飛鳥部勝則『堕天使拷問刑』- 禁断の問題作にして幻の傑作、再び。

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飛鳥部勝則氏は、1964年に新潟県に生まれ、新潟大学大学院教育学研究科を修了された異色の経歴を持つ作家です。

1998年、『殉教カテリナ車輪』にて第9回鮎川哲也賞を受賞し、以来、ミステリという形式の中に独自の美学と倒錯を織り込んだ作品群で、多くの読者を魅了してきました。

なかでも、2008年に単行本として刊行された『堕天使拷問刑』は、その特異な内容と入手困難さゆえに、「幻の魔書」として語られています。

正規の入手経路が断たれた後も、口コミや一部の読書家による熱狂的な言及によって、その存在はひそやかに、しかし確実に読み継がれてきました。

そして2025年――ついに、長き沈黙を破るかのように、この伝説的な書が早川書房〈ハヤカワ文庫JA〉より文庫化されることとなったのです。

それはまさに、書物に宿る悪夢が、再び私たちの前に姿を現したかのような出来事。

読みたくても読めなかった者にとっては、長い渇望が癒される歓喜の瞬間であり、すでに読んだ者にとっては、もう一度あの“地獄”へと旅立てる贖罪の機会と言えるかもしれません。

この奇跡の文庫化は、単なる復刊にとどまらず、ひとつの文学的事件であり、「読む」という行為の暗部と悦楽を、再び私たちに突きつけるのです。

目次

あらすじ – 因習と謎に満ちた村へ

中学生・タクマは、不慮の事故によって両親を亡くし、母方の実家へと行くことになった。

しかし彼が辿り着いたその村には、早々にただならぬ空気が漂い始めます。

かつて奇怪な殺人事件が発生し、いまなお古い因習が人々の暮らしに根を張っている──そんな、時の流れから取り残されたような僻地なのです。

特に胸をざわつかせるのは、魔術を信奉していたとされる祖父が、密室状態の蔵の中で不可解な死を遂げたという事件。

そしてその祖父と村長の座を巡って対立していた女性三人が、やがて惨たらしい斬首死体となって発見されたという忌まわしい過去。

この村には、語られることなく伏せられたまま、幾重にも折り重なった闇が眠っていました。

ごく普通の少年が、突然の死別に見舞われ、縁も薄い田舎の村へと移り住むという経緯は、読者にとって親しみやすい物語の入り口かもしれません。

しかし、その先に待つのが、常軌を逸した猟奇的事件の記憶だと知った瞬間から、世界は静かに、そして確実に軋みはじめます。

日常と非日常の境界が曖昧になり、ページをめくるごとに不穏な影が忍び寄るのです。

「月へ行きたい」と願う少女との出会い

タクマは、この閉ざされた村で、一人の不思議な少女と出会います。彼女の名は、江流美麗。

「月へ行きたい」と繰り返し呟くその姿は、どこかこの世の理から遊離したような、淡く儚い光をまとっていました。

その言葉の意味は明らかではありませんが、彼女の佇まいには、人を寄せつけず、けれどどこか惹きつけずにはいられない神秘が漂っています。

美麗の、現実離れした願いと、その掴みどころのない存在感は、因習と猟奇に満ちた村の空気とは正反対のものです。

この出会いは、孤独の中に佇んでいたタクマの心に、少しずつ揺らぎと色彩をもたらします。

そしてやがて、美麗との邂逅は、村に再び忍び寄る不可解な出来事の連鎖と、深く結びついていくことになるのです。

ジャンルの融合が生み出す特異な世界観 – ミステリ、ホラー、そして青春の交錯

オカルトミステリとしての顔

『堕天使拷問刑』は、その核心において、重厚なオカルトミステリとしての色彩を濃く湛えています。物語の中で描かれるのは、理性では到底捉えきれない一連の異常な事件です。

たとえば、密室の中で発見される惨たらしいバラバラ死体。

あるいは、一瞬のうちに三人の首が切断されるという、現実離れした凄惨な現場。

それらの出来事は、まるで悪魔の介在を疑わせるかのような不可解さを湛え、読者の理性を挑発し続けます。

はたして、これらの異変は人智を超えた超常の存在――堕天使の仕業なのか。

それとも、緻密に仕組まれた人間の業の結晶なのか。

作品は、そうした根源的な問いを読者に投げかけながら、オカルトとミステリの境界線を、意図的に曖昧にしていきます。

その曖昧さこそが、本作をより不穏で、より妖しく、そして何より魅惑的な物語へと昇華させているのです。

全編に漂うのは、濃密で妖しい空気、そして理性と狂気のあわいに広がる、静謐なる恐怖。

『堕天使拷問刑』は、その名にふさわしく、読者の精神を拷問し、試し、そして魅了する、稀有な物語なのです。

青春物語としての側面

しかし本作は、ただ恐怖と惨劇だけを語る物語ではありません。主人公タクマと、謎めいた美少女・江流美麗との邂逅は、「ボーイ・ミーツ・ガール」という、古典的でありながら決して色褪せることのない青春の定型を秘めています。

