
世界最高の殺し屋が殺しをやめると決めたとき、彼が頼ったのは「アサシンズ・アノニマス(AA)」という、殺し屋を更生させるグループだった――この設定を聞いただけで、もう面白い。
ロブ・ハートの『暗殺依存症』は、この突き抜けた発想を基盤に、アクション、ユーモア、そして繊細な人間ドラマを全力でぶつけてくる。しかも、読み進めるとこの突飛な設定がしっかりと人間の弱さと再生の物語に結びついていくのが見事だ。
主人公マークは、裏社会で「ペイル・ホース」の異名を持つ伝説の暗殺者。ネイビーシールズ出身で、謎めいた政府機関にも関わっていた彼は、殺しのプロフェッショナルとして恐れられてきた。しかし、ある出来事をきっかけに引退を決意し、「アサシンズ・アノニマス(AA)」という殺し屋専用の更生プログラムに身を投じる。
「殺さずに生き延びる」。それがマークの新しいルールだ。でも、そんな男が謎の襲撃を受け、否応なく「もう一度、世界に戻って」いくはめになる。
そしてその旅の途中で、ニューヨークからロンドン、シンガポールと、次々と騒動に巻き込まれていくのだが——彼はただの逃亡者じゃない。
殺し屋でありながら「殺さない」と決めた男が、どうやって生き延びるか。そこにこの物語の面白さがある。
ユーモアとアクションの間で――この小説は“痛快”を超えてくる

この物語がすごいのは、アクションとユーモアが絶妙なバランスで同居していること。
映画『ジョン・ウィック』シリーズを彷彿とさせるキレのあるアクションと、伊坂幸太郎作品のような軽妙で心に響くキャラクター描写が融合し、他に類を見ないエンターテインメントになっている。バカバカしいほど派手なガンファイトもあるけれど、どこかクスッと笑ってしまう会話劇や自虐的なモノローグが差し込まれて、むしろそっちの方が印象に残る。
特にマークの語り口がいい。皮肉屋で、ちょっとすれてて、でもどこか優しい。だからこそ、「殺しの依存」を抱えながら再生の道を探ろうとする彼の姿に、妙に感情移入してしまう。過去に犯してきたことの罪深さと向き合う過程が、笑いの下にそっと隠れている。
登場人物たちも一癖も二癖もあって魅力的だ。中でも、日本人のケンジは味がある。彼の存在がマークを「人間」に戻すための装置になっている。AAのセッションシーンはちょっと笑えて、でもとてもリアルで切ない。殺し屋たちが過去を語り、再発を恐れ、支え合う。物騒なのに、どこかあたたかい。
「依存症」としての暴力――魂のリハビリが始まる
『暗殺依存症』がただのエンタメで終わらないのは、「殺し」を「依存症」として描いた点にある。暴力を繰り返すこと、殺しの快感、そういったものに囚われた人間がどうやって自分を修復していくか。この物語は、それをきちんと描いている。
「殺し屋の自助グループ」なんて設定は荒唐無稽かもしれない。でも読み進めていくうちに、これが現実の依存症や回復プログラムと通じるものだと気づく。
アルコールや薬物と違って、「殺し」は合法ではないし、仲間も少ない。でも「やめたいのにやめられない」「やめたつもりでも何かの拍子に戻ってしまう」という感覚は、他の依存症とまったく同じなんだろう。
マークが何度も「自分は変われるのか」「変われたとして、それを信じてもらえるのか」と問い続ける姿が切ない。そして、彼は誰かを殺さずに救うことで、少しずつ「誰かのために存在する」ことを学んでいく。そこには、ジャンルの枠を超えたヒューマンドラマがある。
「殺し屋文学」の新しいフェーズへ――ロブ・ハートの進化
この作品の背後には、ロブ・ハートという作家の進化がある。彼の前作『パラドクス・ホテル』もそうだったが、彼は常に「ジャンルの枠を使って、社会の矛盾を描く」作家だ。
『暗殺依存症』では、「殺すことをやめたい殺し屋」というパラドックスを通じて、「人は変われるのか」「その過去を許されるのか」というテーマを深掘りしている。社会の目、過去の記憶、自分自身の欲望。それらと向き合いながらも、彼は「もう一度、人としての人生を歩みたい」と願う。
面白いのは、この作品がアクション小説でありながら、「すべての戦いは内面にある」とでも言いたげな構造になっていること。敵を撃ち倒すよりも、「誰も殺さない」という縛りの中で、どう戦うかを問われる。つまり、これは「外側の敵」と「内側の自分」とを同時に相手にする物語なのだ。
『暗殺依存症』は、読む前に思っていたよりずっと深い物語だった。もちろん、アクションも派手で、展開もテンポがよくて、エンタメとして最高に面白い。けれどその奥に、人生をやり直したいと願う一人の男の、切実な物語が隠れている。
「殺しをやめた殺し屋」という設定はキャッチーだけど、読み終える頃には、「これは殺し屋の話じゃない」と思う。
これは誰にでも起こりうる「過去の自分との決別」の話だ。
人は変われるのか?赦されるのか?
そんな問いが、派手な銃撃戦の向こう側で、確かに響いていた。
