ジャンルを越える傑作短編集。フィルポッツの『孔雀屋敷』という驚異の小部屋

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四季しおり
ただのミステリオタク
年間300冊くらい読書する人です。
特にミステリー小説が大好きです。

ミステリの女王、アガサ・クリスティー。

その名を聞いて、まず思い浮かぶのはポアロやマープル、あるいは『そして誰もいなくなった』や『オリエント急行の殺人』といった名作たちだ。

でも、そんなクリスティーにも教えを受けた相手がいたことを知っている人は意外と少ない。その人物こそ、この記事の主役であるイーデン・フィルポッツだ。

今でこそ名前を聞く機会は少ないが、彼はかつてイギリス文学界の名士であり、ミステリ界でも大きな影響力を持っていた作家だった。江戸川乱歩が『赤毛のレドメイン家』を「万華鏡のよう」と評したのは有名な話。乱歩やエラリー・クイーンが惚れ込んだ作家と聞けば、それだけで読んでみたくなるってもんだ。

けれど、時代が流れれば流行も変わる。フィルポッツのように、雰囲気や人間描写を大切にする作風は、「ロジック重視」「フェアプレイ原則」全盛の時代には異端扱いされがちだった。そうして徐々に評価が薄れ、忘れられていった作家なのだ。

そんな彼の短編を集めて、日本独自に再編集したのが今回の『孔雀屋敷』。東京創元社が本気で送り出したこのアンソロジーは、フィルポッツ再発見の第一歩として、まさにうってつけの一冊になっている。

目次

雰囲気と心理が主役のミステリ

フィルポッツの小説を読んでまず感じるのは、なんとも言えない空気感だ。舞台となるのはイングランド南西部、ダートムア。霧と岩と風が支配するこの荒野は、単なる背景ではない。人物たちの心理を映し出す鏡のように、物語の雰囲気を濃密に染め上げる。

そして彼が描くのは、単なる「誰が犯人か」というミステリではない。彼の興味はもっと深いところ、つまり「なぜそうなったのか」「その奥には何があったのか」という部分だ。

人間の心の複雑さ、矛盾、感情の揺れ。それらを丁寧に、時に幻想的に描き出すことで、彼の物語はどれも独特の奇妙な味わいを持っている。

これは、解決のカタルシスよりも、読後のざらっとした残響に重きを置いたタイプのミステリだ。だからこそ、ロジカルなトリック好きには物足りないかもしれないけれど、「人間くさいミステリが読みたい」というタイプの読者には、むしろ強烈に刺さるはずだ。

『孔雀屋敷』の6つの顔をじっくり覗く

この短編集には、ジャンルも雰囲気もまるで違う6つの作品が収録されている。

それぞれがフィルポッツの違う一面を見せてくれるような、ちょっとした文学見本市のような構成だ。以下、簡単に紹介していこう。

『孔雀屋敷』

若い女性教師ジェーンが休暇で訪れたダートムアの屋敷で、彼女は恐ろしい殺人事件の幻視を見る。その後訪れた屋敷は既に廃墟で、過去の悲劇が次第に明らかになっていく。

超常的な力を介して、過去と現在が交錯する構造は、「視える」ことのリアリティを逆に浮かび上がらせる。霧のように形を変えながらまとわりつく、奇妙な読後感。これこそフィルポッツの真骨頂。

『ステパン・トロフィミッチ』

舞台は帝政ロシア。農奴と地主という抑圧的な構造の中で、ある男が迎える結末を描いた歴史短編。

ストーリーは重く、救いがない。だが、そこに描かれる人間の尊厳や怒りには、時代や国境を超えた普遍性がある。まさかのロシア文学的な構成で、フィルポッツの引き出しの多さに驚かされる。

「こんな話まで書けるのか」と思うと同時に、それがちゃんと面白いからすごい。

『初めての殺人事件』

誰も事件が起きたとは思っていない。証拠も動機もない。ただ、ある人物だけが「何かおかしい」と感じる。その直感から物語が始まり、少しずつ真実に近づいていく構成は、いわば「論理以前の探偵譚」。

確証のないまま動くことの危うさ、けれど止められない衝動。その焦燥感が終盤のサスペンスを高めていく。「推理は知性だけじゃないんだ」と感じさせる異色の一本。これめっちゃ好き。

