『ナイフ投げ師』- 濃すぎる傑作短編集。ミルハウザーは、なぜこんなに怖くて、美しいのか【読書日記】

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四季しおり
ただのミステリオタク
年間300冊くらい読書する人です。
特にミステリー小説が大好きです。

スティーヴン・ミルハウザーの本を初めて読んだとき、「絶対ハマるやつだ」と直感した。現実と幻想の境界を曖昧にし、緻密な筆致で美と不安を同居させる作風。その代表とも言える短編集が、この『ナイフ投げ師』である。

収録作は12編。それぞれがまるで異なる舞台装置を持っていながら、不思議と全体に一貫した世界観が漂っている。共通しているのは、「現実がほんの少しズレたときに生まれる、奇妙な興奮と恐怖」だ。

まるで何かのスイッチが入った瞬間、現実が歪み、別の物語が立ち上がる。その瞬間のズレを描くのが、ミルハウザーの真骨頂である。

特に表題作『ナイフ投げ師』は、衝撃的だった。舞台上で繰り広げられるナイフ投げパフォーマンス。観客が次第にその危険性に惹かれ、より過激な演目を求め始める。芸術性と暴力性、そして観る側の欲望が交錯するこの一編は、ショーという概念そのものへの深い問いかけだ。

この読書日記では、そんな『ナイフ投げ師』の魅力を、自分なりに咀嚼しつつ、ざっくばらんに語っていきたい。

ミルハウザーの作品は、ミステリというより幻想文学に近い。でも「なぜ自分がこの短編集に惹かれるのか」を考えると、それはたぶん、トリックでもプロットでもなく、「構造」へのフェチズムなのだと思う。

読者を迷わせるための迷宮を、几帳面に組み上げていく快感。そういう意味では、極めてミステリ的な作家とも言える。

目次

幻想と歯車のあいだに住む作家

スティーヴン・ミルハウザーは、1943年生まれのアメリカ作家。知る人ぞ知る文学界の異端児というよりは、愛好者の間では「神格化されている作家」といってもいいかもしれない。ピュリッツァー賞もO・ヘンリー賞も獲っている、ガチ中のガチだ。

彼の特徴は、「微細なものに宿る異常」だと思う。パラダイス・パークが地下に広がり続ける話や、完璧を追求した自動人形劇場、遊園地や百貨店の構造に夢中になって、結果として狂気に飲まれていく人物たち。

その細部の描き込みが、とにかく凄まじい。これでもかというくらい説明してくる。でも、それが面倒臭くない。むしろ病みつきになる。

語り口もいい。登場人物はあくまで「私たち」という町の住人、あるいは不特定多数のモブ。彼らの目線で「何が起こったか」が淡々と語られる。その「語りの距離感」が、不気味さを何倍にも増幅させる。

この構造で思い出すのが、ボルヘスだ。あと、レムの『ソラリス』や、カフカの短編とも少し近い。現実の延長線にあるもうひとつの現実を、論理的に、冷静に、でもどこか熱を帯びて語る。そんなスタイルだ。

そして重要なのが、翻訳である。柴田元幸というミルハウザーの伝道者がいるからこそ、日本でこれだけ作品が読まれているのだと思う。

柴田さんのあとがきにある「ミルハウザーを好きになることは吸血鬼に噛まれるようなもの」という比喩は、あまりにも的確で震える。まさに、それだ。

驚異の装置としての短編たち

ではここで、本書に収められた12編の短編を、もう少しだけ突っ込んで見てみよう。それぞれがぜんぜん違う味わいで、でも確実に「ミルハウザー味」ではあるのが面白い。

『ナイフ投げ師』

表題作にして代表作。パフォーマンスを芸術の域まで押し上げる男と、その観客の変化を描く。

何がすごいって、ナイフ投げのスリルを「安全な客席から眺めるスリル」じゃなく、一線を越える瞬間に惹かれる「群衆の欲望そのもの」が描かれている点だ。ナイフより観客のほうが怖い。

『ある訪問』

旧友を訪ねて行ったら、ちょっと普通じゃないことが起きてた、という話。ミルハウザーお得意の「これは幻想?それとも現実のズレ?」系。理屈で理解できる話じゃないのに、なんだか妙にリアル。

『夜の姉妹団』

十代の少女たちが夜な夜な集まって何かをしている。その「何か」は明かされないまま、大人たちが不安と妄想に駆られていく。完全に「語り」で成立してる作品。語られることが現実を侵食していく感じに痺れる。

