800ページの吸血鬼に挑む。笠井潔『吸血鬼と精神分析』というミステリの皮をかぶった殴り合い

笠井潔(かさい きよし)の『吸血鬼と精神分析』は、小説というより思想書だ。
もちろんミステリの体裁を取ってるし、殺人事件も起こる。でも、そこにあるのはただの謎解きではなく、著者自身の人生と思想をまるごとぶつけた知的格闘の記録みたいなものだ。
笠井潔は1948年生まれ。青春期は60年代後半から70年代初頭という、日本が学生運動と新左翼運動に揺れていた時代。彼はど真ん中で活動していた活動家だった。で、あの有名な連合赤軍事件。仲間内でリンチ殺人が起き、革命運動が自壊していったあの瞬間を、彼は内側から見てしまった人だ。
そこで彼が受けた衝撃は相当なもので、政治運動から身を引くことになった。でもそこで終わりではなく、むしろ「何が間違っていたのか?」を問い続けるために、小説という新しい舞台に移動したのだ。
デビュー作『バイバイ、エンジェル』には、連合赤軍をモデルにした人物が登場する。つまり、最初から彼の小説は政治体験の延長線上にあった。政治活動の代償じゃなくて、思想を続けるための別ルート。
だから彼のミステリは、ただの娯楽作品じゃない。政治と哲学と文学をミックスした、かなり変態的な(良い意味で)ジャンルになっている。
しかも彼はパリ留学を経験していて、フランス現代思想──デリダ、ラカン、フーコーみたいな錚々たる面々──の影響をモロに受けている。その知識をぜんぶ小説に投げ入れる。
普通なら評論書を書くところを、彼は「探偵小説」に落とし込んだ。
だから彼の作品を読むと、これは思想書のコスプレをしたミステリなのだと納得できる。
哲学で事件を解く探偵・矢吹駆


さて、問題の『吸血鬼と精神分析』は、笠井潔のライフワーク「矢吹駆シリーズ」の第6弾だ。この矢吹駆って探偵がまたクセモノで、普通の探偵像からだいぶズレている。
ホームズやポワロは、証拠を集めて推理して「犯人はお前だ!」とやる。でも矢吹駆は違う。
彼は事件を現象としてまるごと受け止め、なぜこんな出来事がこんな形で現れたのか?を解き明かす。彼の推理法は「現象学的推理」と呼ばれていて、証拠から答えを引っ張るのではなく、事件全体を直観でつかみ、哲学的に説明していく。探偵小説というより、哲学ゼミの公開討論を読んでいる気分になることもしばしばだ。
ありがたいのは語り手がナディアというフランス人学生だということ。彼女の存在が物語に感情的な足場を与えてくれる。
難しい哲学議論も、ナディアが「それってどういうこと?」と突っ込むおかげで、こっちも置いてきぼりにならずに済む。彼女がいなかったら、たぶんほとんどの読者は最初の10ページでリタイアしてたと思う。
島田荘司の御手洗潔シリーズと並んで現代本格の柱とされるけれど、方向性はまるで違う。御手洗は科学で攻めるが、矢吹駆は哲学で攻める。ホームズが化学オタクなら、矢吹駆は哲学オタクというわけだ。
外の吸血鬼と内の分裂
物語は70年代のパリ。冒頭からインパクトが強すぎる。アパルトマンで亡命者が惨殺され、床には血で「DRAC」と書かれている。森からは血を抜かれた女性の死体。どこからどう見てもドラキュラ再来。ホラーとしても一級の入り口だ。
でも同時に、ナディアの心の問題がじっくり描かれる。彼女は過去の事件で心を病み、鏡を見ることができない。精神分析医のもとで治療を受けるのだけれど、この内面の探求が、外で起きる連続殺人と並行して描かれる。つまり「外部の吸血鬼」と「内部の自己喪失」がリンクしているのだ。
吸血鬼とは、生者でも死者でもない曖昧な存在だ。人間でもなく怪物でもない。その境界を壊す存在が「DRAC」という血文字で現れる。同時にナディアは自我の境界を維持できなくなっている。つまり吸血鬼は外にいる怪物でありつつ、人間の内なる分裂のメタファーでもある。
これは、ラカンの鏡像段階理論と直結している。自分を鏡で見て「私だ!」と確認できなくなったとき、自我は揺らぐ。ナディアが直面しているのはまさにそれだ。
だからこの小説は、外のゴシック・ホラーと内の精神分析的ホラーが二重構造で走っている。どっちも怖い。しかもどっちも切り離せない。この二重の恐怖が、作品にめちゃくちゃ深い奥行きを与えている。
読む格闘技。でも楽しい
正直に言って、この『吸血鬼と精神分析』は本気で読むのがしんどい。800ページ超だし、ラカンとか現象学とか、普段哲学書読まない人にはハードルが高すぎる、と思う。
でも、ここからが面白いところで、読んでいると突然ピースがはまる瞬間がある。そういうことか!と。これがめちゃくちゃ気持ちいい。
自分自身がセラピーを受けているみたいに、テキストに向き合ううちに自分の思考が揺さぶられるのだ。だから単に犯人当てのワクワクではなくて、「世界ってこう読めるのか!」という発見の快感がある。
おすすめできる人はかなり限られる。たとえば、ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』の濃さにハマった人。あるいは、マーク・Z・ダニエレフスキー『紙葉の家』の実験的な構造に惹かれた人。そういう「長くて難しいけれど、その中にしかない宝がある」本を楽しめる人には最高の一冊だ。
逆に「通勤の暇つぶしに軽く読める本はないかな」なんて層には絶対に向かない。この本は休みの日に机に座って、コーヒー淹れて、格闘する気持ちで挑む本だ。読むのは格闘技。でも、その格闘こそがこの作品の楽しみなのだ。
おわりに 吸血鬼はどこにいる?
改めてこの小説を読んで思うのは、吸血鬼は外にいないのではないか、ということだ。
あれは自分の中にいる分裂や欲望のメタファーなのだ。笠井潔は、怪物退治の物語を装いながら、人間の精神を真正面から解剖してみせる。
だからこの本を読むことは、怪奇スリラーを味わうこと以上に、自分の心と格闘する体験になる。読後にヘトヘトになるけれど、それは全力で思想と取っ組み合った証拠だ。正直しんどいけど、その分リターンは大きい。
そして最後に訪れる、やっぱりもう一回読んでみたいという感覚。
これが笠井潔の仕掛けた最高の罠だと思う。





















