『封鎖館の魔』- 鬼才・飛鳥部勝則がガチ館ミステリを書くとこうなる【読書日記】

館ミステリというジャンルには、どうしたって抗いがたい魅力がある。
奇妙な建築、閉ざされた空間、そこで起きる不可能犯罪。
この三点がそろうと、それだけで機嫌がよくなってしまう。だが、ときどきその楽しさを飛び越えて、これはいったいどこまで行くのかと呆然とする作品に出会う。
飛鳥部勝則『封鎖館の魔』は、まさにそういう一作だった。
近ごろのミステリを見ていると、「館もの」がまた元気になってきているなと感じる。ただ、それは昔の型をなぞっているわけではない。
綾辻行人以降に積み上がってきた館ミステリの流れに、特殊設定や幻想性、それぞれの作家の味みたいなものが流れ込んで、どんどん変な方向へ進化している。『封鎖館の魔』は、その最前線にしっかり立っている作品だと思う。
すべては、封鎖館での夏から始まる
本作の導入は、いかにも青春小説めいた顔つきをしている。高校二年生の小玉正は、幼なじみの林昌子に誘われ、夏休みに開かれるデッサン教室へ参加することになる。講師は写実画で名高い画家・館真一。
だが正の本音は、講師に学ぶことではなく、モデルを務める美少女・溝口佳子に近づくことである。会場となるのは、館真一が住む巨大な洋館・封鎖館。過去に何度も不可解な事件が起きてきた、いわくつきの館だ。
館真一の助手である村山鏡子に案内されてそこへ足を踏み入れた正は、封鎖館に集まった特異な人々の空気に圧倒される。しかもほどなくして、参加者のひとり・新保八寿夫の母であり、館真一に異常な執着を見せる新保敏美が、密室の中で他殺死体となって発見される。
このあらすじだけでもかなり強い。青春、芸術、怪しい洋館、そして密室殺人。館ミステリ好きのツボをきっちり押さえつつ、最初からどこか空気がおかしい。飛鳥部勝則なのだから当然なのだが、穏当にまとまるはずがないのである。
重い。濃い。悪趣味すれすれ、というより何度も踏み越えている。にもかかわらず、最後にはきっちり本格ミステリの論理へ着地してしまう。この危うい綱渡りは本当に大好きだ。
館そのものが狂気の作品になっている
妹尾の知る限り、封鎖館では六つの事件が起きている。
昭和四十年に、建築家本井田恭園が愛人の顔を切り落とした。
昭和五十年にはサーカス団の猿が花形スターの女を切り刻み、行き止まりの廊下を逃走し、忽然とえた。
平成十年には竹脇鏡子という自称占い師が、出入り自由な開かれた部屋の中で、脱出しようとしながら餓死した。
三つは別々の事件であり、相互に繋がりはない。仮に封鎖館に魔がいることを前提にしたら、館に巣食う邪悪な存在が、時代を超えて罪を犯した者に働きかけているのだろう。
『封鎖館の魔』より引用
まず何より強いのは、やはり封鎖館という舞台そのものだ。外界から隔てられ、増改築を重ね、無数の開かずの間を抱え込んだ巨大な洋館。この時点でもうかなりいいのだが、本作の館はそれで終わらない。
館ミステリに必要な道具立てはきれいにそろっている。けれど、この封鎖館はただの事件現場ではない。過去の因縁や人の執着が何層にも沈殿していて、どこか生き物みたいな気配すらある。
飛鳥部作品らしい、建築や美術への質感のこだわりもかなり濃い。壁や廊下や閉ざされた部屋が、単なる背景ではなく、手触りのあるものとして迫ってくる。館の中を進むことは、そのまま過去の欲望や怨念の層をめくっていく感覚に近い。見取り図を追っているはずなのに、気づくと狂気の地層を読まされているような気分になる。
しかもこの館は、かつて芸術家たちの熱狂の場でもあった。ここがいかにも飛鳥部勝則らしい。彼にとって芸術とは、整った美を並べることではなく、人間の執着や倒錯がむき出しになる場所なのだと思う。
本作では芸術が高尚な理念としてではなく、人を壊し、関係を歪め、館に血を吸わせる触媒として働いている。読みながら、この館そのものが巨大なキャンバスなのだと何度も思った。
ただしそれは端正な絵ではない。嫉妬も欲望も暴力も、塗りきれないまま何層にも重なってしまった絵である。
時間の堆積が、そのまま物語の圧になる
本作がただの濃い館ものに終わらない理由のひとつは、昭和・平成・令和という三つの時代をまたぐ構成にある。