『出口』

ある男の不倫の果てに待つ奇妙な運命。現実と夢の境界が溶けていくタイプの話で、「どういうこと!?」と思いつつ、気づけば飲み込まれてるやつ。エモ系ミルハウザー。

『空飛ぶ絨毯』

文字通り、絨毯が空を飛ぶ話。いや、確かにそうなのだが、それを「商品」として紹介するルポ風の冷静な語りが逆に怖い。夢みたいな話なのに、細部がやけに生々しい。

『新自動人形劇場』

機械人形(オートマタ)で演じる演劇が、どんどんリアルになりすぎて……という話。人形劇というよりホラー寄りの異様さがある。「完璧」に取り憑かれると、こうなる。

『月の光』

これは完全にノスタルジー枠。夏の夜、子どもたちが体験するちょっと不思議で美しいひととき。特に大事件が起きるわけじゃないが、なんだか忘れられない。

『協会の夢』

百貨店がどんどん巨大化して、欲望の迷宮になっていく。買い物の話じゃない。人間の欲と夢のインフレの話だ。近未来ディストピア感もあるし、風刺としても面白い。

『気球飛行、一八七〇年』

19世紀の気球飛行を記録するような文体で書かれていて、淡々とした記述の中に高揚感と不安が入り混じる。不安定な空の旅って、こんなに哲学的だったか?

『パラダイス・パーク』

遊園地が進化しすぎて、地下深くに迷宮を築いていく話。最初は夢の国だったのに、どんどん狂気が入り込んでくる。「面白さ」と「不穏さ」のバランスが絶妙。

『カスパー・ハウザーは語る』

実在の野生児カスパー・ハウザーのモノローグ。文明とは何だろう?言葉を持つってどういうこと? そんなことをぼんやり考えさせられる、静かな一編。

『私たちの町の地下室の下』

町の地下に、古代のトンネルが張り巡らされている。誰も全貌を知らない。誰も真相にたどり着けない。でも、確かにそこにある。設定だけで最高。これは、ミステリでいうところの「隠された前提」への執着と、すごく似ている。まさに、都市伝説×パズル。


──と、ざっと紹介してきたが、正直どれも一言じゃ語りきれない。読み終えたあと、無性に「誰かと感想を共有したくなる」タイプの短編ばかりである。

個人的に好きなのは、『新自動人形劇場』『夜の姉妹団』『パラダイス・パーク』『私たちの町の地下室の下』。どれも、日常の構造の中に異常を緻密に埋め込んでくる。

なぜ、ミルハウザーを読むのか?

では、なぜいま『ナイフ投げ師』を読むのか。理由は単純だ。こんなに変で、繊細で、狂っていて、美しい短編集が、他にないからである。

いまSNSやネットであらゆる情報が可視化されるなかで、「語られすぎている」ことへの倦みがあると思う。ミルハウザーはその逆をいく。語らないことで想像を喚起し、細部を書き込むことで全体像をぼかす。そんな矛盾した手法が、今の時代には新鮮にすら映る。

それに、この短編集は読後に残るノイズがすごく心地いい。スッキリしない。オチも明確じゃない。でも、なにかずっと引っかかる。それが「想像する読書」の醍醐味なのだと思う。

つまり言いたいのは、これは読むたびに違う印象を持たせてくる本だということだ。一度目は構造に驚き、二度目は文体に酔い、三度目は主題に打たれる。そして四度目には、「これは自分の話なのか?」と錯覚するかもしれない。

吸血鬼に噛まれたら、もう戻れない

『ナイフ投げ師』を読んでしまうと、しばらく他の小説が読めなくるかもしれない。あの文体と構造とテーマのバランス感覚が、他の本では見つからないからだ。

奇妙で、不気味で、でもどこか哀愁があり、ちょっと笑える。そのすべてが共存しているこの短編集は、ミステリ脳にもかなり相性がいい。なぜなら、「すべてが説明されるわけではない」からだ。

というわけで、ミステリや幻想文学が好きな人、構造フェチの人、語られないことが気になる人、ショーの裏側が好きな人、ぜひ一度この『ナイフ投げ師』を手に取ってみてはどうだろう。

きっと、その一編が、あなたに刃を投げてくる。

そして命中したときには、もう吸血鬼に噛まれた後だ。

ようこそ、ミルハウザー沼へ。

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