【祝!本屋大賞受賞】なぜ、朝井リョウ『イン・ザ・メガチャーチ』は、この時代のど真ん中を射抜けたのか

朝井リョウは、ずっと現代の居心地の悪さを書くのがうまい作家さんだと思っている。
しかも、単に流行を取り上げるのではなく、その流行の奥にある、人がどうやって生き延びているのか、どこで苦しくなっているのかまで掘ってくる。
だから読んでいて楽しいだけでは済まないし、うまく言えないざらつきがあとに残る。『イン・ザ・メガチャーチ』もまさにそういう小説だ。
2026年本屋大賞にノミネートされ、見事に受賞したのもすごくよくわかる。いや、売れそうな題材だからとか、旬のテーマだからというだけではないのである。
推し活、ファンダム、運営、SNS、依存、孤独。いまの空気のど真ん中にあるものを扱いながら、ちゃんと小説として奥行きがある。ただ時代をなぞるのではなく、その時代のなかで人が何を信じ、何にすがり、どうやって自分を保っているのかを見にいっている。そこがこの作品のいやらしいほど鋭いところだ。
題材だけ聞くと、推し活をめぐる社会派小説、くらいの説明になりそうではある。だが、実際に読んでみると、それだけではかなり足りない。
本作が描いているのは、推し活そのものというより、人はなぜ物語を必要とするのか、なぜ自分の視野を狭めてでも何かを信じたいのか、というかなり根っこの部分である。しかもそれを、上から批評する感じではなく、ちゃんと内側の甘さも苦さもわかったうえで書いているから凄い。
タイトルのメガチャーチという言葉も、かなり効いている。巨大教会。日本の感覚だと少し遠い言葉に見えるのだが、この小説を読んでいると、いや、もう形を変えてそこらじゅうにあるのでは、と思えてくる。
人が集まり、熱狂し、同じ物語を信じ、正しいふるまいを共有し、その共同体のなかで安心を得る。そういう場所は、いまや宗教の看板を掲げていなくてもいくらでもある。
本作は、推し活やファンダムを、その現代版の祈りの場として描いているのである。
推し活小説というより、現代の信仰を描いた小説なのだと思う
この作品のおもしろさは、推し活を扱いながら、そこで止まらないところだ。
ライブに通う、グッズを買う、情報を追う、SNSで支える、運営が用意した物語を共有する。そういうおなじみの行動ひとつひとつが、この小説のなかではほとんど儀式のように見えてくる。
もちろん、朝井リョウはそこを雑に悪くは描かない。そこがいい。何かを応援することそのものを嗤うような小説だったら、たぶんここまで面白くなっていなかった。そうではなくて、なぜ人がそこへ行くのか、なぜそれが必要になるのかを、かなりちゃんと見ている。
現実は面倒くさい。情報は多すぎる。他人の幸福も不幸も流れ込んでくる。正しさの更新も速い。そのなかで、ある一点に集中して、この人を、このグループを、この物語を信じていれば少し楽になれる、という感覚はたしかにある。世界を広く見続けるのは、思っている以上にしんどいのである。
だから本作で繰り返し見えてくる、視野が狭まることで得られる幸福、という感覚がかなり刺さる。普通、視野が狭いのはよくないことだとされる。だが、広すぎる視野にずっとさらされている現代では、むしろ見えるものを減らさないと生きるのがつらい。
推し活は、そのための装置にもなっている。この見立てがうまい。ただの娯楽でも、ただの依存でもない。もっと切実な生存戦略として書かれている。
その意味で、本作はかなり宗教的な小説でもある。といっても、神や教義の話を正面からするわけではない。そうではなく、現代人がどこで所属感を得て、どこで救われ、どうやって自分の人生に意味を接続しているのかを描くという意味で、かなり宗教の話に近い。
推しがいて、運営がいて、共同体があり、そこには正しい応援の作法まである。外から見るとただの趣味に見えても、当人にとっては人生の支柱になっている。ここを本作はごまかさない。
三人の視点があるから、熱狂の仕組みがかなり生々しく見えてくる
この小説でいちばんうまい仕掛けのひとつは、やはり三人の視点人物だと思う。仕掛ける側、のめり込む側、そして失ったあとの側。この三方向から見せることで、ファンダムの輪郭がかなり立体的になる。