作者が描いているのは単なる歴史の奥行きではない。過去に生まれた熱や傷や妄執が、時間によって薄まるどころか、沈殿し、発酵し、現代まで届いてしまう過程そのものである。
昭和には芸術家たちの若さと熱があり、平成には処理されないまま固まった感情がある。そして令和になって、それらが現在進行形の惨劇として噴き出す。ここが実にいやらしくて、実にうまい。過去は片づかない。忘れたつもりでも館の中には残り続け、別の形で再生してくる。
だから本作は、館の迷宮であると同時に時間の迷宮でもある。いま起きている事件だけを追えばいいわけではない。何十年も前に埋め込まれた感情や行為が、いまどんな形で戻ってきているのかを見なければならない。
この時間の使い方がうまいからこそ、封鎖館は単なる変な建物ではなく、歴史ごと人を閉じ込める装置として立ち上がってくる。
建築トリックと飛鳥部的ロジックの執念
館ミステリ好きとして素直にテンションが上がるのは、やはり建築トリックだ。本作は、その期待をかなり正面から満たしてくれる。
封鎖館という異形の建物は、ただ不気味なだけでは終わらない。ちゃんと仕掛けとして機能してくる。しかも一発ネタではなく、建物の異常さ、人物の動き、事件の成立条件が、いくつもの層で絡み合っている。
飛鳥部のロジックは、きれいに整理されたパズルというより、巨大な機械の内部をのぞき込んでいるような感覚に近い。歯車がいくつも噛み合っていて、どれかひとつでもずれたら全部崩れる。
正直、かなり複雑ではある。けれど、その複雑さが単なるわかりにくさで終わっていないところがいい。理解したときに、「この無茶はこの無茶として必要だったのか」と腑に落ちる瞬間がある。
私は、本格ミステリの楽しさのひとつは、作者の執念に触れることだと思っている。ここまで考えたのか、ここまでやるのか、という偏愛が伝わってくる瞬間がたまらない。
『封鎖館の魔』には、その感触がかなり濃くある。館を歪め、人を動かし、時間までまたがせて、それでも一本の線でつなごうとする。その無茶を本気でやっている感じに、興奮しないわけがない。
悪趣味の果てで、それでも本格として立っている
『封鎖館の魔』を語るうえで、やはり外せないのがその濃厚な悪趣味だと思う。
登場人物たちはどこか危うく、倫理観はかなり揺らいでいて、暴力や性の要素も遠慮なく入り込んでくる。ここは正直、人によってはかなりきついだろうし、好みが大きく分かれるのも納得できる。
ただ、私はこれを単なる過剰演出とは感じなかった。飛鳥部勝則にとって、醜さや不快さは飾りではなく、かなり核心に近いところにあるのだと思う。美しいものだけでは芸術にならないし、整った論理だけでは人間は描ききれない。
本作には、人間はもっと歪で、もっと倒錯していて、その混沌を形式の中に押し込めたときにだけ立ち上がる美がある、という感覚が通っている。
そして厄介なのは、そこまでやっておいて最後にはちゃんと本格ミステリとして成立しているところだ。幻想や狂気に寄りかかって曖昧に逃げるのではなく、それらを抱え込んだまま論理へ進んでいく。
だから読み終えたあと、ひどいものを見せられたという感覚と、でも妙に納得してしまうという感覚が同時に残る。納得している自分に少し引く。その感覚まで含めて、本作はたしかに「魔」なのだと思う。
『封鎖館の魔』は、万人にすすめやすいタイプの作品ではない(まあ飛鳥部作品はだいたいそうだけれど)。かなり人を選ぶ。ただ、館ミステリの流れを追ってきて、その先にある変形や逸脱まで見てみたい人には、見逃せない一作だと思う。
論理のために狂気を削るのではなく、狂気を抱えたまま論理で貫こうとする。その危うさと魅力に強く引きつけられた。
読み終えたあと、封鎖館はこちらを見返してくる。あの館に封じ込められていたのは怪異そのものではなく、人が何かを作ろうとするときにどうしても混じってしまう執着だったのかもしれない。
だからこそ本作は、怖く、醜く、そして妙に美しい。
飛鳥部勝則はやはり厄介な作家である。
そして、こういう厄介さを真正面からぶつけてくる本格ミステリが、私はやはり好きなのだ。



















