座敷童、河童、雪女、鬼、神隠し。
これらは、日本人なら誰しも一度は耳にしたことのある妖怪たちだと思う。小学校の教科書に出てきたり、昔話やゲーム、アニメでなじみがあったり、お土産物のキャラクターとしても親しまれていたりする、そんな知っている存在たち。
でも、三津田信三の『妖怪怪談』を読んでしまった今となっては、うかつにそんなことを口に出せなくなってしまった。
というのも、この本を読むことで、自分がこれまで知っていたつもりの妖怪たちが、実はどれほど都合よく脚色され、美化され、飼いならされていたのかということに、思いっきり気づかされるからだ。
『妖怪怪談』は、単なるホラー短編集ではない。民俗的な仮面をはぎ取り、長年伝えられてきた「おとぎ話」の奥に潜む、本来の恐怖の姿をあらためて浮かび上がらせる。そんな、怖くて、でもどこか興奮を感じてしまうような本なのだ。
しかもこの再魔術化の作業を、三津田信三はものすごくロジカルに、つまりミステリ作家としての頭脳でやってのけるから、余計にタチが悪い。一度「なるほど」と納得させられた直後に、その納得ごとひっくり返されるような落とし穴に落ちていく。これこそ、三津田信三の恐怖の本質。
ここから先は、そんな『妖怪怪談』の構成、テーマ、そして再定義された妖怪たちの描かれ方について、ひとつひとつ掘り下げていこうと思う。
三津田信三という設計者

まず何より大事なのは、この作品を書いたのが「ミステリ作家・三津田信三」であるということだ。
彼の代表作である〈刀城言耶シリーズ〉は、本格ミステリと民俗学がガチンコで融合した、異色かつ濃厚なシリーズだが、『妖怪怪談』ではそのホラー成分がさらに凝縮されている。
とくに注目したいのは、「論理」と「伝承」が真正面からぶつかり合っている点だ。よくある昔話ベースのホラーとはちがって、あくまで論理的に構築された世界に、民俗的な怪異が異物として滑り込んでくる。しかもその侵入のしかたがいやに生々しくて、輪郭がくっきりしているぶん、やたら怖い。
どこまでが理屈で説明できる範囲で、どこからが理屈の通じない領域なのか。その境界が曖昧になっていく感覚がたまらない。この知的なぐらつきこそ、三津田作品の歪んだ快楽の正体なのだと思う。
さらに彼がよく用いる「枠物語構造」も健在。つまり、語り手が「誰かから記録を託された」という体裁で物語が語られていくのだ。だから、読んでいて物語の中に入るというより、何かの〈記録〉を読まされているような気分になっていく。そしてその記録が、やけに具体的で、やけに地味で、だからこそリアルすぎる。
この第四の壁をうっすら越えてくる感じが、ほんとうに好きだ。フィクションのはずなのに、フィクションと言い切れない。嘘のようで、本当のようで、でもやっぱり……というあのグレーゾーン。これをやらせたら三津田信三は本当に巧い。というか、ズルい。
構造としての怪談・学術と体験のダブルパンチ
この本は、短編連作という形式を取っているのだけど、各話の構造がかなりユニークだ。ざっくり説明すると、前半はその妖怪についての「学術的な考察」、後半が「その妖怪に関する体験談」という二段構えになっている。
で、まず前半の「考証」パートがとにかくガチだ。文献や地方伝承、口承記録などがしっかり調査・引用されていて、ちょっとした民俗学の論文みたいな読み応えがある。「へー、そんな由来があったのか」とか「その解釈は初耳だな」とか、読んでいて素直に面白い。
……しかし、問題はそのあとである。
後半の「体験談」パートに入ると、世界が一気に不穏になる。一人称の語りが始まり、日常の中にすこしずつおかしなことが混じりはじめる。そして気づけば、さっき自分が学んだばかりの妖怪知識が、まったく意味をなさなくなっていく。
いや、それどころか、その知識のせいで余計に怖く感じてしまう。
最悪なのは、ほとんどの話が「謎が解決されないまま終わる」ところだ。合理的に考えるクセがついたミステリ好きにとって、これは相当ストレスフル。でも、そのストレスが逆に恐怖を引き立ててしまうというこの構造、本当によくできている。
再定義される五大妖怪「知ってるつもり」の闇
