結城真一郎『どうせ世界は終わるけど』- 希望という名の小惑星が落ちてくる、そのとき僕らは何をするのか。【読書日記】

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結城真一郎という名前を聞いて、まず思い出すのはあの鋭利な〈どんでん返し〉と、社会を映す冷徹な視線だ。

#真相をお話しします』の読後に味わう、軽いめまいのような感覚。ミステリの文法を知っている者ほど深くえぐられる“黒結城”の毒。それは確かに魅力だった。

しかし新作『どうせ世界は終わるけど』は、そのイメージを裏切る。しかも、それがとても静かで、穏やかで、深い裏切りだった。これはもはや別人の筆致なのではないか、と感じるほどに。

けれど、ページをめくるうちにわかってくるのは、結城真一郎は“裏切ること”において一貫しているという事実だ。つまり、読者の予測を出し抜き、感情の裏をかく構造の中にこそ、彼の物語の本質がある。

本作では、100年後に地球へ衝突する小惑星「ホープ」の存在が明らかになる。それは人類の終焉を告げるニュースでありながら、日常に突然のパニックをもたらすものではない。ゆるやかな滅亡という前提を与えられた世界で、人々は今をどう生きるか――結城氏はそこに目を向ける。

滅亡は遠すぎず、近すぎない。自分が死んだ後の世界が確実に終わるとしたら、未来への貢献にどんな意味があるのか。種の保存という本能が解かれたとき、人はそれでも「何かを残したい」と思えるのか。本作はこの哲学的な問いを、小さな日常の中で丁寧に紡いでいく。

目次

希望の連鎖を描く、6つの人生

この物語が秀逸なのは、連作短編集という形式にある。

それぞれの物語が独立して楽しめるだけでなく、時間軸に沿って登場人物が受け継がれていくという巧みな構造だ。ある話の脇役が、後の話では主役となり、かつての無名な高校生が、未来の物語で再登場する。

この構成が描くのは、〈希望のリレー〉だ。誰かの何気ない言葉や、ふとした行動が、次の時代の誰かの選択を変えていく。滅びゆく世界の中でなお受け渡される希望のバトン。

それは、崇高な理念や英雄的行動ではない。誰かを気遣うこと、小さな善意、そして自分の人生をちゃんと生ききるという姿勢こそが、希望の根源であると語られる。

そして何より印象的なのは、これらの物語が決して説教臭くならず、あくまで静かな気付きとして読む者に届いてくることだ。涙を誘うこともあるけれど、それは押しつけではなく、共鳴の結果として自然に湧き上がってくる。

読み終えたとき、自分もまたこの世界で誰かのバトンになれるだろうか、とふと立ち止まって考えてしまう。

どんでん返しのその先へ――感情の反転装置としての“謎”

本作にも、結城真一郎らしい「仕掛け」は健在だ。ただしそれは、犯人当てのミステリ的なトリックではなく、読者の感情そのものを操作する装置として機能している。

例えば、ある人物が見せる冷たい行動の裏には何があったのか明かされるとき、読者が受け取るのは驚きではなく、胸を突かれるような〈納得〉だ。

「あのとき、あんなふうに見えたけど、本当はそうじゃなかったんだ」。私たちが日常でしばしば見逃してしまう、他者の真意や弱さ、決断の重さ。そうしたものを、物語の終盤でそっと差し出してくる。

結城氏はミステリーの構造を、感情のために使っている。そこに、ジャンルの超越を感じた。ミステリの技法が、他者を理解するための手段になっている。

犯人を追い詰めるのではなく、読者の思い込みを静かに解きほぐす。気づいたときには、もう涙が滲んでいる。そんな優しさが、本作のあちこちに息づいている。

今この時代を生きている人たち

『どうせ世界は終わるけど』というタイトルは、一見すると虚無的だ。しかし、その後に続くのは「けど」である。

多くの人はこう思うだろう――どうせ世界は終わるのに、なぜ勉強する?働く?家を建てる?人を愛する?

けれど、この物語は違う。

「どうせ世界は終わるけど」、だからこそ愛する。生きる。善くあろうとする。

その姿勢に、強く胸を打たれた。

読み終わったあと、ページを閉じても、そこに描かれた人々の静かな光が、こちらの中に灯り続けていた。

混沌の時代を生きる私たちに、結城真一郎氏が差し出してくれたのは、知的な驚きではなく、「諦めずに他者と関わり続けること」へのささやかな、しかし確かなエールだった。

この物語を読むべきなのは、ミステリファンだけではない。

世界に少し疲れたすべての人にとっての「希望の書」として、私は静かにこの一冊を薦めたい。

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この記事を書いた人

年間300冊くらい読書する人です。
ミステリー小説が大好きです。

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