『コロラド・キッド 他二篇』- スティーヴン・キングの「幻の作品」が収録された日本オリジナル中篇集

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スティーヴン・キング氏の作家デビュー50周年という、文学界にとっても記念すべき節目に、日本独自の編集による特別な中篇集『コロラド・キッド 他二篇』が文藝春秋より刊行されました。この一冊は、単なる新刊の枠を超え、半世紀にわたりエンターテインメントの最前線を走り続ける巨匠の足跡を称えるとともに、日本の読者へ向けた心のこもった贈り物としての性格を色濃く帯びています。

本コレクションは、スティーヴン・キングという広大な文学の森へ初めて足を踏み入れる読者から、その深奥を知り尽くした熱心な愛読者まで、あらゆる層がキング文学の神髄に触れられるよう、細心の注意を払って編纂されたものです。このことは、収録作品の選定にあたり、キング氏の持つ多岐にわたる作風はもちろんのこと、各作品の日本における入手難易度や翻訳の歴史といった背景までもが深く考慮された結果でしょう。

そして何よりも、「日本オリジナル中篇集」という形態そのものが、本書の最大の特色であり、多くの読者の好奇心を刺激する要因となっています。世界的に著名な作家の作品群が、特定の国や地域の読者のために独自に再構成され、新たな光を当てられるという試みは、その市場の成熟度と読者の審美眼が高く評価されている証左にほかなりません。

キング氏と日本の読者との間に長年にわたって育まれてきた、深く、そして特別な絆を象徴しているかのようです。この特別な編集は、単に作品を寄せ集めたのではなく、日本の読者の琴線に触れるであろうテーマ性や物語の配列にまで、編集者の明確な意図が感じ取れるものであり、それ自体がキング文学の新たな解釈を促す魅力的な仕掛けとなっているのです。  

目次

収録作品の魅力:三つの貌(かお)を持つキングの世界

この日本オリジナル中篇集には、それぞれが際立った個性と比類なき魅力を放つ三つの物語が収められており、読者をキング文学の奥深い迷宮へと誘います。

キング氏の作品群のなかでも比較的アクセスしやすい物語や、心温まるテーマを扱った作品が含まれる一方で、長らく入手困難であったり、マニアックなファン層の渇望を満たすような「幻の」作品も収録されています。この絶妙な組み合わせが、幅広い読者層にとって満足度の高い一冊として成立させている要因でしょう。

収録作品1.『浮かびゆく男』:キャッスルロックからの心温まる奇譚

物語の幕開けを飾る「浮かびゆく男」は、ITデザイナーとして働く大柄な主人公スコット・ケアリーが、自身の肉体に起こった不可解な異変に気づくところから始まります。彼の外見は全く変わらないにもかかわらず、体重計の針は日を追うごとに着実に減り続け、やがて無重力に近い状態へと近づいていくのです。

舞台は、キング作品の読者には馴染み深いメイン州の架空の町、キャッスルロック。この町は、これまで数々の恐怖譚の背景となってきましたが、本作ではその様相を少し異にします。体重が失われていくという、一見すれば典型的なボディ・ホラーを想起させる設定でありながら、物語は読者の予想を心地よく裏切り、人間愛に満ちた感動的な結末へと着地します。

スコットの身に起きた奇跡とも呼べる現象は、彼自身だけでなく、彼が住むコミュニティ、特に隣人である同性婚カップルとの間に存在した見えない壁を取り払い、人々の心を繋ぎ合わせる触媒として機能します。

この作品は、リチャード・マシスンの古典的名作『縮みゆく男』や、キング自身がリチャード・バックマン名義で発表した『痩せゆく男』へのオマージュを感じさせつつも、それらとは全く異なる、希望に満ちた読後感を与えてくれます。2018年に発表されたこの比較的新しい作品が、今回本邦初訳として収録されたことは特筆に値するでしょう。

キング氏が「恐怖の帝王」として広く知られているにもかかわらず、本作ではホラーの定型を意図的に覆し、より希望に満ちた人間関係の描写へと舵を切っている点は注目に値します。これは、恐怖の前提から出発しつつも、読者の予想を裏切ることで、作家としてのテーマの深化や、新たな読者層への訴求を試みているのかもしれません。

また、キャッスルロックという、数々の怪異譚の舞台となった場所にこの物語を設定したことは、日常と非日常、ありふれた風景と奇妙な出来事という対比を際立たせ、作品独自の感動を増幅させる効果を生んでいます。