本書に登場するのは、いずれも日本で超有名な妖怪たちだ。座敷童、河童、雪女、鬼、神隠し。まさに「レジェンド枠」といっていい面々である。
でも、三津田信三の手にかかると、彼らはもはや見慣れた顔ではいてくれない。いや、それどころか、「知っていたはずの姿」が逆に恐怖のトリガーになってしまうのだ。
まずは座敷童。これまでは「福を呼ぶ可愛い存在」として、ほとんどマスコット扱いされてきた妖怪である。しかし本作では、その〈福〉がもし何かと引き換えだったとしたら? あるいは、あの子供の姿こそが、なにか異質で恐ろしい存在を覆い隠す仮面だったら? そんな不穏な問いかけが、ページの端々から滲み出してくる。
河童や雪女も然り。河童はどこか間抜けでユーモラスな存在として描かれがちだが、本作では完全に水辺の捕食者として再構成されている。人間のルールも倫理も通じない、異質な存在としての恐怖が際立つ。
雪女に関しても、ロマンチックな悲恋譚なんて一切なし。ただ冷たい。とにかく冷たい。美しさの奥にあるのは、圧倒的な無関心。自然そのものの、容赦ない致死性がそこにはある。
鬼や神隠しに至っては、もはや現代ホラーとして読んでも十分すぎるほど怖い。鬼は「どこか遠くにいる存在」ではなく、むしろ内面や社会のなかに潜んでいて、いつでも噴出する可能性がある。
神隠しは、消えたことそのものより、「なぜ消えたのかがわからない」という空白が何より恐ろしい。そこには、死ですら与えられないまま存在を抹消される、根源的な不安が横たわっている。
こうした再定義の仕方がすごいのは、単に妖怪を怖く描いたというだけじゃないところだ。それぞれの妖怪が持っていた文化的な意味や象徴性を読み解いたうえで、そこからいちばん不安を掘り出してくる。その手つきが、実に冷静で、そして容赦がない。
つまりこの本は、「知っているはずの妖怪」に、もう一度知らない顔を与える作品なのだ。
読むことで感染する、知識の呪い
『妖怪怪談』を読んで感じたのは、単純な「怖かったな〜」ではなくて、もっと質の悪い、後に引くようなものだ。なんというか、世界の輪郭がほんの少しだけズレたような感覚が残る。
というのもこの本は、読んだ人に「知識という名の呪い」をかけてくるからだ。
この本の大きな仕掛けのひとつに、「理解したら逆に怖くなる」という構造がある。普通の怪談は、正体がわかればなんとなくホッとすることが多い。ああ、あれは◯◯の祟りだったのね、みたいな。でも三津田信三は、その逆をいく。理解した瞬間に、かえって恐怖が倍増するように作ってあるのだ。
たとえば、前半の考証パートで得た知識が、後半の体験談でまったく役に立たないどころか、むしろ恐怖を深める燃料になっていたりする。しかもその物語には、ほとんどの場合「解決」も「安堵」もない。何も片付かず、ただ怖いまま終わる。
で、怖いまま終わるってことは、読者の中でその怪異が未処理のまま残るということでもある。その未処理の恐怖が、現実世界の出来事とリンクしはじめたとき、物語が現実に浸食してくる感覚が生まれる。
これはつまり、『妖怪怪談』そのものがひとつの妖怪になって、読者の中に棲みつこうとしてくるってことなんじゃないか。そう考えると、いろんな意味でこの本は、かなり危ないかもしれない。
気軽に開くと火傷する一冊
『妖怪怪談』は、ふつうの怪談話だと思って読み始めると、見事に痛い目にあうタイプの本だ。
何気ない日常に潜む不穏を炙り出しながら、読者の「知ってるつもり」や「安全な常識」を根こそぎ壊していく。その手際の良さと残酷さには、読んでてゾッとするどころか、感心すらしてしまう。
ただし、この本を読むには、ちょっとした覚悟がいる。
単なるホラー短編集じゃない。これは、知識と恐怖の境界をじりじり溶かしていく知的な怪異譚であり、ひとたび読みはじめてしまったら、最後までつき合うしかない呪いの読書体験だ。
「知ってはいけない、見てはいけない。だが、もう読む前のあなたには戻れない」
という、本書のうたい文句は伊達じゃない。
さて、読んでしまった私はどうだろう。何かが変わった気がするような……。
うん、これは、たぶん、気のせいじゃない。