二人の出会いと交流は、呪われた土地に生きる若者たちの、儚くも鮮烈な心の揺らぎを丁寧に掬い上げ、物語全体に一条の柔らかな光を差し込むような役割を果たしているのです。

とりわけ、閉ざされた村の学校を舞台に展開される描写には、どこか懐かしく、甘やかな空気が漂います。

仲間とのぎこちない会話、ふとした沈黙に潜む戸惑い――そこには、2000年代初頭のノベルゲームやライトノベルに通底する、瑞々しい感性と、紙一重の危うさとが同居しています。

少年と少女の距離が、ほんのわずかに近づいたときに生まれる、ほとんど痛みにも似た胸の震え。

その感情の輪郭が、物語に柔らかな陰影を与え、血と呪いに彩られた世界の中で、確かな人間の温度を感じさせてくれるのです。

多様な要素の混淆が生むカオスと魅力

ミステリ、ホラー、オカルト、伝奇、そして青春――。

『堕天使拷問刑』という書物には、これら多彩なジャンルのエッセンスが、惜しげもなく、むしろ「てんこ盛り」と言ってよいほど濃密に詰め込まれています。

その混沌は、ともすれば読者に目眩を覚えさせるかもしれません。しかし、まさにその奔放な混淆こそが、本作の比類なき魅力の源泉であることは疑いようもないのです。

因習に縛られた村を舞台に繰り広げられる怪奇譚と、閉ざされた学舎に息づく青春の交差。その交わりは、一筋縄ではいかない物語の輪郭を形づくり、読む者を常に先の見えぬ霧の中へと誘いこみます。

予測のつかぬ展開は、物語の境界を曖昧にし、ミステリでもあり、ホラーでもあり、ひとつの成長譚でもあるという、形容しがたい物語世界を構築していくのです。

ときにこの作品は、ノベルゲーム、あるいはアダルトゲームといったジャンルの系譜にあるものと評されることがあります。

それは表層的な設定や演出の類似性に由来するものではなく、閉鎖的な田舎町、転入生という立場、謎めいた少女との邂逅――そうした構造の中に、既視感と親密さ、そして物語的期待が巧みに織り込まれているからに他なりません。

けれども飛鳥部勝則は、その「お約束」をただなぞるだけの作家ではありません。

おもむろに差し出されるのは、常識を裏切るトリック、論理を跳躍するような真相、そして濃密なオカルティズムと耽美的な暴力です。

そうした過剰なまでの物語の装飾は、通俗的な枠組みを借りながらも、どこにも属さない強烈な個性として、この作品を孤高の地平へと押し上げています。

「キワモノ」と呼ばれることすら、絶賛のように感じられる。

それほどに本作は、ジャンルという檻を軽々と飛び越え、読者に唯一無二の体験をもたらしてくれるのです。

型破りな読書体験への誘い – 脳髄を揺るがす物語

怒涛のクライマックスと衝撃の真相

『堕天使拷問刑』の物語は、その多くの時間を、古い因習に支配された寒村の風景の中で、怪奇小説めいた翳りを帯びながら静かに進んでいきます。

過去に起きた忌まわしい事件の残響、重苦しい空気に包まれた閉鎖社会の息詰まるような日常。

しかし、物語が終盤に差しかかる頃、読者は否応なく、奔流の中に呑み込まれることになるのです。

思考の余白を許さぬほどの展開の中で、崩れゆく常識、覆される予測、明かされていく真相。

やがてその濁流が過ぎ去った静寂の中に、私たちはただ呆然と立ち尽くすしかないのです。

そして、満を持して明かされる“殺人”の真相。それは、多くの読者が「なんてことだ!」と驚嘆し、「唖然呆然」と呟くほかないほどの衝撃をもって迫ってきます。

とりわけ、ある一つの真相に関しては、「一生忘れることのできないほどのトラウマを残す」、とすら語られています。

――自らが描こうとした領域の過激さを意識しつつ、それでもなお描かずにはいられなかった物語の“必然”。

そこには、単なるショック効果を狙った演出とは異なる、より深い問いかけが潜んでいるようにも思えます。倫理という名の境界線に挑み、タブーとされる領域をも臆さず見つめるそのまなざし。

