をベースにしているからだ。
スウェーデンで報告されている症状で、強烈なストレスを受けた子どもが昏睡状態のようになり、何年も反応しないことがあるらしい。現実では、亡命を待つ難民の子どもに多いと言われている。
作中でアンナに適用されるのはまさにこれで、無言になり、刺激にも反応せず、経管栄養で命をつなぐ描写はかなり生々しい。こういうリアルな医療と心理の要素が絡むと、事件がただの「犯人当て」以上の意味を持ちはじめる。
さらに作者は、精神分析史の有名人「アンナ・O」を引っ張り出してくる。1880年代のウィーン、フロイトとブロイアーが診た女性で、ヒステリー研究の象徴的存在。だけど、この「成功した治療」には疑惑もあって、実際は治っていなかった可能性が高いらしい。
この歴史に潜むウソを踏まえて現代版のアンナ・Oを描くことで、「私たちは物語をどこまで信じられるのか?」という視点が、物語全体を覆ってくる。
読み進めるうちに、事件解決のストーリーでありながら、語りの信頼性を疑う話にも見えてくる。現実の症例も、フィクションの中の証言も、結局は誰かの視点を通した編集済みの物語だということに気づかされるのだ。
クリスティーの影と現代スリラー
マシュー・ブレイクは筋金入りのアガサ・クリスティー好きだそうで、その影響は物語のあちこちにしっかり刻まれている。
読んでいると、「あ、これは絶対にわざとクリスティー的な仕掛けをしてるな」と思う瞬間が何度もある。例えば、登場人物が何気なく口にした一言が、後半で重大な意味を持つようになったり、早い段階で提示された事実が、後になってまったく別の解釈に塗り替えられたり。まさにあの騙しの美学だ。
何度も読者の予想を裏切って、最後に「そういうことか!」と腑に落ちさせる。この、だまし討ちの心地よさこそ、古典ミステリー好きにはたまらない。
しかも、それが唐突な種明かしではなく、振り返ればきちんと伏線が張られていたとわかる構造になっているのがニクい。読み返したときに「あれもヒントだったのか」と気づく瞬間がいくつもあるのは、完全にクリスティーのDNAだ。
でも、本作は単なる古典回帰では終わらない。現代スリラーらしく、全員が自分にとっての真実を語り、そのどれもがもっともらしく響く。アンナは本当に眠っているのか、それとも演技なのか。ベンは本当に彼女を救いたいのか、それとも自分の過去や名声のために動いているのか。
事件そのものの輪郭すら、何度も揺さぶられる。ひとつの証言を信じた瞬間に別の証言がそれを打ち消す、その繰り返しで、こちらの頭の中も常にぐらぐらだ。
こういう構造になると、読者はただ事件を解くだけじゃなく、誰を信じるか、どの物語を受け入れるかという心理戦にも巻き込まれる。真相にたどり着くより先に、「この語り手は信じていいのか?」という疑いが、ずっとページをめくる指先をせき立てる。
このあたりの作り込みは、読者を物理的に本から離れさせない吸引力がある。ベッドサイドで読み始めたら最後、気づけば夜更けどころか明け方になってしまうタイプのやつだ。
無意識と責任のはざまで
物語のゴール地点に立ったとき、結局突きつけられていたのは「アンナを起こすべきか」という問いだった。
眠っている間にやったことは、その人の責任になるのか。もし夢遊病の最中に人を傷つけたら、それは罪になるのか。法律、倫理、心理学…それぞれが違う答えを持っていて、しかもどれも一理あるから厄介だ。
読み終えて心に残ったのは、事件の真相そのものよりも、「意識が切れているとき、自分はまだ自分なのか?」という妙な感覚だ。これはスリラーの皮をかぶった哲学的な挑発だ。だから最後のページを閉じても、誰がやったかだけじゃなく、それをどう受け止めるかが頭の中でぐるぐる回り続ける。
日本語版は池田真紀子の翻訳で、リズムが軽やかで読みやすい。それでいて原作のちょっとざらついたニュアンスもちゃんと残っているのがありがたい。さらに巻末には三橋曉の解説。これがまた深掘りの方向が絶妙で、本編を読み終えてから開くと、事件の見え方がもう一段階変わる。
テンポのいいエンタメとして一気に読ませながら、気づけば深いテーマに足首をつかまれている。そんな二重構造を体験できる、なかなか手強くて満足感のある一冊だった。