『妹が死んだ時の海亀』- 何が怖いって、説明できないことだ【読書日記】

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四季しおり
ただのミステリオタク
年間300冊くらい読書する人です。
特にミステリー小説が大好きです。

「怖くないのに、不穏で気になる」

そんな読後感を、何度も何度も味わった。

朱雀門出の『妹が死んだ時の海亀』は、「怪談」として棚に並んでいながら、私たちがよく知る恐怖体験とはちょっとばかり毛色が違う。いや、「ちょっと」なんてものではないかもしれない。むしろこの本は、ホラーを装った「不可解な記録集」なのだ。

竹書房怪談文庫から刊行されたこの一冊には、なんと65もの短い怪異が収められている。どの話も3〜5ページ程度、そしてすべてに怪画(イラスト)が添えられているのが特徴だ。

その一つ一つは、ほんの些細なズレだったり、説明できない記憶のひっかかりだったり、「何が起きたのかよくわからないけど気持ち悪い」ような話ばかり。だが、それがずらりと65話も並ぶと、気づかぬうちに常識という名の地面が削られていく感覚を覚える。

この体験は、ホラーというよりも不可解のカタログだ。怖がらせようという意図はむしろ希薄で、「わからないことが実在してしまった」気味の悪さがにじみ出る。

ページを閉じてもなお、脳裏に変な残像が残る。あれは何だったんだろう……。そんな問いを残す不快さこそが、この作品の真価だ。

目次

取材形式と怪画による、ねじれの構造

この本を読み進めるにつれて、あることに気づく。

語り口が「聞いた話なんですが……」から始まる実話怪談のような体裁をとっており、いわゆる実録風の雰囲気を漂わせている。取材、採録、報告。語り手である朱雀門出は、物語の作者というよりは、「怪異を記録し続ける者」として振る舞っているようだ。

しかし、この構造にはもうひとつのレイヤーがある。それが「怪画」の存在だ。全65話に添えられたイラストは、どれも不気味で、異様で、そして下手のようで上手い、紙一重の奇妙さに満ちている。この絵がテキストとセットになることで、奇妙なねじれに陥るのだ。

「これは本当に取材された話なのか?」「では、この絵は何なのか?」と。

たとえば「焚き火を囲む首」では、首のようなものがぐるりと焚き火を取り囲んでブツブツしゃべっている。その描写だけでもゾッとするのだが、添えられた絵を見ると、妙にデフォルメされていて、逆に不気味さが際立つ。

これが写真だったら怖さは倍増するだろう。でも怪画であることで、安心するどころか、妙な居心地の悪さを覚える。これは何のつもりで描かれたのか?という違和感が、物語をより深くねじってくる。

つまりこの本は、「フィクションのふりをした実話のふりをした幻想」なのだ。どの層が真実か、私たちは確かめる術を持たない。

ただ、わけのわからなさだけが、確かな手触りとして残る。

「わけのわからなさ」の4つの型

朱雀門出の「怪」にはいくつかのパターンがある。ざっくり分けると、以下の4種類に分類できると思う。

① 因果不明の連関型(例:『妹が死んだ時の海亀』)

表題作はまさにこのタイプだ。妹が亡くなったとき、海亀が現れた。それだけの話。なぜ?どうして?の問いに一切答えがない。ただ、死と亀が結びついてしまった記憶だけが残る。

② 異常感知型(例:『子供のお漬物』)

姪が話す視えない誰かが、やがて自分にも視えてくる。しかもそいつが「不穏なこと」を口にするようになる。これは、知覚の変化に恐怖が宿るパターンだ。子どもの世界が大人を侵食してくる、その境界の不安定さが肝である。

③ 非言語的怪異型(例:『焚き火を囲む首』)

喋る壼のようなものが出てくる話。喋っている内容が怖いのではなく、「それがそこに存在している」こと自体が不気味で仕方がない。これはホラーではなく、まさに怪異だ。

④ 儀式記憶型(例:『報い箱』)

幼少期にやらされた意味不明な行為。その記憶が大人になってからよみがえる。これが一番キツい。理不尽のまま記憶に残っていて、誰に聞いても説明がつかないという地獄。


これらの怪は、すべて説明を拒む。論理的に理解できる何かではなく、「そういう現象があった」という記録にとどまる。それこそがこの本の魅力であり、私たちの知覚をぐらつかせる最大の仕掛けなのだ。

怪異が照らす社会の影

この本を読んでいると、ふとした瞬間に「これはただのホラーではないな」と思う場面がいくつもある。

例えば、家族の中で居場所のない人物、世間から爪弾きにされている存在、制度から漏れてしまった人々。そういった人間たちの周囲で、よく怪が起きる。

これは偶然ではない気がする。朱雀門出は、「怪異とは何か?」という問いに対して、「理解不能な現象」というだけでなく、「社会が理解しようとしないもの」というニュアンスを添えているのではないか。

明確な「テーマ」として掲げてはいない。だが、無視され、透明にされ、排除された側に怪が集まりやすいという文脈は、全体を通じてじんわりと感じられる。

そう思って読み返すと、本作は一種の社会記録でもあるように思えてくる。怪異とは、単なる超常現象ではなく、「社会の境界線で起きる現象」なのだろう。

「わけのわからなさ」にこそ、読む価値がある

朱雀門出の『妹が死んだ時の海亀』は、恐怖で突き落とすのではなく、「わからなさ」で立ち止まらせるタイプの怪談だった。従来の怪談が「怖い!」で終わるなら、本書は「なんだったんだ、あれは……」で終わる。

これは一種の毒だ。思考に刺さったまま抜けないトゲのように、しばらく頭の片隅に居座る。だが、だからこそ読んだ意味があるとも言える。恐怖とは忘れるものだが、不可解さは、忘れられない。

最後に一言。

この本は、「わけのわからなさ」に飢えている人におすすめしたい。

ちゃんと謎を謎のまま出してくれて、しかも絵付きでくる。なんて親切で不親切な怪談なのだろう。

そしてあなたも、きっとそのうち思い出すはずだ。

『妹が死んだ時の海亀』

——意味がわからないが、確かに読んでしまった、と。

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