「幻の一冊」という言葉はよく使われるけど、直野祥子『毛糸のズボン』ほど、この言葉がぴったりくる本も珍しい。
筑摩書房から『毛糸のズボン』が復刻されたと聞いたとき、正直「まさか」という気持ちになった。だって、この作品群は阪神・淡路大震災で原稿が焼けてしまっていたはずなのだ。
普通ならもう二度と読めない。それが半世紀近い時を経て、こうして文庫になって出てきた。まずこの事実だけで胸が熱くなった。
読んでみると、なるほど確かに「普通の復刻」とは違う。紙面には当時の雑誌からスキャンしたインクの滲みや線のかすれがそのまま残っている。最初は「読みにくいのかな」と思ったが、むしろそれが作品世界に独特のざらつきを与えていて、恐怖がいっそうリアルに迫ってくる。
まるで古い日記帳を覗き込んでしまったような背徳感。これが、たまらない。
薄暗い部屋で開くと、紙のざらつきと相まって、作品の中に漂う不安がじかに伝わってくる。読んでいるうちに、「この滲みそのものが物語の一部なのでは」とさえ思えてくる。
この復刻を実現させたのは、文学紹介者の頭木弘樹や、辺境劇画の復刻を続けてきた「よどみ舎」のまんがゴリラといった人たちだ。彼らの情熱がなければ、この作品は埋もれたままだったはず。
こういう熱量に支えられて蘇った一冊を手に取ると、ただの漫画本以上の「文化的事件」に立ち会っている気がしてくる。
「トラウマ」の仕掛けはどこにあるのか

タイトルに「トラウマ少女漫画」とあるけれど、誤解してはいけない。いわゆるショッキングな描写や残酷な展開で心をえぐるタイプではない。直野祥子の描くトラウマはもっと静かで、もっと内側に潜むものだ。
たとえば「両親に愛されていないのでは」という不安。あるいは、ちょっとした失敗が取り返しのつかない事態に繋がるんじゃないかという恐怖。誰だって子供の頃にふと頭をよぎったことのある感覚。それが物語として膨らんでいき、気づけば胸の奥がざわざわしている。
読んでいて面白いのは、作者自身はこれを「ホラー」として描いていなかったことだ。影響を受けていたのはアルフレッド・ヒッチコックで、出発点は「こうなったら最悪」という心配性から来る想像力だったという。
だから作品の恐怖は、ジャンル的な演出ではなく、人の心が勝手に生み出すリアルな不安から立ち上がってくる。
結果として読者は、幽霊や怪物に怯えるのではなく、自分自身の中に眠っていた感情に引きずり出されることになる。直野作品を読むと、恐怖って外から降ってくるものじゃなくて、自分の内側から芽を出すものなんだと実感させられるのだ。
いくつかの物語から見える顔
全集には14編の短編が収録されている。どれも当時の『なかよし』や『少女フレンド』といったメジャー誌に載っていたというのがまず驚きだ。以下、ネタバレにならない範囲で印象的な作品を少し。
『マリはだれの子』では、少女マリが「自分は本当の子ではないのでは」と疑念にとらわれる。親に似ていないと言われただけで、心はあっという間にぐらぐら揺れる。その素朴な不安が恐怖へと転がり落ちていく様子は、読んでいて胸がざわつく。
表題作『毛糸のズボン』では、祖母の愛情が悲劇を呼ぶ。派手な毛糸で編まれたズボンを履きたくない少年ひろしの葛藤が、取り返しのつかない行動へと繋がってしまう。善意と愛情が時に人を追い詰める、という残酷な真実を描いている。
『はじめての家族旅行』では、家族旅行の最中に「アイロンのスイッチを切り忘れたのでは」という疑念に取りつかれる少女が描かれる。この些細な、しかし拭い去ることのできない妄想は、ウイルスのように彼女の心を蝕み始め、楽しいはずの旅行を悪夢へと変えていく。これは特に傑作だと思う。一番好き。
一方で『おつたさま』や『へび神さま』のように、日本の古典怪談や因習を思わせる民俗ホラーもある。だけど、最終的に一番怖いのは幽霊や神ではなく、人間そのものだ。
身近な人を身代わりにする冷酷さや、共同体の狂気。そういうものに触れたとき、直野祥子の冷徹な視線が光っていると感じる。
異端の作家、時代を超える恐怖
直野祥子の経歴も面白い。デビューは少女誌じゃなく『ガロ』。しかもアシスタント経験ゼロ。
劇画タッチの写実的な絵を引っ提げて、当時のキラキラ恋愛モノ全盛期の少女漫画誌に殴り込んできた。完全に異端児。いわば「芸術的密輸」みたいなことをやっていたわけだ。その結果、当時の少女誌に異物のような恐怖と不安が紛れ込むことになった。
でも、この異物感こそが今の時代にめちゃくちゃ響く。コンプライアンスの厳しい今では到底載せられないようなテーマや表現ばかり。だからこそ逆に、時代を超えて生々しい。
絵柄も当時の少女漫画とは違う。大きな瞳の可憐なヒロインではなく、劇画タッチでざらついたリアリティのある線。白土三平の影響を受けたというのも納得できる。そんな異物感が逆に作品の恐怖を際立たせていた。
さらに創作の源には映画があった。まず頭の中で一本の映画を作り、それを漫画にする。だからどの作品にもヒッチコック的なサスペンスの張り詰めた空気があるのだ。ページを追うごとに「これは映像としても成立するな」と思わされる。
結局、直野祥子が描いたのは幽霊でも怪異でもない。私たち自身の心に潜む怪物だった。
小さな不安、ちょっとした罪悪感、誰にも言えない後悔。そういう普遍的な恐怖を漫画にしたから、半世紀たってもまったく古びない。
本を閉じたあとも、心のどこかで「もしかしたら自分も……」という声がささやき続ける。読んで楽しいわけじゃない。むしろしんどい。でも、そこにしかないリアルがある。
『毛糸のズボン』は、少女漫画史の異物でありながら、今の時代に必要な再発見でもある。
読んだ人はきっと、自分の心の中に眠っていた何かが目を覚ますのを感じるはずだ。
直野祥子の恐怖は、時代を超えて生き続けている。
