三浦晴海『なぜ「あしか汁」のことを話してはいけないのか』。
タイトルを見た瞬間から、何とも言えない違和感が喉の奥に引っかかる。
あしか汁? なんだその昭和の漁師町にありそうなメニューは。
ほっこりした郷土料理の本かと思いきや、これが全然ほっこりじゃない。むしろゾワゾワ系だ。読んでみると、この何気ない響きの言葉が、とんでもない地雷だったとわかる。
物語は、とても穏やかな場面から始まる。亡くなった親族の遺品整理――やったことがある人なら分かる、あの独特の静けさだ。埃が光の筋の中で舞い、古い紙の匂いが鼻をくすぐる。写真や手紙から故人の人生を辿る、しんみりした時間。
その中で、主人公(著者と同名の「三浦晴海」)が、大叔父の日記を見つける。別に魔法書とかじゃない。表紙も中身も、初めのうちは普通だ。
……最後のページに行くまでは。
ある瞬間、整然としていた記録が、急に奇妙で意味不明な文章に変わる。中でも「え、何これ?」と目が止まるのが、三つの変なフレーズ。その一つが「あしか汁」。響きだけなら無害どころか、ちょっと美味しそう。
でも、これが一番ヤバい。日記の持ち主が最期に向けて恐怖に飲まれていった、その核心にべったり張り付いている単語なのだ。
この時点で、日記はもはや思い出の品じゃない。未知の危険を運んでくる呪いの媒体に変貌する。そして避けるべきはずの問いが生まれる。「あしか汁」とは一体何なのか。なぜこの言葉が、大叔父の最期の恐怖と結びついているのか。
物語は義務感じゃなく、本能的な好奇心――あの、触っちゃいけないと分かっていても触りたくなる衝動――で転がり出す。
この導入がうまいのは、恐怖を派手に演出せず、日常の中にいつの間にか侵入させてくるところだ。
もし一冊の日記が恐怖の扉になるなら、家の中の何でもそうなり得るんじゃないか?
そう思った瞬間、自分の安全圏が揺れ始める。
モキュメンタリーって、こんなに効くのか

この作品の怖さは、話の中身だけじゃなくて「見せ方」にもある。
三浦晴海は冒頭でこう言い切る。
「これは小説ではなく、実際にあったことをまとめた記録です」。
はい、大好物です、こういうの。こっちは心の準備もしてないのに、フィクションという安全ロープを引きちぎられる感じだ。
構造はモキュメンタリー、つまり擬似ドキュメンタリー形式。一人称の調査記録に、日記の抜粋、そして新聞記事の切り抜きが混ざってくる。しかもその記事は、一見関係なさそうな事故や事件ばかり。
でも並べると、なぜか繋がっていく。あれ、この出来事と「あしか汁」って関係あるのか? と、こっちも点と点をつなぎ始めてしまう。
さらに主人公の行動がやたらリアルだ。専門家へのインタビュー、現地取材、資料調査……まるで本物のルポ。そこに超常的な出来事が混ざるから、逆に説得力が増す。ホラーなのに学術論文みたいな冷静さを装っているのがずるい。
極めつけは、主人公が著者と同じ名前だということ。これは効く。フィクションと現実の境界がごっそり削られ、手元の本そのものが呪物に見えてくる。普通のホラーなら、「まあ作り話だし」で済む。
だけどこれは、「もしかしたら現実?」という疑念を種のように植えてくる。読み進めるほど、その種が芽を出して広がっていく。
「あしか汁」という言葉の感染力
本作の中心にある恐怖は、「知ること」そのものだ。「あしか汁」という言葉は、謎を解くカギというより、触れた瞬間に発動するトリガー。意味を理解した者には、不可解な悲劇や死が訪れる。シンプルで、逃げ場がない。
さらに怖いのは、これは怨霊の復讐劇ではないということだ。もっと質が悪い。ある条件に当てはまった人間が、自分でも気づかないうちに破滅へ向かってしまう。しかも、対話も説得も通じない。心理スイッチを押されたら最後、止められない。
物語は、主人公の好奇心によって動く。でもその好奇心は、同時に自滅へのエンジンでもある。そしてページをめくるこちらの好奇心も、知らぬ間に同じ回路に組み込まれる。
「知りたい、でも怖い」がぐるぐる回り続け、抜けられない。
調査を進めるうち、この呪いは戦時中の秘教的な仏教儀式にまでつながっていく。ルーズベルト大統領を呪い殺そうとした、という実在の歴史的逸話と絡めてくるあたりがまた不気味だ。架空と史実が地続きになって、恐怖が現実に滲んでくる。
この「あしか汁」は、現代的に言えば究極のミームウイルスだ。間違った情報や危険な思想に触れることで、人が変わってしまう可能性――SNS時代の不安を、オカルト的な形で凝縮したものだ。
怖いのは怪異そのものじゃなく、情報が自分の意思を奪ってしまうという感覚だ。
最後まで説明しない勇気
この本のラストは、正直、賛否あると思う。すべての謎をきっちり解き明かすわけじゃない。
中途半端? いや、むしろそれがいい。現実の出来事は、何でもきれいに説明できるわけじゃないし、正体が分からないまま終わることだってある。むしろそこに、本物っぽさと恐怖が宿る。
冒頭に出てくる一文――「残念ながら共に調べてくれた人たちは全員亡くなっています」――これが最後まで効いてくる。生存者が一人だけ残って語る証言として読むと、途端にすべてが重くなる。物語を読み終えたあとも、この一文だけが頭の奥で鳴り続ける。
結局、「あしか汁」とはなんなのか。自分の中で勝手に膨らみ続ける。これはホラー小説というより、「読んだ人の頭の中で完成する怪談」だ。
この本は招待状か、それとも罠か
『なぜ「あしか汁」のことを話してはいけないのか』は、ホラーとミステリの融合系だ。
モキュメンタリー形式で現実と虚構の境界を削り取り、「知ること」が呪いになるという恐怖を描いている。
派手な怪物や血しぶきではなく、ゆっくりと忍び寄るように効いてくるタイプの怖さ。読み終えたあと、頭の片隅で「あしか汁」という単語が腐らず残る。
この本を読むことは、危険な何かにわざわざ関わる選択だ。
それでも手を伸ばすか。
それとも、表紙の時点で本棚に戻すか。
──少なくとも、わたしはもう、二度と「あしか汁」という言葉を気軽に口にできない。