収録作品2.『コロラド・キッド』:島に残された永遠の謎

次に紹介する「コロラド・キッド」は、メイン州沖に浮かぶ小さな島、ムース・ア・ベック島の新聞社アイランド・メインダーを舞台に、物語の大部分が展開されます。インターンシップでこの島を訪れた若い女性ステファニー・マッキャンが、新聞社の古参記者であるデイヴ・ボウイとヴィンス・ティーグの二人から、20年前に島の海岸で発見された身元不明の死体、通称「コロラド・キッド」にまつわる未解決事件の顛末を聞かされる、という物語です。

作品全体を覆うのは、静かでどこか物憂げな、思索的な雰囲気です。派手な事件や超自然的な恐怖は影を潜め、登場人物たちの抑制の効いた会話を通じて、事件の不可解な細部が少しずつ、しかし決して全貌を現すことなく提示されていきます。この作品においてキング氏は、ミステリーというジャンルの約束事を巧みに利用しながらも、安易な解決やカタルシスを提供することを意図的に避けているように見受けられます。

「語られることのない真実」や「解き明かせない謎」そのものが、物語の核心的な主題となっているのです。報道とは何か、客観的な事実と主観的な解釈の境界はどこにあるのか、そして人間は永遠に解けないかもしれない謎と、どのように向き合い、それを語り継いでいくのか。そうした深遠な問いが、読者の胸に静かに、しかし深く刻まれます。

この「コロラド・キッド」が、かつてキング氏の代表作『ダークタワー』シリーズの関連ノベルティとして、ごく一部の応募者にのみ抽選で配布された、いわば「幻の作品」であったという事実は、本書の価値をさらに高めています。18年もの歳月を経て、初めて一般の読者が容易に手に取れる形で収録されたことは、長年のキング・ファンにとって、まさに待望の出来事と言えるでしょう。

この作品は、従来のミステリーの枠組みに収まらない、より文学的な射程を持った試みであり、謎解きのプロセスそのものや、物語が生成され語り継がれる様相に焦点を当てることで、ミステリーというジャンル自体への批評的な眼差しさえ感じさせます。

収録作品3.『ライディング・ザ・ブレット』:恐怖とノスタルジーの疾走

三番目に収録されている「ライディング・ザ・ブレット」は、読者をスティーヴン・キング文学の原点ともいえる、純粋な恐怖の世界へと引き戻します。物語の主人公は、メイン州立大学に通うアラン・パーカー。ある夜、故郷に住む母親が脳卒中で倒れたという衝撃的な報せを受け、彼はいてもたってもいられず、ヒッチハイクで病院へと急ぐことを決意します。しかし、その暗い夜道で彼が乗り合わせた一台の車は、彼を生と死の狭間へと誘う、悪夢のような旅の始まりを告げるのでした。運転手と名乗る男から、アランは想像を絶する究極の選択を迫られることになります。

この作品は、キング氏の真骨頂ともいえる、日常的な風景が一瞬にして非日常的な恐怖へと反転する様を鮮やかに描き出しています。主人公が体験する超自然的な出来事と、それに伴う強烈な心理的葛藤は、読者に息苦しいほどのサスペンスと、肌を粟立たせるような戦慄を与えずにはおきません。

しかし、本作の魅力は単なる恐怖描写に留まりません。物語の根底には、死への根源的な怖れ、愛する者を失うことへの不安、そしてアランの脳裏をよぎる少年時代の記憶が呼び覚ます、ほろ苦いノスタルジーといった、人間の普遍的な感情が複雑に織り込まれているのです。

「ライディング・ザ・ブレット」は、2000年に当時としては先駆的な試みであった電子書籍として発表され、その後、いくつかのアンソロジーや短編集に収録されましたが、日本では長らく入手が難しい一作とされてきました。今回、加筆修正が施された新たな翻訳でこの傑作ホラーに触れることができるのは、キング・ファンにとって大きな喜びであると同時に、キング文学の初期衝動を再体験する貴重な機会となるでしょう。

この作品は、超自然的な恐怖を介して、人間の内面に潜む普遍的な恐怖や道徳的ジレンマを鋭くえぐり出す、キング氏ならではの筆致が冴えわたっています。そして、この「原点回帰」ともいえる作品が、新しい作品や実験的な作品と共に収録されることで、キング氏の作家としての幅広さと、そのキャリアを通じて変わらぬ読者への訴求力を改めて示していると言えるでしょう。

