雪に閉ざされた列車、見知らぬ乗客たち、突如発見される死体。ミステリファンが狂喜乱舞するクローズド・サークルの理想郷──それがアガサ・クリスティーの『オリエント急行の殺人』であり、誰もが知る名作のフォーマットである。
そんな完璧な舞台装置に、「この中に名探偵は……いません!」と堂々書かれていたらどうだろう。少しでも推理小説に心を奪われたことがある人なら、思わず「何を考えてるんだ?」と言いたくなる。
でも、これが藤崎翔(ふじさき しょう)という作家のやり口だ。
本書『オリエンド鈍行殺人事件』は、ミステリのお約束を愛しながらも、それを大胆に解体することに全力を注いだ作品である。名探偵の不在を高らかに宣言することで、物語は「推理小説として始まり、推理小説のような顔をしながら全然別のものへと転換する」という特異な走行ルートを辿っていく。
その舞台は、「オリエント」でも「急行」でもない。「オリエンド」「鈍行」──折田駅と遠藤駅を結ぶ地方路線である。このセンス。もはやタイトルからしてニヤけてしまうが、肝心の内容は、もっとぶっ飛んでいる。
なにしろ乗客たちが取り組むのは「殺人事件の解決」ではない。「借りパクされた漫画の返却問題」「片思い相手との関係改善」「出世競争の駆け引き」など、完全に日常のしょうもない人間関係ばかり。
殺人事件は起きる。死体もある。捜査も始まる。だが、すべてはすぐにどうでもよくなる。犯人探しのために集められたはずの乗客たちは、なぜか各々の個人的課題を勝手に解決しはじめ、そして意外にもそれがけっこう感動的だったりする。
この構造は、一種のパロディであり、同時に強烈な批評でもある。ミステリとは本来、殺人の謎を理詰めで解き明かすための装置だ。しかし、この物語において殺人は「背景」であり、「ガヤ」であり、時には「空気」すら読む。真剣に事件と向き合う探偵がいないからこそ、むしろ他の人間模様がグイグイと浮上してくる。
「名探偵がいない世界では、何が謎になるのか?」
その問いに、藤崎翔は「人間の関係性そのものが謎であり、喜劇であり、時に悲劇である」と答える。
本書は、探偵という整理役が不在のまま、物語がぐちゃぐちゃと進行することの可笑しさと、そこに潜む奇妙なリアリティを炙り出していくのだ。
元芸人はなぜミステリ作家になったのか?

藤崎翔(ふじさき しょう)。彼の名前を聞いて、まず「ミステリ作家」と即答できる人は、意外と少ないかもしれない。それもそのはず、彼の経歴はちょっと尋常ではない。
お笑いコンビ「セーフティ番頭」で6年間活動した芸人出身という異色の背景を持つ。しかもただの芸人上がりではない。笑いのセンスを武器に、正真正銘の本格ミステリ界で鮮烈にデビューしているのだ。
長編デビュー作『神様の裏の顔』で横溝正史ミステリ大賞を受賞したのが、その証明である。笑いだけで勝負しているわけではない。論理的構成力、トリックの巧妙さ、キャラクターの立ち具合、いずれも高水準。そこに芸人時代に培ったテンポと間が加わるのだから、そりゃ読んでて面白くないわけがない。
さらに決定的だったのは、『逆転美人』の大ヒットだ。電子化不可能とまで言われた物理メディアトリックを仕掛け、読者の度肝を抜いた。これにより、藤崎翔という名前は、「ただの芸人じゃない」「奇想天外な作家」として、確固たるポジションを得ることになる。
しかし彼自身は、そんなブランド化を気にすることなく、ひたすら自由なスタンスを貫いている。
「次に何をするかわからないヤツでいたい」
「長編と短編を交互に書けば、無限に書き続けられる執筆サイボーグになれるかも」
……もはやミステリ作家というより、創作マシン。コメディとロジック、笑いと謎解き、そのどちらにも命を賭けるストイックなトリックスター。こういう人が、「名探偵不在」の物語を書いたとき、面白くならないはずがない。
クリスティーの名作を、愛をもってブッ壊す
『オリエント急行の殺人』を知っていると、本書の面白さはさらに倍増する。というか、知っていなければこの構造的パロディの妙味は半減してしまうかもしれない。
アガサ・クリスティーのあの傑作は、天才ポアロが、雪で閉ざされた列車内で、ひとりひとりの証言を丹念に聞き出し、論理の力で真相へと迫っていく。登場人物はすべて何かしらの秘密を抱えており、巧妙に伏線が張られ、最後は驚愕の真相で幕を閉じる。
対して本書ではどうか?