久保田のパートは、熱狂から少し距離のある場所にいた人物が、物語を設計する側へ近づいていく面白さがある。レコード会社の経理財務部という、数字を扱う人間が、いつのまにか人を動かす物語の設計図を見せられる側へ行く。この角度がいい。
熱狂の真ん中にいる人ではなく、一歩引いた位置にいた人だからこそ、運営が何をどう売っているのかがよく見えるのである。歌や才能だけではなく、関係性や成長や傷や希望まで含めて、物語としてパッケージ化していく。その冷たさがかなり生々しい。
しかも嫌なのは、そのやり方が、たぶんすごく正しいことだ。真実より魅力的な物語のほうが人を動かす。これはエンタメだけの話ではない。選挙でも広告でもSNSでも、似たことはずっと起きている。
本作が怖いのは、推し活の話をしているはずなのに、いつのまにかもっと大きな話に見えてくるところだ。人を整列させる技術、人を一方向に向かわせる技術が、じつはかなり身近なところで洗練されている感じがある。
澄香のパートは、その逆に、内側からしか見えない息苦しさと甘さがある。現代の空気に疲れ、世の中の全部を見ているのがしんどくなった人が、たったひとつの対象に気持ちを預けていく。ここはかなりわかってしまう。
何かに夢中になっているあいだは、自分がぶれにくくなる。今日は何を見ればいいか、何にお金を使えばいいか、どこへ気持ちを向ければいいかがはっきりする。生きるためのノイズキャンセリングみたいなものだ。もちろん危ういのだが、危ういからだめ、と切れない。そこに救われる時間がたしかにあるからである。
そして絢子のパートがかなり重い。推しを失ったあと、生活の土台ごと崩れる感じ。ここが本作のいちばん残酷なところかもしれない。何かを信じていた時間が濃ければ濃いほど、それがなくなったあとの空白はただの喪失では済まない。
日々の意味づけが吹き飛ぶ。その空白に、別のもっと過激な共同体が入り込んでくる。この流れがとても嫌で、とてもリアルだ。推し活とカルト、推し活と陰謀論、その距離は思っているより遠くないのかもしれない、という感覚が残る。
朝井リョウは、救いの形を描きながら、そこに寄りかからせてくれない
この小説のいちばんいいところは、救いを描いているのに、最後に救済へきれいに回収しないところだと思う。
何かを好きになること、信じること、没頭すること。それで助かる瞬間があるのは間違いない。毎日をどうにかやり過ごすために、それが必要な人もいる。本作はそこをわかっている。だから、何かにのめり込む人たちを単純に愚かだとは書かない。
だが同時に、その救いがどこから供給されているのかも忘れない。誰がその物語を作っているのか。誰がその熱狂を管理しているのか。何を買わせ、何を信じさせ、どこまで視野を絞らせるのか。その仕組みまで見せてしまう。ここが朝井リョウのいやらしいところであり、好きなところでもある。ただ共感して終わらせないのである。
『正欲』にも通じるが、この作家は現代の生きづらさを書くとき、きれいな出口を用意しない。居場所が見つかってよかったね、理解者がいてよかったね、好きなものがあってよかったね、では終わらない。
その居場所は本当に安全なのか、その理解は誰を排除しているのか、その好きはどこまで自分のものなのか、というところまで掘ってくる。だから読後にあまり気持ちよくなれない。だが、その気持ちよくなれなさこそが、この人の小説の価値なのだと思う。
『イン・ザ・メガチャーチ』は、推し活をめぐる小説であり、孤独をめぐる小説であり、現代の信仰をめぐる小説でもある。人は神を失ったのではなく、神の代わりになる物語を大量に作り出しているだけなのかもしれない。
そう考えると、タイトルの意味があとから刺さってくる。いや、妙に重く残る、と言ったほうがいいか。
2026年本屋大賞ノミネート作品として広く読まれたのも、本作が単に旬の話題を小説化した作品ではないからだろう。推し活の話に見えて、もっと広い。ファンダムの話に見えて、もっと深い。
結局これは、いまの社会で人がどうやって壊れずに生きようとしているか、その方法がどれほど甘く、どれほど危ういかを書いた小説なのだと思う。
読んでいて楽しいだけでは終わらないし、どこかで胸がざわつく。
だが、そのざわつきこそが、この作品のいちばん信用できるところである。



