本コレクションならではの愉しみ

この日本オリジナル中篇集『コロラド・キッド 他二篇』は、単に三つの物語が一冊にまとめられたという以上の、特別な読書体験を約束してくれます。

まず特筆すべきは、その多様な作風の饗宴です。ページをめくるごとに、読者は全く異なる貌(かお)を持つキングの世界へと誘われます。「浮かびゆく男」では、奇妙な現象から始まる心温まるヒューマンドラマに胸を打たれ、「コロラド・キッド」では、解けない謎を巡る静謐な会話劇の中で思索の深みへと沈潜し、そして「ライディング・ザ・ブレット」では、原始的な恐怖とノスタルジーが交錯する戦慄のドライブに手に汗を握るのです。

これほど振れ幅の大きな物語群を一度に味わえる機会は稀であり、スティーヴン・キングという作家の底知れぬ才能と、ジャンルを自在に横断する創造力の豊かさを改めて実感させられます。

次に、「幻」との再会、そして新たな発見という喜びがあります。前述の通り、『コロラド・キッド』や『ライディング・ザ・ブレット』は、長らく日本の読者にとっては読む機会の限られていた、いわば「幻の作品」でした。これらにようやく触れることができるという事実は、長年のファンにとっては積年の思いが叶う瞬間であり、また、キング文学に初めて触れる読者にとっては、彼の作品世界の広大さと多様性を知るまたとない入り口となるでしょう。そして、本邦初訳となる『浮かびゆく男』は、近年のキング氏の円熟と新たな境地を示す作品として、新鮮な驚きと感動をもたらしてくれます。

そして最後に、このコレクションが日本オリジナル編集であるという事実そのものが、特別な価値と愛着を読者に与えてくれます。スティーヴン・キング氏の作家デビュー50周年という輝かしい節目を祝い、日本の読者のために特別に編まれたという背景は、本書を単なる作品集以上の、記念碑的な一冊へと昇華させています。

作品の選定や配列、そしておそらくは翻訳のニュアンスに至るまで、編集者の深い洞察とキング文学への敬愛が込められていることでしょう。それが、読者一人ひとりにとって、新たな発見や解釈の余地を生み出し、より豊かな読書体験へと繋がるのです。

これら三つの物語を続けて読むことで、個々の作品が持つテーマ性がより深く響き合うことに気づかされるかもしれません。「浮かびゆく男」の不可解な現象とそれに対する人間の受容、「コロラド・キッド」の永遠に解けない謎と語り継がれる物語の力、そして「ライディング・ザ・ブレット」における死の運命と選択。

これらは、ジャンルこそ異なれ、人間が理解を超えた出来事や避けられない運命とどのように向き合うかという、普遍的な問いを投げかけています。このコレクションは、そうした人間の根源的な葛藤を、キング氏ならではの多様な筆致で描き出した、重層的な作品群として捉えることもできるでしょう。

おわりに:帝王の50周年を祝して

スティーヴン・キング氏の作家生活50周年という輝かしい金字塔を打ち立てるにふさわしい、まさに珠玉の中篇集――それが、この『コロラド・キッド 他二篇』です。本書は、これからキング文学の広大無辺な森へと分け入ろうとする読者にとっては、魅惑的な最初のステップを記すための新たな入り口となるでしょう。

そして同時に、長年にわたりその森を彷徨い、数々の物語と出会ってきた熟練の読者にとっては、懐かしさと新鮮な発見に満ちた、かけがえのない宝箱のような存在となるに違いありません。

収録された三つの物語は、それぞれが独立した強烈な光彩を放ちながらも、一冊の本として集うことで、スティーヴン・キングという稀代のストーリーテラーの比類なき才能と、半世紀にも及ぶ精力的な創作活動の軌跡を、鮮やかに読者の眼前に映し出しています。

恐怖、謎、そして人間愛――これらの普遍的なテーマを通じて、私たちはキング氏が紡ぎ出す物語の根源的な力に、改めて心を揺さぶられることでしょう。この記念すべき一冊は、キング氏の過去の遺産と現在進行形の創造力とを結びつける架け橋であり、現代文学における彼の揺るぎない重要性を再確認させるものです。

この機会にぜひ本書を手に取り、現代最高の物語作家の一人であるスティーヴン・キング氏が織りなす、めくるめく世界への旅に出かけてみてはいかがでしょうか。ページを開けば、きっと、あなたの記憶に深く刻まれる、忘れられない読書体験が待っているはずです。

そしてそれは、スティーヴン・キング氏と日本の読者との間に長年にわたり培われてきた、深く温かい文化的交流の新たな証となることでしょう。

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この記事を書いた人

年間300冊くらい読書する人です。
ミステリー小説が大好きです。

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