それは、安易なエンターテインメントを超えて、「物語とは、どこまで現実の暗部に踏み込むことができるのか」という、創作行為そのものへの挑戦のようでもあります。

読む者に試練を強いるかのようなその真相は、時に“拷問”のように苛烈です。

しかし、そこにこそ、この作品が「堕天使」の名を冠するにふさわしい、堕ちた美と咎めなき狂気の輝きが宿っているのです。

「キワモノ」にして「傑作」- 両極を内包する評価

これほどまでに多種多様な要素を詰め込み、破天荒とも言える展開を繰り広げる『堕天使拷問刑』は、時に「キワモノ」と形容されることもあります。

あまりに過激で、あまりに奔放。

常識の枠を易々と飛び越え、読者を呆気に取らせるその振る舞いは、確かに一筋縄ではいかない異形の物語であることを思わせます。

しかし、その一方で、「飛鳥部勝則作品の中でも際立って優れた一作」「堂々たる傑作」と称える声もまた、確固として存在します。

読者を突き放すどころか、圧倒的な牽引力でもって深奥へと引きずり込むその力は、まさに“物語の魔”とでも呼びたくなるような凄みに満ちています。

この、相反するように見える評価が、決して相殺し合うものではなく、むしろ両立することによって作品の輪郭をより鮮明に浮かび上がらせている点こそ、本作の持つ比類なき個性の証。

「キワモノ」であること、それ自体がこの作品にとっては恥ではなく、むしろ賛辞です。

それは、安定や予定調和に背を向け、文学が本来持つべき異端性――読み手を揺さぶり、困惑させ、問いを投げかける力を誇示しているということ。

つまり、ジャンルに囚われず、読者一人ひとりに「この物語をどう受け止めるか」という応答の責任を突きつけてくる、極めて挑発的な作品なのです。

『堕天使拷問刑』は、もはや単なるミステリでも、ホラーでも、青春小説でもありません。

それは、読者を選びながらも、選ばれた読者にだけ深く突き刺さる、異端にして純粋な「読書体験の極北」。

あらゆるレッテルを振り払い、その正体を最後まで曖昧にしたまま、ただひたすらに、“面白さ”という得体の知れぬ炎を、燃やし続けているのです。

おわりに:記憶に深く刻まれる一冊 – 未体験の読書領域へ

挑戦的でありながら鮮やかな着地

『堕天使拷問刑』は、ミステリ、ホラー、オカルト、青春——そうした相容れぬはずの要素が、まるで渦を巻くように物語の中に同居しています。

あまりにも多くを孕んだ物語は、ともすれば「過剰」であり、「雑然」としてすら感じられるかもしれません。

しかし、この混沌こそが本作の本質であり、むしろその複雑さを押し切るように、物語は最終盤で信じがたいほど鮮やかに幕を引きます。

この離れ業を可能にしたのは、作者・飛鳥部勝則氏の、精緻さと暴力性を併せ持った「語りの力」、その豪腕に他なりません。

終盤に向けて加速度的に巻き起こる展開は、あらかじめ伏せられていた数々のピースを一気に結び直し、読者を言葉もなく立ち尽くさせるほどの衝撃へと導いていきます。

全てが過ぎ去ったあと、残されるのはただ一つ、強烈な余韻。

それはカタルシスというにはあまりに歪で、癒しというにはあまりに棘があり、けれど確実に読者の内側に沈殿していく、忘れがたい読後感です。

本作は、物語を読み進めるという行為そのものを、ひとつの試練に変えてしまう。

しかしその試練の先には、他の何物にも代えがたい、特異で鮮烈な「物語体験」が待っているのです。

読者の価値観を揺るがす可能性

本作は、ただの娯楽として消費されてしまうにはあまりに異質で、あまりに剥き出しです。

過激な描写、非常識とも思える真相、それらのすべてが、読む者の内部に眠る倫理観や常識という名の防壁を、静かに、だが確実に揺さぶってきます。

『堕天使拷問刑』という作品との遭遇は、ある意味で危うい試練です。

私たちが日々の暮らしの中で遠ざけてきた感情の深淵や、言葉にするには躊躇いを覚える観念の領域へと、そっと読者の手を引いていく。

作中にしばしば姿を見せる「涅槃」という言葉。それは仏教における救済であると同時に、既成の秩序が一度解体され、破壊的なまでの再構築が始まる地点でもあります。

「純愛」と「拷問刑」、この相反する語の共存が象徴するのは、感情と倫理の境界が融解した先に立ち現れる、異様なまでに純粋な“何か”です。

それは、恐怖と混乱の彼方で、なおも信じようとする心の在り処かもしれません。

あるいは、無へと至ったあとにのみ得られる、新しい意味の誕生なのかもしれません。

『堕天使拷問刑』は、そうした深い問いを孕みながら、読者の中に確かに何かを残していく作品です。

快楽でも、知的興奮でもない、もっと曖昧で、もっと刺さる何か。

——それは、読んだという記録以上に、忘れ得ぬ“体験”として、心の奥底に焼きついていくのです。

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この記事を書いた人

年間300冊くらい読書する人です。
ミステリー小説が大好きです。

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