『三人の死体』

ある屋敷で、一晩のうちに三人が不可解な死を遂げる。登場する私立探偵は、一見矛盾に満ちたこの状況を論理の力で少しずつ解き明かしていく。構成の妙、事実の積み重ね、そしてどこか陰影を感じさせる語り口。そのすべてが絡み合いながら、まるでパズルをはめ込むような快感がある。

フィルポッツは「論理的な推理もちゃんとできるんだぞ」ということを、しっかり見せつけてくる。この1編だけでも、本格派ファンは納得すると思う。

『鉄のパイナップル』

主人公は一風変わったオブジェに取り憑かれた男。その異常な執着が、だんだんと狂気の領域へ踏み込んでいく。

この作品は、探偵も謎解きも出てこない。だが読後に残るインパクトは、本格ミステリのそれを超える。語り手の偏執的な心理が読者に感染していくような、濃密な不穏さが全編を包み込む。

「なんでこんなもんにそこまでこだわるのか?」と思いながら読んでいるうちに、気がつけばそのこだわりの向こうに人間のどうしようもなさが浮かび上がる。

『フライング・スコッツマン号での冒険』

有名な急行列車を舞台にした、やや軽めの冒険譚。偶然の出会いが思いがけない展開を呼び、列車の中でちょっとした騙し合いや追跡劇が繰り広げられる。

いわば読者サービス的な一編で、ミステリというより上質なエンタメ小説として読める。テンポがよく、読後に「楽しかった」と素直に言えるタイプの作品。

とはいえ、そこにもちゃんと人間の顔や欲望が描かれていて、薄っぺらくは終わらないあたり、さすがである。

プロットを超えた歓び

『孔雀屋敷』を読んで感じるのは、「ああ、うまく騙された!」というスッキリした快感ではなくて、もっと曖昧で、でもなんか心に引っかかるような不思議な感触だ。

たとえるなら、霧の中を歩いたあとに服の裾がしっとり濡れてる感じとか、何年も前の夢をふと思い出して妙にザワつく感じとか。そんな「すぐに言葉にできないもの」がじんわり残る。

フィルポッツはトリックで驚かせたり、逆転のどんでん返しで唸らせたりするタイプじゃない。むしろ、話のなかにじっと潜んでる空気みたいなものを読ませてくる。人間の感情の奥のほう、言葉になるかならないかギリギリのところをふわっと掬い取って、そっと置いていく。

だから派手さはないし、読み終わってすぐ「めっちゃ面白かった!」とはなりづらいかもしれない。でも、しばらく経ってから「あの話なんか気になるな……」って思い出してしまう。そういう、あと引く作品ばかりなのだ。

論理で魅せる作家が「氷のような知性」なら、フィルポッツは「霞みたいな感覚」だ。形はないけど、確かにまとわりついてくる。

忘れられた作家をいま読む意味

今の日本で「イーデン・フィルポッツ」と聞いてピンと来る人は、正直そう多くないと思う。クラシックミステリが好きな人でも、『赤毛のレドメイン家』の名前をかろうじて知ってるくらいじゃないだろうか。

でも、そんな彼の作品が2020年代のいま、こうして新訳&初訳でまとめられたというのは、ほんとに大きな意味があると思う。

クリスティーが論理と構成で王道を作り上げた時代に、フィルポッツはもっとジャンルの外側、心理や雰囲気、あるいは歴史や寓話の領域まで含んだ物語を紡いでいた。いわば「ミステリの脇道」を歩いていた人。その存在を今、改めて拾い上げることは、ミステリというジャンル自体の幅や可能性を再発見することにもつながる。

クリスティーの師匠だったとか、乱歩が推してたとか、クイーンに紹介されたとか、そういう肩書きも確かに面白い。でも、実際に作品を読んでみると、そんなラベルじゃ足りないくらい、いろんな顔を持っていることに気づく。

静かで重くて幻想的で、時に残酷で、でもどこか人間臭い。そういう語りが、ちゃんと現代の言葉で訳されていることが本当にありがたい。

東京創元社がこの短編集にかけた情熱は、あとがきからもビシビシ伝わってくる。こんなふうに一度消えかけた作家に再び光を当てる企画は、読者としても本当にうれしい。

『孔雀屋敷』は、単に面白い短編集というだけじゃない。忘れられていた巨匠に、今の読者がもう一度出会うための扉なんだと思う。

そんな扉を、少しでも多くの人が開いてくれたら、この本が世に出た意味は十分すぎるほどある。

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