・名探偵はいない
・殺人の謎は進展しない
・証言は脱線しまくる
・結論は「そっちかよ!」の連続
つまり、あの傑作に対して徹底的にボケ倒しているのだ。ただし、そのボケは「分かってやっている」ボケである。元ネタを理解し、愛しているからこそ、ここまで外し、崩し、笑いに変えられる。
例えば、登場人物たちのやりとり。お互いを疑うでもなく、「そっちはどうなんだよ」みたいな軽いジャブの応酬が続く。まるでバラエティ番組のトークコーナーだ。証言から真相を導くのではなく、むしろそこから余計な感情が噴出し、別の揉め事に発展していく。
藤崎翔の視点は、ある意味でとてもリアルだ。現実世界にポアロはいないし、人は論理ではなく感情で動く。殺人よりも気になるのは、「あいつが俺のことどう思ってるか」とか「課長からの評価が下がったらどうしよう」とか、そういう生活密着型の心配ごとだ。
『オリエンド鈍行殺人事件』は、そんな人間臭さを笑い飛ばしながらも、じつはミステリというジャンルの異様な人工性を炙り出している。
犯人捜しが中心に据えられることの異常さ。論理で完璧に決着がつくことの非現実さ。そのすべてを、笑いのレールで脱線させていくのである。
短編という遊園地と、最高の入門書としての一冊
『オリエンド鈍行殺人事件』は短編集だ。表題作だけでなく、10編以上の短編・ショートショートが収録されている。それぞれがまったく異なる設定・テンション・トリックで展開されており、ひとつの物語に飽きる暇すら与えない。
例えば『貴方と最後の一問一答』。たった数ページの中に、笑いと切なさと驚きが詰め込まれており、まさに「ショートでありながらフルコース」という感じ。藤崎翔が「短編の職人」であることをこれでもかと証明している。
この短編集という構造自体が、彼の変幻自在っぷりと相性が抜群なのだ。どの話から読んでもよく、途中で笑っても、途中で泣いてもいい。論理と感情、パロディと批評、笑いと衝撃が絶妙なバランスで配置されている。
しかも、全体のテンポがいい。語り口が軽快で、読みやすさも満点。藤崎作品の入門書として、これ以上ふさわしい一冊はないだろう。名作をパロディしながら、ちゃんと独自の存在意義を確立している。ミステリ初心者にも、コメディ好きにも、もちろん名探偵至上主義者にもおすすめできる。
そしてなにより、本書は「犯人が誰か」より「誰がどうズレてるか」のほうが面白い、という、ある意味でミステリの原点に戻る視点を与えてくれる。
推理小説は、推理だけでできているわけじゃない。人間でできているのだ。
ちゃんと脱線してくれてありがとう
藤崎翔の『オリエンド鈍行殺人事件』は、「ミステリーとはこうあるべきだ」という常識を、嬉々として脱線させる作品だった。殺人事件の解決という目的地には向かわない。でもその道中で、実にさまざまな景色を見せてくれる。
推理小説は時に堅苦しい。でも、その約束事をひとつずつ裏返していくことで、こんなにも新鮮で自由な作品が生まれるのだということを、本書は見事に証明している。
ガチの本格推理を求める人には向かないかもしれないけど、 「ミステリーってもっと自由でいいんじゃない?」 「たまには笑えるのが読みたい!」という人には全力でオススメしたい。
藤崎翔のことを知らなかった人にとっては最高の入門編になるし、 すでにファンの人にとっては、「あーこれこれ、これが読みたかった!」ってなるやつだ。
誰が殺したか? それは正直、どうでもいい。だけど、「誰がどんな顔でそれを見ているのか」には、思いっきり心が動く。それが、藤崎翔の描くミステリの向こう側だ。
これを読まずして、現代のユーモアミステリは語れない。
乗るなら今だ。目的地なんて、どこでもいい。
面白けりゃ、それでいいのだ。